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関西訪問2---不言実行の山科疏水

2019-09-25 | 地球の姿と思い出
「再会の旅---関西訪問1」から続く。

2.浜大津から京都への旧東海道:1号線&三条通り
高校時代から大学卒業までの約10年間、筆者にとっては、三条大橋から浜大津に至る国道1号線は最も慣れ親しんだ道である。その後も折に触れよく訪れた道、この旅でぜひ再訪したいと思った。

今回はレンタ・カーで浜大津から三条に向かって思い出の道を逆走した。レンタ・カーでは痒いところに手が届くように移動は非常に効率的だった。

浜大津を出て1号線の逢坂山検問所跡を通過、逢坂山の坂道にさしかかった。懐かしい坂道である。

下の写真は逢坂山側から山科(京都市)に向かう1号線の下り坂である。写真右端は名神高速の高架、高架の左下は京阪電車大津線(現在の京津線)である。

60年も昔、たびたびこの坂を自転車で登ったが、この辺りは心臓破りの難所だった。当時の自転車には変速器もなく、四ノ宮から逢坂山検問所までの約1.5kmはキツかった。しかしあの頃は心身ともに若く、飲料水の用意などは念頭になかった。いま思うと、大学一年の時に腎臓結石で入院したが、その一因は水分なしで長時間にわたる自転車漕ぎだったかも知れない。

            逢坂山の坂道(旧東海道)
            

上の写真右に見えるのは京津線、昔は路面電車が走っていた。その電車の台車(ボギー)には車輪が2つ、一つは通常サイズの車輪、もう一つは直径が小さな車輪だった。小径の車輪は登坂力が強いからだと自分なりに解釈した。

今もこの坂を通るたびに、大小2輪のボギーで走るチンチン電車を思い出す。あの頃は東山三条の模型店ユニバーサルに通い、電気機関車の模型などをハンダ鏝で作っていたので、ボギーと云う言葉も懐かしい。

ちなみに国鉄車両の記号、EFXXのE=電気、F=6輪(動輪)、XX=数字:6動輪電気機関車の意味(Code)は今も変わりない。帰り道でユニバーサルを覗いたが、今はプラモデル中心の店になっていた。

この逢坂山は平安時代でも有名、蝉丸(生没不明)と清少納言(966年生)の和歌が百人一首に載っているのは子供でも知っている。もちろん平安時代に限らず、この峠は有史以前から人とものの重要な通り道、現在では、東海道線や新幹線のトンネル、1号線や名神高速、京阪京津線が通っている。

興味あるのは、この坂道に敷石があったことである。それは江戸時代のこと、写真資料によると大津~京都の約12kmには車石(北畑都市設計)の舗装があったという。

車石は、荷車の動きを助ける敷石、長年の使用で石が溝(ミゾ)のように削られている。(株)北畑都市設計の記事は写真中心で分かり易いが、京都伏見の車石・車道研究会の活動報告も参考になる。資料の絵で分かるように、①車輪の幅に合わせた敷石を並べる、②その敷石の列から外れないように牛車を操作する、この2点に日本人のきめ細かな運用を感じる。どこか、正確な鉄道時刻に通じるところがある。

敷石に関する参考だが、紀元前312年に建設が始まったローマ街道の一つ、アッピア街道の石畳*は現代ヨーロッパの敷石道路に遜色ないレベルである。紀元前のローマ街道は軍用道路だったが、東海道、竹田街道、鳥羽街道の車石は物流の効率化が目的だった。【*参考:p.77の写真、塩野七生著「痛快ローマ学」集英社、2002年】

人やものの移動を効率化する搬送技術は、ローマ時代の石畳や江戸時代の車石からスタート、軍事、産業、宇宙航空の分野で大きく発展した。次は、たとえば介護の分野で人の個体移動技術がさらに発展しそうである。

1号線をさらに西に向かって進むと山科の市街地にでる。1号線は名神のICと交わり左に曲がり五条坂から京都市街に向かう。一方、旧1号線は名神ICで「三条通り」に名前を変えて、昔とおり蹴上(ケアゲ)から三条大橋に向かう。

三条通りを名神ICから西に向かって少し進むと、京阪電車&JRの山科駅前の商店街と交差する。その交差点北西角に、昔は小さな時計店があった。

あの頃、母は山科の小学校教師、その店は教え子の店だった。筆者が高校生になった時、その店でエルジンの自動巻きを母に買ってもらった。初めての腕時計が大変嬉しかった。当時、エルジンは軍用腕時計で有名だった。山科駅と聞くと、今でもあの店のオジサンとエルジンを思い出す。交差点を通過するとき思わずオジサンに黙祷した。(エルジンのアメリカ工場は69年に消滅したが、ブランド名は今も存在する。)

駅前商店街を通過して少し先の交差点で右折、すぐにまた右折、山科駅に戻る。駅から山に向かって約500m北上すると山科疎水に出る。

その疎水は小学校のプール代わりに、夏休みの子供たちに開放された。もちろん、子供たちの安全は先生たちが輪番で見守った。筆者は見回り役だった母から教えられ、春夏秋冬の折に触れこの美しい疎水を訪れるようになった。

下の写真は山科疎水(正式名称:琵琶湖疏水)である。京都市のデータを参考に計算すると、毎分約500トンの水が蹴上の浄水場に向かって流れている。毎分500トンもの水が流れているにもかかわらず、せせらぎの音すら聞こえない。静寂そのものである。

            山科疎水---山科駅の北側
            

よく聞く表現に「騒音にかき消される」というのがある。しかし、ここでは逆に「すべての音が流れに吸収される」ように思える。毎分500トンという大きな動きにもかかわらず、その動きに音がない。足元の流れに耳を澄ましてもやはり音がない、不思議な空間である。

この疎水は、当初「京都市の飲料水供給」「発電と京都市電開通」「琵琶湖と淀川を結ぶ水運」を実現した。やがて「水運」は新しいテクノロジーに引継がれたが、一番大切な「水の供給」は今も変わりなくこの疎水が果している。春夏秋冬この疎水を訪れるうちに、その静な動きから「不言実行」を学んだ。その後、アメリカで「Can-Do精神」を学び、修士号(MS)も取得した。自然から学ぶことも多い。

また、この疎水はさくらの名所である。さらに、さくらの次は新緑、その次は夏の河童天国、次に秋の紅葉、そしてやがて誰もいない冬の静寂、この疎水は次々と変身する。その様子を、筆者は季節ごとに衣装を替えて舞台に登場する手品師に見立てている。その手品師が披露する鮮やかなマジックは一巻の絵巻物、筆者は長年その絵巻物に見入ってきた。

---◇◇◇---

さくらの頃には「世の中に絶えてさくらが・・・」、あるいは「散ればこそいとど桜はめでたけれ・・・」との思いがこころに浮かぶ。それは「春はあけぼの・・・」で始まる「たのしく悩ましき春の夢・・・」の季節である。

ついでながら、上の写真から500mほど山に向かって歩くと桜で有名な毘沙門堂に突き当たる。境内のあちこちに咲く大きなシダレさくらが見事である。さくらに囲まれた幻想的なお堂は今も変わりないと信じている。

さらに、花の記憶はタイの花々に続いてゆく。

プラチンブリの日系工場正門横の植木、幹はツルツルに枯れているが枝にはピンク色のブーゲンビリアが花盛り、いつ見ても同じ、不思議だった。バンコクから南にかけて年中絶えることなく花が咲き誇る。ホテルのプールサイドに咲く白い花に「この花は不思議な花で年に一度しか咲かない」と言う庭番のオバサンにエッ!と思った。開花期は年に一度という筆者の常識が通じない国である。

とは言うものの、タイにも緩やかな四季がある。蝉が鳴き目まいがするほど熱い4月、一陣の風と共にやって来る猛烈なスコールに雨傘は役に立たない6月、青空にトンボの群れが飛ぶ8月、焼き畑の煙があちこちに立ちのぼる10月、クリスマス・セールの12月、ホテルの池にうようよと泳ぐ小魚がどこかに隠れていなくなる2月・・・タイの自然は、絶えず花を咲かせながらこれらの変化を繰り返す。もちろん、絶えず花が咲くので果実も豊富である。

疎水に話を戻すと、さくらの次は新緑、みずみずしくあふれるような生命力と五月晴れが続く。生命の躍動とは対照的に年中変わりなく淡々と流れる疎水に安定感を覚える。年がら年中せかせかと新製品を繰り出す製造業とは別世界である。

また、新緑の5月は祭りの季節でもある。地味なお寺でなく、色鮮やかで賑やかな神社の出番である。

祭りには鯖寿司がつきもの、そこには母と鯖を酢で締める大きな絵皿が出てくる。高級店の鯖寿司は品よく形は整っているが上品すぎて筆者の味覚には合わない。やはり母が竹の皮で作る鯖寿司が一番、それに添える色鮮やかな紅ショウガも自家製、鯖寿司と紅ショウガの仕切りは庭石わきに生えるバラン(葉蘭)だった。なぜか鯖寿司を3本、ピラミッドのように床の間脇の戸棚に並べるのが習わしだった。

夏は水しぶきと太陽、子供たちの歓声の世界だった。小橋からふざけて流れに飛び込む子供たち、しかし学校プールの普及で往時の「河童天国」は消滅、おまけに転落防護柵で疎水はがんじがらめの管理社会に変化した。・・・今ではあの「河童天国」は幻だったと思っている。【参考:「河童天国」(京都再訪1)

転落防護柵は目障りだが、秋晴れに映える紅葉が美しい。実り豊かな山がすぐ横にあり、松茸が取れそうな松林もある。子供の頃、松林で松茸狩りとすき焼きをしたのが懐かしくなる。食欲の秋である。

紅葉が散り始めると、この疎水を訪れる人もいなくなる。時たま出会うのはウォーキングをする人だけである。誰もいない桜並木は静まりかえっている。夏の思い出に浸るのも良し、また桜の季節を待ちわびるのも良し、黙々と流れる疎水に「不変」「一貫性」「ぶれない」「チャラチャラしない」などとあれこれと思い、何かと騒々しい現世を冷静に分析するのも良い。

懐かしい山科疎水との久しぶりの再会、娘夫婦と孫4人で訪ねたことに満足、次の目的地、平安神宮を目指した。

続く。

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