船乗りの航跡

地球の姿と思い出
ことばとコンピュータ
もの造りの歴史と生産管理
日本の将来

コンパクト・シティーの姿(11)---汎用デジタル・コンピューター

2020-10-25 | 地球の姿と思い出
コンパクト・シティーの姿(10)---日本のITの傾向と対策:対策から続く。

(3)デジタル・コンピューター
筆者が初めてコンピューターを知ったのは1966年のヒューストン大学、キャンパス地下のコンピューター・センターには数台の汎用デジタル・コンピューターがあった。機械室前のカード・リーダーとプリンターに、男女の学生たちは行列を作って、次々と自分のプログラムを流していた。学期末には行列がしばしば地上の芝生にまで延びたのを覚えている。

当時の日本の大学にはコンピューターのコの字もなく、ゲバ棒の紛争花盛りだった。残念だったが、日本とアメリカの大学の違いを知り、“竹槍でB29爆撃機に立ち向かう鉢巻き姿の日本人”が脳裏をよぎった。大学は大学でも、片や精神論、片やテクノロジー、両者は別ものだと思った。

制御工学の授業で、先生が教壇にソニー・テクトロの画面を持込み、モデム(MODEM)で画面を学外のコンピューターに接続、振動のシミュレーションを学生たちに説明した(このシステムはTSS=Time Sharing System)。あの時、先生が日本のソニー・テクトロは画面の解像度が良いと言ったのを誇りに思った。

なお参考だが、ヒューストン大学と学外のコンピューター(研究機関)との接続はアーパーネット(ARPANET)*の奔り(ハシリ)だった。
【*参考:ARPANET(Advanced Research Projects Agency NETwork)は大学・研究機関を接続するコンピューター・ネットワークを実現しようとする米国のプロジェクト。このプロジェクトを起点としてコンピューター&通信技術が実用化されて、現代のインターネットに発展した。1960年代の簡易なオンライン・ネットワークは、MODEM(音響カプラー:デジタル⇔アナログ信号変換器)やNCU(Network Control Unit:デジタル信号同士の接続;e.g.音声同士の接続=電話)で実現した。】

66年以来、ユーザーとしてコンピューターとはいろいろな形で付き合ってきた。卒業後、日本の就職口はコンピューターの営業だけ、営業には自信がなかったので、アメリカの石油会社に就職した。当時の日本では、コンピューターは一般社会にはあまり知られていない存在だった。

60年代のアメリカでも、汎用デジタル・コンピューターの導入は学校や大企業が中心だった。大学の実験室ではアナログ・コンピューターをあちこちで見た。中には電話交換器のようなアナコン(アナログ・コンピューター)もあり、一般の学生が簡単に使えるものではなかった。また、デジコン(デジタル・コンピューター)とアナコンを結合したハイブリッド・コンピューター(Hybrid-computer)もあった。

参考だが、コンピューター・センターにIBMの最新型(System360)があった。System360の360は方位の360°、System360は全方位、つまり技術系、制御系、事務系すべてに利用できる汎用コンピューターという意味だった。この汎用化でコンピューター利用の分野と利用者層の間口が広がった:
たとえば、理系から文系に、数値計算から文章解析や翻訳・故障診断・インテリジェンス(Intelligence)に、研究室や教室から一般社会に、研究者や学生から老若男女・子供に、現在から過去と未来に、在来の分野から未知の分野に、人類から他の動植物に、地球から他の天体に、、、これらの事象は、すでに2000年代初頭から地球規模で実績が出始めた。

なお余談だが、筆者は360°という言葉に日本とアメリカの大学の違いを感じた⇒日本では、男女、年齢層、職種階層などの多くに固定概念があった。しかし、ヒューストン大学工学部修士課程の同級生には若い母親や中堅会社員、先生より経験豊富な部長もいた。そもそも現役や二浪と言った無意味なレッテルや独特な先入観もなかった・・・人の生き方は人それぞれ、その進路は全方位の360°で何でもOK、他人に迷惑を掛けない限り自由であり、そこに発展もある。

この点で方位360°のアメリカの大学は新鮮だった。他方、日本の大学は幼稚園の延長であり、中身よりカタチ(形)にとらわれた、柔軟性に欠ける存在に見えた。たとえは、社会人でも学べるヒューストン大学の受講科目登録や図書館利用ルールに便利さと公平さを実感した。それが1960年代の民主的なアメリカだった。

話を戻すが、1970年代に入って、汎用デジタル・コンピューターは計算スピードと記憶容量が大きく向上した。この頃、大型汎用デジタル・コンピューター(別名:メイン・フレーム)が一般企業に出回り、「大型汎用デジタル」という言葉が省略されて、単に「コンピューター」と呼ばれるようになった。また、給与・会計・販売・金融・クレジット・カードなどの事務系データ処理で多用されたEDP(Electronic Data Processing:電子データ処理)も死語になった。・・・筆者の理解だが、21世紀になって「デジタル」という言葉が「デジタル・コンピューター(Digital Computer)」の代名詞になった。

80年代には、工場や事務所でオンライン端末の導入が進み、商品コードのバーコード化が始まった(EAN欧やUPC米、JAN日は少々遅れた)。百貨店や量販店にPOS(Point-of-Sales:バーコード・リーダーなど)が普及、人手作業と伝票の削減に貢献した。確かアメリカのレストランだったが、レジで女性がメニューのバーコードをペンでスキャン、しかしチップは手入力だったのを覚えている。

あの頃は顧客ニーズの多様化が進み、その消費動向の変化に工場は多品種少量生産で対応した。従来の少品種多量生産から多品種少量生産への移行はコンピューターの活用なしでは実現できなかった。

たとえば、従来の在庫台帳(紙台帳)は“実用に耐えるデータベース**”に進化した。その進化は、江戸時代の大福帳由来の紙台帳からオンライン・データベースへの脱皮だった。しかし、業務の効率化と法制度の見直しに消極的だった日本の役所は、この時流に乗り遅れて、いまだに紙の台帳類を抱えている。
【参考**:70年代のメイン・フレームの処理速度(CPUの計算スピード)は数MIPS(=1秒間に数百万命令を処理する速度)だった。そのような汎用コンピューターで、たとえば、原材料・仕掛品・完成品など約100万品目のオンライン・データベースを構築すると画面応答時間(レスポンス・タイム=画面に結果を表示するまでの時間)は1秒程度だった。その1秒の待ち時間を、ユーザーたちは実用上”気にならない程度"と容認した。】

また、電話交換機もコンピューター化(=デジタル化)が進み、電話交換嬢たちは仕事を失った。さらに筆者の経験だが、社内のオンライン化でデータ入力も利用部門のセルフサービスになり、システム部門所属の25名のキーパンチ嬢(データ入力)が5名に激減した。

ちなみに筆者の記憶だが、彼女たちの1日平均キータッチ数=約11万タッチ(機械集計)⇒別人再データ入力でエラーダブルチェック⇒11万/2=5.5万タッチ(Key Touch:英数字カタカナ記号の場合は1key touch=1文字)程度。彼女たちは主に会計伝票やプログラムのデータ入力(当時はカンジ入力が少なかった=ジュウショシメイはカタカナが多かった時代)、これらを考慮して推定すると、一人平均5.5万字のデータ入力X25名X21.5日/月≒約3,000万字(英数字仮名)/月のデータ量だった。なお、当時のキーパンチ嬢の勤務形態は45分入力作業、15分休憩(腱鞘炎予防など)、標準的なキータッチ速度=5~6タッチ/秒だった。

また、筆者の別の記憶だが、当時コンピューターで処理していた会計伝票は約20万枚/月だった。以上、25名のキーパンチ嬢たちの仕事量を概算した。なお、これらの仕事は、オンライン化で各職場の事務担当者に分散・吸収した。以上、参考まで

またこの頃、女性プログラマ10名を社内公募、適性検査合格者に社内コーディングと外注ソフトハウス管理(主に仕様書&納品ソフト検収)を担当させた。ついでに、システム部門が率先して会議の昼食弁当代など、1万円以下の部門間振替伝票を廃止(自部門負担)するなど、無駄な会計伝票も削減した。

OAやペーパーレスによる業務の合理化は工場から配送センターの管理にも広がった。さらに生産管理においては、自社独りのコンピューター化だけでは不十分、主要取引先との情報流と物流を制御するコンピューター・ネットワークが必要だった。コンピューター、特にデータベース技術のランダム・アクセス(Random-access)は、縦割り組織を越えて情報を縦横斜め方向に直接的に連携させた。ときには、人間が意識する組織間の垣根や縄張りを無視することもあり、それが切っ掛けで組織改革につながることもあった。

そのようなトータル・システムを指向する生産管理システムは、広域通信ネットワーク(WAN=Wide Area Network)の開設と製造現場への端末機の導入などでコンピューターと工場の一体化を進めた。結果として、工場の生産性向上が目に見える形で現れた。WANも死語になって久しいが、60年代から2000年の間に、人類は多くの仕事***をコンピューターに任せて身軽になった。あの2000年までの40年間は、次の時代への躍進準備期だったと思っている。
【参考***:ヒューストン大学の記憶だが、簡単な最適化問題(20変数、10連立不等式)の最適化計算は、手計算(40時間/週、50週/年)で46.2年掛かると参考文献にあった。同じサイズの問題を60年代のコンピューターで計算すると、1分少々で最適解が得られた。⇒参考文献=Robert W. Llewellyn, “Linear Programming,” Holt, Rinehart and Winston, 1966, page 11】

(4)70年代の先進工場
工場の自動化については、幅広い知識と経験が役に立つ。この意味で、自社の自動化担当者たちと異業種の他社との相互工場見学をセットアップした。時には遠方の工場見学で日帰りバス旅行を実施した。他社の工場を訪ねるのは楽しく、視野も広がる。今も記憶に残る印象的な工場をここに紹介する。

1)高度な自動化工場
 広い工場内で機械だけが稼働、巡回のオペレーターをところどころに見るていどだった。金属材料の電気精錬から最終製品の出荷までの一貫生産で世界の需要に対応していた。自動化は機械・電気・コンピューターの知識をもつ生産技術者たちが独自の技術で工場を自動化した。
 製品は世界的に有名だが、製品設計、工程設計、自動化機械の開発の総合力も他社を大きく引き離していている。現在、この会社は物流拠点の無人化?も達成している(TVのCMかなにかで見た)。

2)高度な無人化配送センター
 大規模な無人配送センターで日本全国の需要に対応、しかし、フル稼働ではなく半日稼働に能力を絞って運転していた(半日稼働で十分)。電柱ほどの高さの平面をX-Y軸方向に移動する無人エレベータ、自動走行するコンテナー列車に向かって商品が飛び出す装置(切出しシューター)などが印象的だった。 
 倉庫開発にともない折り畳み式コンテナー(オリコン)の特許を取得した。開発担当者の話:最終工程の箱詰め梱包は残念ながら有人になった(5~6人の女性)。もちろん、特許は(オリコン)だけではなかった。

3)先進工場の共通点
 70年代の自動化技術は、製造する製品の特長に応じて自動化工場を実現していた。
◇自動化機器とその運用は、既製品では間に合わないので自社の担当者が試行錯誤で開発した。
◇担当者は機械、電気、コンピューターの3つに明るく、彼らの地道な努力が自動化を実現した。
◇特許申請もあった。

以上、70年代でも工場系の「コンピューター化」はかなり進んでいた。しかしお役所は、相変わらず今も先端から遠く遅れている。

(5)70年代の「時代遅れの法律」
Factory(工場)の自動化と同様、Office(事務所)のOAやペーパーレスにおいては、日本のOfficeには非常に厄介な問題が存在した。それは時流に遅れた法律、テクノロジーの進歩と旧態依然とした法制度とのギャップがコンピューター化の足かせになった。

しかし、このギャップは単なるコンピューター化の不都合に留まらず、我が国の憲法・安全・存続に関わる重大なトピックである。当然ながら、話が長くなるので、ここでは2~3の卑近なケースを例示するに留める。

1)下請代金支払遅延等防止法(1970年代の法律、現在は不明)
 70年代後半に主要外注先に注文情報をオンラインまたはFax(コンピューターから送信)で送信した。しかし、この法律は、発注者に紙の注文書発行を義務付けていた。生産管理においては「Time is money(時は金なり)」であり「速やかな情報伝達」が要である。もちろん、紙注文書発行のムダを承知でシステム化に踏み切ったのでデータ送信の後に紙注文書をプリント、先方に郵送した。
 なお、商法では7年間の証憑保管義務があるが、これも非現実的な規制である。紙データの保管だけでは、その日のデータの動きを詳細に分析できない。しかし、更新時間を記録したコンピューター・データは時間の動きを再現できる。したがって、バックアップ・データの保管が現実的である。

参考までに次の事例を紹介する:
事例1.
 1981年、アメリカの法廷に8年前(1973年)のバックアップ磁気テープを提出、数億円の損害賠償を免れた。膨大な紙データに替わる磁気テープで73年の生産実績を再現、当方の主張が認めれた。
事例2.
 約15万枚の伝票から1枚の紙伝票(金額約10万円)を期限内に抽出する必要が生じた。約10名のパートタイマーを急募、1日8時間1週間、保管庫の伝票を調査したが問題伝票を発見できなかった。コストパフォーマンスの観点で作業を中止したが、多量の証憑書類を倉庫(複数)に保管することに、実用性があるのかと疑問に思った。

2)印紙税法(1970年代の法律、現在は不明)
 印鑑と共にペーパーレスに馴染まない法律だが「泣く子と地頭には・・・」で仕方なかった。抜け道?もあったが、まじめに処理した。当時、違反で当局から数億円の罰金を科せられたニュースが話題になった。

3)昔から高い日本の電話代(通信費)
 海外との電話会議の都度、アメリカに電話を掛け直してもらい電話代を節約した。時には数十分に亘る会議、アメリカの担当者自宅やシンガポール工場の参加もあり、電話代はバカにならなかった。・・・日本の業務システムにおけるオンライン化の遅れや電話会議(Teleconference)が普及しなかったのは、高い通信費が一因と思っている。
【参考:電話会議やテレビ会議をテレコンファレンスと云うがテレコンファレンスは一種のテレワーク、今後はテレコンファレンスやオンライン・リアルタイム・システムによるテレワークが増えると思う。
 なおコンピューター用語では、“オンライン”の対語は“バッチ”(Batch:一括処理)である。その特徴は、“オンライン”では結果を“画面”に表示、“バッチ”では“紙”に印字する。また、“バッチ”の“紙”は印鑑やFaxと相性が良い・・・“画面”か“紙”か、いずれを好むかは民族の風俗習慣・文化に関係があるのかも知れない。】
 今日でも、公衆回線料、専用回線料、ケータイは「濡れ手に粟」のビジネスに見える。高額な通信料は、サービスを提供する側と受ける側の双方、すなわち日本企業の「低生産性」や「デジタル化の遅れ」の一因だと思っている。

現在の「デジタル化」のターゲットは行政と行革であるが、その「デジタル化」の阻害要因は「Technical Feasibility」でも「Economic Feasibility」でもない。行政の「Operational Feasibility」が最大の障害である・・・「デジタル化」にマッチした行政と社会を構築するには、まず時代遅れの法律を見直すべきである。言うまでもないが、その見直しにはSTEM感覚を身に付けた若い人材が必要である。・・・「デジタル化の遅れ」を辿ると「法律の遅れ」が出てきた。

さらにもう一つの注意すべき点は、70年代の「コンピューター化」と現在の「デジタル化」には大きな違いがある。それは、人口が急激に減少し始める2045年頃までの残り時間である。2020年の現在、2045年まではわずか25年、2040から2050年頃の人口激減に耐えうる「デジタル先進国」になれるかどうかが問題である。

見直すべき法律は山ほどあるが人材不足、法律の見直しなしの新システム設計には進歩がない。残り25年は、国会の動きから見ると焼け石に水、いかに切り抜けるか?難問である。

続く。


  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする