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想像の旅---カサブランカ(1)

2018-08-25 | 地球の姿と思い出
「想像の旅---マラケシュからジブラルタルへ」から続く。

前回(7月)は「途切れない糸---続編」に脱線したが、今回から本筋の「想像の旅」に復帰する。

1.想像のカサブランカ
アフリカでは有数の大都会カサブランカは、人口415万人(2013年)の海に面した商業都市である。

地中海性気候の温暖なカサブランカは、紀元前10世紀ごろにベルベル人が定住し始めた。やがて港町として紀元前7世紀ころにはフェニキアと交易、前5世紀にはローマとの交易で栄え、7世紀ごろには独立国家に発展した。しかし、15世紀の中ごろからスペイン・ポルトガルとのトラブが発生、1468年にポルトガル人が街を焼き払った。その後、1515年にポルトガル人が街を再開発、その街をカサブランカ(Casa=家 blanca=白い)と名付けた。

筆者が想像する街のイメージは、青い海とベージュ色の砂漠を背景にする白い街である。それは、カミュの「異邦人」にでてくるアルジェ―に似た街である。そこには灼熱の太陽、透明な青空、熱風の砂浜が広がる。

ここからは本当の空想の旅行が始まる。

観光地のマラケシュから電車に乗って3時間、午後のカサブランカに到着した。3時間の旅はエアコン付きのコンパートメントで快適、時計台がある大きな駅で下車した。駅前でトラム(路面電車)に乗換え、メディナ(旧市街地)に向かった。

白い街並みは明るく、ほどよく乾燥した空気に“カサブランカ”らしさを感じた。岸壁に近いメディナ入口で下車、宿屋らしき建物を訪ねた。

その宿は昔風の古い建物、予約なしでも泊まれるという。さっそく泊まることに決めたが、部屋のドアには鍵もなく、良く言えば極めて開放的な部屋である。しかし、バックパッカーが利用するゲストハウスではなく、宿泊者の中には家族連れも交じっている。ちょうどタイの田舎で泊まったサービス・アパートのような感じで、治安も悪くはないがいいとも云えない。出来心の盗難ぐらいはあるかも知れないが、もともと盗られて困るような持ちものは何も持っていないのでここに決めた。

2.市場の探訪
手荷物を部屋に置き、街の散策に出かけた。すぐ近くに迷路のような市場や商店街が続き、岸壁の操車場も近い。この一帯は、数千年も昔から続く物資の集散地らしい。

まず目に付いたのは操車場の貨車、中には100輌ほどの長い編成もある。かつてウィーンで見た東欧に向かう長大な急行列車を思い出した。その列車は、パリ発やアントワープ発の客車をつなぎ合わせていたが、ここの貨車もそれぞれ出発地が違っていた。ブレーマーハーフェン発の貨車の積み荷は花の香りがするワインだろうか?いや、炎天下のアフリカではワインのはずはなく、あれこれとおもしろい。

実際の荷物は、穀類や工業製品の素材など、各地からの日用雑貨、衣類、保存食、中にはアフリカでポピュラーな日本製のサバ缶もある。広大な操車場では人や貨車が忙しく動き回るわけではないが、ところどころに動きがある。その動きを見ていると、操車場はオアシス、そこに停車する貨車が長い旅を終え荷づくろいをするラクダの商隊に見える。その光景は、かつて筆者が「ほのるる丸」で見たスエズ運河の砂丘とその向こうを進む貨物船の商隊に似ていた。

岸壁の操車場を離れ、向かいのメディナに入ると生活の匂いと活気が伝わってくる。市場には日用品や衣料、道具、食料、雑穀&スパイスの店、生鮮食品の区画には肉、魚、野菜、青果の店がある。さまざまな加工食品の売場や食堂もある。スイカやオレンジを満載したトラック、車体が傾くほど飲料水のボトルを積み込んだ小型トラックがあえぐように走っている。

すぐ近くのコーヒー・ハウスに入りアメリカーナを注文、隣席の30歳がらみの男性と言葉を交わした。当方は暇な日本人であること、テキサスやアリゾナの乾燥した気候を好むこと、カサブランカの乾燥した空気も気に入っていると話した。若者はハムディーといい、偶然にも筆者が泊る宿と同じ棟の雑貨屋の若旦那と分かった。

3.アドバイス
話すうちに、最近は取引商品が増え、店の商品管理に手こずっているとのことだった。これに対して、当方は世界各地でこの種の問題を経験したこと、もしよければ、問題解決のアドバイスもやぶさかでないと伝えた。もちろんアドバイスは無償、滞在の延期で生じる費用などを要求することもない。同じ棟に寝泊まりするよしみで、一度ハムディーの店を見せてもらうことになった。

まずは現場見学と店を訪れた。一階は店舗、地階は家財と商品置場、2階は商品置場と居住区である。目に付くのは雑然とした商品置場、これではFast-moving Item(売れ筋商品)とSlow-moving Item/Dead Stock(滞留品/死蔵品)の管理が難しい。まず、整理整頓で「目で見る管理」が大切とアドバイスした。

1)短期目標の設定
店舗と商品置場の現状から判断して、次の2つの短期目標を設定した。
1.商品陳列場と商品置場の整理整頓
  期待効果:売れ筋商品の特定⇒陳列の工夫⇒商品回転率の改善⇒売上増大
2.滞留/死蔵品の隔離と陳列スペースの拡大
  期待効果:滞留/死蔵品の評価⇒ディスカウント・セール⇒商品置場の有効活用

商品の物理的な「目で見る管理」に加え、店舗内の基本的な作業をコンピューター化する。具体的には「仕入れ(商品の調達)」「在庫管理」「販売」のシステム化で「経営視界の改善(Improvement of Management Visibility)」を実現する。それは、現物の金額・数量や販売利益の予測などをグラフ化(見える化)して、経営判断の資料にすることである。コンピューターに指示を与え、できるだけコンピューターに仕事を任せるのが賢明である。

2)システム化の概要
1.仕入業務
 1)在庫状況と販売実績から商品を発注・・・在庫管理と販売業務の実績を参照
 2)入荷商品をシステムに入力・・・商品バーコード出力、買掛金と在庫数の計算
2.在庫管理
 1)商品別置場別在庫テーブルの加算(入荷)、減算(出荷)⇒在庫数の計算
 2)棚卸しリストの印刷と実地棚卸しの結果入力・・・在庫差異の修正(月末)
3、販売業務
 1)販売数入力・・・販売先別商品バーコード&数量入力⇒在庫数の計算
 2)店頭販売と顧客別販売実績報告・・・販売実績と発注予測(Suggested Order Qty)
   (発注予測には発注先側との打合せが必要)
                    
3)システムの試行
 エクセル(LOOUPやSUMIFなどの応用)やアクセスで基本機能を試作、40~50件の商品でテストする。試行システムで仕様を固めたうえで、有料のパッケージソフトやクラウド・コンピューティングを導入する方針である。

ハムディーの熱意に答え、カサブランカの滞在を延期、エクセルで試行システムの開発をスタートした。紳士協定を前提とする一種のボランティア―活動である。

続く。

途切れない糸---続編

2018-07-25 | 地球の姿と思い出
今回は、完結したはずの筆者の夢に続きがあったことを紹介します。

今から2年前、ハノイ在住の娘一家の息子(筆者の孫)は、不思議な切っ掛けでヒューストン大学のiD Tech Campに参加した。もちろん、筆者と娘は、ヒューストンまで孫に付き添ったが、その詳細については、ヒューストン再訪(3)---iD Tech Camp(2016-8-25)を参照して頂きたい。【iD Tech Camp=全米150校以上の大学で毎年開かれる子供向けの夏期講座】

あの時、孫は10歳になったばかりだったが、1週間のiD Tech Campで親しい友達もでき、ヒューストンがすっかり気に入った。帰りのヒューストン空港で、筆者、娘、孫はそれぞれの思いでまたの参加を祈り、娘と孫はNY、筆者は成田に向かった。

成田に向かう機中で、「途切れない糸」として50年も続いた筆者の夢は、今回の「ヒューストン再訪」で完結したと思った。人生は一つの夢、一つの物語として実在する。もちろん、いかなる物語にも結末があり、筆者は「ヒューストン再訪」という偶然だが最高の結末に満足した。最後に3人で過ごしたホテルも思い出深い。

その完結を示唆するように、ヒューストンからの帰国後3ケ月で脳梗塞を発症した。幸い、リハビリで自立歩行は可能になり、何よりもまず神に感謝した。しかし、年齢を考えて、運転はしない、海外旅行はしない、成田空港にも用事はないと、なにやら「否定形」が多い人生になった。否定形はビジネス文書では避けるべき文型だが、否定形が多い人生は後ろ向きでうつむき加減になる。そこで、ドン・キホーテを真似て時空を超える「想像の旅」で80歳代の人生にもう一つの夢を描こうと、このブログを続けている。

しかし、今思えば2年前にヒューストンで筆者の「途切れない糸」は完結しなかった。

あの時、娘と孫はヒューストンからNYに向かったが、NYの空港での番狂わせから今回の話が始まった・・・その番狂わせが今回の孫の「ボストン行き」を招いた・・・まさに「ないと思うな運とツキ」、この世には人間の理解を超える何かがあるとまたも実感した。

---◇---◇---◇---

話が長くなるので詳細は省くが、「番狂わせ」から始まった一連の出来事を辿ると一つの流れが見えてくる。しかし、ひとつひとつの出来事の発生はランダムだが、ランダムな事象の連続が、ある日突然、忘れていたiD Tech Campに繋がった。

一連の流れを振り返ると「絶妙なタイミング」や「塞翁が馬」もあった。たとえば、ヒューストンからハノイに帰った孫がインター(ナショナル スクール)で左腕を「骨折」した。ハノイの大きな病院がその治療にまさかの失敗、やむなく半年後に東京で「再手術」、それに続く「緊急帰国」などが続いた。これらは、どう見てもiD Techには関係がない出来事だった。

しかし、運命のタイミングは絶妙、この春のたった数日の「緊急帰国」で娘と孫はNYの「番狂わせ」で「出会った人」と東京で「再会」した。この「再会」でボストンのiD Tech Campが思いも寄らず実現した。また、「緊急帰国」で孫の左腕も正常に回復した・・・一連の騒動に筆者もドキドキハラハラ、中には馬鹿げた話もあったが、貴重な偶然が交錯する作り話のような話、これも「途切れない糸」で起こる出来事の特徴である。

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たった数日の「緊急帰国」で話が進み、夏休みに合わせて孫は単身でボストン近郊の素晴らしいホスト・ファミリー宅に3週間も滞在することになった。その間に1週間の泊まり込みiD Tech Campに参加する。

7月上旬に12歳の孫はハノイから成田経由でボストンまで一人旅、筆者が成田で孫の乗り継ぎを支援することにした。ここに筆者の出番がやってきた。

成田での乗り継ぎの9時間、筆者たちはVISAラウンジを拠点に、孫を空港のあちこちに案内した。好物の牛丼、回転ズシ、タコ焼きに孫は大満足だった。

ハノイのインターに転校して早や5年、孫の英語はすでに今風の若者が話すアメリカ語、しかし食べ物の好みは今も昔も変わらない。ハノイの自宅に遊びに来る同級生たちは、国籍を問わず、娘の作る牛丼が大好きという。

夕方、ボストン直行便に搭乗するとき、JALの「スマイル・サポート」*注)に出国手続きの支援をお願いした。【*注):スマイル・サポートは一人旅の子供、障害や怪我・病気の乗客を支援する。一人旅の子供には、出国、搭乗、機内サービス、到着地での出国を支援する。他の航空会社にも同様のサービスがある。】

            「スマイル・サポート」のスタッフに付き添われて出国する孫
            

孫の出国を「スマイル・サポート」カウンターで待つとき、横に飾られた七夕・笹の葉に孫が残した短冊を見付けた。その短冊には「アメリカの?学?に行けますように」とあった。筆者にはその願いが嬉しく、単身でアメリカに乗り込む孫を頼もしく思った。

たどたどしい日本語の「?学?」を「大学」に修正し、2年前にヒューストン大学で孫がこころに抱いた憧れが、この「短冊」になったと理解した。言うまでもなく「大学」はiD Tech Campのもっと先にある「大学」であり、筆者は喜んでその願いをどこまでも支援する。

間もなくスマイル・サポートから無事に出国したという知らせが届き、「安航(Bon Voyage)」を祈りながら成田空港を後にした。

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現在、孫はすでに美しいベントリー大学でiD Tech Campを無事に終えたという。さらに、ホスト・ファミリーに連れられてボストン・レッド・ソックスの観戦、ハーバード大学とマサチューセッツ工科大学(MIT)の見学など、多忙な日々を送っている。付き添ったホスト・ファミリーによれば、孫は理数が得意なので将来エンジニアを目指したいとか。彼が「野生のリスやウサギが遊ぶアメリカの大学」に描く夢が楽しみである。

今回は、孫の「ボストン行き」で筆者は大いに教えられた。その一つは、筆者の「途切れない糸」は50年や60年の短期的な話ではなく、すでに娘や孫とその先の世代につながっていると・・・最も大きな発見は夢と希望の連続性である。この連続性は、自分という限られた個人だけのものではなく、未来への夢と希望をDNAに託して生きる人類共通の特性である。。

こうと知ると、「否定形」が多くてうつむき加減の人生が、急に明るくなった。間もなく孫がボストンから帰国する。帰国すれば、回転ズシと国産ウナギで歓迎しよう。

次回の「想像の旅---カサブランカ」に続く。


想像の旅---マラケシュからジブラルタルへ

2018-06-25 | 地球の姿と思い出
世界の市場(4)から続く。

砂漠の青空市場、マラケシュのフナ広場は観光客には人気がある。筆者も観光客の一人になって想像の市場の中をあちこち覗いて歩く。生活用品、調度品、民芸品、農産物、スパイなどの日用品に観光客目当ての民芸品や骨董・ガラクタもある。炎天下の広場、手絞りオレンジ・ジュースだけは飲む価値がある。

夕刻の屋台から立ち上る香ばしい匂いはイスラム系の匂い、シシカバブ―やスパイスの匂いに包まれている。昔はフランスと関係があったので、夜店にはエスカルゴ料理もある。形が小さくただのカタツムリかも知れない。食用の養殖カタツムリとの違いを味で見分けるのは難しいので手を出さない。

食欲をそそる匂いに誘われて、何の肉か分からないが焼肉などを試食する。実際に食べてみると香ばしい匂いの割には、味は大したことがない。しかし、それが夜店の味であり、子供のころへの郷愁でもある。

昼間の広場でヘビ使いや大道芸をうっかり撮影すると、チップを要求されることもある。その時は、黙って1ドル紙幣を渡せばよい。それでも要求されれば無視する。一般的にチップの相場は、その国の最少額紙幣または1ドル紙幣1枚で十分である。この点で、世界のどこの国でも通用する1ドル紙幣は便利である。今まで、1ドル紙幣のチップを拒否されたことはない。

参考だが、モロッコとヨーロッパ諸国との経済格差は大きい。たとえば隣国のスペインと1人当たりの名目GDPを比べると10倍近くの差がある。
モロッコ= 3,435US$(約40万円)
スペイン=32,559US$(約360万円)
出典:IMF-World Economic Outlook Databases(2018年4月版)

また、モロッコと日本を比較すると、面積(約45万k㎡)は日本(約38万k㎡)より広く、人口は約3、400万人で日本(約1億2600万人)の3分の1以下である。

名目GDPは低いが、モロッコの鉄道網はアフリカ諸国の中ではよく整備されている。その総延長1,900km、うち1,000kmは電化区間である。現在、時速200kmの高速鉄道も建設中、将来は時速320kmの高速鉄道を目標にしている。そのうちに物流と人流がさらに発展するので将来は明るい。

現在のモロッコ国鉄は、ジブラルタル海峡近くのタンジェを始点に首都ラバトとカサブランカを経由してマラケシュまで南下している。さらに、この幹線はラバトで東方向に分岐、アルジェリア国境近くのウジダまで伸びている。ウジダはアトラス山の北側に位置する高原都市(標高550m)、地中海に近く肥沃な農地は果樹栽培に適している。その果樹・農産物は、鉄道と道路でラバト・カサブランカ方面に出荷されている。

ここで、マラケシュからジブラルタルまでの旅を次のように計画した。

下に示す都市間の距離は、グーグル地図から直線距離で割り出した。また、列車とフェリーの所要時間はインターネットの時刻表から求めた。

マラケシュ⇒カサブランカ 2泊 約250km、列車で約3時間
カサブランカ⇒タンジェ 1泊 約350km 列車で約7時間
タンジェ⇒セウタ(スペイン領) 1泊 約60km バスの所要時間不明
セウタ⇒アルヘシラス(スペイン) 3泊 ジブラルタル海峡 約30km フェリーで約1時間
アルヘシラス⇒ジブラルタル(イギリス領) 約10km 路線バスで約30分 アルヘシラスから日帰り

上のデータを目安に、風の吹くまま行き当たりバッタリで気楽な旅を楽しみたい。

もちろんこれは想像の旅、パスポートなし、航空券やホテルの予約なし、当然だが持ちものは必要最小限の身の回り品だけである。

思えば筆者は船乗りになって以来、2年前の夏まで世界のあちこちを旅してきた。その50数年間、同僚や家族と一緒の旅はほとんどなく、いつも一人旅だった。しかし、2年前のヒューストンへの旅は珍しく娘と孫の3人連れだった。偶然が重なる不思議な旅だったが、はからずもそれが最後の海外旅行になった。後で振り返ると海外旅行のフィナーレにふさわしくいい旅、最後に泊まったホテルも良かった。

長年の一人旅で身に付いたのは、身軽な旅だった。身軽であれば、決断と行動が速くなる。2000年から十数年間は東南アジアの1~3週間の旅を毎月繰り返した。その旅は、50L(3辺合計115~120cm)の布製キャリー・ケース1個とショルダー・バッグだけ、国内旅行と変わらなかった。

旅行カバン売場でカバンの容量(L)と旅行日数の表示があるが、あれはナンセンスである。必要最小限の荷物は旅行日数の長短とは関係なく、必要なものである。それ以外は現地調達すれば良いが、実際には現地で調達しなければならないような品物は50数年間に一度もなかった。また、筆者の独断だが、「旅行の便利グッズ」はどれも余計なもの、持たないに越したことはない。

海外旅行では荷物を「目の届くところに置く」これが原則である。飛行機で目の届くところは機内である。したがって、キャリー・ケース1個を機内持ち込む。また、タクシーなどでの移動中も「目の届くところに置く」の原則に立ち、荷物を後部トランクなどに入れない。「走って飛行機の乗り継ぎができた」「タクシーのトラブルで無事だった」などは、「平時(平和な時)でない時(反語の戦時ではないが、治安が不安定なところ)」の出来事、それらはこの原則のお蔭だった。

この原則は、世界各地で経験したピンチで得た教訓であり、結局は「自分の身は自分で守る」に帰結する。

7月は「想像の旅」を中断、臨時の「途切れない糸(続編)」に続く。8月は「想像の旅」に復帰する。

箱根・鎌倉への小旅行

2018-05-25 | 地球の姿と思い出
今回は「想像の旅・・・世界の市場(5)」を7月に延期して、替わりに、箱根・鎌倉への小旅行を紹介する。

1966年には、6月の「ヒューストン再訪」、9月の「小諸城址再訪」、10月の脳梗塞&緊急入院、さらに67年1月のリハビリ病院退院といろいろな出来事が続いた。リハビリ病院を退院してすでに1年半、体調も徐々に回復、今月は友人に誘われて箱根・鎌倉への一泊旅行にでかけた。その友人は「小諸城址再訪」と同じ友人だが、退院から初めての一泊旅行、久しぶりに外界の変化を肌で感じる旅になった。

(1)箱根
5月のある日、JR熱海駅で友人にピックアップしてもらい、県道20号線を北上、芦ノ湖の箱根園に向かった。20年振りの芦ノ湖だが、湖面に映える昔とおりの鳥居に安堵した。

湖岸の道を湖尻方面に進むと、リュックを背負った欧米系の観光客とたびたびすれ違った。20年前の湖岸では見かけなかった光景にメディアが伝える訪日外国人の増加を納得した。

下の写真は、遊覧船の船着き場である。時は平日の午後3時半、乗船を待つ人の行列はスペイン語を話す人たちだった。改札の人に聞くと、外国人が約70人、日本人は筆者たちを含む7~8人だった。外国人客が圧倒的に多いのに驚いた。そこに、将来の日本の姿を思い浮かべた。

            箱根園の船着き場
            

乗船した遊覧船は「十国丸」337トン、定員700名、全長28.8m、安定性が高い双胴船だった。40分の遊覧コースは、箱根関所跡港と元箱根港を経て出発点の箱根園港に帰ってくる。

下の写真は箱根関所跡港で下船する外国人たち、彼らが下船した「十国丸」は空っぽになった。

            箱根関所跡港で下船する観光客
            

約40分の遊覧を終えて帰ってきた箱根園は人影がまばら、箱根の伝統工芸品・寄木細工の専門店に立ち寄り、湯本のホテルに一泊した。

(2)鎌倉
翌朝、江ノ電に乗るために湖西バイパスで藤沢に向かった。

江ノ電藤沢駅は始発駅、平日は2輌または4輌編成の電車が12分間隔で出発する。12分間隔は単線運転の制約らしい。

下の写真は、江ノ電の「すれ違い駅」に待機する10形車両である。レトロな10形車両は1997年製だが、この電車に限らず江ノ電の車両はどれもレトロに見える。

            江ノ電のレトロな車両(1997年製)
            

狭い車内には外国人乗客が多く、地元の高齢者が生活の足として利用するには問題がありそうに感じた。

下の写真は長谷の大仏である。相変わらず外国からの観光客が多い。境内を行き交う人の半数、あるいはそれ以上は外国人のように見えた。

            高徳院の国宝大仏(台座込み総高=13.4m121t)
            

今回はリハビリ退院から初めての小旅行、いろいろな発見があった。その一つは、体力が弱ったことだった。

退院から1年半は、自宅から半径300m圏内のショッピング・センターや駅を行動範囲として、リハビリがてらの散歩で徐々に体力を積み上げた。さらに、就寝前には忘れず約15分の体操を続けた。しかし、今回の小旅行では階段や坂道に弱く、体力はまだまだ不十分だと思い知った。

航海用語にSea Worthiness(シー ウォージィーネス:耐航性=現実の海で航海に耐える能力)という言葉がある。シー ウォージィーネスが不十分は、「畳の上の水練」のように「実用に耐えない」ということを意味する。筆者のリハビリも人生100歳時代ではシーウォージィーネスが不十分と悟った。

ここは一番、焦ることなく地道に努力を重ねて次の機会に備えたい。次回(6月)は「想像の旅---世界の市場(5)」、次々回(7月)は「途切れない糸---孫のiD Tech継続」に続く。

想像の旅---世界の市場(4)

2018-04-25 | 地球の姿と思い出
市場(3)から続く。

5)市場の進化・・・外観の変化
このブログが参考にする「世界の美しい市場」は65の市場を紹介している。それぞれは古くからの魅力的な市場である。ページごとに現れるカラフルな写真につい見入ってしまう。

ここにいくつかの市場を紹介する。建物の外観はテント張りの夜店から近代的なドームまで、さらに路面電車でアクセスできる市場もある。

下の写真はバンコクのタラートロットファイ・ラチャダーの夜店である。この夜店の発祥地がタイ国鉄の倉庫だったので、タラート(市場)、ロットファイ(鉄道)と呼ばれる。タイ国政府観光庁のデータには店舗数は約1,000とある。

            タラートロットファイ・ラチャダー(バンコク) 
            
            出典:「世界の美しい市場」エクスナレッジ、2017年5月、pp.116-117

ちなみに、2000年から12年まで筆者はバンコクと日本を行き来したが、この市場を訪れる機会はなかった。しかし、バンコクには同じような夜店があちこちに現れる。

たとえば、バンコクの繁華街、シーロム通りでは暑さがおさまる夕刻から舗道の両サイドに夜店が立ち並ぶ。さらに、シーロム通りと交差する幅20mほどのパッポン通りやタニヤ通りは道全体が夜店になる。勤めを終えた市民や観光客で夜店と軒先を夜店に貸す商店は共に活気を帯びる。一陣の風とともに通り過ぎるスコールに備えて夜店はさまざまな色のテント張りである。店の数は分からないが、シーロムの中心地におびただしい数の夜店が夜9時頃まで出現する。

余談になるが、BTS(バンコク高架鉄道)北端のウィークエンド・マーケットは世界的に有名な観光スポットである。幅約100m、長さ約300mの敷地に小さな店舗が、27区画(Section)にわたって並んでいる。インターネットでは、その数を“15,000以上”とする記事が多いが、筆者が配置図で求めた店舗数は約8,500だった。他に、配置図に載らない屋台などを含めると店舗数は1万店を超えるのかも知れない。1店舗3人とみれば、3万人ほどの人が働いていると推定できる。営業時間は土日9:00~18:00であるが、金曜日も営業する店があるので注意されたい。

次は中東の代表的な市場である。

中東の市場にはバザールという語がふさわしい。デジタル大辞泉はバザール(bāzār=ペルシャ語)を次のように定義する。
1 南アジアや中近東、バルカン半島などに見られる都市の市場。ふつう屋根をもつ歩廊式の建物内に商店や工房が並ぶ。
2 デパート・大商店などの特売会。また、特設売り場。

下の写真は、イスタンブールのバザールである。1461年に完成、今日まで増改築を重ねてきたので建物が複雑な迷路になったという。007の映画に出て来そうなイメージである。

            グランドバザール(イスタンブール)
            
            出典:「世界の美しい市場」エクスナレッジ、2017年5月、pp.84-85

「世界の美しい市場」によれば、現在の店舗数は4,000、年間来場者は9,000万人で世界最大の市場という。このバザールの店舗は店構えもしっかりしている。写真左上はアラジンの魔法のランプに似たトルコ・ランプ、左下は大小のカラフルな陶器である。見るからにイスラムの市場、店の物陰に古代文明の遺品が眠っていそうな感じがする。

次はロンドンである。同じく「世界の美しい市場」によれば、14世紀からのロンドン最古のマーケットである。生鮮食料品店やレストランを中心とするアーケード街であり、「ハリー・ポッターと賢者の石」のロケ地にもなった。ビクトリア様式の豪華なアーケードは1881年にサー・ホレイス・ジョーンズがデザインしたという。

            レドンホール・マーケット(ロンドン)
            
            出典:「世界の美しい市場」エクスナレッジ、2017年5月、pp.22-23

次は2014年にオープンしたロッテルダムの市場である。トンネル型の天井に描かれた壁画は芸術作品を思わせる。1.1万㎡のドームに生鮮食料品、チーズ類を始め、レストランが軒を並べるという。

            マルクトハム(ロッテルダム)
            
            出典:「世界の美しい市場」エクスナレッジ、2017年5月、pp.40-41

下の写真は、バルセロナの蚤の市である。この市場も14世紀から始まったが2013年にリニューアル、オープンした。建物の設計者は地元建築家フェルミン・パスケスである。ヨーロッパの蚤の市らしく、品物は日用品、雑貨、アンティーク、何でもありのガラクタまで多様である。写真は3階の見晴らしがいいフード・コートである。写真右に超高層ビル、トーレ・アグバール(高さ144m)が見える。

            エンカンツの蚤の市(バルセロナ)
            
            出典:「世界の美しい市場」エクスナレッジ、2017年5月、pp.11-12

ヨーロッパでは市場のリニューアルが進む一方、アメリカやオーストラリアには、市場と路面電車の風景もある。

下の写真は、サンフランシスコのフィッシャーマンズワーフである。写真の路面電車は普通の市電だが、近くにケーブル・カーの駅もある。筆者の経験では、ケーブル・カーの駅は観光客で長蛇の行列になることが多い。

            フィッシャーマンズワーフ(サンフランシスコ)
            
            出典:「世界の美しい市場」エクスナレッジ、2017年5月、p.68

下の写真は、ファーマーズマーケットの時計台と路面電車である。路面電車のレールは100mちょっと、無料で乗車できるが子供だましである。野菜、肉、魚、果物が中心で、フード・コートの屋台にはあらゆる種類の食べ物が並んでいるという。

            ファーマーズマーケット(ロサンゼルス)
            
            出典:「世界の美しい市場」エクスナレッジ、2017年5月、pp.66-67

下の写真は、ちょっとレトロな路面電車(トラム=市電)が走るメルボルンのマーケットである。南半球で最大規模の市場といわれビーフ、鮮魚、野菜を始めとする食品が豊富とのことである。

            クイーンヴィクトリアマーケット(メルボルン)
            
            出典:「世界の美しい市場」エクスナレッジ、2017年5月、p.110

筆者の最後の航海は、ブリスベーン、シドニー、メルボルン、アデレードだった。ブリスベーンを除く寄港地では、1966年当時も市電が走っていた。メルボルンの市電はコストの問題で一時は経営が危なくなったとインターネットにある。しかし、今では市中心部にFree Tram Zone(無料区間)を設け、市民の足として活躍している。アデレードのトラムにも無料区間があるが、シドニーのトラムには無料区間はない。将来のコンパクト・シティーの参考になる。

なお、筆者のホームタウン、京都市は市電を1978年秋に全廃したが、あの判断はあまりにも近視眼的だった。反面、アメリカの連邦交通省は1970年からLRTの研究を始め、たとえば車社会最右翼のヒューストンでさえも2000年頃から路面電車の工事が始まり、2016年にはヒューストン大学にまで線路が伸びてきた。現在も路線ネットワークを拡張中である。【参考:ヒューストン再訪(4)---LRT(路面電車)】

世界を見渡すと、テント張りの原始的な市場が時の流れに乗って立派な建物に進化し、さらに建物自体に芸術・文化の要素が加わる。この変化は、初期のホミニン(ヒト族)の知的能力が石器造りという「実用的な行動」から小像や洞窟壁画の制作という「非実用的な行動」に進化したのに類似している。人類は、実用的な行動⇒非実用的な行動⇒芸術創作⇒想像力や記憶⇒数学や物理学の発達と云うパス(経路)を辿ってきたと「最古のの文字なのか?」(G.von ペッツインガー著)は指摘している。

ソクラテスが指摘したように、自給自足ができない人類は市場とははじめから切っても切れない仲にある。その市場の変遷を見ていると、人類の将来が幻のように浮び上ってくる。その幻の中で、テクノロジー、とりわけSTEM(Science, Technology, Engineering, Mathematics)の重要性に思い当たる。

この辺りで市場を切り上げて、ジブラルタルのThe Rock頂上のカフェテリアに移り、コーヒーを飲みながら少子高齢化社会と日本の姿を考えたい。

続く。

想像の旅---世界の市場(3)

2018-03-25 | 地球の姿と思い出
想像の旅---世界の市場(2)から続く。

(3)青空市場のゆうげのしたく(夕餉の支度)
夕刻ともなれば、ジャマ・エル・フナ広場には食べ物の屋台が次々と開店すると云う。「夕焼け小焼け」で日が暮れる頃の「ゆうげのしたく(夕餉の支度)」である。「食」が夜の青空市場の主役になるのはフナ広場に限らず、シンガポールのオーチャード通りのカー・パークも同じ、タイの街々を始め世界各地に共通の光景である。昼の市場では物見遊山の観光客も、夜の市場では主賓になって食べ物の屋台を取り囲む。

「人の集まるところに食あり」は有史以来今に続く人間社会の特徴である。夕餉の灯りが赤提灯の街に続くのは日本独特の風景である。

紀元前400年頃には、ソクラテスは「人は自給自足ができない」と指摘し、弟子たちとmarket(市場)の役割を論じた*注)。Marketの役割では、wage-earner(賃金生活者)やcoinage(貨幣制度)も話題になった。その頃、日本は弥生時代で稲作農業の初期、それなりの市場が存在したと思うが、その仕組みは分からない。あの頃はテクノロジーが未発達、地球は広すぎて人びとは文明間の格差を知る由もなかった。しかし、テクノロジーの進歩、とりわけ通信技術の発展による情報の共有は、人間活動のグローバル化を加速した。
【*注):想像の旅---アレクサンドリアの図書館(2)2017-08-25、Specialization Within the Cityの冒頭の文章と終わり部分にあるmarketの説明を参照】

さらにソクラテスより遙か昔、石器時代でもすでに遠隔地をカバーする交易ネットワークが存在したと「人類の足跡10万年全史」(オッペンハイマー著、仲村明子訳、草思社 2007)と「最古の文字なのか?」(ベッツィンガー著、櫻井裕子訳、文芸春秋 2016)は述べている**注)。
【**注):脳梗塞とリハビリ(5)(2017-05-25)を参照】

たとえば、「人類の足跡10万年全史」は石器の形状と製作技術の交流を人類のDNA系譜と共に説明している。また、「最古の文字なのか?」は有形・無形のものの交易に触れている。有形物の例は石器作りに適した石材の交易、無形/意匠(デザイン)の例は壁画や装飾品に描かれた幾何学記号や印の共通性、つまり知的交流を指摘している。

原始の時代でも、人が集まる交流・交易の場には「食」もあったと想像する。その「食」はどのようなものだったのか?また、誰が用意して誰が食べたのか?その時代でも物見遊山の人、平たくいうと野次馬のような人がいて、食事のおこぼれをもらっていたのだろうか?また、「食」の分配は弱肉強食/早いもの勝ち/奪い合い/本能的な闘争の場だったのだろうか?あるいは冷静な順番待ち、つまり「待ち行列」***注)のような約束事(規範)があったのだろうか??等々・・・ところで、野次馬の生業は何か?と次つぎと新しい疑問が湧いてくる。
【***注):待ち行列の理論(Waiting Line Process)には、FIFO(First-in, First-out先入れ先出し)例:散髪店、LIFO(Last-in, First-out後入れ先出し)例:レイオフ、FFFO(First-fit, First-out日本語不明)例:飛行機の着陸、モンテカルロ法(モナコのカジノに由来する手法)例:乱数によるシミュレーションなどがある。FIFOなどを待ち行列の規範(norm)と云う。】

話は筆者のシンガポールの記憶に戻るが、カー・パーク・レストランの光景は、裸電球を吊るした数多くの屋台、椅子に座って煮物鍋を囲む人びとだった。もっとも、カー・パークの屋台街は60~70年代の話、当時は使用済み食器や食べ残しの処理をめぐる衛生問題を抱えていた。しかし、今では近代的なホーカー・センターに生まれ変わっていると云う。

当時、筆者たち一行は誘蛾灯に誘われるように屋台街の明かりに足を向けた。とある店で日本のラーメンのような食べ物を見て、早速注文した。しかし、出された食べ物の味は予想と大違い、表現のしようがない味と香りにほうほうのていで退散した。・・・あの時の独特の味はパクチーと後のバンコク生活で知った。パクチーはドリアンと同様で強烈な癖のある味だが、病み付きになる日本人も多い。しかし、パクチーと納豆は今も筆者の鬼門であるが、ドリアンは好物になった。

「汁物」の味に懲りたが、その後の経験で、せいぜい100℃前後の温度で料理する「汁物」そのものにも疑問をもった。それに比べて、もっと高温で料理する「焼物」の方が安全と考えた。しかし「焼物」にも危険があることをドイツの青空市場で知った。食の安全ばかりでなく、身の安全にも注意が必要⇒「自分の身は自分で守る」ことが少しずつ身に付き始めた。

それはミュンヘンの青空市場でのことだった。大勢の人が集まる広場で、焚き木の周りに鯖の串刺しを地面に立てて、丸焼きにする店を見た。懐かしい匂いに誘われて、焼き鯖の一串を買おうとした。しかし、その青空市場をよく知る同行の友人に止められた。ロマ族(ジプシー)の青空市場だったが、下痢や寄生虫の危険性があるとのことだった。焼き鯖は断念したが、替わりに買ったグラスは、今、筆者の本棚に収まっている。そのグラスは昔の技法で生じた気泡入りガラスで出来ている。側面に昔の帆船や船具が描かれているので気に入った。このコップを見るたびに、スリや引ったぐりを防ぐために、筆者の背後に密着して行動を共にしてくれた友人を思い出す。

(4)市場に求めるもの
市場といってもその形態はピンからキリまでである。「地面に布を敷き商品を並べる」に始まり「何でも揃う古くからの商店街」がある。専門性が高い「秋葉原電気街」「かっぱ橋道具街」は東京の専門店街、ハノイの旧市街地では「金物」や「袋物(バグ)」の専門店が並ぶ通りもある。現代では、これらの商品はインターネットに乗って世界に広がっていく。

石器時代以来、人間はものづくりに知恵を絞ってきた。道具、衣服、食べ物、装飾品、芸術・文芸作品など切りがない。専門店街に集まる人びとはそれぞれの価値観を持つ人たちである。そこでは、品質、価格、治安において安心できる。「胡散臭(ウサンクサ)さ」や「イカサマ」に付け入る隙を与えない。

大工道具一つ買うにも「当たり外れ」がある青空市場や夜店ではなく、確かな品物が手に入る「専門店街」を選ぶ。品定めの基準は、"Distinction between economy and cheapness."****注)である。つまり、「経済的」と「安価」の違いを識別する判断力が問われる。60年代の日本製品のように、安かろう悪かろうではない。逆に、髙ければ良かろうでもない。世界に愛される工具は実用に耐える品物、デザイン、材質、加工精度、仕上げの点で洗練されている。ちなみに、ドイツで買った工具は一生ものと満足している。
【****注):"There is a distinction which must be discerned between cheapness and economy." Engineers' Council for Professional Development, Chapter 2, United Engineering Center, NY, Copyright 1949を参照】

続く。

想像の旅---世界の市場(2)

2018-02-25 | 地球の姿と思い出
想像の旅---世界の市場(1)から続く。

(2)ジャマ・エル・フナ広場
モロッコの主な都市は、首都のラバト(人口約60万人)、カサブランカ(約400万人)、フェズ(約100万人)、マラケシュ(約90万人)である。マラケシュは、西暦1000年頃のムラービト朝の時代から発展した交易都市、旧市街のフナ広場の青空市場は有名である。

ムラービト朝は、モロッコ南部の遊牧民ベルベル人(ムーア人)の勢力だった。彼らはガーナ王国とモロッコを征服、1070年にマラケシュを建設し、一時はイベリア半島も征服した。しかし、都市生活による厭戦感と戦闘意識の弱体化で、1147年には新たなベルベル人勢力のムワッヒドにマラケシュを占拠され、ムラービト朝は滅亡した。

ベルベル人すなわちムーア人の存在はカミュの「異邦人」で知ったが、筆者のモロッコに関する知識はなきに等しく、この国はサハラ砂漠の西端に位置すると理解する程度である。また、日本の年配者に有名な外人部隊のフランス映画「カサブランカ」も筆者はその名を知るだけ、肝心のストーリーは知らない。カサブランカ=家・白い=白い家 とだけ理解している。

ここで、事前にモロッコの外務省安全情報と医療をチェックしておく。また、在モロッコ日本国大使館のHPにはより具体的な情報が載っているので参考にする。

現在の外務省の情報によれば、モロッコの「危険度=レベル1:十分注意してください。」である。ちなみに、危険度の最高レベルは4=「退避してください。渡航は止めてください。(退避勧告)」である。

【危険度】
●全土:「レベル1:十分注意してください。」(2018/2/25現在)
【ポイント】
●全土にテロ等の脅威があります。外国人観光客が多数集まる場所,西欧諸国権益,政府関連施設,宗教関連施設への立ち寄りは最小限にとどめるよう心掛けてください。
●北東部の都市アル・ホセイマではデモが断続的に発生し,治安部隊との衝突が起きています。デモ,集会や大規模な群衆には近づかないでください。
●都市部や観光地において,外国人観光客を標的としたスリや刃物を用いた恐喝などの金銭目的の犯罪が増加傾向にあり注意が必要です。
以上、外務省安全情報を転記した。

医療情報では、感染性胃腸炎(旅行者下痢症)、A型肝炎、寄生中症、マラリア、狂犬病などへの注意を呼びかけている。各種予防接種は必要、海外旅行保険は必須である。特に、途上国では歩行者優先でないこと、テロの危険性が高いことを前提にすべきである。

刃物を用いた恐喝やしつこい金銭の要求には、あらかじめ用意した別の財布を差し出す方法もある。とにかく、冷静に判断し、無駄に抵抗しない。昼間の人通りが多いところでも、死角の物陰は危険である。観光化が著しい場所、たとえば昼間のフナ広場などでは、写真撮影へのチップの要求には注意すべきと観光案内にある。

モロッコに限らないが砂漠地方の青空市場では、手絞りのオレンジ・ジュースと「ヘビ使い」が定番である。フナ広場の観光案内によれば、この広場のオレンジ・ジュースもおいしいらしい。しかし、炎天下の青空市場ではしぼりたてオレンジ・ジュースは、どこの国の屋台でも最高に思う。筆者はカイロの屋台で飲んだオレンジ・ジュースが最高だったと今でも思っている。オレンジ・ジュースがおいしいのは乾燥した気候のせいだと思う。

なお、現地で2週間ほど生活すれば、腸内菌が現地化して食あたりしないと云う俗説もある。しかし、高温で処理する串焼きなどの「焼物」は一般に安全だが、100℃程度で処理するスープなどの「汁物」には不安が残る。また、サラダなどの「生もの」には病原菌プラス寄生虫も加わるのでさらに注意したい。

下の写真は、「世界の美しい市場」から引用したフナ広場の黄昏である。夕刻から食べ物の屋台が開店するとのことである。

            ジャマ・エル・フナ広場
            
            出典:「世界の美しい市場」エクスナレッジ、2017年5月、pp.98-99

この写真を見たとき、シンガポールのオーチャード通りの屋台レストランを思い出した。それは、シンガポールの1960年代から70年代のオーチャード・ロード・カーパーク(駐車場)のホーカー・レストランである。ホーカー(hawker)は行商人、言い換えれば食べ物の屋台である。

1960~70年代のシンガポールでは、オーチャードの駐車場は夜になると食べ物の屋台街に変身するのは有名だった。オーチャードのカー・パーク・レストラン(駐車場屋台街)は観光客に有名だったが、他にも多くの屋台食堂街(ホーカー・レストラン)が存在した。現在は、ホーカー・レストランは100ヵ所以上のホーカー・センターに集約され、食べ残しの処理や衛生管理も改善されたと云う。

シンガポールやフナ広場に限らず、夜になるとバンコクの大路・小路(ソイ)にも食べ物の屋台が花開く。筆者がよく知るプラチンブリ304号線の夜店は、昼間は駐車場で1台分のスペースが1区画だった。

続く。

想像の旅---世界の市場(1)

2018-01-25 | 地球の姿と思い出
コーラル・アイランドから続く。

1)モロッコとジブラルタルへの想像の旅
かつて、夢に描いた旅の一つにモロッコへの旅がある。脳梗塞で諦めたが、モロッコのマラケシュ→カサブランカ→スペイン領セウタ→英領ジブラルタルのルートである。もちろん、モロッコの治安にはやや問題があり、自然環境も大きく分けると条件が悪い砂漠地帯である。

マラケシュのフナ広場は砂漠の市場、ぜひ訪ねたい。マラケシュから鉄道でカサブランカへ、さらに北上してセウタを経てジブラルタルにフェリーで渡りたい。日程にとらわれない気ままな旅はいいが、心臓と脳に問題を抱える80歳にとっては「年寄りの冷や水」、「自分の身は自分で守る」ために今回の旅は「想像の旅」に切り替えた。

世界各地の市場は、その地を知るために欠かすことはできないが、特に砂漠地方の市場には格別の思いがある。その背後には、初めて「ほのるる丸」でスエズ運河を通過した時の記憶がある。

スエズ運河の水路は一方通行、紅海から地中海に向かう船はスエズ港で一旦仮泊、そこで船団を編成して運河に進入する。貨物船やタンカーなど、大型船の行列がスエズの砂漠を静に進んでいく。行列のスピードは8ノットだった。キロメートルに換算すると、8海里/hr=8x1852m/hr=14.8km/hr、時速15km程度で自転車より少し速めのスピードである。

運河が湾曲する部分では船団の先頭は砂丘の向こう側、その様子は大きな貨物船の行列が砂丘の上を静かに進行しているように見えた。その光景に文部省唱歌の「月の沙漠」とラクダの商隊を連想した。また、筆者の先入観であるが、砂漠と聞けばアラビアンナイト*注)の物語が浮び上ってくる。

【*注):
 アラビアンナイト(千夜一夜物語)はササン朝ペルシャの説話集、中世ペルシャ語で書かれていたが、9世紀初めにアラビア語に訳された。その後16世紀にかけて多くの写本と物語が現われ、架空の人物だけでなく実在の人物も登場する。アラビア語写本にもシリア系、トルコ系、エジプト系があり、さらにフランス語や英語の写本があり、物語の内容と数も複雑である。
 アラジンと魔法のランプ、船乗りシンドバッドの冒険、アリババと40人の盗賊、空飛ぶ絨毯などはアラビア語の写本には存在しないが、1700年代初頭に付け加えられた・・・筆者にとっては、中近東地方には謎めいた部分がありパステル色の世界に見える。そのパステル色の部分は、筆者の勝手な想像と重なるいい加減なものでもあるが、ロマンチックでもある。】

灼熱の砂漠を超えて集う世界の珍しい品物、そこには色とりどりの香料や豆や木の実の店が付きものである。屋台には穴をあけたヤシの実、手絞りのオレンジ・ジュース、シシカバブ―(串焼)の香ばしい匂い。その先には歌やセクシーなベリー・ダンス、曲芸や見世物もある。行き交う人びとの服装やことばもさまざま、中にはスリなど善からぬ人やニセモノも交じっているが、それもおもしろい。もしかしたら、骨董品店には古代文明の盗掘品が埋もれているかも知れない。砂漠のオアシスに展開する市場は、時空を超えた多様な文明と文化が混在する多言語社会である。

旅の終着点はイギリスの海軍基地ジブラルタルである。ジブラルタルの岩(The Rock=髙さ426m)には、潜水艦の思い出がある。

筆者が当直中、荒天にかすむThe Rockを右舷真横(abeam)に見るあたりで、鉛色の海面に灰色の潜水艦が接近するのに気付いた。西に向かう本船に対して相手の進路は右側から交叉(cross)していた。この関係では本船が回避義務船、直ちに「ハード・スターボード!!」(hard starboard:右舵一杯)の号令で、かろうじて相手船をかわした。英国籍の潜水艦だった。

船橋(Bridge)の中では次のようなやりとりがあった。
“Hard starboard!!”・・・筆者=当直航海士(Officer)の命令(右舵一杯)
“Hard starboard, sir”・・・操舵手(Quartermaster)の復唱
カチカチカチ、、、(ジャイロコンパスのリピータが変針する音)、同時に船首が右に大きく回頭し始める。
相手船を左舷に回避した。
“Mid-ship”・・・当直航海士の命令(舵中央)
“Mid-ship, sir”・・・操舵手の復唱
・・・本船を所定の針路に戻すように操船する。

この時の記憶は今も鮮明に残っている。また、この海峡で海面から空高く立ち登る黒い竜巻を時どき目撃した。トルネード(tornado:竜巻)という英語の語感は、まさに竜が空に向かってのたうつ光景にピタリである。

思い出のジブラルタルには上陸した経験はないが、坂道を曲がると眼下に小さな港が見えるといった町を想像する。そこであの巨岩に登るケーブルカーに乗ってみたい。頂上のカフェテリアから、来る日も来る日も一日中眼下の海峡を眺めて、人類の歴史と人間の本質を考えたい。人類が遭遇するであろう少子高齢化社会の姿とは?と。

古くからヨーロッパとアフリカは、幅約14kmのこの海峡を通じて交流と対峙を繰り返している。スペインには、700年代初頭から1492年までアフリカのイスラム勢力に支配された時代もあった。今もアフリカの不法移民はゴムボートに命を託してヨーロッパを目指しているが、その流れを誰も制御できない。

ちなみに、ジブラルタル東方200km、グラナダ市のアルハンブラ宮殿はイスラム文明の粋を尽くした宮殿である。宮殿に水を引く水道や池、噴水は貴重な「水」をふんだんに使用する。それは、水に憧れる砂漠文明の特徴ともいわれている。1492年のグラナダ陥落で宮殿はキリスト教徒の手に渡ったが、撤退にあたり宮殿を破壊するのは忍びない・・・その結果、スペイン国内でありながらイスラム文明のアルハンブラ宮殿は世界屈指の遺産になっている。

なお、スペインの作曲家、F.タレガの「アルハンブラの思い出」も世界的に知られた幻想的な名曲である・・・雲の彼方に現れた光り輝く馬車が天使たちに囲まれながらゆっくりと地上に降りてくる。やがて馬車の扉が開き、この曲を聴くあなたを乗せて馬車は天使たちとともにゆっくりと光り輝く雲の彼方に帰っていく。死別した大切な人たちとの再会を示唆する情景である・・・この曲を聴くとき、このようなイメージが筆者の頭に浮かんでくる。

列車、路線バス、乗り合いバスやタクシーを乗り継いで、気に入ったホテルに滞在する。ヨーロッパによくある家族的なホテル、気に入れば何日も続けて滞在する。食事には特別な注文はないが、羊肉と羊乳のヨーグルトは苦手なので万国共通の鶏肉系があれば問題はない。ロースト・チキンやKFCのクリスピー(サクサク)ならば、毎日でも歓迎する。

2)ジャマ・エル・フナ広場
次回は、tabinote、田口和裕、渡部隆宏共著「世界の美しい市場」エクスナレッジ、2017年5月を参考に、話を進める。

続く。

想像の旅---コーラル・アイランド:Coral Island(サンゴ島)

2017-12-25 | 地球の姿と思い出
「恐竜との出会い」から続く。

1)憧れの海
バンコクから数時間、高速道路を南下すると右手に明るい海が広がる。海岸通りのすぐ横は白い砂浜である。その手前にヤシの木が並び、木々の合間に青い海が広がる。その海は、足元に寄せる波は透明、その先にエメラルド・グリーンの海が広がり、紺碧の水平線に続いている。

船乗りはいつも紺碧の水平線を目指す。その水平線の向こうには未知の世界、行ってみたい世界がある。この未知への憧れは、サントドミンゴ港の砂浜(ドミニカ)、ワイキキの砂浜、ポートスーダンの漁港(スーダン)、幾重にも重なるサンゴ礁をかわしながら近づくジッダ港(サウジアラビア)、小ぢんまりとしたサンゴ島(タイ)などのエメラルド・グリーンのサンゴ礁と紺碧の水平線に結びつく。

ある時、バンコク近くのラン島(Ko Lan)への日帰りツアーがあると知り、早速、現地ツアーに参加した。

マイクロバスが市内のホテルでツアー希望者をピックアップ、郊外のバス・ターミナルで大型バスに乗り換えて島に向かう。参加者は東南アジア、インド、欧米の旅行者が中心である。バスの座席決めで、周囲の人とことばを交わし海岸に着くころにはすっかり打ち解けている。

参加者には、世界旅行中の英国の青年、交換学生でノルウエーから来た女学生、ロシア美人、東南アジアを旅する日本の女性バックパッカーなど、いろいろな人がいる。

2)コーラル・アイランド(Coral Island)
ラン島(Ko Lan)はサンゴ島、パタヤ沖約10kmのサンゴ礁に浮かぶ幅約2km長さ4kmほどの小島である。

ビーチサンダルと半ズボンが似合いの恰好、島へのアクセスはパタヤの砂浜から裸足(ハダシ)で手漕ぎボートに乗り、近くの高速ボートに乗り移る。そこから約20分でラン島に着く。島の周りにはプレジャー・ボートやバナナ・ボートが行き交い、空にはパラセーリングを楽しむ人もいる。浅瀬に船をつけ、波のタイミングを見計らって砂浜に上陸する。少々濡れるが気にしない。

裸足で上陸した小さな入り江には桟橋が1本、エメラルド・グリーンの海に伸びている。入り江の水深は浅く、海底のサンゴを覗くために船底にガラスを張った遊覧船がひしめいている。

コンクリート製の桟橋はみやげ物店とレストランにつながっている。派手なアトラクションもなく、レストランの前の白い砂浜には水着姿の人びとが行き交っている。

ビキニ・スタイルの少女を始め、水着姿のままで長い椅子とテーブルに並んでとる昼食も楽しい。もっとも、今どきのビキニは60年代から進化して「紐(ヒモ)」のように細いものもあるが、ヨーロッパ系の若い女性は恥ずかしがることもない。

ツアー参加者たちの肌の色も話すことばもさまざま、しかし、いつとはなく英語の会話になっていく。ネイティブできれいな英語、訛の強い英語、片言の英語、英語みたいな英語など、中には分かりづらい英語もあるが、ここではだれも英語の上手、下手は気にしない。場数を踏めばその内に通じるようになる。

片言でもお互いに通じるので食事が楽しくなる。ドレッシングの好みは、イタリアンかフレンチかサザン・アイランドかとだれかが聞く。サザン・アイランドは南の島(southern island)でなく千の島(thousand island)であるとか、あれこれと賑やかである。

食後、筆者は若者たちと離れてレンタルのデッキチェアーで海を眺めることにした。

3)少年の頃の記憶
小高い木陰から緑色の海面を這う白い波頭を眺めていると時を忘れる・・・その内、ふと遙か昔を思い出す。どこからともなく、パット・ブーンの「サンゴ礁の彼方に」が聞こえてくる。今も昔も馴染みの歌である。

少年の頃、手造りの帆船を追いながら夢見たのは南海のサンゴ礁だった。帆船の次は電気機関車、その次はレコード・プレイヤーだった。何もない時代だったが、夢があった。

電気機関車は32mmゲージ、モーターの回転をウォーム・ギアで車軸に伝えた。電車の速度を制御するコントローラー、駅、鉄橋も手造り、はんだごてが主な道具だった。ED型電気機関車は真鍮板をハンダで組立てた。トム(無蓋貨車:ムガイカシャ)とワム(有蓋貨車:ユウガイカシャ)は木造、コントローラーはベニヤ板や木切れで作った。図面なしで頭に描く世界は、気まぐれだがレールの先に駅や鉄橋を次つぎと追加した。お年玉を握って、京都東山三条のユニバーサル(今も実在の模型店)に通った。

手造りオモチャの話は長くなるのでここで打ち切るが、サンゴ礁と水平線の彼方への憧れは今もこのブログに続いている。

サンゴ礁に話を戻すが、パナマ運河を超えて入港したサントドミンゴ港のサンゴ礁はまさにエメラルド・グリーンに輝いていた。そこには、亡命に失敗した独裁者トルヒーヨ(1961年射殺)のスクーナー型の白い帆船が座礁していた。エメラルド色の海に座礁した真っ白な大型帆船、その優美な姿と人間の浅ましさが強烈な印象となって今も心に残っている。トルヒーヨが水平線の彼方に描いた世界は知るよしもないが、その夢は叶わず射殺された。

紺碧の水平線を眺めていると、サンゴ礁にかかわる思い出が次々と浮かんでくる。

サントドミンゴ港:
優美な白い帆船とトルヒーヨの結末、岸壁の近くに住む少年とその家族、少年と岸壁でのカニ取り

ワイキキ:
ワイキキの突堤、アラモアナの食堂街、日本でリタイア―した老人が作るかつ丼、パールハーバー

ポートスーダンの漁港:
サンゴ礁の浅瀬で漁をするモーゼのような風貌の老人、荷役作業者たちの泥で固めた頭髪

ジッダ港:
砂漠の平坦な港への進入⇒レーダーでの位置決め困難⇒パイロット(水先案内人)の巧妙な操船、
サンゴ礁で釣れる鯛に似た魚の刺身、メッカへの巡礼とDeck Passenger(甲板旅客)

水平線の向こう側には、聞きなれないことばと街並み、珍しい食べ物と風俗・習慣、その土地特有のルールと働き方がある。街ではバスやタクシーの乗り方とお金の支払い方にも違いがある。乗り合いバス(≠路線バス)や乗り合いタクシーは途上国に多く、乗り合わせる人びととの接触がおもしろい。現地ツアーは一種の乗り合いバスである。

少年のころから今日まで水平線の向こうに夢を描き、いろいろな世界を見てきた。その一つひとつの場面は懐かしく、懐かしさの度合いに比例して、その先に新しい夢と希望が現われる。夢を追う人生も一つの生き方である。

デッキチェアーから眺める白い波は途絶えることなく続くが、間もなく桟橋に迎えのフェリーがやって来る。

次回は「世界の市場」に続く。

想像の旅---恐竜との出会い

2017-11-25 | 地球の姿と思い出
太陽の賛歌から続く。

この地球には、先祖代々、今日まで大昔の姿で存在する生き物がいる。たとえば、約5億年前からの古代魚シーラカンス、約3億年前からのゴキブリ、恐竜が絶滅した6500万年前頃からのカモノハシなど、生きた化石といわれる動物たちである。シーラカンスとカモノハシは見たことはないが、コキブリは世界各地で見られる。しかし、その姿はただの虫、数億年も続く「種」とは思えない。

彼らの共通点は、テクノロジー(科学技術)に依存しない生活である。石器、火、電気などのテクノロジーには依存せず、ただ営々と環境の変化に順応しながら生きている。テクノロジーまみれの人類とは対照的である。

自然界の原理・原則を人類が意図的に活用して、発展させたのがテクノロジーである。人間の意図を前提にするが故に、テクノロジーに自身の存亡を左右されることにもなる。それどころか、たとえばゴキブリにとっては、テクノロジーの産物たる殺虫剤は迷惑千万、そのひと吹きで命が吹っ飛んでしまう。このように物騒なテクノロジーだが、人類の自滅だけは回避しなければならないと誰もが思うものの、これがなかなか難しい。「平和」「平和」と叫ぶことと「平和」は別物で、「平和」を求めるつもりで「自滅」への道を歩むこともある。「冷静によく考えろ」と言いたくなる。

今回の話は、筆者が目撃した生き物のイメージと想像と空想が入り混じった話である。目撃したのは十数年前だが空想は遠い昔に遡る。それは、一つの時間軸に二つの異質の“時間”が流れているような話。時間の一つは“平均太陽時=24時間/日”、もう一つは“時間感覚がない遠い記憶”、この二つが混在するような変な話である。

1)オレンジ色の屋根のプラザ
バンコクの西方、数時間のところに数千人の人が働くかなり大きな工場があった。工場の向かいには、幹線道路を隔てて小さなプラザとアパートや住宅が並んでいた。プラザには、広場を中心にコの字型の建物があり、一階は食堂、食料品や雑貨、コンビニなどの店舗、二階は居住区になっていた。植民地時代の名残か、建物の屋根はオレンジ色、東南アジアでよく見る地中海風の街だった(ただし、タイは植民地経験なし)。

昼時になると、工場作業者は構内の大きな食堂を利用するが、事務職員たちの中にはプラザの食堂に出かける人もいた。筆者も工場前の道路を渡ってプラザの食堂に通った。

通ううちに気に入ったメニューが決まり、毎回オーダーするうちに、店に着くとすぐに料理が出るようになった。なぜかと尋ねると、筆者の注文が決まりきっているから予め用意しているとのことだった。店は、おじさんおばさんと娘さんの家族経営だった。テーブルにはラーメン用のコショウ、唐辛子、砂糖のガラス瓶が並んでいるが、ときどき砂糖に小さな蟻が這っていた。

砂糖ビンの中のアリ、ホテルの部屋のヤモリ、電灯に集まるガの大群などはタイの田舎らしい光景である。壁に張り付くヤモリは蚊を退治するので追い出さない。この辺りでは、未開と触れ合う場も多いが、その内「未開」に慣れ、すべてが当たり前になる。

2)小さな池
幹線道路と食堂街の間に直径4、50メートルほどの池があった。ところどころに木立がある何の変哲もない小さな池、プラザの脇に取り残されたよう池だった。「忘れられた池」と云った方がいいかも知れない。

昼食を終えて、しばしば池の木陰に腰を下ろして水中の小魚などを眺めた。水は、わずかに茶色がかっているが透明、水草の中を泳ぐ小さなエビも良く見えた。なぜか、子供のころに小川でメダカやザリガニを追ったことや瀬田川の清流に揺れる水草と小魚などを思い出した。

ある日、いつものように水辺に腰を下ろして透明な水中を眺めていた・・・とその時、突然、蛇でもない奇妙な生き物が首をもたげた。2、3メートル先の水面から1メートルたらずの高さまで首を伸ばし、静かに水中に消えていった。わずかな時間だったが、あれは幻覚でなく現実に見たもの、事務所に帰ってメモ帳に怪物の首を書き留めた。

蛇のように見えたが蛇ではない。モスグリーンっぽい直径20センチほどの太さの首、蛇や亀のような鼻孔は見なかった。あの生き物は、小型のネッシーとそっくりだった。もしや亀の首かも知れないと思ったが、亀の首にしては太く長すぎる。そんな巨大な亀は想像することはできなかった。

ここまでは、すべて現実の話であるが、怪物の姿を書き留めた日記帳は今では見当たらない。しかし、あの姿は今も筆者の頭に刻まれている。

3)想像の世界
筆者の想像によれば、あの小さな池は遠い昔には動物たちの水場(ミズバ)だった。今では小さな池に過ぎないが、池の底は古くからの水脈につながっており、ここ数億年は汚染をまぬがれた水が湧きだしているらしい。あのネッシーに似た小さな怪物は、汚染をまぬがれた水と共に数億年の昔からこの池に暮らす恐竜の子孫、世に云う生きた化石かも知れない。

しかし、ここで恐竜だ、ネッシーだ、生きた化石だと詮索するのはよしておく。筆者だけが見たあの怪物は、筆者の頭に生きる未確認生物、それで十分・・・小さな親愛なる恐竜としていつまでも存在して欲しい。テクノロジーと雑学まみれの人類とは別の生命として。

話は変わるが、あのプラザにコンビニを併設するガソリンスタンドがあり、筆者が乗る車は週毎にそのスタンドで給油した。犬好きの筆者、給油のたびにコンビニで菓子パンを買って店にたむろする犬たちに与えた。

タイのコンビニなどにたむろする犬たちは、野犬でもなく首輪をした飼い犬でもない。しかし、飢えていないのは不思議である。昼間はおとなしいが、夜は群れをなし凶暴になるので危険である。夜間は護身用の棒切れを持つ人もいる。もちろん、狂犬病の予防接種は必要である。

あの工場の仕事を終えた後の話だが、筆者が乗っていた車が給油所に着くと犬たちがどこからともなく現れるとドライバーの話を伝え聞いた。特定の犬を可愛がったわけではないが、飼い犬でない名無しの犬たちとの交流は、犬好きの筆者には嬉しかった。

小さな恐竜、給油所の犬たち、正門を出入りする筆者にいつも敬礼してくれたオモチャの兵隊さんのような女性守衛、これらのすべてが一つのお伽話に昇華した。

次回は、コーラル・アイランド(サンゴの島)に続く。

想像の旅---太陽への憧れ

2017-10-25 | 地球の姿と思い出
想像の旅---アレクサンドリアの図書館(3)から続く。

今度の「想像の旅」は、過去の思い出を追う旅である。したがって、話の内容は架空ではない。

1)太陽への憧れ
飛行機が滑走を始めて3、40秒、車輪がガタンと音をたてて滑走路から浮き上がる。テイクオフ(take-off)である。機体が浮き上がり滑走路が斜めになって後方に流れていく。機体はわずかに振動しながら白い雲をくぐり抜け、やがて水平飛行に移る。

ドリンクタイムが始まる頃には、窓の外に青空が広がる。下界の曇天や雨を振り切った上空は透明な青空である。いつものとおりの太陽と青空に安心するのは、太陽への本能的な憧れのせいである。

話は昨年の秋に戻るが、リハビリ病院の朝食は7時頃から始まる。筆者の席は西の窓際、南面の窓から昇る朝日をまともに浴びる位置だった。顔面に朝日を受ける時、その明るさが視界いっぱいに広がり、何も見えない。まるで光の流れを遡る鮎の気分、その時、決まってオランダの友人を思い出した。

彼とは気の合った仕事仲間、ヨーロッパ人の働き方や移民問題、ときにはアムステルダムの移民街も見て回った。多くの人がおそれたトラブルが現実に起こり、ヨーロッパにはテロの病根が根付き始めた。目先のことしか考えない政治家には手に余る問題である。

山がなく平坦なオランダ、彼はよくオランダ人はサン・ベッガー(sun beggar)だといっていた。sunは太陽、beggar(ベッガー)は乞う人、直訳すればsun beggar=太陽を乞う人になる。Sun-beggarの意味は英語でもよく分かるが、英語辞典には載っていないので、たぶんオランダ語の直訳ではないかと思う。

彼によれば、オランダ人は陽光を求める人たちで、直射日光に肌を晒すのをいとわない。日本人女性のように、シミ・ソバカスを気にしない。日常生活では窓のカーテンは飾り物、貴重な太陽光が射せばカーテンを全開、その陽光を出来るだけ多く取り入れる。カーテンは飾りものであって日除けではない。地中海での長期バカンスを目標に働く人も多いという。

音楽の都ウィーンといえば聞こえはいいが、実際に住んでみると夏は短く秋はすぐに肌寒くなる。観光案内によくある光り輝くヨーロッパの写真は別物、9月になれば目覚まし時計がなくても、朝の寒さで自然に目が覚める。大航海時代にヨーロッパ人がアジア・アフリカに進出した気持ちがよく分かる。ジャガイモばかりのヨーロッパでは手に入らない南国の豊かな農産物は、太陽の恵みであり憧れでもある。

2)スキー場の日光浴と混浴
長期バカンスや世界クルーズは別として、ヨーロッパの山国には冬の重苦しい曇天と黒い森から逃げ出す簡単な方法がある。それは、スキー場への小旅行である。

ウィーンからアウトバーンを数時間も走れば、曇天を尻目に晴れ渡ったスキー場に到着する。そこは、スキーと日光浴の場でもある。ゲレンデに面したテラスにデッキチェアーを並べて、日光浴を楽しむ年配の夫婦、スキー場は若者だけのものではない。そこは、地中海のビーチに似た空中のリゾートである。

さんさんと輝く太陽、しかしそこは極寒の世界でもある。ゲレンデの斜面を上下するTBar(ティーバー)に、うっかり素手で触れると指先が金属部分に凍り付くこともある。

金曜日の夕方、仕事を終えて大型バスでスキー場に向かう。国際機関の有志一同は、初心者から上級者のグループである。初心者は全くの素人でスキー学校行き、雪が降らない国の人も交じっている。一方、アクロバットなようなスキーを楽しむ達人もいる。スキー場に向かうバスでは、フェーン予報のラジオ放送もある。白いカフェインの錠剤はフェーン対策、編頭痛や体調不良の予防に使用する。

スキー場のホテルには大きな温水プールとサウナがある。夕食前に水泳かサウナのどちらを選ぶかとグループの世話役が聞きにくる。

サウナは混浴、入口の向こうは広い浴場である。大手を振って行き交う一糸まとわぬ男女に、一瞬ヌーディスト・クラブかと思った。驚いて入口で躊躇していると、中の女性が天井を指さしたので、入口の上を見たら、"Mixed(混浴)"と書いてあった。

とりあえず、前にバスタオルを当てて中に入ったはいいが、今度は全員の集中砲火を浴びて、バスタオルを外せなくなった。ヨーロッパで有名な浮世絵でもあるまいに、下手に隠すと出しづらくなる。

その後、何も知らない日本人と分かり、フロア・マネージャーに「ヤーパン(日本人)」「ヤーパン」と呼ばれ、サウナや冷水浴の入り方を手取り足取り教えられた。至近距離でも女性が男性を敬遠しないのに文化の差を感じた。

「一糸まとわぬ」と「大手を振って」は文字通り、これ以上の説明は不要である。完全な裸世界では、コソコソ、キョロキョロしないのが作法であり、自然に振舞うことの大切さを知る。裸に慣れると、衣服が鎧兜のように感じられ、対人関係も一皮むける。

サウナや水泳でサッパリ、夕食後はワインなどを飲みながら遅くまで談笑が続く。細身でなよやかなレディーだがアルコールを飲み始めると底なし、いろいろあっておもしろい。重苦しいヨーロッパの冬といえど、高山に登れば太陽がいっぱい、生まれたままの姿で付き合う世界がある。

次回は「恐竜との出会い」に続く。

想像の旅---アレクサンドリアの図書館(3)

2017-09-25 | 地球の姿と思い出
想像の旅---アレクサンドリアの図書館(2)から続く。

3)文明の微かな香り
ソクラテスと弟子たちの問答に出てくるさまざまな職業を通して、紀元前400年頃の古代ギリシアの暮らしぶりをかいま見た。当時の職業が作り出す品ものは、衣食住の必需品から寝椅子や香料や金・象牙などの装飾品まで、これらは贅沢品あるいは嗜好品だった。さらに、理髪師、調理師、教師や医者、また、歌手や芝居の役者、絵画や美容の仕事、店番は賃金生活者(wage-earner)だった。

ソクラテスたちの会話から当時、すでにに“職業”という社会的分業が確立していたことが分かる。そこから生まれるさまざまな商品を流通させるマーケットの存在、陸運・海運による交易もあり、商売の決済には貨幣制度(coinage)を利用した。

興味深いのは、サービス業の wet nurse(乳母)とdry nurse(子守)である。筆者の知る限りだが、dry nurseと聞けば現代のnanny(ナニー)を思い浮かべる。ナニーは、アメリカの高校生などが頼まれるベビーシッターではなく、NY辺りのリッチ(rich)なキャリアー・ウーマンが雇う子供の世話係である。単なる子守でなく、子供の躾(シツケ)までしてくれる信頼できる住み込み家庭教師のような人である。

現代の辞書では、dry nurseとnannyは類語または同義語である。もちろん、古代ギリシアでdry nurseを雇うのは上流階級だったと思うが、筆者はトルコの裕福な家庭でもナニーを見た。

ある時、トルコ人の国連職員が家族と共に数人の使用人(召使いやナニー)も連れて、ウィーンに赴任してきた。先進国の庶民感覚とは違い、召使いの数が多く、金持ちにはかなわないと話題になった。また、タイでも日系企業の部課長クラスには召使を抱えているケースがいくつかあった。工場では作業服を着た課長でも、家に帰れば豪邸で数人の召使いを使っている人もいた。ユーラシア大陸の文明文化には、島国の日本とは一味違う文化や習慣の流れを感じることがある。海外進出の日本企業が現地人と接するとき、その国の文化や従業員の社会的地位(social status)を念頭に対応しなければならない。単に社内の上下関係だけではない。

その文明の流れの源流は遠く古代のアテネの街角につながるが、その支流をユーラシア大陸の国々の建築様式に見ることもある。バンコクやハノイの市場や由緒ある建物やビルの1階をGround Floorという習慣である。もし1階をFirst Floorといえば、新興のアメリカ流である。近年では、エスカレーターのステップに立ち止まる時、右側か左側かの違いに欧米流と日本流を感じる。日本の西と東では左右逆であり、その境界はどこか?と疑問が湧く。

プラトンの「国家」1巻~4巻の主題は、個人から国家レベルの「正義と不正」であるが、今回の想像の旅では、第2巻の数ページで古代ギリシアの生活に触れたに過ぎない。その問答は、ほんの一部分で、しかも英語だったが、ソクラテスと弟子たちの口からでた生のことばだった。その言葉(単語と構文)は、残念ながら古代ギリシア語ではないが、多くの研究者と共通の英語での理解、日本語の単語と構文より、一歩彼らに近いと理解する。

前回の引用文にはないが、食生活においても、食後のデザートやケーキ類、アルコール類を楽しみ、生活基盤である農地や領土を広げるため、あるいは他国からの侵略に備えた職業的な軍隊もあった。「自分の身は自分で守る」は人類、否、動物の基本である。

4)アレクサンドリアの古代図書館で感じたこと
たった数時間の「想像の旅」だったが、今回はプラトンのおかげで、旅の目標を達成した。ここで、思いつくままに古代図書館で感じたことをまとめると、次のようになる。

1)ソクラテスの指摘は、性に合ったものを作るのが最善、「好きこそ物の上手なれ 」に符合する。
2)この考え方は、1700年代になってアダム・スミスの「分業」に発展、製造業の自動化を促進した。
3)その後、1950年代には、自動化にコンピューターが加わり、もの造りが人間の手を離れ始めた。
4)もの造りの近代化は人類に、電気や車やインターネットなどの「文明の利器」を提供した。
5)とりわけ、医学の進歩は人類に長寿をもたらした。それは「光と影」を伴う両刃の刃(ヤイバ)である。
6)他方、ソクラテスが論じた人類が背負う「光と影」、「正義と不正」には今も進歩はない。
  国家と個人を問わず、「知らぬ存ぜぬ」を押し通せば「不正」がまかり通り、やがて合法になる。
7)文明の利器と教育で人の理性(mind)は進歩したが、本能と感情(heart)には古代から進歩がない。
8)人類の「光と影」のうち、「影」は絶望的な暗闇ではない。コンピューターが一条の「光」になる。
9)今回の旅では、ピラミッドの技術資料は見付からなかった。しかし、それは大きな問題ではない。
  理由:今さらピラミッドを建設する必要もない。技術情報は、あれば良い程度の話、気にしない。

古代アレクサンドリアへの「想像の旅」はここで終了、次回の「太陽の賛歌」に続く。ヨーロッパの混浴
(Mixed)の話である。

想像の旅---アレクサンドリアの図書館(2)

2017-08-25 | 地球の姿と思い出
想像の旅---アレクサンドリアの図書館(1)から続く。

3.ソクラテスの教え
一つ覚えの古代ギリシア語"Πλάτων"を頼りに、アレクサンドリア図書館のプラトンの著書を保管する書棚にたどり着いた。この"Πλάτων"の意味はプラトーン、英語ではPlato(プレイトゥ)、日本語はプラトンである。

その書棚には、プラトンが紀元前380年~370年頃に著した"Republic"(邦訳:「国家」プラトン著、藤沢令夫訳、岩波文庫、1979)がパピルスの巻物で収められている。その中身は、書き物を残さなかったソクラテスの「考えと教え」を弟子のプラトンがダイアログ(問答)形式で文書化したものである。もちろん、原文は古代ギリシア語、藤沢令夫訳の「国家」は1979年第1刷〜2012年第53刷発行のロングセラーである。

日本語の「問答」という言葉には硬くゴツゴツした感じがあるが、ソクラテスと弟子たちの「問答」は、ラフな服装の人たちのフリー・ディスカッションといった感じである。

参考だが、ここに紹介する英語の問答に出てくる"City"は日本語訳では「国家」になっているが、当時の国家は都市国家(City-state)だった。古代ギリシアでは、ギリシアという統一国家が存在したのではなく、アテネやスパルタなどといった都市国家の集まりだった。これに対して、ローマは最初から統一国家、後にローマはギリシアの都市国家を次つぎと吸収していった。

1)ソクラテスと弟子たちの問答
プラトンの書棚の前に立つと、不思議なことにそこはアテネの街になっていた。紀元前400年頃の立派な都市国家である。

石畳の小さな広場に5、6人のグループが何やら問答に花を咲かせている。60歳がらみのソクラテスと思しき男性と弟子たちの一行である。ソクラテスのすぐ近くに腰を下ろす体格のいい二十歳代の青年はプラトンらしい。

彼らの話の内容は、幸い、英語である。その英語は、日本の中学・高校の英語力で十分に理解できるレベル、訛のない素直な英語である。この英語には、難しい文学的な表現がないので問題はない。

話の内容は、生活必需品の自給自足とそれらを作る仕事の話である。普段の生活を振り返りながらソクラテスと弟子たちの問答は進んでいく。問答に聞き入るにつれて、つい忘れてしまうが、時は紀元前400年頃、電気も電話も車もない“古代”と云われる時代である。しかし、話の内容に違和感はない。

後ほど示す参考資料(英文)"Specialization Within the City (都市内での専門化)"は、彼らが交わす問答の中身である。

話の概要は、人はいろいろなものを必要とするが、独りでは作れない。食べものを作る人、家や着るものを作る人も必要、さらに靴を作る人も必要になる。必要最小限の生活をする場合は、街に住む人は4~5人とみられるが、必要なものが増えるにつれて、都市の構成員は次第に多くなる。

問答に出てくる次の①~④はキー・ポイントになるので、予めここにマークしておく。
①we are not born all exactly alike but different in nature,
 スクラテス:人は生まれつき異なった性質をもっている。(後に示す英文①参照)
②“Then would you one man do his work better working at many crafts, or one man at one craft?”
 “One man at one craft.”
 注)craft=手作業で何かを作ること。
 ソクラテス:人は多くの仕事をこなす場合と、一つの仕事をこなす場合どちらがうまくいくと思うか?
 弟子:一つの仕事をこなすとき。(英文②参照)
③I don’t imagine the work will await the workman’s leisure;
 ソクラテス:仕事は作業者が暇になるまで待ってくれない。(仕事は必要なときに必要)(英文③参照)
④more things of each kind are produced, and better, and easier, when one man works at one thing,
 which suits his nature, and at the proper time, and leaves the others alone.”
 注)leaves the others alone=他のことに手を出さない。
 ソクラテス:人は、自分の性に合った一つの仕事に適切に打ち込むとき、より多くのより良い製品をより
 簡単に作ることができる。(④参照)

2)古代ギリシアー紀元前400年頃の職業
彼らの問答では、さまざまな職業が話題になる。職業は社会的な分業であり、その社会の暮らし向きを映す鏡である。

後に示す参考資料(英文)に出てくる職業を、話の順にピックアップすると次のようになる。

farmer(農夫), builder(建築者), weaver(編む人), shoemaker(靴屋), craftsman(職人), carpenter(大工), smith(鍛冶屋), oxherd(牛飼い), shepherd(羊飼い), herdsman(家畜飼い), assistant(助手), trader(商人), shopkeeper(小売店主), retail dealer(小売商人), merchant(商人), wage-earner(賃金生活者)

また、職業に関係する経済用語のcoinage(貨幣制度)やtoken(商品引換票)も出てくる。

さらに「都市内での専門化」の後の13章にはluxurious city(贅沢な都市)の話があり、そこには次のような職業が出てくる。

huntsman(猟師), imitators with figures and colors and with music(ものの形や色や音楽を模倣する人たち), poet(詩人), rhapsodist(吟遊詩人), actor(俳優), chorus-dancer(舞台ダンサー), contractor(興行請負人), theatrical manager(劇場マネージャー), manufacturers of articles(道具の製造者たち), women's adornment(婦人装飾品職人), servitor(お供), tutor(教師), wet nurse(乳母), dry nurse(子守), beauty-shop lady(美容師), barber(理髪師), cook(料理人), chef(調理師), swineherd(豚飼い), doctor(医者)

また、職業ではないが、次のようなものの名前が出てくる。

couch(寝椅子), relish(ご馳走), myrrh(没薬/樹脂), incense(香の煙), girl(宴席にアテンドする若い女性), cake(菓子), painting(絵画), embroidery(刺しゅう), gold, ivory, similar adornments(金、象牙などといった類(タグイ)の装飾品)なども話題になる。

参考資料(英文):
1.出典:
下に掲げる"Specialization Within the City(都市内の専門化)"は、"CLASSICS IN INDUSTRIAL
ENGINEERING," edited by John A. Ritchy, pp. 5-9. Copyright 1964 by Prairie Publishing Company.からコピーした。

2.参考資料の補足説明:
1)プラトン著「国家」(全10巻)の1巻から4巻は、個人から国家レベルの「正義と不正」に対するソクラテスの考えと教えである。「不正をする方が得」という考え方や「不正の極致は、不正をするにもかかわらず正しい人間を装うこと」などが話題になる。今も昔も変わらない問題である。
2)下に示す「都市内の専門化」は、「国家」第2巻11章&12章の英語版のコピーである。
  英文には1ヶ所、脱字(単語)らしきところがあるが、文意に影響がないのでそのままコピーした。
3)参考資料の④「性に合った仕事に打ち込み多くの良品を作る」という概念は、アダム・スミス(Adam Smith)の分業(division of labour)に発展する。
 アダム・スミスの「国富論」1776年で紹介されたピン工場の分業は、生産性と品質の向上、工程の機械化と製造コストの低減に大きく貢献、産業の近代化を促進した。
 さらに、人類は1950年代のコンピューターとともに自動化・ロボット化の時代を歩き始めた。
4)高校生にもどった気持ちで、古代ギリシア人の考えを理解したい。英文をそのまま自分なりに理解すればOK、無理に日本語に変換(和訳)する必要はない。古代ギリシア語と言語距離がより近いと思われる英語で、当時の人びとのことば(単語)とセンスに接したい。
5)文中、"I"=ソクラテス、"Adeimantos"=弟子の名前、プラトンは発言しない。

Specialization Within the City
  “…A city, I take it, comes into being because each of us is not self-sufficient but needs many
things. Can you think of any other beginning could found a city?”
  “No,” said he.
  “So we each take in different persons for different needs, and needing many things we gather
many persons into one dwelling place as partners and helpers, and to this common settlement we give
the name of city. Is that correct?”
  “Certainly.”
  “Then one man gives a share of something to another or takes a share, if he gives or takes,
because he thinks he will be the better for it?”
  “Yes.”
  “Now then,” said I, “let us imagine that we make our city from the beginning. Our need will make
it, as it seems.”
  “Of course.”
  “Well, first indeed and greatest of our needs is the provision of food that we may live and be.”
  “Assuredly.”
  “Second, the need of housing, third of clothes and so forth.”
  “That is true.”
  “The next thing to ask is,” said I, “how the city shall suffice for all this provision. Will not one be
a farmer, one a builder, one a weaver? Shall we add a shoemaker to the list and someone else to look
after the body’s needs?”
  “Certainly.”
  “Then the smallest possible city will consist of four or five men?”
  “So it seems.”
  “Very good. Must each of these contribute his work to all in common--I mean must the farmer,
who is only one, provide food for four and spend four times as much time and trouble in providing
food, and share it with the others; or shall he neglect them, and provide only food himself, the
fourth part of the food, in a fourth part of the time, and spend the other three part of the time one
on the house, one on the clothes, one on the shoes? Is he to avoid the bother of sharing, and only
to look after himself and his own affairs?”
Adeimantos said, “Perhaps the first way is easier, Socrates.”
  “That is quite likely, by heaven,” said I, “for it comes into my mind when you say it, that ①we are
not born all exactly alike but different in nature
, for all sorts of different jobs, don’t you think so?”
  “Yes, I do.”
  ②“Then would you one man do his work better working at many crafts, or one man at one craft?”
  “One man at one craft.”

  “And again, I think, it is clear that a man just wastes his labor if he misses the time when it is
wanted.”
  “Yes, that is clear.”
  “For ③I don’t imagine the work will await the workman’s leisure; the workman must follow his
work and not just take it by the way.”
  “He must, indeed!”
  “Consequently, ④more things of each kind are produced, and better, and easier, when one man
works at one thing, which suits his nature, and at the proper time, and leaves the others alone.”

  “Most certainly.”
  “Then we need more citizens, Adeimantos, more than four to provide all we said. For the farmer,
as it seems, will not make his own plow, if it is to be a good plow, nor his mattock, nor the other
tools for working the land. Nor will the builder, and he, too, wants many others. So also the waver
and the shoemaker.”
  “True.”
  “Carpenters, then, and smiths, and many other such craftsmen, become partners in our little city
and make it big.”
  “Certainly.”
  “Yet it would still not be so very large, even if we were to add oxherds and shepherds and the
other herdsmen, that the farmers might have oxen for the plow, and the builders draught-animals to
use along with the famers for carriage, and that the weavers and shoemakers might have fleeces
and skins.”
  “And not so very small either, if it had all these!”
  “Furthermore,” I said, “to settle the city in such a place that imports will not be needed is almost
impossible.”
  “Yes, impossible.”
  “Then it will need others to import what it wants from another city.”
  “It will.”
  “But again, if our assistant goes empty, without taking with him any of the things needed by those
from whom people get what they need, he will return empty, won’t he?”
  “I think so.”
  “Then they must make at home not merely enough for themselves, but enough for those people
of whom they have need, and such things as those same people need.”
  “So they must.”
  “More farmers, then, and more other craftsmen will be necessary for our city.”
  “Yes, indeed.”
  “And more of the other assistants, I suppose, to export and import the various things. These are
traders, aren’t they?”
  “Yes, they are.”
  “So we shall want traders too.”
  “Certainly.”
  “And if the trade goes by sea, many other will be wanted besides who understand commerce
overseas.”
  “Many others, indeed.”
  “Now, in the city itself, how will they exchange the things which each class makes? For that is
the reason why we founded the city as a partnership.”
  “By selling and buying,” he said, “that is clear, surely.”
  “We shall have a market, then, as a result of this, and coinage as a token of the exchange.”
  “By all means.”
  “Suppose the farmer, then, brings in some of his products to market, or suppose any of the other craftsmen do, and suppose he comes at a time when those who want to exchange his goods for their own are not there, he will sit in the market and waste time from his work?”
  “Not at all,” said he; “there will be some who, seeing this, appoint themselves for this particular
purpose. In cities properly managed these are generally the men weakest in body and useless for
other work. They must remain on the spot, about the market, and exchange money for the goods with
those who want to sell or give them goods for money if any people want to buy anything.”
  “Then,” said I, “this need creates a class of shopkeepers in our city. We call them shopkeepers
or retail dealers, don’t we, when they are settled in the market to serve us in selling and buying, but
those who travel from city to city we call traders or merchants?”
  “Certainly.”
  “And there are others, I believe, who serve us, who have enough strength for the labors of bodily work, but nothing particular in their minds which makes them worthy to be partners. These sell the
use of their strength for a price which they call wages, and therefore, no doubt,
they are called wage-earners; what do you say?”
  “I agree.”
  “Wage-earners also then help to fill up our city.”
  “Yes.”
  “Now then, Adeimantos, has our city grown to perfection?”
  “Perhaps.” ・・・
以上

想像の旅---アレクサンドリアの図書館(3)に旅続く。

想像の旅---アレクサンドリアの図書館(1)

2017-07-25 | 地球の姿と思い出
「想像の旅---船乗りのホームポート」から続く。

ある晴れた日に、まぼろしの船「ほのるる丸」は筆者を乗せて、アレクサンドリアの古代図書館に向かった。インド洋と紅海を一跨ぎ、地中海の東側に到着した。そこは紀元前300年頃のナイル川デルタの西端、アレクサンドリアの沖だった。この頃の日本は、縄文時代の終わりから弥生時代の初期、銅や鉄器の製造が伝わり、稲作が始まる時代だった。

1.紀元前300年頃のアレクサンドリア
アレクサンドリアは、マケドニアのアレクサンダー大王(BC356-323)がこの地を征服、自分の名を残すためにBC332年に建設した都市、ギリシア人を送り込む植民都市だった。

アレクサンダー大王については歴史書に詳しい記述があるのでここでは省略するが、インド遠征からバビロンに帰還した大王は、BC323年に32歳の若さで急逝した。死因はマラリアなど、諸説紛々としている。

大王亡き後は、ギリシア系王朝プレトマイオス朝(BC306-30)の創始者プレトマイオス1世(在位BC305-285)がアレクサンドリアを統治した。しかし、この王朝の女王、美貌で有名なクレオパトラ7世(BC69-30)がアクティウムの海戦(BC31/9)で突然に最前線から離脱、アレクサンドリアに敗走した。その後自殺にいたるが、これを機に王朝も滅亡した。クレオパトラが毒蛇にわが身を咬ませる場面は多くの絵画に描かれている。

アレクサンドリアは、ギリシア文化とオリエント文化が融合したヘレニズム文化の都、BC300年ころに図書館が、続いてBC290年ころにはムセイオン(博物館)も建てられた。この頃のアレクサンドリアの推定人口は15~30万人、カルタゴ、ローマ、アテネと肩を並べる都市だった。時代は違うが、平安時代の京都もこの規模だった。【参考:オリエント=ローマの東方のシリア、古代エジプト、古代メソポタミア、ペルシアなど】

一方、紀元前5世紀から3世紀にかけてのギリシアには、人文科学・社会科学・自然科学の分野に偉大な業績を残した人びとが現われた。ピタゴラス(BC582-496)、ソクラテス(BC469?-399)、プラトン(BC427-347)、アリストテレス(BC384-322)、ユークリッド(BC330?-275?)、アルキメデス(BC287?-212)など、名前をあげれば切りがない。

参考だが、ソクラテスの弟子=プラトン、プラトンの弟子=アリストテレス、アリストテレスの教え子=アレクサンダー大王である。アリストテレスとアルキメデスはアレクサンドリアに滞在(勉学)、ユークリッドはアレクサンドリアで数学を教えていたことが分かっている。

彼らは哲人であると同時に論理学、算術、幾何、天文学などの先駆者だった。彼らが源泉となって、中世ヨーロッパの「教養科目」すなわち「自由7科=リベラル・アーツ(Liberal Arts)」が学問体系として成立した。リベラル・アーツは文法学、修辞学、論理学、算術、幾何、天文、音楽の7科である。中世大学の教養科目「リベラル・アーツ」は教育改革を重ねながらグローバル化の流れのもとで今も進化している。
【参考:筆者は、60年代の米国で、各国の留学生の履修科目と成績を米国基準で評価するデータベースの存在を知った。この流れの一端と理解した。】

2.古代図書館
ここからは想像になるが、街の様子は、石畳の道や広場をラクダや馬車が行き交い、素足の人は見当たらない。街並みはほとんどが平屋だが、人が集まる市場のような一角もある。海岸に面した大きな大理石の柱でできた建物は図書館らしい。

図書館の敷地はハッキリしないが、縦横100m×200mほどに見える。蔵書は70万件、大多数はパピルスである。パピルス1枚はA4版(約21x30cm)より少し大きい繊維質の筆記用紙である。それを20枚ほどつなげた長さ約4m、直径20cmほどの巻物である。(図書館の規模を試算したが詳細は省略)

コンピューターのない時代、蔵書の出し入れと収納効率を考慮すれば、著者別収納と分野別収納の組み合わせが適切である。たとえば、著書が多いプラトンの場合はすべての著書をプラトン専用の書棚に収納する。また、著書が少ない人の場合は、内容の分野別や言語別に収納、粘土板などは媒体別に管理する。さらに、絵画、工芸品、道具、武器などはムセイオン行き、あるいは薬草や医薬品は薬草園行きなどと行先を決めて収納する。

ここで図書館内の言語に話は変わるが、紀元前8世紀に遡る古代ギリシア語には方言が非常に多い。紀元前4世紀ころはアッティカ方言(アテネ方言)が古代ギリシア語の標準語になっていた。したがって、蔵書の分類もアッティカ方言を標準語とする多言語データベースである。ちなみに、ホメロス、プラトン、アリストテレスの著書もこの言語で書かれている。

所蔵品の言語は古代ギリシア語、古ラテン語、古代のエジプト語、アラビア語などの他にヒエログリフや楔形文字、絵文字、文様、絵画なども交じっている。多言語というよりは、多文明、非常に狭い地域で栄えた文明・方言や宗教も含んでいる。言い伝え、昔話、迷信や呪文・魔術系の所蔵品もある。さらに、ピラミッドやスフインクスの資料や異文明の度量衡換算表もある。

多種多様な書籍を効率的に扱うには、ある程度の省力化が必要になる。アリストテレスの「滑車」は機械工学の原理であり、図書館、ムセイオン、薬草園の設備にも使われている。また、蔵書を始め多くの所蔵品を湿気、害虫、砂塵、火災、盗難から守るために、床への直置きを避け、定期的な棚卸しと点検は欠かせない。

所蔵品の管理に多くの労力を費やすのは一種の社会事業でもある。ピラミッドの建設で始まったその流れは為政者の重要課題である。21世紀になっても失業者数を抑えるためにさまざまな形で受け継がれている。たとえば、途上国の“誰でも営業できる屋台”や先進国のゴミのない〝清潔な公共スペース”などは一種のセーフティー・ネットだと筆者は考えている。反面、保護・支援の名のもと、労働を伴わない“金品のバラ撒き”は為政者の人気取りには効果的だが、長い目では賢明とは言えない。

かなり大きな図書館とムセイオンの経済効果は大きい。図書館とその周辺に住む関係者や利用者の食料、住居、衣料、生活用品、仕事に必要は物資へのニーズが生まれる。さらに娯楽や教育などのニーズが加わり人・物・金・情報の動きが盛んになり、都市間や海外交易で街に活気が生まれる。

そのようなアレクサンドリアに立つ筆者は、周りの若くて元気な人びとにはいつかどこかで出会ったような気がする・・・それは開放的な途上国だった。

納豆とパクチー以外は何でも食べる筆者、食べ物には不満はない。身の回り品もあり合わせで十分、壊れたものは直せば使えるので周りの人びとに喜ばれる。しかし、言葉の不自由だけは困る。せっかくの世界旅行、できるだけ彼らに近づきたいので、少しでも多く「読み」「書き」「話し」、辞書も「引き」たい。

指さしや手まね、「Oui(ウイ)」と「Non(ノン)」だけでは独り相撲、意志疎通ができない。もちろんヒエログリフは言うに及ばず古代ギリシア語の知識は皆無の筆者、古代図書館の蔵書は「猫に小判」、お手上げである。

続く。

想像の旅---船乗りのホームポート

2017-06-25 | 地球の姿と思い出
脳梗塞とリハビリ(5)から続く。

1.想像の旅
今年1月5日に退院してから早や半年、今はリハビリ代わりに家内と二人で近くのコーヒーハウスでくつろぐ日々を過ごしている。昨年の今頃はヒューストン旅行を目前に多忙な日々だったが、現在との差は大きい。

過去の人生はエンジン全開(Full Ahead)、今後は出力70%程度の巡航速度で、のんびりとメンタル・タイム・トラベルを楽しもうと思う。その出入り口はコーヒーハウス、そこには過去の記憶と未知の想像が背中合わせで同居する。ファミレスのコーヒーハウスがいつの間にか、アドリア海やカリブ海に面したコーヒーハウスに変化する。

たとえばトリエステ、ベージュ色の建物が並ぶ海岸通り、その先に岸壁がある。トリエステはベニスの東方約120km、スロベニアに接する人口20万人ほどの静かな貿易港である。筆者の書棚に飾る小さなガラスのピエロはトリエステで買ったものである。その隣は、ウィーンで使用していた手巻きの目覚まし時計、その隣はブダペストの木製の花瓶、その後ろは著者のサイン入りの童話、海岸で拾った貝々・・・書棚は過去への入口だらけである。

            トリエステの港(絵はがき)
            

筆者はトリエステに詳しいわけではないが、人びとはフレンドリー、静かな落ち着いた街である。街の歴史は古く、紀元前(BC)のローマ時代から政治的な変遷があったが、今はイタリアである。路面電車やカフェや坂道、その雰囲気は神戸、サンフランシスコ、ウィーンに似ている。ハプスブルク家ゆかりのカフェは有名らしい。

あるときイースター休暇でベニスにホテルが取れず、代替のホテルをトリエステにした。毎日、トリエステとベニスの往復、長い編成の夜行列車がトリエステに近づくとき、右に張り出した海岸を走る。車窓の右数百メートル先を走る列車の明かりを別の列車と思ったが、さにあらず、筆者の列車の先頭部分だった。

銀河鉄道が空に昇るような光景、その記憶がトリエステという言葉と共に今も目に浮かぶ。ホテル近くに市場があり、夜間営業の食堂も良かった。電灯に煙る料理の匂いと人びとの姿、言葉は通じないが味は良かった。舌平目や貝料理を覚えているが、今でもイタリアといえば魚介類の料理を思い出す。

トリエステに関するもう一つの思い出。それはホテルのチェックアウトだった。勘定を終えた時、マネージャーに呼び止められた。予約で払ったホテル代が過大だったという。ウィーンに帰ったら差額を旅行社に返還してもらいなさいとのことだった。ホテルの部屋、食事、サービスに問題はなかったが、マネージャーの親切心に感謝した。ウィーンで差額の返還はあったが、担当者は退社していた。日本ではあり得ないが、外国ではいろいろなことがある。

2.船乗りのホームポート(母港)
コーヒーハウスがある岸壁は、筆者を想像の旅に連れだす「ほのるる丸」のホームポート(母港)でもある。1960年代の高速貨物船「ほのるる丸」は、今では時空を超えて世界を旅するまぼろしの船に変身した。

下の写真は、筆者が切り張りした想像の港である。写真中央の黒い船は「ほのるる丸」、右手前は想像のコーヒーハウスである。(実は、この写真の「ほのるる丸」は横浜山下公園の氷川丸(NYK客船)の映像である。)

            船乗りのホームポート(母港・・・合成写真)
            
            注:上の写真は複数の写真を切り張りした空想の港である。

過去・未来の天測歴を備えたまぼろしの「ほのるる丸」は、太陽系の空間を航行できる船である。【天測歴:太陽、月、惑星と45個の(航海)常用恒星の位置を日付別に収録した天文航法用のデータベース、天体の位置と時計に狂いがなければ電波を利用する計器航法より精度は高い。アポロ計画の飛行士が使用した航海用のセキスタント(六分儀)はNASAに展示してある。】

航行中の「ほのるる丸」の食事風景は昔とおり、サロンの席順も変わりなくキャプテン以下航海士・機関士・通信士・事務職員は制服、黒服のウエイターは右腕に白いナプキン&左手に丸盆を持って控えている。船が大きく揺れても、ウエイターたちが厚手木綿の白いテーブルクロスに水差しで水を打てば、食器が滑ることもなくサロンに混乱はなく整然と食事は進む。「お笑いテレビ」のワーワー・キャーキャーとは別の世界である。なお、日の丸を掲げる船舶や航空機は日本の領土、刑法・民法なども日本の法律、大切な祝日にはサロンに紅白の幕を張り、特別料理が出る。
【参考:「ほのるる丸」の食事風景、日本の将来---5.展望(18):日本の食品・サービス

上の岸壁は、筆者が好きなハイビスカスやブーゲンビリアなど、色鮮やかな花が咲き乱れている。気候は、短時間のスコールを除き気温はやや高めで湿気はなく、透明な青空が広がる。当分、この架空の港を筆者と「ほのるる丸」のホームポートとして、想像の旅に出かけたい。

昨年は、ヒューストン大学の次はアレクサンドリアの図書館と決めていたが、脳梗塞で海外旅行を断念した。その無念さを晴らすために時計を巻き戻して、次回(来月)はかの有名なアレクサンドリアの“古代図書館”を訪ねることにした。

アレクサンドリアの古代図書館について、筆者が書籍やインターネットで収集した情報は、おおむね次のとおりである。

1)紀元前300年頃~BC47年頃の戦争までアレクサンドリアに存在した図書館。
2)当時のプトレマイオス朝が支援した大規模な図書館。学術研究機関(ムセイオン)と薬草園も併設。
3)文学、地理学、数学、天文学、医学などの書籍70万巻を所蔵、ヘレニズム文化が栄えた。
4)アルキメデスをはじめ古代の有名な科学者が滞在した。人材も育成した。
5)アレクサンドリアに入港した船から書物を没収、原本を蔵書、写本を返還。これを船舶版と云った。
6)当時の社会生活のレベルを推察するに必要な情報が存在した筈。
7)BC47年の戦禍と再建、虫害と数次の戦禍、AD391年にキリスト教徒の破壊で消滅した。

以上の情報で高度な学術都市が浮かび上がる。しかし、歴史ものには「講釈師、見てきたような嘘をつき」や「また聞き」と「勝手な想像」による情報の変質もある。この点に注意したい。

さらに、図書館とは直接的な関係はないが、次の情報も興味深い。

前回に紹介した「世界の文字とことば」(町田和彦編、執筆者100名、河出書房新社、2014/8)の「世界の文字分布地図」は、下の図に示すとおりである。なお、言語は専門性が高く執筆者も多くなる。

 世界の文字分布

 出典:「世界の文字とことば」(町田編)の表紙裏見開きページをコピー。
 筆者の追加情報:文字の分布を分かり易くするため、赤色楕円形と四角形を追加した。
  赤色の楕円形⇒ラテン文字(欧州、アフリカ、南アジア、豪州、南北米州6地域)
  赤色の四角形⇒ギリシア文字、アラビア文字、キリル文字、漢字、漢字&かな文字(日本)
  その他の文字⇒ヘブライ、グルジア、エチオピア、ペルシア、ウルドゥー文字など20文字

上の図を補足すると次のようになる。
1)ヨーロッパ地区はラテン文字となっているが、英語、仏語、独語、西語、伊語、ポル語、、、の文字の発音、文法には違いがある。また、各言語にはそれぞれ固有の文字がある。たとえば、仏語のç(
cédille:セディーユ)や独語のß(Eszett:エスツェット)。
2)今日、世界の現用文字(日刊紙が使用する文字)は28種【参照:中西印刷株式会社のHP】、他方、世界の言語の数は5,000~7,000だが、正確な数は把握できないと云うのが定説。
3)したがって上の図が示唆することは、新聞・情報誌・インターネット記事の情報は氷山の一角に過ぎず、世界には隠れた情報が計り知れないほど多い。ただし、知る必要があるか否かは別問題。
4)すでに消滅した多くの文字や言語や文明・帝国、たとえば中南米のオルメカ、マヤ、インカなどは、上の図に表れない。「滅びたもの」と「滅ぼされたもの」を両極端に、変化し続ける人類の歴史は複雑である。日本語がこの分布図から消えないことを祈る。

以上のことを参考に、まずは、アレクサンドリアへの“想像の旅”をスタートする。その旅はありきたりの観光でなく、自分の英語力を確認する旅になる。

続く。