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日本の将来

日本の将来---5.展望(15):コンパクト・シティーの広場(2)

2015-03-10 | 日本の将来
5.展望(14)から続く。

ここでは、前回の「駅前広場の概念図」を参照しながら、駅前広場の機能を説明する。

            

2)広場の機能
都市機能を集約して徒歩圏内に配置し、その周辺に市街地を自由に発展させる。それが、筆者の描くコンパクト・シティーである。人口が多い現在、その実現は難しいが長期的に計画すれば十分に実現できる。ここでは、長期計画で徒歩圏に集約すべき都市機能を説明する。

A:駅
この駅は地方都市の中心的な駅である。人口が十数万人規模の都市、いわゆる将来のコンパクト・シティーを想定しているので、JRの駅である可能性が高い。もちろんこの駅は、近隣都市と新幹線につながっている。なお、この駅は新設した駅の可能性もある。

もし、路面電車やLRT(ライト・レール:軽量鉄道)があれば、この駅に乗り入れる。駅ビルは3、4階ほど、プラットフォーム(線路)は地上、2階は改札口、2階と3、4階は公共サービスや店舗である。

駅ビルの広場側が正面出入り口、反対側がバス停出入り口である。正面とバス停出側の入り口は2階の中央通路でつながっている。その中央通路に沿って、改札口と「駅ナカ」の店舗が広がっている。

【駅ビルの主な設備】
駅施設、動く歩道(バス停⇔広場)、エスカレーター、エレベーター(乗用、荷物用)

【駅ナカの主な店舗】
行政サービス*、保育所、案内所**、店舗(食料品、コンビニ、ドラッグ、理容、フードコート、飲食店街、書籍・雑貨、etc.)
補足説明
*行政サービス:現行サービスを健保、介護、年金、育児関係に拡張
**案内所:広場の施設利用案内と旅行案内

B:広場
公共・商業施設が並ぶ歩行者専用の広場である。中心に噴水とベンチを配置した公園のように緑豊かな広場である。そこは緊急車両以外の自動車は進入禁止、歩行者と自転車や車椅子が行き交う石畳、またゴルフ・カートのような自動運転の電動車が人や物を運搬する。

広場に並ぶ建物の正面出入り口は噴水側、裏口は外周道路側で物資の受け渡しに利用する。広場とその周辺設備の電気系統と通信設備/セキュリティーは在来技術と最新技術を併用する。

広場に収容できない大きな施設、たとえば学校や総合病院は外周道路の向こう側に陸橋を通じて配置する。

【広場の主な建物と設備】
市役所、郵便局、警察、集会場*、図書館、診療所**、福祉施設、銀行窓口***、レストラン、コンビニ、映画・劇場、地下駐車場、防災/備蓄品倉庫(地下)、発電機(地下)、セキュリティー・センター(地上)、充電設備(地上)****
補足説明
*集会場:多目的ホール、生涯学習教室、アスレチック・クラブ、災害時のボランティア・センター
**診療所:外来専門の簡易診療所・・・外周道路に面した総合病院に陸橋で連結
***銀行窓口:銀行の共通窓口業務を有人で提供、融資業務などは市街地の各銀行本支店で実施
****充電設備:電動カートの充電設備(自走、自動充電)

C:バス停
路線バスとタクシー乗り場、自動車の車寄せである。市街地からの人と物資の出入り口である。

【バス停周辺の主な設備】
路線バス・タクシー乗り場、荷役場(地下道で駅プラットフォームと広場に連絡)、広場地下駐車場出入り口、外周道路と市街地の幹線道路と接続、バス・タクシー・一般車両駐車場

D:外周道路
広場を循環する道路、市街地の道路や幹線道路ともつながっている。路線バスと路面電車が循環、300m位の間隔でバスと路面電車の停留所を設ける。広場の地下駐車場への入口が数ヵ所ある。

【外周道路の車線数】
内側(広場側)=1車線+路面電車(単線一方通行)+車寄せレーン(計3車線)
外側(市街側)=2車線
T字路交差点(外周道路と市街地道路:複数)
陸橋(広場⇔市街地:複数)

E:市街
外周道路の外側は市街地や工業地帯、農林漁業地域につながる。

【外周道路に面した主な建物・・・広場と陸橋で接続】
幼小中高校、総合病院・ヘリポート、大型スーパー・生鮮食品市場、飲食・商店・デパート、冠婚・葬祭場、官公庁・公共施設・消防署

外周道路に面した建物の外側には、住居と商業店舗が混在する形で発達する。大都市周辺のように住宅地と商業地、工業・倉庫地帯に分かれるとは限らないが、人びとはその土地の特性に合わせて何らかの生産やサービス活動を営む。

もしその産物がその土地特有の品物であり、自給自足を越えて外販が可能であれば人口増にもつながる。観光の場合は広告宣伝で人を呼び込むことになるが、これも人口増につながる。もし産物やサービスに特徴がなければ、自給自足に終り、それ以上の発展はない。

いずれにせよ、外周道路の外側に広がる地場産業の特徴が問題になる。地場(ローカル)産業の中には世界が認める製品やサービスを生み出す企業が生まれる。それはブランド・ロヤルティー(Brand Loyalty)を国内外で勝ち取った企業である。また、中に海外で生産する企業もある。それはグローバル企業である。ここで注意すべきは、グローバル企業の製品は必ずしもブランド品ではない。

ここで、ローカルとグローバルについて考える。

続く。

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日本の将来---5.展望(14):コンパクト・シティーの広場(1)

2015-02-25 | 日本の将来
5.展望(13)から続く。

(2)在来線のリエンジニアリング
在来線のリエンジニアリングといえば、最も身近な駅前の再開発である。駅前のバスやタクシー乗り場から商店街に通じる広場、そこには横断歩道、信号待ち、バスや車の騒音、人と車が混在する見慣れた駅前風景がある。その重要な駅前は、人と車の流れが交差する非効率的なスペースになっている。

人口が数十万から数百万の大都市のコンパクト化では議論が発散するので、ここでは比較的小さな都市、2080年頃の人口が十数万人規模の都市を想定する。その理由は、65歳以上の人口減少が80年頃にピークを迎え、その後は0~14歳、15~64歳、65歳以上の人口比がそれぞれ9%、50%、41%に落ち着くからである。【参照:年齢別人口と変化、日本の将来---5.展望(4)2014-07-25】

2080年頃の総人口は現在の約半分、6,500万人と推定される。さらに、2100年頃は人口5,000万人台の時代を迎える。80年代には、土地と領土に対する考え方と憲法を始めとする法体系も激変する。当然ながら政治、経済、教育、福祉における空論が通用しない時代、国の存続に関わる局面に真剣で直面する。もちろん、「消滅済都市」と「消滅予定都市」も明らかになる。その荒波に揉まれた鉄道網は統廃合を終えて、次の時代に向かう時期である。

そのような時代を思うとき、駅前風景も今のままの筈がない。

以下に描く駅前広場は頭の中のイメージに過ぎないが、技術的な裏付けは在来技術で建設可能、運用性では高齢者に配慮するので大きな問題はない。ただし、経済性については、具体的な土地の手当てと投資コストは4~60年先の激変期の話になるので、現在は未検討である。言い訳になるが、人口減による空き地が増大する時代、直径4~500m程度の駅前広場を100ほど建設してもささやかな面積である。

1)駅前広場の概念図
高齢化を考えるとき、足腰だけでなく、視力・聴力・判断力も衰える。高齢運転者の免許更新で見るとおり、身体能力はおおむね70%程度に低下する。見づらい、聞きづらい、反応が遅い、ただそれだけでなく、それらに起因する人間の誤動作、たとえば事故、を想定すると十分な安全係数を見越すべきである。したがって、都市機能の集約、バリアー・フリーと行動範囲のコンパクト化は自然の流れである。

広からず狭からず、しかも安全にすべての用事をこなせる場所、それがコンパクト・シティーの中心広場の姿と考える。なぜかエトナを思い出す。

下に示す図は、コンパクト・シティーの駅前広場のイメージである。日本のどこにでもある駅前広場を発展させた広場(Plaza:プラザ)である。

            

上の図では、駅を単純に描いているが、実際には駅から支線が伸びている場合や私鉄が交差している場合もある。もし、現在の駅前が商店などの密集地であれば、駅を数百メートル移動する方法もある。これから先、4~60年の先を考えるとき、いろいろな選択肢が浮かんでくる。

また、図では駅前広場は円形であるが、その形は多角形、正方形、長方形であってもよい。地形にもよるが、広場の大きさは直径4~500mと考える。端から端まで普通に歩いて5~7分(80m/min)、効率の低下(70%=56m/min)と安全係数(1.5)を考慮しても11~14分の距離である。

大切なことは、この広場は歩行者専用、車の進入は禁止という点である。その広場は石畳、中心に噴水と木陰を配置すれば申し分がない。もちろん、広場内では徒歩、自転車あるいは車椅子や自走電動車などを利用できる。

広場の人と物資の出入り口は駅、バス・タクシー乗り場、外周道路、広場地下の駐車場になる。市街地のバス・路面電車は外周道路に沿って駅に乗り入れる。もし、津波の可能性があれば広場と外周道路をかさ上げすることも考える。また、雪対策のアーケード化とエアコンも可能である。

次回は、A~Eの内容に続く。

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日本の将来---5.展望(13):在来線ネットワーク

2015-02-10 | 日本の将来
5.展望(12)から続く。

(1)在来線ネットワークの価値
1872年の新橋-横浜は単線(29km)の鉄道、2年後の74年には大阪-神戸が開通、その後今日までわずか140年のうちに官営・民営の鉄道が日本全土に広がった。鉄道の線路は、輸送量に応じて単線、複線、複々線やそれらの組み合わせがあるが、運賃計算に用いる営業距離もある。

現在、日本の鉄道の営業距離は、駒鉄太郎の鉄道データベース(2014/11/29)によれば、次のとおりである。

◇鉄道・軌道全営業キロ=27,755.1km、うち旅客列車が走る距離=27,110.3km
 その内訳は、JR在来線=約17,500km、私鉄など=約7,600km、新幹線=約2,400km

また、日本の駅の数は、日本地図センター「全国の駅の数(H26/6)」によると次のとおりである。

◇全国の駅の数(沿線別駅数)=10,475駅

いうまでもなく、日本は火山列島で約70%が山岳と森林である。この国の大きさは、稚内空港-羽田空港-鹿児島空港間の距離は2,061km、北から南に延びる細長い山国に約2万7千キロの鉄道が敷かれている。かなり鉄道が普及しているといえる。

参考だが、北海道択捉島カモイワッカ岬から沖縄県与那国島までの距離を、筆者が大ざっぱに測ると約3,400kmである。また、日本のEEZ(Exclusive Economic Zone:経済的排他水域)+領海の面積は、4,479,358km2、米、豪、尼(インドネシア)、新(ニュージーランド)、加に次ぐ世界6位の海洋国である(社会実情デーダ録)。山国で、かつ、大きな海洋国家でもあることを忘れてはいけない。

広大な海洋に囲まれたこの山国に、791都市がひしめいている。その都市に住む人は1億1,692万人(H26)であり、この都市人口は全人口1億2,729万人の91.8%に当たる。田畑が主役の市も多い。

1960年代にはよく耳にした6大都市(東京、大阪、名古屋、横浜、京都、神戸)も今は死語になった。下の表は、人口100万人以上の都市と100万人以下の県の一覧表である。東京と横浜に全人口の約1割が集中している。しかし、一方では人口100万人に満たない県が9県、うち香川、徳島、高知は四国である。国土に占める可住地は27.3%、人口密度の地域差は大きい。もし、適切な政策がなければ打つ手を失って日本がボロボロの虫食い国家に成り下がる恐れもある。

  
  出典:総務省H26年都市別人口とH25年県別人口

幸い、日本には立派な鉄道網がある。在来線と新幹線と私鉄の連携、輸送需要への柔軟な対応、高品質の車両と軌道、ネットワーク全体の正確な列車運行、これらの点で筆者が経験したどこの国の鉄道と比べても遜色がない。

このブログで紹介したが、筆者は昨年(2014)8月に京都駅から浜松駅までの東海道在来線を快速電車で走った。あの時、列車の走行音や揺れからも東海道線は健全だと感じた。また、時刻表の運行精度はいうまでもなくノー・プロブレムだった。それはチャラチャラ、ピカピカの新技術ではなく、長い実績が信頼性を保証する有形・無形の資産だと自分自身で確かめた。ちなみに、東京駅から神戸駅に至る東海道線は1都2府6県65都市を走り抜ける。65都市の人口は3,343万人、日本の人口の約26%である。平安京を起点としたこの東海道、今ではJR・私鉄の在来線、新幹線、高速道路が並走し、日本の工業ベルトに発展した。

人口の増加とともに広がり続けた日本の交通ネットワークと人々の生活圏、しかし、人口減少期を迎えた今、この生活圏を計画的に縮小すべき時がきた。この縮小は撤収でなく、次の発展への備えである。在来線、新幹線、高速道路のうち、特に、最も基本的な在来線のリエンジニアリングを、次回に検討する。【リエンジニアリング:Re-engineering(改革、再開発、リストラなどの意味)例:Business Process Re-engineering=業務改革または業務再構築】

続く。

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休止のお知らせ

2014-11-25 | 日本の将来

充電のため、今回と12月10日と25日は休みます。来年の1月10日から「コンパクト・シティー」を継続します。

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日本の将来---5.展望(11):コンパクト・シティーと都市の専門化

2014-11-10 | 日本の将来
9)コンパクト・シティーから続く。

筆者が理解する「コンパクト・シティー」は「街道沿いの小さな町」である。この原点から街道は高速道路、鉄道、海路、空路に発展する。また、小さな町は集落、村、市から大都会に発展する。そのような都市の発展を考えるとき、ソクラテス(Socrates:BC469年頃~BC399年)の対話(Dialog)を思い出す。

それは「都市の中の専門化/分業」(Specialization Within the City)と題した対話である。

その内容は次のとおりである。
・・・われわれの一人ひとりは自給自足できないが、多くのものを必要とする(…each of us is not self-sufficient but needs many things.)。第一に食べ物(food)、第二に住むところ(housing)、第三に着るもの(clothes)が必要になる。では、人が集まる都会ではどのようにこれらのものを供給できるだろうか?一人が農作物を作る人(farmer)、一人が家を建てる人(builder)、布を織る人(weaver)・・・また、靴を作る人(shoemaker)も必要になる。・・・実際には最も小さな都市は4、5人で成成り立つのだろうか? そのようだ(Then the smallest possible city will consist of four or five men? So it seems)。
【補足:ソクラテスは著書を残さなかったが、彼の弟子であるプラトー(Plato:427~347BC)はソクラテスの教えを手紙(Letter)と対話の形式で書き残している。プラトーの「国家 第2巻」(Book II of Plato's Republic:380~370BC頃の著書)に「都市内の専門化」が出てくる。】

この「都市内の専門化/分業」を「社会的分業」というが、この分業、つまり職業の発生はソクラテスの時代に始まったものではない。

筆者の想像になるが、この分業は人類の道具造りとほぼ同じ頃に始まったと考える。たとえば、石器を作る人と使う人は、初めのうちは同じだったかもしれないが、やがて作る人は作ることに専念するようになったと思う。当然、もの造りには得手・不得手(エテ・フエテ)があるので、集団の中に専門化が進むのは自然な成り行きである。

15万年以上前にアフリカに現れた現生人類(ホモ・サピエンス)は石器や木製の道具を使っていた。また、日本列島でも日本人の祖先が後期旧石器時代(約3万5千年前)に磨製石斧前を使っていたといわれている。このような出土品から、日本列島においても少なくとも3万5千年前に「社会的分業」が存在したと考えられる。

ちなみに、石器に続く土器では、青森県大平山元Ⅰ遺跡から出土した縄文時代草創期(約1万6千年前)のものが日本最古の縄文式土器である。全くの空想であるが、この頃には土器を使う食堂が存在したかも知れない。なお、大平山元Ⅰ遺跡の縄文土器より古い土器は世界のどこにも出土していない。

現生人類より古い時代のことはよく分からないが、ソクラテスと弟子たちが論じた「社会的分業」は、産業革命の頃に新しい段階に進展した。それは、「社会的分業」から工場における「仕事の分業」への変化だった。

A.スミス(1723-90)は、ピンの製造工場の生産性が仕事の分業(division of labor)で大きく改善したと国富論第1巻、第1章(1776)で報告した。

たとえば、針金を一定の長さに切断して先をとがらせもう一方の端を研磨するという一連の仕事を想定する。この一連の仕事を、針金の切断、先端をとがらせる、、、と単純な仕事に分割する。分割した仕事では効率が良くなり品質のばらつきも減少する。また、単純な仕事は比較的簡単に機械化(自動化)できる。

製造工程の自動化・ロボット化は単純な作業(工程)にとどまらず、複数な工程の自動化も実現した。それは、多機能ロボットへの発展であり、省力化と多品種少量生産を可能にした。また、工場内の資材の運搬や倉庫の自動化も進み、人影がまばらであるにもかかわらず、フル稼働する工場が現れた。いわゆるFA(Factory Automation:ファクトリー・オートメーション、自動化工場)である。特に、1980年代の日本では、FAを目指して溶接ロボット、塗装ロボット、組立ロボットを始めとする産業用ロボットの導入が盛んになった。

日本は世界有数のロボット生産大国である。すでにロボットがロボットを製造する時代に至っている。当然ながら、技術の進歩はロボットの小型化・高速化・汎用化(知能化)・安全性の確保の方向に進み、その活動領域は工場から一歩ずつ一般社会に広がっている。すでにサービス、医療、介護、軍事の分野へのロボットの導入は珍しくないが、今後のニーズに応じた次世代のロボットは未知数、大きな可能性を秘めている。

コンパクト・シティーは続く。

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日本の将来---5.展望(10):コンパクト・シティー、エトナ(USA)

2014-10-25 | 日本の将来
8)岡山市の路面電車から続く。

9)コンパクト・シティー
インターネット上にさまざまな解釈があるが、要約するとコンパクト・シティーは、都市の中心部に役所、公共機関、商業施設、住居などの機能を集中させた小規模(コンパクト)な町である。これは、無計画な都市の郊外化と中心部の空洞化への反省である。

このコンパクト・シティーの概念は、1970年代にアメリカで提唱され、ヨーロッパに広がり、2000年代の日本では青森市が事例として有名になったとインターネットにある。前回に紹介した岡山市や東北地方の復興計画でも盛んにこの言葉がでてくる。

筆者がこの言葉を耳にするとき、90年代に訪れたアメリカのエトナ(Etna:CA)を思い出す。(注意:イタリア、シチリア島のエトナ火山ではない。)

エトナは、カリフォルニア州の北部、オレゴン州に近い人口1000人足らずの小さな町である。町の中心にシティー・パーク(City Park)があったので日本語では“町”でなく“市”と呼ぶべきかも知れない。

エトナへのアクセスは、メドフォード(Medford:OR)から5号線でワイリーカ(Yreka:CA)まで約70km南下、この町で3号線に乗り換えてカラマス国立森林公園(Klamath National Forest)に沿って約40km南下する。この辺りは、美しい森林地帯、娘が馬に乗りたいというのでこの町に住む友人一家のお世話になった。友人の旦那は鉱山学博士の森林保安官だった。

農林牧畜業が主な産業というエトナへの出入りは3号線だけ、中心地のメイン・ストリートは2~300m程度だった。そのメイン・ストリート周辺に役所、郵便局、教会、銀行、図書館、小学校やスーパーマーケットが徒歩圏内に集まっていた。サーカスやバンジョーの演奏会はシティー・パーク、日曜日の集会やバザーは小学校、何かがあればメイン・ストリート界隈で用事を済ますことができるコンパクトな町だった。都会のダウンタウンや日本の駅前の「○○銀座」といった商店街とは違い、エトナは西部劇に出てくる町に似た雰囲気だった。前者の主役は商店と娯楽施設、後者では保安官事務所、電報局、旅籠(ハタゴ)、酒場、銀行、万屋(ヨロズャ)、駅馬車の駅が定番である。

山岳地帯の小さな盆地にあるこの町では、庭は林の一部で燃料のマキは自給自足、パイプを打ち込めば豊富な地下水が得られる。家に鍵をかけることもなく、そこに住む人々は皆知り合い、車ですれ違っても挨拶を交わす仲だった。日本人の筆者と娘は珍しいよそ者、しかし“友達の友達は皆友達”というまでもなく接する人々は皆素朴でフレンドリーだった。

娘を乗せる馬を選ぶために、牧場の女主人が「自由の女神」のように森に向かって右手を上げると、あちこちの木陰から音もなく馬たちが集まってくる不思議な光景を見た。自動散水機が行き来する広い畑は山々に続き、その先はカラカラの乾燥地帯だった。乾燥した森林はタバコの灰からでも引火しそうで恐ろしく思った。当然、禁煙だった。

火の気がなくても、ドライ・サンダーストーム(雨を伴わない雷と嵐)が原因の山火事も多いとか。山火事のたびに森林保安官の友人(友人の旦那)も山に入ることになる。時には、消火に爆薬を使うこともあるという。80年代末のエトナの山火事では、太陽が煙に隠れ昼間もヘッドライトを点灯して走ったそうである。

アリゾナの砂漠のように乾燥した森林に、白っぽい岩壁に囲まれた小さな湖があった。鮮やかな水色で透明な水、幅100m程の白い砂浜、長径30cm近くの乾ききった松かさ、これらの光景とそこに住む人々の記憶が「コンパクト・シティー」に重なっている。

90年代の当時、筆者は「コンパクト・シティー」という言葉を知らなかった。しかし、今では「コンパクト・シティー」と聞くとエトナを思い出す。「コンパクト・シティー」の「シティー」は市、町、村のいずれでもでもよく、筆者が思う「コンパクト・シティー」は次のような場所である。
①見える範囲内で用事を済ませることができる場所・・・万屋(スーパー)やワン・ストップ・サービス
②お互いに知り合っている人々が出入りする場所・・・地縁と安心
③街道で近隣の町につながっている場所・・・親愛、友好、楽しみ、希望、憧れにつながる「遠い世界」

③の「遠い世界」は、古い映画「スペンサーの山」のラスト・シーンが代弁する:
奨学金を得てワイオミングの山村から大学に進む若者が町に向かうバスに乗ってきた。若者は、バスの後部座席から見送りの家族を振り返る。隣の乗客:「どこに行くの?」、若者:「遠いところに」と一言、これがラスト・シーンだった。

よく考えると、「コンパクト・シティー」は昔の田舎町である。欧米日本を問わず、その土地固有の自然環境とそこに暮らす人々から町が生まれる。その町は、ただの田舎町といえど、時と共に成長する。また、短期間で出現した街もある。たとえば「3.ベトナムの日系工場、タイの工業団地」で紹介したプラザ(ハノイ旅行(3)、2014-06-10)も一種のコンパクト・シティーである。

続く。

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日本の将来---5.展望(9):岡山市の路面電車

2014-10-10 | 日本の将来
7)京都から浜松までの東海道線から続く。

今回は予定していた8)コンパクト・シティーを次回に変更して、代わりに岡山市の路面電車を紹介する。

8)岡山市の路面電車
先日、JR岡山駅前で思いがけず路面電車と対面、早速、カメラに収めた。調べてみると岡山電気軌道株式会社の路面電車、岡山駅前から東山線と清輝橋線が岡山城・後楽園方向に走っている。

下の写真は岡山駅前で撮影した東山線の車両である。

            懐かしい路面電車を発見
            

下の写真は低床電車MOMOである。MOMOは2002年と11年に一台ずつ導入された。

            低床路面電車MOMO
            

愛称の「MOMO」は、「桃太郎」と岡山名物の「桃」に由来している。

            MOMOの乗降口
            

MOMOの乗降口は路面から25~26cm、プラットホームと同じ高さである。上の写真のようにプラットホームと車内に段差がなく、簡単に移動できる。

下の写真は車内の様子である。シートや床の天然木が柔らかな感じ、なんとなく北欧風に見える。

            MOMOの車内
            

特に、木造の座席はロングシートとクロスシート(対面シート)の長所を生かしている。木造特有のシンプルな構造で通路からの出入りが容易、駅と駅の距離が数百メートルの路面電車には最適なシートだと思った。後程インターネットで知ったが、車両のデザインは岡山県出身の水戸岡鋭治氏(有名な車両設計者)の手になるもの、さすがに名人だと感心した。

参考だが、旧型車には下の写真のような補助ステップ(ふみ台)がついている。

            在来車両の昇降口
            

東山線(3.1km)は5分間隔、清輝橋線(1.6km)は10分間隔で岡山駅前乗り場を折り返すので、次々と電車が出入りする。欲を言えば、路面電車が大通りの中央を走るより、歩道-路面電車-往復車道-路面電車-歩道の順序ならば、電車がもっと身近になる。さらに、歩道と車道の区別がない狭い道にも単線(一方通行)で路面電車が走ればなお便利になる。もっと簡素でオープン・デッキの電車でも良い。

路面電車の今後について関心があるので、岡山市庁舎の街路交通課を訪問、資料を入手した。

その資料によれば、岡山市では2009年頃から新幹線、鉄道、バス、LRT(ライト・レール・トランジット)、自動車、自転車による交通ネットワークの整備を進めている。具体的にはトラフィック・ゾーン・システムやパーク・アンド・ライドなどの導入である。「人でにぎわう、歩いて楽しい都心空間の創生」が目標の一つである(岡山都市交通戦略による)。繁華街などでは、レンタル自転車の駐輪場を見かけた。

すでに、80年代のウィーンやアムステルダムでは都心への乗用車乗り入れ規制、90年代のサンフランシスコなどのカー・シェアリングも一種の規制だった。これらは、都心の渋滞を避ける工夫だった。しかし、時代は移り変り、今の日本は都心の空洞化・鉄道バス利用の減少を抱えている。そこで、これら欧米の先行システムを日本の目的に合わせるための工夫が必要になる。いわば、電気・ガス・上下水道のネットワークに交通ネットワークを重ねた社会インフラの再構築である。

なお、インターネットによれば、MOMOはJR線への乗り入れを考慮した車輪を装備している。現在の路面では時速45km、LRTとしての設計最高時速は70kmである。このLRTについては、「岡山市都市交通戦略(H21/10)」の「方面⑥一宮・高松方面」(5ページ)と「平成26年度実施計画」の「【公共交通を都市内交通の基幹に】③吉備線LRT化計画素案の策定」(4ページ)に説明がある。

今回は、たまたま岡山市から直島(宇野港からフェリーで約20分の小さな島:美術館で有名)への旅行で路面電車に出会い、岡山市の都市計画を知った。岡山に限らず、東北各県の復興計画には「コンパクトで機能的な都市づくり」や「交通ネットワークの整備」がすでに実施段階を迎えている。この点で、「Gデザイン50」との整合性が気に掛かる。

次回は、9)コンパクト・シティーに続く。

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日本の将来---5.展望(8):東海道線(京都-浜松)

2014-09-25 | 日本の将来
前回の6)鉄道の正確な時刻表から続く。

7)京都から浜松までの東海道線
8月15日、午後2時に京都駅から米原行き新快速に乗った。この新快速は山陽線の姫路から東海道線の米原を経由、北陸線の近江塩津行きの長距離列車だった。

京都 14:00発 姫路駅始発(12:57)-近江塩津駅終着(15:34)行き新快速
米原 14:53着 所要時間53分

京都から大津(市の人口=34万人)、草津(13万人)、守山(8万人)、野洲(5万人)、近江八幡(8万人)、彦根(11万人)に停車、次に米原(4万人)に到着した。京都から米原は53分、その間に大津市を始めとして、7つの市を通り抜けた。のどかな郊外を時速100km前後で走る快適な旅、民家、会社、学校などの建物が途切れることなく車窓を流れて行った。途中、車内に人が立て込むこともなく、時刻表とおりだった。

この新快速は米原で後部4両を切り離し、前の数両は北陸線の近江塩津に向かった。

6分の待ち時間、米原始発の大垣行き普通列車に乗り換えた。大垣行きの4両編成には、多くの人が乗換えたので車内は人と人が触れ合うほどに混雑した。途中駅での乗り降りは少なく、大垣までの34分間は立ち通しだった。

米原 14:59発 米原-大垣行き普通
大垣 15:33着 所要時間34分

この大垣行き各停は米原から約20分で関ケ原駅に到着する。関ケ原から次の垂井駅までは山の中、民家もまばらになり、関ケ原の戦い(1600)という史跡は東海道線の中で一番の過疎地にみえた。車外は過疎、車内はやや過密、これで東海道線は採算を取っていると思った。ちなみに、関ケ原町の人口は約7,600人(2014)、垂井町の人口は約28,000人(2014)である。

関ケ原から垂井を過ぎると急に視界が広がり、大垣駅に7分で到着した。大垣駅には養老線(養老鉄道)が乗り入れている。

8分の待ちで大垣始発の豊橋行きの新快速に乗った。車内の半分は空席だったが、名古屋に近づくにつれて乗客が増え、名古屋(16:13着)ではほぼ満席になった。名古屋駅の東海道線プラットホームはガランとしていた。

大垣 15:41発 大垣-豊橋行き新快速
豊橋 17:09着 所要時間88分

濃尾平野は名鉄のテリトリー、岐阜から豊橋までは名古屋本線と東海道線がほぼ並行で走っている。東海道線より駅間距離短が短い名鉄は、地元に欠かせない身近な足になっていると感じた。

15分の待ちで岐阜始発の普通列車に乗車、浜松に向かった。

豊橋 17:24発 岐阜駅始発(14:58)-浜松行き普通
浜松 17:58着 所要時間34分

浜松に着いたのは午後6時ごろ、京都から快速電車の旅を切り上げて、新幹線こだまに乗り換えることにした。京都-豊橋257kmを4時間で移動したが、電車の走行スピードは100km/時前後で揺れも少なく、線路の状態がシッカリしていると感じた。

浜松 18:11発 ひかり
新横浜19:22着 所要時間71分

以上で横浜にたどり着いたが、京都を14:00に出発して新横浜まで5時間22分の旅だった。

参考だが、京阪神と名古屋を比較すると次のようになる。

京阪神都市圏のJR東海道線:
東端の大津(滋賀)から西端の西明石(兵庫)の距離=105km
新快速所要時間=78分
大津、西明石、南端の関西空港を含む地域の人口=約1,500万人(2012)

名古屋都市圏のJR東海道線:
北端の大垣(岐阜)から南東端の豊橋(愛知)の距離=116km
新快速所要時間=88分
大垣から豊橋を含む地域(三重県を除く)の人口=約700万人(2012)・・・京阪神都市圏の約半分

今回の東海道線での旅行は、京都-米原、米原-大垣、大垣-豊橋、豊橋-浜松の4回の乗り継ぎ、乗り継ぎの待ち時間は長くもなく、短くもなくちょうどいい間隔だった。

幸い、東海道本線の線路は途中で途絶えることなくつながっていた。しかし、今の日本では線路が終点までつながっているとはいい切れない。過疎地を走るかつてのメイン・ルート(本線)の中には、途中の線路が消滅したケースもある。

学生時代の記憶だが、1960年の夏休み、初めて東京までの一人旅にでた。そのルートと目的は、次のとおりだった。
◇京都-小渕沢(中央本線のスイッチ・バックの見学)
◇小渕沢-小諸(小海線の野辺山駅=1,345.67m日本最標高の通過+小諸城址訪問)
◇小諸-高崎(信越本線碓氷峠のアプト式線路の見学、赤城山登山)
◇高崎-大宮(高崎線の桑畑)
◇大宮-東京(京浜東北線)
◇東京-京都(東海道本線の東京23:40発大垣行き夜行列車+大垣発姫路行き電車で帰京)
以上、5~6日の旅程だった。

【補足説明】
スイッチ・バック=山の斜面をジグザグ状に登る。九十九折(ツヅラオリ)坂道のイメージ
アプト式線路=レールとレールの中間に鋸歯状のレールを敷き、機関車の歯車で急勾配を登る。

京都発の夜行列車、薄暗い客車、スイッチ・バックで停車を繰り返す列車、日本一標高が高い駅と書いた白い標識柱、小諸城址の石垣を背にした黒い忍者姿の人が吹く草笛、眼下の千曲川、アプト式の線路、高崎駅の立ち食いソバ、赤城山登山のボンネット型路線バス、バスの終点でただ独り雨に降られ若い女性車掌さんに雨傘をもらったこと、あの身に沁みる親切(今も忘れない)、車窓にどこまでも広がる桑畑、23時40分発大垣行き普通列車の4人掛けボックスを占拠したこと
・・・一コマごとに周囲にぼかしが入ったような記憶が筆者の頭に残っている。

一生に一度だけ訪れた懐かしいルートだったが、かつての信越本線の一部はすでにこの日本から消えてしまった。その結果、現在の姿は次のとおりである。

昔:
信越本線=新潟-篠井-小諸-軽井沢-(碓氷峠:アプト式線路)-横川-高崎(下線は乗車区間)
今:
信越本線=新潟-篠井
しなの鉄道(第3セクター)=篠井-小諸-軽井沢、JRバス=軽井沢-横川(廃線):長野新幹線が代替
信越本線=横川-高崎

中央本線のスイッチ・バックと碓氷峠のアプト式線路は、困難に立ち向かう先人たちの貴重な足跡だった。その足跡をさらに改善しようとする努力が現在の日本を築いたと誇りに思う。

中央線と信越線の変化は、たまたま筆者の回想が発端で気付いた。しかし、他にも不採算路線の第三セクターへの切り離しや廃線が進行している。これは、利用者の減少による鉄道ネットワークの一種の新陳代謝である。

現在の鉄道ネットワークの整理統廃合は採算性ベースで進んでいる。しかし、「Gデザイン50」においては採算性だけでなく、いうまでもないが、ナショナル・ミニマム(National Minimum:国家が備えるべき最低限の要件)の判断基準を加えて日本の姿を描くべきである。

次回は、8)コンパクト・シティーに続く。

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日本の将来---5.展望(7):JR京都駅

2014-09-10 | 日本の将来
前回の4)京阪神の主な鉄道から続く。

5)観光
「Gデザイン50」は観光立国も目指している。2013年の訪日外国人旅行者は1,000万人を突破、20年には2,000万人、その先の2050年を見据えて観光立国に取り組むという。

インドネシアへのビザ免除、フィリッピンとベトナムのビザ大幅緩和、インドへの数次ビザ発給、地方空港の受け入れ体制整備を進める。また、クルーズ船の寄港を増加させる計画である。現在の東京、箱根、富士、京都、大阪の定番ルート以外に、広域ルートの開発、和食文化の発信、農山村での滞在促進で外国人旅行者を受け入れる。

最近の日本政府観光局(JNTO)のデータによれば、2014年1月~6月の訪日外国人の推計総数は約626万人である(昨年同期の確定数:495万人)。このまま伸びれば、14年度の訪日外国人数1,200万人以上は確実である。

ここ数年、京都でも東南アジアの観光客が増えてきた。大文字焼き前日の今日(8/15)、京都駅ビルは内外の人々で賑わっていた。

下の写真は京都駅中央改札口の様子である。改札口の先4~50mにバス停広場がある。

            京都駅中央改札口
            

下の写真は、中央改札口を背にしたバス停広場、午前10時過ぎだったが、清水寺・平安神宮行きバス停には行列ができていた。普段は、10m程度であるが、今日の行列は長い。

            京都駅中央改札口前のバス停(清水寺・平安神宮方面)
            

この時間帯では、行列はバス停だけではない。下の写真は駅ビル2Fの観光案内所の行列である。普段は外国人も見えるが、今日は日本人ばかり、外国人は混雑を見て中に入らない。

            京都駅観光案内所内の行列
            

案内窓口は10ヶ所ほどだが、行列はなかなか進まない。嵐山や大原の方面別パンフレットがあるが、英語版は意外に少ない。

下の写真は案内所の張り紙である。ホテルに空き部屋無しとの知らせである。

            案内所の張り紙・・・ホテル満杯
            

バス停、案内所、みどりの窓口の行列だけでなく、駅のあちこちのコイン・ロッカーも満杯で空き待ちの人もいた。市内では300円の小型ロッカーが駅構内ではすべて500円、大型が700円である。この特別価格のコイン・ロッカーが空き待ち状態では、遠来の客人への“おもてなし”どころではない。

下の写真は、新幹線の混みぐあいである。

            新幹線の時間表と空き情報
            

上の写真の右から左に向かって「終点まで」「新横浜まで」「名古屋まで」の普通(右欄)とグリーン(左欄)の状態、×は満席、△は残りわずか、○は空席有りを示している。のぞみの座席には十分な余裕がある。近頃の東海道新幹線は東京・名古屋・京都・大阪に過剰サービス、他の中間駅は不便になった。

下の表は、時刻表で調べた京都駅発の列車本数である。

 京都駅発の列車数:平日午前10時の1時間
 

上の表で、湖西、山陰、奈良、近鉄京都線は京都が始発駅、同時に終着駅でもある。時刻表には到着列車が載っていないが、推定すると約30本、この数字を発車数71に加えると京都駅の発着本数は1時間に約100本になる。かなり頻繁である。

京都は世界に知られた観光地、鉄道と高速道路のネットワークは完備している。祇園祭や大文字焼きのたびに街のあちこちに人混みが発生する。桜や紅葉の季節も人出が多いのはいうまでもない。京都市を通過する訳ではないが、第二名神といわれる名古屋-神戸間の高速道路も基本計画を終えて測量段階に入っている。

計画も含むが、京阪神の交通ネットワークは鉄道と道路ともに完成度が高くなっている。ここでは、満点より腹八分目が大切である。国交省や建設業界とは立場が違うが、ある程度の発展の余地を残して、現状の維持管理で十分である。大都会はほどほどに、それより地方に目を向ける時代になっている。

6)鉄道の正確な時刻表
日本の鉄道は正確だといわれている。もちろん、京阪神の私鉄は正確で便利だが、新幹線も東京から博多までほぼ同じように正確である。

たとえば、東京-博多間の1,175kmをのぞみは5時間4分で走行する。5分間隔ののぞみが、もし5分も遅れると運行スケジュールは大きく乱れ、非常に危険である。個々の列車が正確に走行するので全体の運行が安定する。この“個々”と“全体”の連携が“正確”を生み出している。その“正確”は、深夜の砂利固め(保線作業の一つ)や車両整備、列車運行や管理業務、補修部品と資材管理を含む幅広い仕事から成り立っているのを忘れてはいけない。

もし、保線作業や車両整備に不備や手抜きがあれば、JR北海道のように度重なる事故になって表面化する。それぞれの人が持ち場の仕事をまじめにこなす、これに尽きる。突き詰めれば“正確”な列車運行の本質は“まじめ”である。

筆者にはいろいろな国から学び取ったことがある。その一つは、発展途上国と先進国の違いである。

今や発展途上国でも最先端のブランド品を身に付ける人も多い。いくつも高級時計を持つ人もいる。しかし、社会インフラの整備は一朝一夕に進まない。生活感覚の違い、また、技術の蓄積もない。その代表例は何年も手入れをしたことがないような線路である。列車が見えると線路上の屋台をかたづけてその通過を待つ、あの光景である。
 【誤解を避けるための補足:途上国の人もまじめであるが、何を“まじめ”にこなすかが分かっていない。その“何”を一つひとつ教えるので時間がかかる。別の地域では長い年月をかけて、“何”を試行錯誤と改良で一つひとつ見付けて、次世代に伝えてきた:その地域や国を先進国という。】

途上国の例に対する先進国の代表例は、ヨーロッパの石造建築技術、たとえば尖塔や教会のメンテ技術がある。また、690年から1300年も続く伊勢神宮と宇治橋の式年遷宮がある。筆者も見たが、宇治橋には宮大工の技術だけでなく船大工の技術も欠かせない。石造建築と木造建築の違いはあるが、それは技術分野と時代を越えた繊細なセンスの伝承である。

日本の人口は減少に向かうが将来も先進国として発展を続ける、これが最も大切なことである。

人混みの京都に長居は無用、京都駅から快速電車を乗り継いで、東海道を行けるところまで行ってみようと思い立った。ゆっくりと車窓の家々や街を眺めながら、スーパー・メガリージョン、国際競争力、コンパクト+ネットワークとは何かを考えてみる。

続く。

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日本の将来---5.展望(6):Gデザイン50 京阪神

2014-08-25 | 日本の将来
前回(4)構想設計から続く。

前回は、国交省が7月4日に公表した「Gデザイン50」を構想設計に見立てて、その内容を目的と戦略に分けて整理した。

今回は、構想設計に続く基本設計である。(「Gデザイン50」の基本設計は未公開と承知している。)

(5)基本設計(Basic Design)
この段階では、まず、現状分析を実施して現状とその問題点を正しく把握する。次に現状分析を踏まえて、構想を分野別に具体化する。構想を分野別に分割することを、システム開発では、サブシステム分割またはモジュール化という。

構想の一部には、ときには夢のような部分がある。そこで、構想を具体案に固めるときには、必ず次の3つの点を検証する。これを怠ると「絵に描いた餅」や「想定外」が発生する。
①技術的な裏付け(Technical Feasibility)
②経済性(Economic Feasibility)
③運用性(Operational Feasibility)

このうち、運用性は利用者の使い勝手だけでなく、法制度とビジネス習慣との相性も含んでいる。たとえば、民間企業のシステムでは、法制度(例:税法)を順守する立場をとるが、「Gデザイン50」は国家プロジェクト、法制度の遵守だけでなく法改正や新設も必要になる。また、住民の生活習慣や地縁の考慮も必要になる。この点では、東北の復興事業が参考になる。

たとえば、一つの素案の経済性と運用性に問題がなければ、それを具体案として基本設計書に記述する。その具体案をさらに詳細に定義するのが詳細設計である。この段階でも詳細案や試作品の技術的、経済性、運用性をチェックする。この詳細設計で代替案に変更することもある。

基本設計の第一ステップは現状分析、まず「Gデザイン50」が描く構想を、現状に照らし合わせて検証しなければならない。

たまたま先日、京阪神を訪れる機会があったので、「Gデザイン50」の中身を考えた。その構想にある「コンパクト」「ネットワーク」「スーパー・メガリージョン」「観光立国」を念頭に、改めて京阪神の交通ネットワークを眺めてみた。

1)現在の京阪神都市圏
「Gデザイン50」のスーパー・メガリージョンとはいかなるものかと考えて、地図上にその範囲を示そうと試みた。しかし、それは意外に難問である。よく考えると、地図上にスーパー・メガリージョンを描くこと自体がナンセンスだと気付いた。今どき、古代都市国家の城壁でもない。

地図上に線を引き、その内側はスーパー・メガリージョン、外側はそうではないというのはおかしな話である。スーパー・メガリージョンとは、新たな行政区画のように物理的に場所を特定し、法的に他の地域と区別するかどうかという疑問がある。この疑問への回答は基本設計そのものであり、運用性の検証が必要になる。

このような理由で、ここには関西の地図だけを示しておく。要は、素案も基本設計も存在しない。

関西の都市
出典:Googleの地図に筆者が距離スケールを付加

上の地図で、JR、阪急、阪神、京阪、近鉄、南海の電鉄と主要道路がカバーする地域を京阪神都市圏と仮に考える。

大まかなには、JR京都駅から10分の大津市(滋賀-地図右上)、35分の奈良市(奈良-大阪難波は38分)、関西空港(地図下方)、神戸市の西の明石市を含む地域である。人口は約1,500万人と総務省の都市別人口(2012)から推定する。将来、この辺りが「スーパー・メガリージョン」の西部になるかも知れない。

2)地域の特徴
次に「Gデザイン50」では、地域の「多様性」が「対流」を起こすと論じている。そこで、京阪神都市圏の多様性=特徴の現状をチェックする。

京都と奈良は、それぞれ1200年以上の文化が息づく人類史上貴重な古都である。単なる遺跡でなく、今も発展しているのが素晴らしい。また、風光明媚で四季の移り変わりも美しく国内外の人々を引きつける。京都は第二次大戦で米空軍が空爆を躊躇(チュウチョ)した古都である。

2050年の京都、それはわずか35年先の京都である。1200年以上の歳月から見ると、35年は誤差の範囲に納まる期間である。天変地異で京都市が陥没しないかぎり、京都の特徴が大きく変わることはない。

大阪は商業都市と同時に「食い倒れ」が有名、合理的で独特の文化がある。イロイロあるが、「オモロイ」都市である。

神戸は海運・貿易の街、洋館が目立つ「ハイカラ」な街とのイメージがる。昔は芦屋の高級住宅街では「ザーマス」婦人が有名だったが、時代とともに世代交代が進み今は耳にしない。あの頃、「ザーマス婦人会」に「商船大生は作業服で出歩かないで欲しい」と寮に注文を付けられた。そのせいで、白とワイン色の横縞セーター姿の筆者も教官に派手だと注意されたのを今も覚えている。

「多様性」が温度差となって引き起こす「対流」は「均質化」を促進すると思うが、「Gデザイン50」はそうではないという。しかし、神戸と大阪の北側にベッド・タウンが発達し、住民と街の外観には「均質化」が進んでいる。

3)交通ネットワーク
「Gデザイン50」はネットワークをキー・ワードの一つに挙げている。ここでは、分かりやすい交通ネットワークをチェックする。交通ネットワークはスーパー・メガリージョンの土台になると理解する。なお、情報ネットワークには後に触れる。

話は外れるが、壮大なローマ帝国の街道ネットワーク(*注)に比べると、「スーパー・メガリージョン」の形容は気恥ずかしさを通り越して、誇大広告の感がある。公文書の文言には珍しい「馬から落ちて落馬した」的な二重の強調、せめて、「スーパー」か「メガ」のいずれかを外せば、なんとか許容できる。(*注) pp.160-161、「痛快!ローマ学」塩野七生、集英社、2002

京阪神の鉄道ネットワークは、JRと私鉄の競争でその内容が高度に発達している。鉄道については、次の4)京阪神の主な鉄道を参照されたい。

道路のネットワークでは、名神高速道路が日本初の高速道路、尼崎(兵庫)-栗東(滋賀)は1963年7月に開業した。以来、第二京阪、第二阪奈、京滋バイパスなどで道路網の整備が進んだ。

近年では、2003年に名神高速の大山崎Jct(Junction:合流点)が開通した。下の図は、大山崎Jctの所在地、山崎の地図である。

大山崎Jctの地図
出典:GOO地図に筆者が情報を付加

山崎は幅約2kmの交通の要所、その狭隘な地形に阪急京都線、JR京都線/東海道線、名神高速、新幹線(1964開業)、産業道路(R171)、京滋バイパス(旧京阪国道)、京阪本線が淀川の両岸に並走している。地図右上は京都方面、桂川、鴨川、宇治川、木津川がここで合流し、淀川となって左下方の大阪方面に流れている。

上の図の大山崎Jct付近は2~30年前は田んぼと河川敷、古くは「山崎の戦い」跡だったが、そこに航空写真のとおり本格的なインターチェンジが出現した。長年、淀川で分断されていた右岸と左岸の物流ルートが、この山崎で結合した。

大山崎Jct(2003開通)の航空写真
出典:GOO地図に筆者が情報を付加

ちなみに、山崎の水無瀬宮は在原業平の「世の中にたえて桜のなかりせば・・・」で有名(800年代)、淀川を遡上(ソジョウ)した紀貫之は、山崎でこの歌を思い出し在原業平を偲んだと土佐日記に記している(935/2/9)。また、明智光秀と豊臣秀吉の山崎の戦い(1582/6:天王山の戦い)も有名である。西国街道はJR京都線沿いに走っていた。この辺り、今も古(イニシエ)を訪ねて散策するグループをよく見かける。

4)京阪神の主な鉄道
京阪神の主な鉄道の開業は次のとおりである。ただし、下の会社名は、当時の名称ではない。

1876年 JR京都線開業(鉄道省官営鉄道) 
1885年 南海電鉄開業(難波-堺・大和川)
1905年 阪神電鉄開業(大阪・出入橋-神戸・三宮)
1910年 京阪電鉄開業(京都・五条-大阪・天満橋)、阪急電鉄開業(梅田-宝塚)
1914年 近鉄開業(大阪・上本町-奈良)

淀川右岸のJR京都線の開業は早かったが運賃が27銭、一方、淀川の蒸気船は上り12銭・下り10銭だったという。このJRの高額運賃に対抗して1910に淀川左岸に京阪電鉄が開業した。

現在、京都と大阪間ではJR京都線と京阪本線と阪急京都線が並走、大阪と神戸間ではJR京都線と阪神本線と阪急神戸線が並走している。当然ながら各社は運賃、スピード、サービスで競い合っている。

たとえば、京都-大阪間の山崎付近では阪急京都線とJRの線路が接近する。今は昔の話であるが、そこは阪急の特急とJRの快速が追いつ追われつのレースを展開する有名な区間だった。

下の写真は阪急梅田駅である。

            阪急梅田駅(JR大阪駅の隣り)
            

1番線から9番線のプラットフォームは、1番~3番は京都方面、4番~6番は宝塚・箕面方面、7番~9番線は神戸方面、それぞれ特急、急行、準急、普通などが順次発着している。プラスチックでコーティングしたプラットフォームの床は光っている。阪急は、電車もプラットフォームも清潔でいつもピカピカとの印象がある。

下の写真は、1~3番線京都方面の出発時刻表である。

            京都方面の発車時刻表
            

上の写真は見にくいが、10分間隔で特急、準急、普通が発車する。隣の十三(ジュウソウ)駅は京都、宝塚、神戸方面への分岐駅、すべての電車が停車するので、下り9本と上り9本の計18本の電車が10分間に発着する(ラッシュ時はさらに多い)。強力な輸送力であるが、昔ほどの混雑はない。

参考だが京都-大阪(終着駅)の所要時間は次のとおりである。
◇阪急特急  43分(途中停車駅=7) 10分間隔
◇JR新快速 28分(途中停車駅=2) 15分間隔
 JR快速    36分(途中停車駅=9) 15分間隔・・・新快速&快速(米原-姫路)8本/時間
◇京阪特急  55分(途中停車駅=9) 10分間隔

注意:ネットワーク上の2点間の時間帯別最短時間=電車の走行時間+乗換え時間+待ち時間

今回は地下鉄、阪急、阪神、京阪、JRで移動して気付いたが、車両と線路の高品質化、駅の改良と高架/地下化が進展した。電車の高速運転に加え、全国共通ICカードとバリア・フリー化で乗換えがスムーズになった。また、在来他社線を横に結ぶ新しい交通ルートで交通ネットワークは、ここ十数年で大きく進歩した。

次回、5)観光に続く。

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日本の将来---5.展望(5):Gデザイン50の位置づけ

2014-08-10 | 日本の将来
5.展望(4)から続く。

(3)「Gデザイン50」の位置づけ
世の中には大小さまざまなプロジェクトが存在する。それぞれのロジェクトは、最初の構想を具体化しながら完成に向かって進んでいく。過去にこのブログで説明したが、そのプロセスをプロジェクト・ライフ・サイクルという。たとえば構想設計→基本設計→詳細設計→製造→試験→実地導入は、システム開発プロジェクトのライフ・サイクルである。このライフ・サイクルの構想設計や基本設計をプロジェクトの段階(Phase)という。

プロジェクト・ライフ・サイクルでは、最初の構想が大切である。構想の切れ味が悪いと、後工程の基本設計や詳細設計で行き詰まりや手直しが発生し、思うような結果を得られない。分野は違うが、機械や製品開発でも同じことがいえる。

ここで、筆者は「Gデザイン50」をプロジェクト・ライフ・サイクルに当てはめて、中身の検証を試みる。もちろん、「Gデザイン50」はコンピューター・システムではなく、大きな国家プロジェクトであることは承知の上である。

「Gデザイン50」は先月(7月)4日に発表されたばかりで、まだ構想設計の段階である。しかし、構想設計は最も大切な段階であることは先に述べたとおりである。この意味で「Gデザイン50」の構想の論理的な筋道と実現性に大きな関心がある。

さらに、基本設計や詳細設計に該当する「Gデザイン50」の中身にも興味があるが、それは先の話である。そこで、風車に立ち向かうドン・キホーテ的であるが、とりあえず手元の構想設計を頼りに基本設計の要件を検討する予定である。

(4)構想設計(Conceptual Design/概念設計/概要設計などという)
構想設計は、プロジェクトの粗筋(アラスジ)を描く段階である。現状にとらわれない自由な発想が必要だが、ただの夢物語でなく実現性が求められる。また、未来像を裏付けるデータの分析と予測も必要である。この観点で、「Gデザイン50」の内容を筆者なりに次のように整理した。

「Gデザイン50」の構想設計
1)目的
①少子高齢化に対応する国土づくりと国民へのサービス機能の確保
②グローバル化における日本の国際競争力の強化
③巨大災害への対策とインフラの老朽化への対応
④食料・水・エネルギーの確保と地球環境問題への対策

2)目標時期
2050年:推定人口=9,710万人(総務省)

3)戦略
①コンパクト+ネットワーク
 (各種サービスを一定の地域(エリア)に集約→エリアのネットワーク化→高度な都市機能と人口確保)
②交通革命と新情報革命で地域間の距離の制約を排除、知識・情報空間とネットワークの融合
 (多様性に富んだ地域間の人・モノ・情報の対流(交流)を促進、生産性の高い国土構造を実現)
③脱工業生産力モデルを志向した新産業を創出、農林水産業の6次産業化・輸出促進
 (フューチャー・インダストリアル・クラスターの形成、農林水産業への企業ノウハウ導入、農山漁村の経済活性化)
④スーパー・メガリージョンの形成と世界の人・モノ・カネ・情報の取り込み・・・コメント①②参照
 (リニア中央新幹線による東京・名古屋・大阪を互に1時間で結ぶ6,000万人圏の創出)
⑤日本海・太平洋2面活用型国土と圏域間対流の促進
⑥観光立国の実現
⑦災害に強い国土づくりとインフラの効率的なメンテナンス
 (防災・減災、インフラの効率的なメンテナンスと利用状況に応じた統廃合)
⑧国民生活の充実と活性化
 (田舎暮らしの促進、高齢者対策、民間活力と技術力の取込み、国土・地域の担い手づくり)

4)コメント
①スーパー・メガリージョンへの疑問
構想は、リニア中央新幹線により、2050年頃に東京・名古屋・大阪圏の6,000万人のスーパー・メガリージョンを形成するとしている。しかし、現在(2014)も3大都市圏は6,015万人で新幹線、航空機、高速道路でリンクしている。
◇現在の3大都市圏に対して、2050年のスーパー・メガリージョンの優位性に疑問がある。
 2014年=6,015万人高齢者率=21%、
 2050年=6,000万人高齢者率=38%(参考資料)
スーパー・メガリージョンはコンパクトに反して都市集中を促進するだけ?特に、ビジネスから離れていく高齢者を引き付けるだけ?
◇スーパー・メガリージョンにおけるリニア中央新幹線の役割に疑問がある。
リニア中央新幹線の輸送能力(アクセス&待ち時間&走行時間×時間帯)に関するデータが欠落、リニアを地下鉄並みに利用できるだろうか?
②2050年以降の人口減少の影響
◇2050年以降はさらに人口が減少、スーパー・メガリージョンを維持できるだろうか?
◇北東日本と南西日本へのスーパー・メガリージョンの拡大は都市への人口集中&高齢化を加速、一方、他のエリア(コンパクト+ネットワーク)は極端に過疎化(無人化)するおそれがある。
◇リニア中央新幹線と6,000万人規模のスーパー・メガリージョンを中心に据える「Gデザイン50」に一種の危うさを感じる。

参考:2050年から2075年の人口推移
◇2050年の人口=9,710万人(総務省ベースの概数)
    0~14歳=  940万人(10%)
   15~64歳=5,000万人(51%)
    65歳以上=3,770万人(39%)
◇2075年の人口=7,070万人(総務省ベースの概数)
    0~14歳=  650万人(9%)
   15~64歳=3,530万人(50%)
    65歳以上=2,890万人(41%) 前回の表「年齢別人口の変化」参照

③戦略の整理統廃合
「Gデザイン50」概要③&④が示す基本戦略は盛り沢山、言い換えれば多様かつ玉石混交である。
12の戦略と53のサブ戦略を整理統廃合すれば、「Gデザイン50」は分かりやすくなる。同時に、他省庁の長期戦略と調整すれば、国家計画として「Gデザイン50」の完成度がさらに向上すると期待する。

次回に続く。

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日本の将来---5.展望(4):Gデザイン50計画-国土交通省

2014-07-25 | 日本の将来
ハノイ旅行(5)から続く。

このブログは、今年4月25日の「日本の将来---5.展望(3)」を最後に、4月28日の「韓国客船沈没に思う」(臨時)から7月10日の「ハノイ旅行(5)」まで、6回にわたって脱線した。

今回は本筋の「5.展望(4)」に戻り、4月25日の「5.展望(3)」の最後に示した「26.人口減少への対応」から議論を始める。

1.人口減少への対応
人口の減少にはさまざまな観点の議論があるが、この問題への対策には、まず地域別の詳しい人口予測が必要である。人口減少とはいうものの、全国一律に減少する訳ではない。

次に、その人口予測にもとづく日本の姿、言い換えると日本の未来像を描かなければならない。その姿は、成行きまかせの姿ではなく、国の政策や人々の価値観の影響を受けた人為的な姿である。したがって、日本の未来像を描くのは国家計画にほかならない。

(1)国土交通省の計画
最近、国土交通省は人口が1億人を切る2050年をターゲットに地域別の詳しい人口予測とその対策を公開した。その報告書は、「国土のグランドデザイン2050」(2014年7月4日)である。

国土のグランドデザイン2050」(以降、略して「Gデザイン50」)の内容は、次のような資料から成り立っている。

1.「国土のグランドデザイン2050」概要・・・PDF462KB 4頁
2.「国土のグランドデザイン2050」・・・PDF480KB 47頁
3.「国土のグランドデザイン2050」参考資料[1]・・・PDF9,362KB 44頁
4.「国土のグランドデザイン2050」参考資料[2]・・・PDF10,143KB 68頁
5.「国土のグランドデザイン2050」参考資料[3]・・・PDF8,820KB 68頁
6.人口関係参考資料[1]・・・PDF8,948KB 69頁
7.人口関係参考資料[2]・・・PDF3,224KB 24頁
8.人口関係参考資料[別添]・・・PDF400KB 4頁
9.1k㎡毎の地点(メッシュ)別の将来人口の試算について・・・PDF8,948KB 69頁

以上、9個のPDFファイルの頁数と容量は、筆者がダウンロードしたときの数字である。A4版にプリントすると総数397頁の資料である。

このブログでは「Gデザイン50」の考え方とデータを理解し、筆者なりの考えを整理する。

(2)2050年の位置づけ
「Gデザイン50」が目標とする2050年は、今から約35年先の近い将来である。2050年は予測精度の点で妥当と考えるが、その時代の人口がどのような状態にあるかを、長期予測の上で確認しておきたい。

下の表は、総務省の長期人口予測から2015年から2105年の人口を抽出し、10年ごとの人口減少(Δ)を示している。ちなみに、総務省の長期人口予測は「日本の人口:1925-2105年」のタイトルで14-04-10のブログに示しているので、参照されたい。

下の表で分かるように、2050年は大きな人口減少が始まる時期である。

  

表の2055から75年にかけて、人口減少がピークを迎える時期である。また、55年頃は増え続けた65歳以上の人口が減少に転じる時期である。

上の表を念頭に置き「Gデザイン50」が目標とする2050年頃は、人口減少はまだ序の口と認識すべきである。2050年頃から2100年頃にかけては日本の人口は約1億人(2050)から4600万人(2100)に半減する。また、この時期(2050-2100)のアフリカでは14億人の増加、反面アジアでは5.5億人が減少する。これらの変動もさまざまな形になって日本に波及する。

次回に続く。

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日本の将来---5.展望(3):バンコクの日本食材が人気

2014-04-25 | 日本の将来

4月10日から続く。

今回は、都市の住みやすさと大きさを比較する。

下の表は、マーサー(注)「2013年世界生活環境調査‐都市ランキング」から引用したものである。ウィーンは、表に示すように2011年と12年で1位、また、表にはないが2010年と2013年(最新)でも1位だった。ウィーンだけでなく、上位10番までは毎年同じような顔ぶれである。【注:マーサーはアメリカのコンサルティング会社】


この表の上位を占める都市の大まかな人口は次のとおりである。
1位ウィーン:170万人、2位チューリッヒ:37万人、3位オークランド:130万人、4位ミュンヘン:130万人、5位バンクーバー:57万人
これらの都市の人口は200万人以下、ウィーンは京都(150万人)程度の都市である。巨大なニューヨークや東京は、毎年40~50位辺りに現れる。

ウィーン、チューリッヒ、ミュンヘンは古くて落ち着いた大人の街、典型的なヨーロッパの都会である。そこは、垢抜けた人々、石畳の広場と建物、静かな路面電車が行き交う空間である。毎朝、ていねいに磨いたショウ・ウインドウの専門店が並び、その街独特の文明と文化が生まれ育つ。【補足:文明=ハード系(道具、設備、建築、技術、工場など)、文化=ソフト系(言語、習慣、芸術、学問、ルールなど)】

下の図は、1963年のロンドン地下鉄(Tube)の路線図である。船乗りとして筆者が初めてロンドンを訪れたときの記念品である。その歴史は古く、1854年頃から建設が始まったという。地下鉄の乗換駅では地底深くに延びるエスカレーター、そのエスカレーターでは人は右端に立ち左側を急ぐ人に譲るというルールがあった。地下鉄というハードにルールというソフト、そのソフトはパリやウィーンなどに共通だった。


歴史ある西欧の近代都市とは対照的に、ここ3、40年で急速に発展した若くて成長盛りの都会がある。中心地のショッピング・センターは子供連れでにぎわう。

たとえば、筆者が仕事で2012年まで行き来したバンコクも急速な近代化を遂げた街である。

1970年代後半、初めて仕事で訪れたバンコクは、主な道路はあちこちで工事中だった。この頃は、欧米や日本のODA(政府開発援助)で道路網の建設と社会インフラの整備が始まった時期だった。

その後、2000年に長期滞在で訪れたバンコクは交通渋滞で世界に有名だった。渋滞の中には昔懐かしい旧式の日本車、ポンコツのトラックやバスがあふれていた。時には、ベトナム戦争で活躍した木造ボディーのトラックも見かけた。また、バス強盗が乗客の金品を強奪したという記事(日系紙)もたびたび目にした。

やがて、バンコクから周辺の工業団地に延びる高速道路が次つぎと開通し、ポンコツ車はいつの間にか消えてしまった。

下の写真は、通勤時間帯の市内の風景、金曜日の夜と事故以外の渋滞はまれである。


日本以上に広々とした高速道路網、その料金所に集まる車を見ていると、日本以上に日本車が多いと感じるほどである。世界のデトロイトを目指す政府の方針にもうなずける。

99年12月から運行し始めたスカイトレイン(市内高架鉄道)も2005年頃までは空席が目立ったが、景気が回復するにつれて、乗客が増加した。近年の通勤時間帯は下の写真のとおりである。最近、混雑で危険なためフォームドアを導入する駅が増えという。04年にはメトロ(地下鉄)も開通したが、スカイトレインとメトロともに延伸中である。


上の写真から分かるように、女性の社会進出は盛んである。たとえば、経理、生産管理、購買、品質管理、顧客管理などの女性部課長はよく見かける。筆者の知る大学院卒は、なぜか男性より女性が多い。また、全国の屋台ではおばさんが主役、一般に男性の影は薄い。

国王を心から尊敬するタイ人、皇室レベルでタイと親交のある日本、日本欧米の経済支援による社会インフラの整備、日系企業の進出と雇用機会の増加など、さまざまな要因でスーパーに日本食品が多くなった。【11年のデータ;日系企業3133社(工場1735社)、工業団地62ヶ所、推定日本人約7万人(短期出張や旅行者を含む)】

下の写真は、バンコクの大手スーパーの食品売り場である。数字はタイ・バーツ(約3円/バーツ)である。


街の屋台でもキッコーマンや味の素が当たり前、牛乳、ヨーグルトはコンビニの定番である。スーパーやデパ地下の食品売場では、にぎり寿司のパックなどに人気がある。

調味料だけでなく、下の写真のように日本の食品が出回っている。


家庭用クーラーや冷蔵庫が珍しかったバンコクでも、スーパーの家電売り場で炊飯器、冷蔵庫、クーラー、テレビ、パソコン、ケータイ、デジカメが安く手に入るようになった。家電が普及するにつれて、以前は屋台に頼っていた食事も自宅で作るようになった。【補足:一般家庭の台所は、流し台だけの簡単なものが多い。しかし、その食生活が変化し始めている。・・・筆者の見聞】

生活水準の向上、調理器具の普及と食生活の変化、食品添加物と残留農薬の心配、これらは食材への関心を高めた。「あの地区は農薬を多用するので野菜の虫食いが少ない」などという噂が、急速に普及したケータイで広がるとたちまちその野菜の売れ行きが落ちるという。

下の写真は、バンコクに4店舗を展開する日系スーパーの店内である。特に、写真のように日本直送の農産物には人気がある。「卵ご飯」に使える日本直送の「生卵」は日本人の隠れた貴重品である。


ここで、日本の農産物の輸出状況に触れておく。下のグラフは、NHKクローズアップ現代(2014/4/14)とFAO(国連食糧農業機関)と朝日新聞のデータから作成したグラフである。

2010年の日本の総輸出額は63.9兆円、そのうち農産物の輸出額は下のグラフに示す3400億円、単純計算では総輸出額の0.5%に過ぎない。日本の農産物は評判が良い割に輸出額は少ない。最近はTPPで悲観論もあるが、農産物の海外進出まだまだ有望である。


グラフ右下に示す日本政府の2020年の目標はわずか1兆円、その時の世界需要は680兆円で日本の目標は680分の1のシェアーに過ぎない。

話を戻すが、近代化に数百年を費やした西欧諸国、戦後の焼け野原から出発した日本、3、40年で発展したタイ、その道筋は国ごとにさまざまだった。しかし、程度とタイミングの違いはあるものの、現在の地球は、成長の次にくる高齢化の局面にさしかかっているのは間違いない。その高齢化は、人間だけでなくハードとソフトにも進み始めた。「歴史は繰り返す」は昔の話、現代ではそうではない。たとえば、移民の受け入れも時代遅れの手法である。そもそも、移民に出る側でも高齢化が進み移民にでる余裕がなくなるかも知れない。

幸か不幸か、急速な発展を遂げた日本は、トップバッターの形で急速な高齢化に直面している。下のリストは、2100年を視野に入れて筆者がこころに描くなすべき事項を示している。


ここで、横浜発明振興会の発展を祈り、このセミナーを終了する。今後はこのリストに掲げる項目を具体的にこのブログで展開する。

なお、予定を少し変更して、次回はハノイ旅行の紹介、その後に上のリストの項目を順次検討する。

続く。

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日本の将来---5.展望(2):日本の人口(1925‐2105)

2014-04-10 | 日本の将来
3月25日から続く。

ここで、総務省統計局のデータで日本の過去と将来の人口を説明する。

下のグラフによると1925年(大正14年)に約6000万人だった人口は、60年後の1985年(昭和60年)に約1億2100万人に倍増した。その後、成長率は鈍り2008年に約1億2800万人のピークを迎え、人口は減少に転じた。


現在も人口減少は徐々に進行し、2050年頃に1億人を割り込み、さらに2100年頃には4600万人とピーク時の3分の1近くまで落ち込むとみられている。

ちなみに、1903年(明治36年)の日本の人口は約4600万人、この頃の日本は日露戦争(1904年開戦)、欧米では、F.Taylorの科学的経営(1911)やF.Gilbrethの動作研究(1911)などで工業の近代化が進んだ時代だった。

1903年から約100年後の2008年には、1億2000万人、さらに2100年の人口は4600万人とまるでジェット・コースターのように急上昇と急下降を繰り返す。この間、1900年代の蒸気機関車や蒸気船に頼る時代はジェット機やグローバル・ネットワークの時代に進展した。近代化と人口増の100年に続き、老化と人口減の100年がやってくる。

ここで、近未来の40年先に目を移すと、下のグラフのように少子高齢化が具体的に見えてくる。


上のグラフでは、0~19歳の人口比率がすでに60年代から2000年にかけて急速に減少する反面、2000年頃から75歳以上の人口比率が直線的に増加し始めた。

下のグラフと表は、上のグラフを人数で表している。



上の表の2060年では、65歳以上の人口(11,279+23,362=34,641千人)が総人口(86,737千人)の40%を占めることになる。この3464万人のうち、65~74歳は1127万人でかなり大きな数字である。気力と体力のある65~74歳の人々が生産活動に参加すれば、統計上の悲観論も少しは改善する。

話は変わるが、少子高齢化の話題には「移民受け入れ論」が付きまとう。移民1000万人を受け入れるとの記事を数年前に目にしたが、最近も似たような記事に出会った。【参考:「移民受け入れで人口1億人維持『年20万人』内閣府試算」朝日新聞朝刊、2014/2/25】

下の図は、朝日の記事を再現したグラフである。政府の「選択する未来委員会」は年内に報告書をまとめて、15年以降に毎年20万人の移民を受け入れるという。

   

上のグラフで、移民の総数や出生率の意味が分らないが、もし出生率の回復で9136万人を達成できるならば、移民の受け入れは不要だといえる。

もし、出生率は回復せず、かつ移民を受け入れると2100年の総人口はどうなるか。この数字は記事にない。

この案は毎年20万人の移民を受け入れるというが、製造業の空洞化が進む国内に毎年20万人の雇用を創出できるのだろうかと疑問に思う。

雇用創出には東北地方だけでなく、他の自治体も苦労している。
富山県の例:国の交付金を活用して「緊急雇用創出基金事業」を実施しています。これにより、平成21年度から平成27年度までの7年間で合わせて17,500人程度の雇用創出を目指しています・・・富山県のHPから引用、ただし基金の金額は不明。

雇用創出ばかりではなく、ヨーロッパ諸国と違って、歴史的に多民族&多言語に馴染みがない日本、約1億1000万人のうち2~3000万人が移民系になれば、国の存亡にかかわる問題になる。

現在、日本ビジネスのグローバル化はめざましい。この流れと同時に、移民受け入れで日本の国民が多民族化すると、必然的に言語の問題が浮かび上がる。オーストリアのように、ドイツ語(国語)能力を移民の必須条件にしても決め手にならない。

日常生活とは別に、ビジネスでは英語が幅を利かすことになる。もともとグローバルな英語とローカルかつマイナーな日本語が並立すると、日本語が急速に退化する恐れがある。やがて、英語が準公用語または第二公用語になる可能性も出てくる。もし、準公用語/第二公用語になれば官庁や公共サービスや報道の英語化も必要になる。

さらに、移民系の人口が増えるにつれて勤勉、誠実、和、向学心、整理整頓を重んじる日本の国民性が変化する恐れがある。現在の国民性が生み出す日本固有の文学、芸術、建築、工芸品、技術や食文化は、有形・無形の資産であり、そこから優れた仕事や製品が生まれてくる。もし、この国民性が変化/退化すれば取り返しがつかない失敗になる。そのときの日本は、多民族が好き勝手に暮らす寄り合い国家、さらに国家財政が傾けば最悪である。

世界に知られた日本文学、芸術、建築、工芸品、工業製品や食文化を守り、それらを発展させて人類に貢献する。これが日本の道であって、ただの数合せ的な移民策は、移民を受け入れる日本国民と移民する人々の双方を不幸にする。

余談になるが、筆者は、船乗り時代から今日まで東南アジア、中東、欧米、太平洋諸国を渡り歩いた。ここ30数年間は主に日系工場の生産管理にかかわった。日系工場が生産する製品は現地では少々高いが品質は“買い”である。また、工場で働く人々の「行ってみたい国」や「研修を受けたい場所」は日本だった。また、欧米の下宿、アパート、ホテルでも「きれいに住む日本人」は歓迎、アラビアの田舎でも日本人と分かると屋台の焼き鳥を只で勧められた。50数年にわたる海外経験では、行く先々で多くの親切を受けたが、幸い不愉快な思いは一つもない。これは個人的ものでなく、日本と日本人に対する人々の信用である。

「数は力、力は金」を信奉する政治家や経営者はさておき、この地球には、人口が少なくても国民は文明を享受し、かつ経済的に豊かな国も多い。

筆者もよく知るオーストリアやオランダは、それぞれ真似のできないユニークな国々である。

オーストリアとオランダの産業は、すでにこのブログ2013-09-10と09-25で説明したので省略するが、3ヶ国の経済指標は下の表に示すとおり隣り合っている。しかし、これら3ヶ国の人口と国土は大きく違っている。


下の表は3ヶ国の概要である。山がないオランダの人口密度は約400人/平方Kmであるが、山国の日本やオーストリアと単純に比較できない。ちなみに、もし日本の人口が4200万人程度に減少すれば人口密度は約110人/平方Km、この数字は現在のオーストリアに近い。この程度なら、実際に住んでいても寂しくは感じない。


ここで言いたいことは、人口が多いことと国の豊かさは別問題、たとえば、GDPの総額より、国民一人当たりの額が大切である。


日本、オーストリア、オランダの一人当たり名目GDPと実質経済成長率は、グラフのとおりよく似ている。


現代は国際経済の時代、先進国においては特殊な事情で数年間にわたる特異な動きも、やがてグローバルな流れに乗って平均的な動きに戻っていく。


下に示すオランダの失業率は、オランダ病とワークシェアリングの功罪で80年代から2000年頃まで大きく変動したが、その後は小康状態だった。しかし、今後はふたたび悪化するとの見通しがある。


オランダ病の根底には、1960~70年代の好況と人手不足と主にインドネシア(旧植民地)からの寛容な移民受け入れがある。現在では一部、移民のゲットー化も進み、若い技術者が自国に失望して移民するケースもあるという。

続く。

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日本の将来---5.展望(1):人類の人口推移と日本

2014-03-25 | 日本の将来

1月10日を最後にこのブログを休止していたが、今回から「日本の将来」を再開する。

休止中の先月、2月9日に「横浜発明振興会---ハマ発明教室」で、「人類の人口推移と日本の将来」とのタイトルでセミナーを実施した。セミナーの内容は、このブログの「1.世界の人口(2013-07-10)」から「2.日本の人口(2013-11-10)」を要約したものである。

セミナーの目的は次のとおりである。
1)ハマ発明教室のメンバーに人類の人口推移を紹介、特に日本の人口問題への認識を深める。
2)高齢化社会のニーズに応じた発明を呼びかけ、同時にハマ発明教室を活性化する。

2月9日は、あいにく50年振りの大雪の翌日、横浜の交通機関も混乱していたが予定通り実施した。出席者は十数名だった。

ちなみに、横浜発明振興会は非営利の市民団体である。筆者はこの団体を「発明による一攫千金を夢みて、少子高齢化の障害に立ち向かう善意の団体」と位置づけて会員として参加している。

以下、2月9日のセミナーの内容を補足しながら3回に分けてこのブログで紹介する。

1.人類の人口推移と日本の将来(1)

約46億年前に誕生したといわれる地球に、およそ650万年前に猿とも人類ともいえる動物が現れた。その動物は、下の図の左端にあるサヘラントロプス・チャデンシス、二足歩行の類人猿だった。頭骨の化石によると脳の容積は、チンパンジーとほぼ同じ約350ccだった(現生人類は約1500cc)。


さらに数百万年の時が過ぎ、図の中ほどに赤い丸印で示したアウストラロピテクス・アファレンシスが現れた。彼らは身長1~1.5m、直立二足歩行、脳の大きさと顔はチンパンジーに似た類人猿だった。

さらに、およそ200万年前にはホモ・エレクトスが現れた。ラテン語学名の「ホモ」は「人」、「エレクトス」は「直立」、したがって「ホモ・エレクトス」は「直立する人」を意味する。学名がホモ(人)に変更されるまでは、彼らはピテカントロプス・エレクトスと呼ばれていた。

なお、よく耳にするジャワ原人の学名はホモ・エレクトス・エレクトス、北京原人はホモ・エレクトス・ペキネンシスである。彼らはホモ・エレクトスの亜種である。

さらに時が過ぎ、およそ17万年前に地球は非常に厳しい氷期に入った。この頃、ヨーロッパのネアンデルタール人や東南アジアのホモ・エレクトスなどの総人口が1万人に落ち込んだ。この厳しい氷期の後、ホモ・エレクトスは少なくとも3万年前まで生存したが、ネアンデルタール人やホモ・エレクトスたちは死滅した。

17万年前の厳しい氷期の後に、上の図の右端に赤い丸印で示すホモ・サピエンスが誕生した。ホモ・サピエンスは現生人類のミトコンドリアDNA上の祖先である。

ちなみに、ホモ・サピエンスとホモ・エレクトスには遺伝子のつながりはないが、ホモ・ヘルメイは遺伝子上の祖父母に当るという。

下のイメージ図は、アウストラロピテクス・アファレンシス、ホモ・エレクトス、ホモ・サピエンスの化石などからの復元像である。


上の図のホモ・サピエンス(現生人類)は、15万年以上前からアフリカに暮らしていた。

彼らのアフリカからユーラシアへの移動、言わば出アフリカはおよそ12万年前と8万5000年前と推定されている。この2回の出アフリカのうち、1回目の移動は失敗したが、2回目の移動は成功した。下の図は、2回目のアフリカから南米チリまでの移動ルートを示している。


現生人類がチリに至るまでの十数万年、その間にも地球の気象は激しく変動した。突然に紅海が割れたのではないが、8万5000年前の氷期には海面は現在より80mも一気に降下、その後上昇したが、ふたたび6万5000年前には水位が104mも降下した。

このような海面の変化は、氷期の海水凍結が原因だったとサザンプトン大学の海洋学者、イルコ・ローリングがサンゴ礁の調査で明らかにした。

そのメカニズムは次のとおりである:
氷期の海水凍結⇒海面の降下⇒紅海とインド洋の遮断(悲しみの門辺り)⇒紅海の水分蒸発と塩分濃度上昇⇒プランクトンの激減(not 死滅)⇒気温の上昇と海面の上昇⇒インド洋と紅海の結合⇒紅海の塩分濃度低下⇒紅海の生命活動再開・・・

天変地異が続く生活環境、そこを生き抜くために人類はどのような道具を発明し、改善してきたか。それは、横浜発明振興会にとっても大きな関心事である。

下の図は道具の歴史を示している。この図の石刃、石うす、顔料の加工、尖頭器の4つは、現生人類の出現前から存在していた。先に説明したホモ・エレクトスは、100万年以上前から肉の解体に小さな石刃を使っていたことが分かっている。


また、図にある顔料は絵画、ボディー・ペインティング、埋葬、皮の保存に使われたという。また、長距離の交換は遠隔地との物々交換の意味である。

ここまでの内容は、主にS. Oppenheimer著の「人類の足跡10万年史」から引用した。

ここで人類の歩みを振り返ると、人類が絶滅しそうになった厳しい氷期の後に現在の間氷期がやってきた。この僅かな間氷期に人類は急速に進歩した。下のリストから分かるように、時代が進むにつれて進歩のペースが速くなっている。


長く続いた狩猟・採取の生活から農耕・牧畜の生活への移行はおよそ1万~9000年前の間氷期とともに始まった。その後、生活の安定とゆとりはBC4000~3500年頃のヒエログリフ(絵文字)を生み、文明の夜明けを迎えた。

古代文明の栄えたBC3000年頃には青銅器が出回り、BC2500年頃はピラミッドの建設、BC1400年頃はヒッタイト帝国の軍事秘密だった製鉄技術も帝国の滅亡で世に広がった。

その後、ギリシャ・ローマをへて1760年代のイギリスの産業革命、1960年代のアメリカのコンピューター革命、1990年代には地球を覆う通信ネットワークと共に社会・経済のグローバル化が実現した。

石器からコンピューターまで、人類は新しい道具の発明と共に進展してきた。道具と技術を身に付けた人類は圧倒的な自然の脅威を克服して今も存続している。その事実は、人類の生命力と英知の賜物といえる。

ここで、最も興味深い問題、人類の人口に目を向ける。

下の表は、国立社会保障・人口問題研究所のデータである。右端の「増分(100万人)」は筆者が付加した数字である。


下の図は、上の表の平均値をプロットした曲線を示している。手作業でのスムージングだが、この曲線は成長曲線の特徴を表している。【参考:成長曲線=ゴンペルツ曲線やロジスティック曲線などが有名】


曲線を見ると、2100年の後に人口は頂点(=成長曲線の累積値の変曲点)を迎えるが、その先が問題である。

過去には氷期や天災が人類にとって最大の試練だった。しかし、現代では天災ばかりではない。天災に人間に起因する紛争や人災が加わる。それらを克服するのもやはり人類の生命力と英知である。原因は別として、歯止めのかからない人口の減少と絶滅か、均衡と安定か、その答えは、今から数百年後、数万年後の人類だけが知るところである。

答えのないまま地球の人口は、間もなく(2100年頃)ほぼ確実に100億人を越えて、その後は減少に転じると思われる。これは推定ではなく、すでに日本の人口が減少し始めたのは周知の事実である。

下のグラフは、世界の地域別人口である。


日本の人口減少ばかりでなく、アジア諸国の高齢化も著しく、ほぼ確実に2050年頃にはその人口が減少に転じる。アジアの人口減少は日本より遥かに大きく、それに広域にわたる社会インフラの老朽化が重なると何が起こるか。前人未踏の問題である。

続く。

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