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日本の将来---4.変化への対応例(4)

2014-01-10 | 日本の将来
前回からの続き。

5)社内外との人事交流
ほぼ1年にわたって展開したクリーン・コンピューター作戦の仕上げは、次期工場システムを開発するジョイント・プロジェクト・チームの編成だった。

次期システムの詳しい内容は省略するが、その範囲と機能はこのブログに示した「工場のビジネスモデル(2011-12-11)」と「工場機能の階層図(2011-12-25)」のとおりだった。その工場を管理する手法は、アメリカ生まれのMRP【注】だった。MRPは、コンピューターの性能が向上するにつれて欧米で普及した生産管理手法、この手法を日本流にアレンジするのがジョイント・プロジェクト・チームの目標だった。

【注:MRP(Material Requirements Planning:資材所要量計画)は60年代にアメリカで開発された生産管理手法、今日では世界に広く普及している。このジョイント・プロジェクトが開発したシステムは、日本初のMRPだった。】

このプロジェクト・チームは、システム系と工場系の要員で編成した。システム系の要員は電算室、子会社のシステム部門、コンピューター・メーカーから、工場系の要員は本社と子会社の生産管理、生産技術、品質管理、技術管理、製品開発、購買などの主任クラスから、それぞれ選出した。最終的にはシステム系は約30名、工場系はコンサルタントを含む約30名の規模になった。

特に、アメリカ人のコンサルタントのうち、1名はデータベース技術、1名はコンピューター・システム・パフォーマンスの分野で世界トップ・クラスのエキスパートだった。

異なった社内経験をもつ若い人材を一つのプロジェクトに統合して、互いに未知の知識・経験を身に付けさせる。これは、先進的な工場システムとそれを担うコンピューターに明るい人材を育成しようとする経営陣の願いだった。このような経営陣は、当時の日本では珍しかった。

工場本館に開設したプロジェクト室を基地として、メンバーはシステムのロジックと工場の運用ルールを設計した。先端技術の導入とはいうものの、日本のビジネス習慣との調和も大切、生産現場との意見交換を重ねて皆が納得するシステム設計を心掛けた。

もともとシステム開発担当者たちは、見よう見まねで覚えた仕事のやり方だった。しかし、社外のトップ・クラスの専門家と机を並べて新しいシステムを開発する機会は、学校では得られない貴重な体験だった。数年にわたるこの機会に、システム系や工場系の区別もなく、メンバーたちは一から出直す気持ちで新しい考え方のシステムに取り組んだ。

また、工場運営については、当時の国連加盟国より多い160ヶ国に製品を提供する会社として、世界に通用する生産管理を目指した。

日本の生産管理用語には、企業ごとの方言が多い。この機会に用語の標準化を進めた。APICS(American Production and Inventory Control Society:米国生産在庫管理協会)の用語集と日本の大学による和訳にもとづいて用語解説書も作成した。APICSを通じて、国際的な生産管理のスタンダードに接した・・・何事も基本を知らない自己流は伸び悩むが、基本を踏まえた上での自己流は大きく伸びる。

結果として、たとえば、「大量の仕掛品在庫&受注製品の欠品」(Before)⇒コンピューター・システム
⇒「仕掛品在庫の減少&受注製品への即応」(After)=無駄のない工場が実現した。

プロジェクトが進むにつれて、チーム・メンバーはシステム導入の準備と工場現場の改善に時間を振り向けた。たとえば、社内外の部品搬送コンテナー(通い函)の標準化、生産指示書や注文書のバーコード化、生産基礎データの作り込みなど、素材加工、機械加工、表面処理、最終組立にまたがる作業は膨大だった。

このシステムは、経営陣からのトップ・ダウンで開発した戦略システム、10年近くの歳月で全面的に稼働した。それは、下からのボトム・アップで開発する合理化システムとは異質のシステムだった。

素材加工工場からパイロット導入を始め、導入が進むにつれてプロジェクト室からメンバーが一人一人と新しい職場に移っていった。元SEの生産管理課長、元生産技術のSEなどと人材の社内交流が実現した。

新しい担い手を得た新しいシステムが定着するにつれて、期待効果は定量・定性の両面で予想を上回った。また、雨後の竹の子のような旧システムを一掃した・・・新しいぶどう酒は新しい革袋に・・・新約、マタイ、9章、17;ルカ、5章、38。

以上で「変化に直面して、いったん立ち止まり、体制を整えて、ことに当る」という一つの事例を紹介した。この事例では、先端技術の導入、チーム・メンバーと工場の順応性、経営陣のリーダーシップの3つが相乗してプロジェクトは成功した。先端技術、順応性、リーダーシップがキー・ワードである。

この事例とはスケールの違う大きな変化に直面している今日、ここでコーヒー・ブレイクを取る。次回はさくらの咲く頃、3月25日の「日本の将来---5.展望(1)」に続く。

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日本の将来---4.変化への対応例(3)

2013-12-25 | 日本の将来
前回の「3)深夜の自動オペレーション」から続く。

4)次期システム開発の体制つくり
「紺屋の白袴」に陥ったシステム部門の改善は、深夜オペレーションの無人化だけではなかった。最も大きな改善が必要だったのは、システム開発の方法だった。

SE(システム・エンジニア)の育成
今から40年も昔の当時、システム開発担当者の第一要件は、プログラミングができることだった。実際にシステム開発に所属する社員の学歴を見ると、大卒と高卒、専門はさまざまだったが、共通事項はプログラマミングができることだった。そこには、SEとプログラマーの区別もなく、プログラマー=SEとの誤解があった。

そこで、SEに必要な要件として、プログラミングだけではなく、次の3つの能力を身に付けるように指導した。プログラミングは技能の問題、次の3つは応用力の問題、前者は学校教育で十分、後者は学校ではなく実務で身に付ける能力である。

a.コンサルタントとしての能力
 現状分析と実行可能な解決法を提案すること
 コンピューターの利用部門が何をシステム化したいのかを聞き出すことが大切である。このため、SEの要件として、インタビュー(聞き取り=ヒアリング)の能力を重視した。人に接するのは苦手、画面に向き合うのは得意、それではプログラマーは務まるがSEは務まらない。
 また、インタビューの相手は、社内の業務担当者だけでなく、時には関係会社の人々とのインタビューもある。特に、外注先の人々に対する横柄な口のきき方は論外、しかるべき礼儀をわきまえるように指導した。

b.エキスパートとしての能力
 ハード、ソフト、データ通信、それぞれの技術とコストに精通すること
 技術的な知識だけでなく、ハードやソフトの実勢価格、システムの規模と開発コスト、期待メリットを推定できるコスト感覚をSEに求めた。CheapnessとEconomyの違いを理解するエンジニアを育てたかった。【参照:3)利益管理、グローバル工場---機能の階層(6)(2012-03-11)】

c.業務改善の旗振り役としての能力
 業務改善の阻害要因を一つずつ合理的に克服すること
 業務システムの開発は、単に手作業の機械化ではない。システム=体系=ルールであり、新システムは仕事のやり方を改善するために開発する。したがって、SEは業務改善を利用部門に浸透させる旗振り役である。この能力は、関係者に対する説得力と熱意でもある。

以上、a、b、cの実地訓練は、クリーン・コンピューター作戦に続く次期工場システムの開発で実践した。

SEにとっては、プログラミング言語の知識・経験は必須であるが、プログラミングだけがSEの仕事ではない。そこで、SEからプログラミング作業を切り離した。

SEの最も大切な仕事はシステムの設計である。その設計内容をシステム仕様書として、概要設計書、ファイル関連図、コード表、プログラム説明書などに展開する。このうち、プログラム説明書をプログラマーに渡して、プログラムの作成を依頼する。

プログラム説明書にもとづいて作成するプログラムは、だれがどこで作っても同じである。当時は、プログラムの外注はまれであったが、外注に耐えるしっかりとしたシステム仕様書づくりをSEの目標にした。

プログラマーの育成
プログラミング作業を担当するプログラマーの希望者を社内で募集、アメリカのプログラマー適性検査(日本語版)で7人の候補者を選び、電算室に異動した。なぜか7名はすべて女性だった。もちろん、クリーン・コンピューター作戦の一環として、教育はコンピューター・メーカーの入門コースから上級コースへと進み、社内の実機訓練を交えてプログラマーを育成した。幸い、非常に優秀なプログラマーが育ち、システム開発とメンテナンスの効率が著しく向上した。

優秀なプログラマーは、SEの質の向上にも貢献した。たとえば「あの人のプログラム説明書は甘い」とか「変更が多い」とか、さまざまな意見が女性プログラマーから出るのでSEもそれなりに努力した。

これはクリーン・コンピューターを終えた後の話だが、SEの質の向上でシステム仕様書の内容も充実し、プログラミングの外注が可能になった。今日では当り前の話だが、プログラミングの外注により電算室のシステム開発能力はさらに向上した。あれから40年、歳月は一瞬のうちに過ぎ去り、日本のオフショア(Offshore=海外の)外注先は、東南アジア諸国からアフリカに広がった。(ただし、筆者はアフリカ、たとえばルワンダの開発現場を見たことがない)

技術管理課の設置
システム開発を効率的に進めるために、技術管理課を新設し、次の5つの項目を目標にした。

1.システム開発手順の標準化と品質管理
2.データベース管理ソフトなど、新しい技術の評価と導入
3.外部教育やセミナーによる計画的な社員教育
4.プログラマーへの仕事の割当てと作業管理
5.データ通信網の管理とオンライン化の促進(O/L画面やバーコードでデータの即時処理)

ここで特記すべきことは、この頃から電話回線を管理する社内の縄張りが変化し始めた。従来は、電話回線の契約と社内電話機の配置は総務部門の管轄だった。しかし、電話回線による通話(電話機)とデータ通信(コンピューターやワークステーション)が複合するにつれて、総務部にもコンピューターの知識が必要になり始めた。同時に、社内の電話交換機も電磁式から電子式に変化し始めた。

ここで、話題はクリーン・コンピューターから離れるが、IT(Information Technology:情報技術)について筆者の見聞を紹介する。

70~80年代のアメリカでは、多くの企業はシステム部をIS(Information Systems Department=情報システム部)と呼んでいた。しかし、90年代半ばにはシステム部門名がISからIS&T(IS & Technology)に変わり始め、いつの間にか、IS&TからITが派生した。それは、次のような時代の変化を反映している。

80年代:大型汎用コンピューターを使ってコボル(言語)の大型システムを開発・・・名刺の部門名=IS
90年代:クライアント/サーバー型システムにより大型システムをダウン・サイジングした時代・・・IS部門はデータ通信技術の知識と実績を強化した。技術(Technology)を強調するため、部門名のISにT(Technology)を付加・・・名刺の部門名=IS&T
2000年代:IS&Tからいつの間にかITと言葉が派生・・・ITとIS&Tの違いはよく分からない。
【参照:5)90年代のアメリカ、日本の将来---2.日本と欧米との比較(2)(2013-08-10)】

次回、「5)社内外との人事交流」に続く。

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日本の将来---4.変化への対応例(2):クリーン・コンピューター作戦

2013-12-10 | 日本の将来

4.変化への対応例(1)から続く。

(4)クリーン・コンピューター作戦
1)最小限のオペレーション
クリーン・コンピューター作戦は、システム部門の大掃除(クリーニング)を意味する作戦、約1年にわたって実施した。その目標は、現行システムの棚卸と整理統廃合、さらに仕事のやり方を変更して次の時代に備えることだった。

当時、システム部門の仕事は、システムの開発と開発したシステムの運営だった。このうち、新規開発はすべて凍結した。

他方、システムの運営のうち、システムの利用部門からの業務データ受付、データ入力、システム・オペレーション(運転)、出力配布は通常とおりとした。しかし、現行システムのメンテ(メンテナンス)は必要最小限にした。もちろん、日常業務に支障をきたさないように、事前に利用部門と話し合った。

2)現行システムの棚卸と文書化
会社の成長とともに次々と開発したシステムは、いわば雨後の竹の子のような状態になっていた。当然、システム開発はプログラム作成に追われ、システム仕様書の作成はおろそかだった。システム仕様の大部分は開発担当者の頭の中、いわゆる属人的なシステムだった。

現行システムの棚卸と文書化の目的は、雨後の竹の子の整理統廃合と属人的なシステムからの脱却だった。属人的なシステムの前提になる終身雇用は、労働環境の変化をよそに永続するとは思わなかった。

整理統廃合のために、現行システムをリストアップした。各システムのモジュール(機能単位)別に、開発時期、担当者、プログラム言語、大きさ、仕様書の完成度、現在の不具合点、近い将来に予想する大きな業務変更を調査した。なお、システム仕様書は、概要設計書、ファイル関連図、コード表、プログラム説明書、操作手引書などの書類である。

さらに、各システムが稼働するコンピューターに関する項目もチェックした。
◇ハードとOS(オペレーティング・システム:基本ソフト、例=パソコンのWin.7や8)のライフサイクル(寿命)
 ・・・コスト・パフォーマンスを改善した新機種/新OSの評価。新旧システムの互換性をチェック
◇プログラミング言語のライフサイクル
 ・・・アセブンラーやコボル、その他特殊言語の将来性。
   現在では、アセンブラー(60~70年代の言語)やコボルを知る人は高齢化とともに激減している。

このリストで、システムを1)当分変更せずに運営するシステム、2)次期工場システムに吸収するシステム、3)現行のまゝ手を加えずにできるだけ早く新システムに切り替えるシステム、に分類した。

これら3つの分類のうち、1)に該当するシステムを対象に、優先順位の高い順にシステム仕様書の整備を進めた。

仕様書の日本語は、執筆者以外の人が読んで理解できる文章、率直な(Straightforward)短文、1文章80文字以内を目安にした。また、数千行にわたるプログラム(コボルやアセンブラー言語)は長くても1000行以下、できれば500行程度に分割した。日本語文章とコンピューター・プログラムの短文化は、開発した人以外の人が効率的にシステムをメンテできるようにするためだった。【参考:筆者のコメント、1.「文章力の基本」阿部 紘久、グローバル化への準備---英語と他の言語(5)2013-01-10】

クリーン・コンピューター作戦で一番厄介なシステムは、一見、最先端に見えるオンライン・リアルタイムの在庫管理だった。この頃は、リアルタイム制御にはアセンブラー言語のプログラムが必要だった。しかも、旧世代の磁気コア・コンピューター(レンタル費=850万円/月)で稼働するシステムだった。

3~4年で技術革新が進む70年代半ばでは、60年代半ばのハードは典型的なレガシー・システムだった。この磁気コアの製品は、メーカーでも足手まとい、修理が困難なため「さわらぬ神にたたりなし」とばかり本体の移設にも細心の注意を払った。【参照:図4 コアアレー(Core Array:磁気コアの配列)、グローバル化への準備---コンピューターの知識(2)2012-07-25】

この在庫管理システムの再開発を82年にようやく終えて、新しいシステムに置き換えた。博物館入りするような60年代の磁気コア・コンピューターは、80年代のLSI(大規模集積回路)の時代まで実在した。

この例のように、コンピューター・システムではコスト・パフォーマンスの良い新型機に乗り換えようとしても、ソフトが足を引っ張ることがある。間もなく社会情勢が激変する少子高齢化の時代では、コンピューター・システムの扱いには十分に注意したい。少子化の中、日本語の仕様書を理解し、かつ、コンピューター言語に明るい人材が、その時代の現行システムのメンテと新規開発を担う。その人材はだれか?人間か機械か、大きな課題である。

3)深夜の自動オペレーション
事務所や工場のシステム化を推進するシステム部門は「紺屋の白袴」に陥ることが多い。

たった2台の汎用コンピューターの24時間オペレーションに十数人のオペレーターが必要だった。深夜から翌朝までの第3直は2~3名、少なくともこの当直を無人にしたかった。

オペレーターを1人に削減することは可能だが、深夜の1人当直には抵抗があった。2人ならば、もし1人にトラブルがあっても、他の1人が助けを呼ぶこともできる。このため、1人当直はダメとした。

試行錯誤の末に、警備保障システム(室温管理と自動消火と侵入防止)の導入で深夜のオペレーションを無人化した。

その方法は、古い技術的な話になるのでここでは省略する。しかし、最大の難問は、磁気テープとディスクパックの取り換え、および高速プリンターへの紙の補給だった。いずれも、単純作業だが無人化には苦労した。

方法論はさておき、その時代の利用可能な技術を応用すれば、かなりの自動化は実現できることを学んだ。もちろん、安全性と経済性の評価もクリアーした。また、コスト削減以上に人材の有効活用の観点も忘れてはいけない。(例:オペレーター⇒プログラマー)

なお、余談になるが、当時の工場では、単純作業の自動化では500万円という目安が頭の中にあった。作業者1人を削減する自動化機器(ロボット)が500万円以下であれば検討に値するという意味だった。この500万円は、作業者1人の賃金、時間外、諸手当、ボーナス、退職金、福利厚生費、その他経費を年間コストに換算した平均値だった。

ただし、実際のケースでは、新規投資のライフサイクルを通して経済性、運用性、技術的実用性(Economic、 Operational & Technical Feasibilities)を検証する。もちろん、運用性と技術的実用性では安全性と信頼性も検討する。原子炉の話になると、机上の空論も多く疑問がある。

また、500万円の話に戻るが、この論法では1人1分間のコストは約40円になる。10人が1時間会議したとき、そのコストは10x60x40=24,000円、会議後に皆で今の会議はその価値があったか?と冗談を言い合った。

次回、「4)次期システム開発の体制つくり」に続く。

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日本の将来---4.変化への対応例(1)

2013-11-25 | 日本の将来

(1)変化への対応
人口が少なくなり、若者も少なくなる。半数近くが高齢者という社会ではいったい何が起こるのか?これは、だれもが抱く疑問である。しかし、これは疑問ではなく、少子高齢化の社会をどのような姿にもっていくかがわれわれの課題と考えるべきである。

この問題に取り組む方法は、かいもく見当がつかないわけではない・・・という訳で、このブログでこの課題を少しずつ考えていく。

まず、筆者の経験から始める。それは、コンピューターにまつわる1970年代の話、古く小さな事例だが、一つの参考としてここに紹介する。

この事例のように、コンピューターが絡む話には“近くて遠い田舎の道”が当てはまる。目前の明確な目標もなかなか達成できないことも多い。少子高齢化への対策も早いに越したことはないとの思いで、あえてこの事例を持ち出した。

(2)コンピューターの足跡
1960年~70年代にアメリカに広まったコンピューターを日本の産業界も次第に利用するようになった。

この頃すでに研究所レベルで分かっていたことは、60年代のアメリカで試験的に稼働し始めたアーパーネット(Arpanet)は世界規模のインターネットに発展すること、大型コンピューターは現在のパソコン程度の大きさになること、コンピューターのオペレーティングシステムはハードに依存しなくなること、パソコンはビジネスマンのノート替わりになることなどだった。【注:Arpanetが開発したTCP/IP(Transmission Protocol/Internet Protocol)はインターネットの通信規約、今も使われている。】

他方、70年代初頭の日本では、オンラインシステムは専用回線を利用していた。しかし、71年に公衆電気通信法の改正があり、74年頃から公衆電話回線網によるデータ通信が可能になった。この法改正は公衆電話回線網のデータ通信への開放、略して、「電話網の開放」として知られている。

専用回線と公衆回線では、料金制度に明確な違いがあった。専用回線によるデータ通信は通信時間に関係なく定額制(月額)、他方の公衆電話回線網によるデータ通信は、公衆電話の通話と同様、通信時間で課金する従量制だった。

「電話網の開放」は音声だけなくデータも任意の2点間で通信できることを意味し、このことでインターネットへの道が開けた。残る課題は、日本語(漢字・仮名)のコード化だけになった。このコード問題は90年代初頭に解決、ようやく欧米のe-mailソフトと日本語の相性も良くなった。これで日本人は、原稿用紙のマス目を基本とする日本語処理ソフトから卒業、新たな世界に進学した。

日本企業も世界共通の土俵=インターネットの世界に仲間入り、90年代後半から日本企業にもe-mailとインターネットの時代がやってきた。やがて、2000年代のオフィスの電子化時代に入り、オフィスワークの生産性が大きく向上したが、社内失業者もでた。これまでの日本のオフィスワークは、能率が悪いと世界のあちこちで耳にした。

余談になるが、北海道から九州に点在する営業所の製品入出荷データから在庫と売上額を計算できる。本社のコンピューターが、当日のデータを公衆電話回線で収集すれば、全国の販売と在庫状況を毎日把握できる。具体的には、本社のコンピューターが、夜間割引(夜8時から)の時間帯に北海道から九州の営業所に次々と電話を掛け(自動接続)、当日のデータを取集する。全営業所のデータ取集が終われば、計算結果を北海道から九州の営業所に次々と自動配信する。もちろん、夜の営業所は無人、オフコン(Office Computer)は電話のデータ通信の自動受信/切断ができる簡単な機能を備えていた。

このシステムは公衆電話回線を利用したので、電話代は毎晩1000円前後、月額2~3万円だった。もし専用回線を利用すれば専用回線料は月額1000~1200万円と見積書がでた。ちなみに、75年ころの日本製のオフコンは公衆電話回線によるデータ通信に対応できなかった。日本のメーカーに断られたので、頭を下げて実績のあるアメリカ製のオフコンを導入した。法整備の遅れと技術の遅れは「鶏が先か卵が先か」の関係だった。

(3)70年代のシステム部門の姿
話は70年代初頭に戻るが、筆者は日本の製造会社に就職、電算室を担当することになった。その電算室は、大型コンピューター2台でシステム開発、運用、オペレーション、データ入力(女性キーパンチャー)、24時間運転、全員自社社員、これは当時の典型的なシステム部門の姿だった。

日本は右肩上がりの時代、電算室も次々と新しい業務システムを開発した。北海道から九州にいたる営業データ収集システムも一つの産物だった。当然、開発担当者はプログラミング作業に追われていた。仕様書などの文書化よりプログラム作成を最優先、結果として雨後の竹の子のように大小のシステムが乱立した。プログラムの詳細は開発担当者の頭の中という属人的なシステムだった。

この頃、経営陣にオンライン生産管理システムの構想が持ち上がった。最新の生産管理の理論を最新のコンピューター技術で構築するシステムは、本社工場と関連会社の工場群をネットワークで結ぶ広域ネットワークシステムだった。【参考:工場管理8月号2012年、PP.116~1179、日刊工業新聞社】

世界最新のテクノロジーで次世代の工場システムを開発するという動きは先進的だった。それは、ビジネスでアメリカを良く知る経営陣の発想だった。しかし、電算室の実力とこの構想には大きなギャップがあった。また、日本のコンピューターメーカーのハードとソフトには実績上の不安要素もあった。

日本のコンピューターメーカーに対する技術的な改善/開発の要望はここでは省略するが、まず、我が身を振り返ると1年や2年で片付かない課題が山積していた。

次期工場システムの成功には、電算室の整理整頓と地固めが最優先事項と考えた。そこで、次期システム開発の準備として1年間の「クリーン・コンピューター作戦」を役員会に提案、承認を得た。

(4)クリーン・コンピューター作戦
簡単に言えば、1年間はシステム修正や新規開発を凍結、その間に身辺を整理して将来に備えるという作戦だった。新しい時代に挑戦するときは、まず身軽になる。これは鉄則である。その内容は次のとおりだった。
1)最小限のオペレーション
2)現行システムの棚卸と文書化
3)深夜の自動オペレーション
4)次期システム開発の体制つくり
5)社内外との人事交流

次回に続く。

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日本の将来---3.日本の人口

2013-11-10 | 日本の将来
2.日本の人口

(1)人類の歴史
15万年以上前にアフリカに現れたDNA上の祖先(現生人類)は、1900年の人口15~17億人まで、非常に緩やかに増加した。しかし、その後は急激に増加し、1950年には約25億人、現在は約70億人、さらに、2100年には約100億人に達すると見られている。

2100年の100億人のうち、アフリカの人口は35.7億人、その先もペースは落ちるが増え続ける。他方、アジアの人口は、2050年頃の51億人をピークに、少子高齢化で2100年には46億人に減少する。【参考:このブログの「1.世界の人口」(2013-07-10)】

(2)日本の人口
ここで、世界から日本の人口に目を転じると、その状況は下のグラフに示すとおりになる。日本の人口は、2008年をピークに2105年の4610万人、ピーク時の3分の1に減少する。

 1925年(大正14年)~2105年(平成117年)の人口
 
 出典:総務省統計局政策統括官(担当)・統計研究所、統計データ、第2章 人口・世帯
 統計表 2-1 人口の推移と将来人口(エクセルデータ)
 グラフ:2-1のエクセルデータを筆者が加工、上のグラフを作成した。

単純に数字だけを見ると、2105年の日本の4610万人は、世界人口100億人の0.5%未満、非常に小さな数字になる。その頃の日本では、14歳未満の子供は約420万人、人口の1割以下になる。他方、65歳以上は1899万人、人口の約4割が高齢者になる。もしかして、その頃はスーパー高齢者の時代、70歳代は、まだまだ若いといわれるかも知れない。

次に、2100年から視界を狭めて、今から50年先の人口を調べて見る。約50年先の2060年は、現在20歳の若者が70歳近くの年齢になる時期である。

50年の歳月は、人の半生ぐらいの短い期間である。しかし、今から50年昔と50年先では、大きな違いがある。その違いは、過去の50年は人口の右肩上がり、今後は右肩下がりの時代である。若者の減少と高齢者の増加が重なり合って、人口の年齢構成が激変する。そのような時代では、過去の手法は通用しない。

たとえば、一部の人が提唱する「1000万人の移民受入れ」は、移民で頭数の減少を補う手法である。それは、人手作業に頼る時代に通用したが、自動化が進んだ近代工業社会では通用しない。この判断を誤ると「ヨーロッパの失敗」が実証するように人口問題をさらに深刻化させてしまう。経験豊富な先進国には失敗も多く、その失敗を回避するのは後進国の知恵である。

     日本人口内訳(1,000人)
     
     出典:国立社会保障・人口問題研究所、2013年版人口統計、I.人口および人口増加率
     表2-9 年齢(4区分)別人口の推移と将来推計:1920~2060年

     日本人口内訳(1,000人)のグラフ
     
     グラフ:上の表「日本の年齢別人口1960-2060」をグラフ化した。

上のグラフは、いわゆる頭数(Head Count:人数、人口調査)の変化であるが、その中身を考えるといろいろなケースを想定できる。たとえば、65~74歳の人でも体力と意欲があれば、頭脳労働に就くこともできる。そのような人々のなかには、75歳定年説、極端な人は90歳定年説を唱える人もいる。70年代までは55歳定年の時代、その頃は定年を迎えてすぐに、燃え尽きたように他界する人が多かった。しかし、今の世は違う。

90歳定年説は別として、少子高齢化のもと、労働力の確保のためには定年の引き上げも必要になるかも知れない。しかし、不本意ながら病床に就く人や働きたくても仕事が見つからない人も出てくる。また、就業と失業を繰り返す人などさまざまである。定年と社会保障、さらに、外国人の雇用形態の見直しも必要になる。いずれにせよ、労働環境と雇用ルールの激変は予想できる。

下の表とグラフは、人口の年齢別内訳を示すものである。ここでは一つの参考として示しておく。

     日本人口内訳(%)
     
     出典:国立社会保障・人口問題研究所、2013年版人口統計、I.人口および人口増加率
     表2-9 年齢(4区分)別人口の推移と将来推計:1920~2060年

     日本人口内訳(%)のグラフ
     
     グラフ:上の表「日本の年齢区分別割合1960~2060(%)」を筆者がグラフ化した。

上のグラフでは、現在の少子高齢化はまだ序の口と見える。しかし、身近な小中学校の統廃合や地方の過疎化を見ると、序の口どころか、かなり進んでいると実感する。

下の写真は、最近の電車内の状況である。3つの写真は、昨年と今年の京都訪問で撮影した。いずれも、平日午後3時ごろの車内、各電車の運転間隔は10~15分、阪急特急とJR快速はともに神戸行きの始発電車である。四条河原町は京都の中心地、高槻は京都と大阪の中間点、米原は大都市ではないが、過疎地でもない。なお、阪急電車は特急と各停が交互に走るので、電車の頻度は5分になる。

    阪急特急(河原町12/10)  阪急各停(高槻12/10)   JR快速(米原13/9)
    

上の写真の共通点は、どの車内もガラガラである。船乗り流にいえば「Light Condition:軽荷状態/空荷状態」、工場流にいえば「空気を運んでいるような状態」である。もちろん、駅ごとに乗客は増えてくるが混雑はない。

このように、空気を運ぶような電車を走らせるサービスは、コスト的にいつまで続くのかと疑問に思う。その疑問を、次のようにハードとソフトに分けると整理し易い。疑問点をハードとソフトの項目に分解すると将来計画とコストの割り出しも少しは容易になる。

ハード面では、ハード購入費と人件費を含む車両自体の維持管理、線路や電気・通信系統、駅や変電設備や整備工場、鉄橋やトンネルの維持管理、経年劣化に伴うハードの入替え費用が発生する。鉄橋やトンネルは新旧併設期間を考えれば10年近くかかると推定する。地下鉄や海底トンネルの場合は筆者には推定できない。このようなケースが同時に多発すると、日本列島は60年代の建設ラッシュをはるかに超える騒ぎになると思われる。最悪の場合は、順番待ちでサービスが停止する。

ソフト面では、運行管理システムの開発費と維持管理、ハードの技術情報と図面管理、要員計画・投資計画と実績管理など、主に人件費と購入費が必要になる。中でも最も大切なソフトは人材と教育、それは人の資質・知識・経験と責任感・使命感である。また、現在のソフトの使用言語はすべて日本語、切符や時間表も日本語だけである。この点で、外国への外注は難しい。

ハードとソフトが共存してはじめて、正確で安全な鉄道が実現する。なかでも、責任感と使命感というソフト=モラルに異状があるとトラブルや事故が顕在化する。もし、日本と日本人からモラルという名のソフトがなくなれば、そこには何も残らない。

オランダやオーストリアは日本よりはるかに人口が少ない。しかし、そこには他国にまねのできない存在感がある。このようなケースを参考にすれば、人口が減少しても、日本と日本人固有のモラルを継続できると思う。あきらめず、より良い姿を描いて、新しい方法を見つけるのが日本の本領である。

次回から、ここに紹介した人口減少とガラガラの電車を念頭に置き、ハードとソフトの在り方を考える。

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日本の将来---2.日本と欧米との比較(5)

2013-09-25 | 日本の将来
2.日本と欧米との比較(4)から続く。

2)オーストリアとオランダの産業
オーストリアとオランダの経済を支える産業は次のとおりである。

オーストリアの主な産業
地下資源:石油、天然ガス、鉱物(アルミ、銅、金、鉄、鉛、亜鉛、塩)
重化学工業:鉄鋼、石油化学
機械工業:重機、自動車/部品、農業機械、精密機械、織機、機関車・車両(日本の新幹線保線車両)
手工芸:陶磁器、ガラス製品、装身具、刺繍・レース製品、木彫品
観光業:登山鉄道、音楽・名所旧跡
農業:穀物、酪農(アルプス式牧畜)、穀物自給率=91%(日本=27%、2003、農水省)
交通:東西交易の要所(中世の琥珀街道と塩街道)、鉄道網、高速道路網、ドナウ水運
東西交流:永世中立国(1955)、国連・国際機関をドナウ河畔に集約(ウィーン国際センター)

オランダの主な産業
地下資源:石油、天然ガス、石油メジャー(ロイヤル・ダッチ・シェル)
重化学工業:鉄鋼、石油化学、化学繊維(AKU)、化学肥料(DSM)
機械工業:機械、エレクトロニクス、電気(フィリップス)、航空機(フォッカー)、造船
手工芸:ダイヤモンド加工(アムステルダム)、陶磁器(デルフト焼き)
食品工業:チョコレート(バン・ホーテン)、ビール(ハイネケン)、乳製品、加工食品
農業:酪農、近代化農場(野菜)、花畑(球根、花卉)
魚業:北海漁場
海運業:ロッテルダム港(ユーロポート、荷扱い世界トップ)、アムステルダム港
交通:鉄道網、高速道路網、内陸運河網

3)経済指標
先に述べたが、国民一人当たりのGDP(国内総生産)、GDPデフレーター(Deflator:指数)、経済成長率、失業率をチェックする。個々の経済指標を国別に説明すると長くなるので省略するが、これらの国に関する経済的な出来事は次のとおりである。

オランダ病:60年代の天然ガス発見に根ざす不況、70年代後半から80年代半まで続いた。
  73年のオイルショック当時、天然ガスの輸出による好況の反面、製造業が衰退、自国通貨高と
  失業率の上昇を招き、国際競争力を失った。
ワークシェアリング:仕事を多くの人と分かち合うこと。政労使が82年にハーグ近郊のワッセナー市
  で合意し、オランダ病を克服した。この合意をワッセナー合意という。
  ワークシェアリングは、サービス業やオフィスワークには有効であるが、製造業の生産性を改善す
  るものではなく、逆に、原価のオーバーヘッドコスト(間接費)を押し上げる。たとえば、人手作業の
  ワークシェアリングは可能だが、自動化された作業では意味をなさない。この点は要注意。
DEWKS:Double Employed With Kids(デュークス:子供がいる共働き夫婦)の略。DINKS(Double
  Incomes No Kids(ディンクス:子供を持たない共働き夫婦)はDEWSKの対義語。DEWKSとDINKS
  は、80年代後半からオランダ、ドイツやアメリカ、カナダなどで広まった。
注)ワークシェアリングやDEWKSの背景には、「“できる人”は早々に会社からスピンアウトする」とい
  う社会的な風潮がある。また、これらは、日本の給与体系に含まれる通勤手当や住宅手当などと
  はなじまない。
同一労働同一賃金:パートタイマーとフルタイマーの均等待遇。オランダの労働法は、パートタイム
  とフルタイム労働者の時間当たり賃金、社会保険制度への加入、雇用期間などの差別を92年の
  法改正で禁止した。
  同一労働同一賃金は単純労働では成立するが、専門知識と経験を要する仕事にはなじまない。
  この言葉だけが独り歩きすると社会が混乱する。
リーマンショック:サブプライムローン(低所得者向け住宅ローン)で倒産したリーマンブラザーズ(投
  資銀行)を震源とする08年の世界的な金融危機。

3ヶ国の経済指標をグラフ化すると次のとおりになる。

一人当たり名目GDP(USドル)
 下のグラフでは、90年代前半に日本のバブル期の影が見られる。その反動で04年頃から日本の数値はオーストリアとオランダより小さくなった。しかし、今月に決まった20年の東京オリンピックは、日本の経済を刺激するので13年以降の数字は大きく上向く可能性が高い。

     
     
     出典:オリジナルデータ=世界経済のネタ帳
     グラフ:上のオリジナルデータを筆者がグラフ化した。

3)GDPデフレーター
 デフレーターは物価指数を意味する。このグラフでは、デフレ―ターの値>100%のときはインフレ、デフレーター<100%のきはデフレである。日本経済は05年頃からデフレになったが、デフレから脱却するために、アベノミックスは+2%の物価上昇を目標にしている。20年の東京オリンピックの頃には、100%を大きく上回ると見られる。

     
     
     出典とグラフ:「一人当たり名目GDP」と同じ

4)経済成長率
 東京オリンピックの効果で14年以降の日本の成長率は、このグラフより上方に振れることは確実である。

     
     
     出典とグラフ:「一人当たり名目GDP」と同じ

5)失業率
 下のグラフでは見えないが、オランダ病のためにオランダの失業率は83年と84年には8%台だった。しかし、82年のワッセナー合意の効果が徐々に表れ、85年=7.33%、86年=6.52%(下のグラフ)・・・01年=2.54%にまで低減した。
 92年頃から失業率がふたたび上昇に転じた。その上昇はワークシェアリングでは改善できない失業率、たとえば、産業の効率化、不況と税収減少・歳出削減などに起因する失業が考えられる。

     
     
     出典とグラフ:「一人当たり名目GDP」と同じ

以上、いくつかの経済指標を比較したが、これらの指標は、人口の多い少ないで大きく変わるものではない。今後は日本の人口は減少するが、人口の減少は必ずしも経済的に衰退するとは限らない。逆に、日本人の知恵と工夫で前例のない繁栄を達成する可能性が大きい。

3)世界の都市ランキング
最後に、参考のために世界の都市の生活環境ランキングを、マーサー(Mercer:コンサルティング会社)の「2012年 世界生活環境調査-都市ランキング」で一覧する。このランキングは、次の10項目を相対的に評価した結果である。(New Yorkの各項目のスコアを100として他の都市のスコアを評価する)

1.政治・社会環境(政情、治安、法秩序等)
2.経済環境(現地通貨の交換規制、銀行サービス等)
3.社会文化環境(検閲、個人の自由の制限等)
4.健康・衛生(医療サービス、伝染病、下水道設備、廃棄物処理、大気汚染等)
5.学校および教育(水準、およびインターナショナルスクールの有無等)
6.公共サービスおよび交通(電気、水道、公共交通機関、交通渋滞等)
7.レクリエーション(レストラン、劇場、映画館、スポーツ・レジャー施設等)
8.消費財(食料/日常消費財の調達状況、自動車等)
9.住宅(住宅、家電、家具、住居維持サービス関連等)
10.自然環境(気候、自然災害の記録)
【以上、マーサージャパンのHPから引用】

        
        出典:マーサーの都市ランキング2012

一位のウィーンは、12年と同様に09年、10年、11年でもトップになっている。12年では、東京=44位、神戸=48位、横浜=49位である。ニューヨーク市やマドリードなども東京と同列の都市である。上位ランクの都市は活気と自律が両立した住みやすい都会との感がある。この点で、日本の都会とそこに住む人々には、まだまだ質的な改善の余地がある。

次回に続く。

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日本の将来---2.日本と欧米との比較(4)

2013-09-10 | 日本の将来
(2)日本-オランダ-オーストリアの統計
7月25の「1960年代の日本」から前回の「2000年代のタイ」で、筆者の目に映った世界の変化を伝えた。

今回は、街角の外観から読み取れない変化、国別の経済情勢をいくつかの指標で眺めてみる。ここでは、日本と国情が大きく違うアメリカとタイを除外して、オーストリア、日本、オランダの一人当たりの名目GDP、GDPデフレーター、経済成長率、失業率を比較する。
【参考:このブログの2013-07-10に示した「2012年の一人当たりの名目GDPランキング」では、オーストリア=12位、日本=13位、オランダ=14位であり、これら3ヶ国は経済的には似かよった国である。】

経済指標を比較する前に、まず各国の広さと人口を紹介する。

1)国の広さと人口
日本、オーストリア、オランダの国土面積は、次のとおりである。
  日本      377,955km2
  オーストリア  83,871km2  北海道(83,456km2)とほぼ同じ
  オランダ     37,354km2  北海道の半分弱、九州(42,194km2)より1割ほど小さい 

また、各国の地勢上の特長は、日本とオーストリアは山国、オランダは山のない平らな国である。「世界森林白書2009年報告、表2 森林面積とその推移(pp.218-227、FAO, 2006a)」(国際農林業協働協会、翻訳出版)によれば、各国の森林面積が国土に占める割合は、日本=68.2%、オーストリア=46.7%、オランダ=10.8%である。ちなみに、可住地面積=国土面積-森林面積-湖沼面積で推定する。

次に、各国の人口は下のグラフに示すとおりである。

     
     出典:オリジナルデータ=世界経済のネタ帳
     グラフ:上記のオリジナルデータを筆者が加工・グラフ化した。

オランダの人口は約1,600万人、東京23区の約900万人(2013年)の約2倍弱である。また、オーストリアは約800万人でオランダの半分である。オランダとオーストリアの人口と国土は小さいが、両国は高度な先進国である。いうまでもなく、国の豊かさは人口や国土の大きさとは別物である。日本の人口は減少期に入るが、悲観するには及ばない。

日本、オーストリア、オランダの地勢の特徴は先に説明したが、参考に各国の人口密度を示すと次のようになる。
  日本      337.64人/km2
  オーストリア 100.79人/km2
  オランダ    400.22人/km2
  【出典:世界経済のネタ帳】

一国を一言で表現することは難しいが、筆者の印象では、オランダ人は寛容だがルールを固く守る人々、オーストリア人は公平と社会の安定を重んじる人々と思っている。もちろん、オランダ人やオーストリア人に限らずドイツ人、イギリス人、フランス人、北欧人なども、伝統とルールを重んずる人々である。

たとえば、80年代だったか定かではないが、オランダでは車のナンバーの奇数偶数で運転日を隔日で決めていた。あの時のオランダ人は「今日は運転しない日だから、駐車場内でも車を動かさない」といっていたのでかなりの堅物だと思った。また、ウィーンの市電ではめったに検札に会わないが、もし不正が発覚すれば容赦なく高額の罰金を求められる。日常生活では温厚な紳士淑女もルール違反には厳しくなる。しかし、それは合理主義の一面であり、「見て見ぬ振り」の日本とは違った社会規範である。

ここで、各国の移民事情にも触れておく。「移住・移民の世界地図(The Atlas of Human Migration)」丸善出版、2011年によると、移民データは次のようになっている。
  日本:移民=217万人、人口比=1.7%  移民数=217万人は名古屋市の人口に近い。   
  オーストリア:移民=131万人、人口比=15.6%  主にトルコ、東欧からの移民
  オランダ:移民=175万人、人口比=10.5%  トルコ、モロッコ、インドネシアなどからの移民

さらに「移住・移民の世界地図」にある各国の移民政策(2005年)は、次のとおりである。
  日本:入移民水準=現状維持、高度技能移民=増加させる
  オーストリア:入移民水準=現状維持、高度技能移民=現状維持
  オランダ:入移民水準=低減させる、高度技能移民=増加させる
  【入移民水準:入国する移民の数や受け入れ基準】

オーストリアは、2011年1月から移民政策を変更、高度技能移民の家族にドイツ語能力を求めるようになった。これは、現在、オーストリア人の99%以上がドイツ語を母語としているのでドイツ語による移民との意思の疎通を重視していることの表れである。また、ドイツ語による教育現場の負担を軽減させるためでもある。なお、オーストリアはハプスブルク帝国時代から多民族国家だったので、民族言語権や放送言語の問題もあった。

日本の移民人口比は1.7%で僅かであるが、その絶対数は217万人でかなり大きい。日本人の人口は減少するが、移民子孫の人口は増加する。減少と増加が相対効果を生み、移民系人口比が急速に増加する。このような相対効果を考慮しながら、日本が日本であるために関連法規の整備を早急に進めるべきである。この法整備をおろそかにすると、ヨーロッパ諸国のように政治・経済・教育・宗教などの社会基盤に格差・対立・犯罪を招くので十分に注意したい。この問題の議論は長くなるのでここでは割愛するが、次世代への責任として筆者の考えを必要に応じて示していく。

次回に続く。

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日本の将来---2.日本と欧米との比較(3)

2013-08-25 | 日本の将来
前回から続く。

6)2000年代のタイ
2000年からの10年間は、1997年のアジア通貨危機で受けた経済的なダメージの回復期だった。この期間には、2006年のクーデター、08年の空港占拠、10年の流血デモが続き、政治的には不安定だったが、政治は政治、都会にはデモに参加する暇も関心もない人が多かった。また、11年の洪水では、幾つかの工業団地が浸水、操業停止が長引いた。

【参考:タイの日本関係データ】
◇日本企業数 3,133社
 うち、製造業 1,735社、うち、252社は自動車関連企業
    卸売業   739社
 出典:タイ進出企業の実態調査、帝国データバンク、2011年10月
◇タイの工業団地数  62ヶ所
 出典:タイ国工業団地調査報告書、日本貿易振興機構(JETRO)、2011年3月
◇タイの日本人数: 49,983人「在留届」提出者数、2011年10月
 出典: HELLO BANGKOK THAILAND
 旅行者などを含めると6~7万人、または10万人との推定もある。

タイと日本は古くから皇室レベルの付き合い、フレンドリーな関係が続いている。日本は、70年代後半から有償・無償のODA(政府開発援助)でタイのインフラ整備を支援した。そのため、世界的に有名だった「バンコクの渋滞」は、今ではほとんど見られない。しかし、事故による渋滞と週末夜の繁華街の渋滞は、相変わらずである。しかし、ホテルから十数キロ先の新国際空港に離発着する航空機を22階から目視できる日が多いので視界は東京より良好である。

政治は不安定だが、経済発展は順調であり、01年のタイの失業率は1.8%、11年は0.4%と右肩下がりである。世界のデトロイトを目指すタイ政府の願いとおり、自動車生産は盛んである。

一昔前の話であるが、2000年頃は、市バス内の強盗が乗客全員の金品を奪ったという記事をときどき見た。しかし、今ではこのような人騒がせな犯罪は耳にしない。

あの頃は、市内を走る車はポンコツが多かった。日本では見なくなった懐かしい乗用車、荷台が傾き黒煙を吹き上げながら走るトラック、ボロボロの市バスは故障の乗降ドアを開けっ放しで走っていた。

やがて、2000年中頃からポンコツ車が減り始め、高速道路の整備も進んだ。下の写真は、11年のバンコク市内の光景である。

            バンコク市内の高速道路(2011年)
            

昔の交通渋滞への反動か、スピードを出す人が多く、歩行者優先ではないので交差点や路上横断は非常に危険である。「自分の身は自分で守る」という鉄則を忘れると、トラブルに巻き込まれる。とはいえ、人々は大らかで、一般に女性たちの方が堅実で真面目である。見知らぬ女性(老若)の親切を受けることも時々ある。

下の写真は、99年12月に開業したバンコクの高架鉄道BTS(スカイトレイン)のプラットフォームである。通勤時間帯には5両編成の列車はかなり込み合う。

            夕方のBTSプラットフォーム(2011年)
            

初乗り15バーツ(1バーツ=約3円)がバス代(普通5、冷房7バーツ)より高いので、05年頃まで乗客が伸びなかった。しかし、今では乗客数が増え、一部の駅でフォーム・ドアを導入したそうである。04年には地下鉄MRTが開通したが、BTSとMRT共に路線を延長している。

また、05~06年頃から携帯電話とコンビニが増え始めた。ケータイで話しながら歩く人、スーパーには次々と新モデルが現われ、価格が安くなり、一気に携帯社会がやってきた。

日系のコンビニは2000年頃には珍しかったが、しだいにバンコク市内や幹線道路のガソリンスタンドにコンビニが増え始めた。05年頃には、工業団地に隣接する日系コンビニでは、5~6台のレジを備え、公共料金の支払いもOKだった。この頃、幹線道路のガソリンスタンドのコンビニは24時間営業になった。

2000年頃には英国系スーパーがバンコクで出店していたが、後にフランス系スーパーが参戦した。

下の写真はフランス系スーパーの醤油売場、屋台のおばさんが使う日本メーカーの製品である。

            スーパーの醤油売場
            

写真のメーカーのマーク入り醤油差しは、昔からのトレードマークだった。東南アジアではイミテーションもあったが、多量に出回る本物にイミテーションは意味を失い、いつの間にか消えてしまった。

写真中段の価格は手ごろな122~169バーツであり、世界が認める日本の味である。

下の写真は、同じスーパーの日本食材の売場である。一般に、日本の品物は少し高いが安心とのイメージがある。

            スーパーの日本食材売場
            

もともと、街角の屋台で食事を済ます人が多いタイでは、食材を買い、自分で調理することは少なかった。しかし、スーパーで手に入る食材、炊飯器や冷蔵庫で人々は調理を始めた。結果として食の安全への関心が高まった。野菜の残留農薬、飼料のホルモン剤や抗生物質、食品添加物への不安である。「あの地区は農薬を多用しているらしい」とケータイで噂が流れると、その地区の野菜は敬遠されるという。

下の写真は、日系スーパーの無農薬野菜の売場である。

            日本直輸入の無農薬野菜
            

この店の商品は、日本またはタイの日系メーカーからの仕入れ品だけである。生卵を食べる日本人のために、鶏卵は航空会社から届くという。逆に、バンコクから日本に毎日空輸され、全国のスーパーに並ぶ農産物が2000年には存在していた。製造業のグローバル・サプライ・チェーンと同様、農産物の流れにもすでにグローバル化が深く浸透している。

今、日本の農産物はTPPで揺れているが、Made in Japanの食材が外国で高く評価されるケースは多い。味と安全性に優れた日本の農産物を世界に供給すれば、試算はないが、双方に莫大な直接的/間接的なメリットが期待できる。そこでは、日本が得意とする生産技術・保存技術・物流技術とそれらを統合するIT技術が決め手になる。それは、単なる利益追求でなく、日本と日本人にできる次世代人類への貢献である。

なお、この問題では「日本での収穫」がキーワードであり、工業製品のように工場進出では解決できない。したがって、タイのスーパーが売るタイで収穫した「コシヒカリ」は正解ではない。

ここで、筆者なりに人類の歩みを振り返ると、石器から農耕までは十数万年、古代文明は数千年、欧州の近代化は数百年、日本の復興は5~60年、タイの近代化は2~30年だった。そのテンポは、万・千・百・十の年単位へと幾何級数的に短くなっている。その行き先はグローバル化という名の画一的な世界である。さらに、そこではすべてが平等に"Wear-out Failure"(擦り切れてダメになること)を迎える、と同時に新陳代謝が始まる。そのとき、人類は脱皮する。

次回に続く。

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日本の将来---2.日本と欧米との比較(2)

2013-08-10 | 日本の将来
前回から続く。

4)70~80年代の日本
69年の東名高速開通に続き、72年の列島改造論でインフラと交通網の整備に拍車がかかった。

この波に乗って、新宿西口に70年代の10年間で高さ200メートル以上のビルが5棟も建てられた。その後も高層ビルは増え続け、雨後の竹の子のような新宿高層ビル群が出現した。それは、玉石混交のビル群、たとえば、東京都庁(243m)は90年末に総工費1650億円で完成したが、2006年頃から雨漏りに悩みだしたと朝日新聞にある。【参考:朝日新聞 2006年2月21日夕刊:都庁雨漏りに泣く。完成僅か15年、修繕試算1000億円】

80年代後半はバブル景気の最盛期、公共事業は費用対効果を無視した箱物行政に進んでいった。民間でも、大規模な集合住宅や郊外型のスーパーマーケットが次々と誕生した。

他方、昔からの商店街がシャッター街に変り始めた。この頃、製造業の「空洞化」に商店街の「空洞化」が加わった。次に来るのは人口の「空洞化」、しかし、次々と表れる「空洞化」は衰退と同時に脱皮のチャンスでもある。それは「盛者必衰の理(コトワリ)」であり、また日本列島の新陳代謝でもある。冷静に対応すれば、新陳代謝の先には希望もある。

この時代には、東京と京都の路面電車が次々と撤去された。72年の第七次都電撤去で荒川線以外のすべての都電が撤去された、また、琵琶湖疏水の水力発電で1895年に実現した日本最初の路面電車も、利用者の減少との理由で78年にすべての京都市電が撤去された。特に京都の場合は、当時、欧米が試行していたLRT(ライトレール:Light Rail Transit=軽量軌道交通)に新たな可能性があったが、京都市はあっさりと撤去に踏み切った。

5)90年代のアメリカ
この年代には、企業のコンピューターシステムに重要な変革があった。それは80年代頃までに開発された古いシステム(=その時点の現行システム)の統廃合とグローバル化への脱皮だった。

すでに、このブログの「グローバル化への準備---コンピューターの知識(1)、(2)、(3)」で説明したが、60~70年代に飛躍的に進歩したコンピューターは、技術計算だけでなく事務処理にも使われるようになった。さまざまな分野に利用できるコンピューターは、汎用機と呼ばれ、80年代には大型汎用機が全盛期を迎えた。

当時、日進月歩の技術革新は次々と新しい機能を生み、その度に現行システムの修正を繰り返した。結果として、継ぎはぎだらけで効率の悪い事務処理システムが出現した。この状況は、日米欧の国々で同じだった。高価な汎用機と継ぎはぎだらけの古いシステム(現行システム)、このため企業のシステム担当部門は「金食い虫」といわれていた。

ちなみに、汎用機1台の大雑把なレンタル費は3~5000万円/月、大手の製造業では3~5台の汎用機を設置していた。このコストは、国により多少の違いがあったが、似たり寄ったりだった。

技術開発はさらに進み、80年代後半には安価なサーバーが現れた。サーバーは買取りベースで5~7000万円程度、汎用機に比べて非常に安かった。

この頃、汎用機からサーバーへの乗換え、いわゆる「ダウンサイジング(Downsizing)」が流行語になった。しかし、ダウンサイジングには、古いシステムをサーバー用に変更すると同時に継ぎはぎの機能を統廃合することも必要だった。これは現行システムの作り直しであり、時間とコストのかかる作業だった。

この頃アメリカでは、60~80年代の技術で開発した古いシステムをレガシー・システム(Legacy Systems:遺産システム)と呼んでいた。レガシー・システムは、早く切り捨てたいが簡単に切り捨てることができない負の遺産、厄介者だった。ちなみに、先に述べた東京都庁は一種のレガシー・システムであり、1000億円の修繕費は、負の遺産から発生するレガシー・コストである。

もちろん、古いシステムをサーバー用に変換すれば運用コストを削減できる。しかし、多くの企業は、この機会に最新技術による次期システムの構築を選んだ。

小回りが利かない巨大企業は別として、コンピューターに明るい中堅企業の経営者は、次期システムの開発に積極的だった。彼らは、開発に必要な人・物・金の支援、システム仕様への具体的な要求ならびに職権による現状改革の陣頭に立った。【事例紹介:工場管理8月号2012年、PP.113~119、日刊工業新聞社・・・経営者の考え方も紹介した】

たとえば、ある半導体メーカーが開発した戦略的な次期システムは、次のようなものだった。
目標:アメリカ、ヨーロッパ、アジア/太平洋の拠点業務をアメリカ本社で一元管理(集中データ処理)
◇英、独、仏、西、日本語の多言語データベースの構築と一元管理
◇会計・販売・物流・購買・生産業務のグローバル・スタンダード化と多言語・多通貨処理
◇2000年代のEU(欧州連合)への対応
◇各国官庁への現地語決算書とアメリカ本社の連結決算書の同時作成
◇アメリカ本社でのシステム開発と運用の一元管理:各国独自のシステム開発と運用の禁止
この例では、92年に開発を開始、アメリカ本社に5~6台のサーバーを設置、98年ごろに全面的に稼働した。【事例紹介:生産管理の理論と実践

ここでコンピューターを離れて90年代の市民生活に目を移すと、そこにも変化が表れていた。

郊外の華やかなショッピングモールとは裏腹に、ダウンタウンの過疎化と治安の悪化、かつては整然としていた住宅街の芝生には雑草が目立ち、窓ガラスが割れたままの住宅も見られた。大きな車をご高齢の婦人が独りで運転、田舎の横断歩道を1回の青信号[Walk]で渡りきれない老人、地区のご老人たちをホテルに招いて日常の困り事を支援するNPO、金網で守られた住宅街など、さまざまな光景があった。

このような車社会の弊害を想定して、70年頃から連邦交通省都市大量輸送局(Urban Mass Transit Administration)は、ライトレール車両の研究を始めた。ここで生まれたLRTの概念は、80年にはサンフランシスコのLRTで実現した。

その後、欧米の都市で改良が進み90年代中頃のウィーンの市電は段差18cmの低床車になった。典型的な車社会のヒューストン(テキサス州)でさえも遅ればせながら、2004年に12kmのLRTを開業した。このLRTは、78年の構想から何度も住民投票で否決されたが、99年の住民投票で可決され26年目に実現した。人口が第4位のヒューストン、LRTによるダウンタウンの活性化と高齢化社会への対応には興味がある。

次回、「6)2000年代のタイ」に続く。

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日本の将来---2.日本と欧米との比較(1)

2013-07-25 | 日本の将来
2.日本と先進国

(1)1960年代の日本と先進国

1)1960年代のヨーロッバ
筆者は、1963年にこのブログ冒頭の「ほのるる丸」でヨーロッパに向かった。紅海からスエズ運河を通過して地中海に、次にジブラルタル海峡を通過して北海に入る航海だった。

地中海沿岸のアレクサンドリアは古代図書館(BC300年)とクレオパトラで有名、ジェノバとバルセロナはローマ帝国にルーツを持つ港町、ロンドンはビッグベンやウェストミンスター寺院が立ち並ぶ都会、これらの街並みを行き来する人々に接して、ここは先進国だと実感した。

下の図は、筆者が記念に手に入れたロンドン地下鉄の路線図である。東京にこのような地下鉄ができるのはいつの日かとの思いがあった。

今の東京のように地下鉄の出入り口が通りのあちこちにあり、非常に便利だった。地下鉄の駅では地底深くに延びるエスカレーター、エスカレーターではステップの右側に立ち、左側を歩く人に譲るというルールがあった。当時の日本ではわれがちに電車や窓口に群がる人々、ロンドンのエスカレーターでルールを守るのが先進国の流儀だと理解した。

 1963年のロンドン地下鉄路線図・・・1854年から徐々に発展した。
 

2)1960年代の日本
当時、東京の地下鉄はエスカレーターどころか銀座線(1927年開業)、丸の内線(1959年開業)、日比谷線(1961年開業)など、ようやく地下鉄の建設が本格化した時代だった。1964年の東京オリンピック開催、さらに65年には日本初の高速道路、名神高速が開通した。あちこちの工事でダンプカーが走り回る一方、その頃の京都市内ではリヤカーが当たり前、人々は3C(クーラー、カラーテレビ、カー)を羨望する時代だった。

この頃の家庭では、兄弟姉妹が4~5人が当たり前、小学校から大学のクラスは50人教室、中にはマイクで授業をする大学もあった。20人の受講者で登録を締め切るアメリカの大学とは異なり、日本の教育は卒業生のマスプロダクション・システムだった。そのシステムの受け皿の一つが公団住宅、やがて、日本は70年代の列島改造論に進んでいった。

3)1970年代のヨーロッパ
70年代半ば、筆者はウィーンに住んでいた。ウィーンはローマ帝国の北方の境界でドナウ川に面したローマ人の宿営地だった。13世紀中ごろからハプスブルク家のオーストリア帝国の首都として栄えた。第二次世界大戦に敗戦、1955年に永世中立国として独立、人口800万人足らず、北海道ほどのオーストリア共和国が誕生した。

ハプスブルク時代の馬車道には、1865年に馬車鉄道が導入され、さらに1897年には電化され、今日のウィーン市電に発展した。70年代から盛んになった地下鉄の建設と市電の新しい路線はコンクリート製だったが、昔からの市電通りは石畳だった。この頃の建設認可は厳しく、市内のコンクリートの高層ビルはIBMビルと市民病院だけといわれていた。ウィーン市内に点在する国際機関を高層ビル群に収容するウィーン国際センターの予定地は、郊外のドナウ河畔だった(1980年完成)。

市電の交差点では線路を横切る横断歩道は地表でなく地下式だった。そこにはエスカレーターと7~8軒の商店があり、さすがに歩行者や老人に配慮する街だと感心した。住宅街の庭先や商店街を走る簡素な市電は市民の足、市電と接続して郊外まで延びる地下鉄とバス、これら3つの交通機関の乗車券は共通だった。合理的な乗換えルールを利用すると低額で市内を移動できた。できるだけ車に頼らないという考え方は、アメリカの車社会はと異なるシステムだった。

ウィーンには国連や原子力関係(IAEAなど)や石油関係(オペックなど)の国際機関、金融機関、観光業者は多いが、意外に働き口は少ないとのことだった。そのため、若者や働き盛りの人々は工業が盛んな西ドイツに行き、街の広場や公園のベンチに老人が目立っていた。下界は曇天でも山の上は晴天、このためスキー場のレストハウスではテラスのベンチで日光浴を楽しむ老人たちをよく見かけた。

今流にいえば、オーストリアは老人大国、日本の大先輩だったが暗いイメージはなく、ワインと音楽とオペラの都だった。石造りのバルコニーに囲まれた石畳の中庭、その閉ざされた空間でのミニコンサートは音響の乱反射がなく、直接耳に届く楽器の音色は絶妙だった。

老人大国の反面、働く女性のために、夕方6時までの託児所が充実していた。日本人には馴染みのないヨーロッパ各国の「閉店法(Ladenschlussgesetz)」は働く人(特に家庭を持つ女性)や小規模商店を保護する法律であり、宗教的な背景と同時に人々の生活スタイルにも関係していた。今では大きく緩和されたが、70年代のウィーンの「閉店法」では、デパートと小売店ともに平日は午後6で閉店、土曜日は午後から日曜日は終日閉店だった。

早朝のゴミ回収や公園の手入れなどは、近隣の共産圏からの労働者の仕事だった。しかし、熟練を必要とする石造りの建物や宮殿、教会の尖塔、市電通りの石畳やアーチのメンテナンスは、中世ドイツのギルドの流れを汲む専門家たちの仕事だった。美しい街並みは一朝一夕の作品ではなく、メンテナンス技術の賜物と実感した。この点は日本の伝統文化のメンテナンスと同じである。

73年のオイルショックの後、オランダやドイツでは人手不足が深刻になりっていた。よく訪れたアムステルダムの友人(オランダ人)の話が今も気に掛かっている。その話は次のようなものだった。

オランダでは、人手不足のために旧植民地から移民を受け入れている。移民たちは、失業保険の受給資格を得るまで低賃金の仕事に就く。資格を得ると仕事を辞めて失業保険で生活する。失業保険が切れるとまた働く。この繰り返しでは生活レベルが極めて低くなる。しかし、低いと言っても母国に比べて遥かに良い生活、彼らはその生活レベルに満足する。やがて、身内を呼び込み移民だけの社会が広がっていく。

その友人は、オランダ国民が税金で負担する社会保障の原資が移民に喰われて先細りになり、保障の質が低下することを憂慮していた。社会保障の質の低下は深刻な経済格差を生み、犯罪と抗争が無法地帯を生み、その連鎖が社会に広がることを恐れていた。ウィーンでは移民の他に周辺国からの難民と不法入国者も難問だった。

次回は、4)70~80年代の日本、5)90年代のアメリカ、6)2000年代のタイに続く。

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日本の将来---1.世界の人口

2013-07-10 | 日本の将来
日本の将来

1.世界の人口
地球の誕生は約46億年前、その地球に直立二足歩行の類人猿、アウストラロピテクス・アファレンシスが現れたのは約400万年前と右の参考書にある。【参考書:「人類の足跡10万年全史」 Stephen Oppenheimer著、仲村明子訳、草思社、2007年、内容=15万年以上前のアフリカを起点とする人類の足跡を遺伝子、化石記録、気象学の観点で解明する書】

その頃の地球は氷期と間氷期を繰り返し、最後の氷期は今から約1万年前に終り、現在の間氷期に入った。氷期と間氷期の繰り返しのうちでも、17万年前の最も厳しい氷期には総人口が1万人にまで落ち込み人類が絶滅しかけたことがあったと参考書にある。

さらに参考書によれば、われわれのミトコンドリアDNA上の祖先(現生人類)は、15万年以上前からアフリカで暮らしていた。彼らは、今からおよそ7万~8万年前にアフリカを出て世界に広がったが、その頃のヨーロッパには別の人種、ネアンデルタール人、東南アジアにはホモ・エレクトスが住んでいた。しかし、ネアンデルタール人やホモ・エレクトスは少なくとも3万年前まで生存していたが、現生人類のなかには、彼らの遺伝的痕跡は見られない。

紅海が二つに割れたわけではないが、人類が初めてアフリカを出た頃は、大規模な氷期だった。6万~8万年前のうちで最も寒かったのは6万5000年前、その頃は氷河作用で海面は104メートルも降下していたと紅海の調査で明らかになっている。

アフリカを出た人類は、ユーラシア大陸に広がり、一部はチモールからオーストラリア大陸、別のグループは2万5000~2000年前にベーリング海の陸橋を経て北アメリカから南アメリカに渡った。南米チリのモンテベルデでは1万2000年前の人類の居住跡と人工遺物が発見された。また、南フランスでは、有名なクロマニヨン人(現生人類)が1868年に南フランスのクロマニヨン洞窟で発見された。約3万年前のクロマニヨン人は体質的に現代人とほぼ同じとされている・・・このような人類の足跡につては、参考書を一読されたい。

今からおよそ1万~9000年前は間氷期の初期、その頃に人類は採集・狩猟から農耕・牧畜に移り始めた。農耕と牧畜による食料調達は、人々の生活に安定と余裕をもたらし、生活の余裕は世界各地の古代文明に発展した。

下の表は、紀元前7000年(9000年前)頃から2100年にいたる世界人口の推移と推計を示している。古代文明時代の人口は、500万から1,000万人程度、意外に少ないと感じる。この頃の人口については「歴史上の推定都市人口-Wikipedia」も参考になる。

       
       出典:国立社会保障・人口問題研究所、2013年版統計、I.人口および人口増加率
         表1-9 世界人口の推移と推計:紀元前~2100年
         1900年以前 UN, Determinants and Consequences of Population Trends, Vol.1, 1973
         1950年以降 UN, World Population Prospects: 2010 Revision
       注:表1-9を筆者が要約、上の表の「増分」は筆者が付加した。

西暦元年頃の人口は2~4億人だったが、1950年から2000年のわずか50年で、約36億人(実績)もの人口が増加した。

ここには示さなかったが、別の統計では1970年の伸び率が最も大きく、年平均2.07%だった。この伸び率では1年に7,650万人もの人口が増加する。

下のグラフは、1950年から2100年の地域別人口を示している。

  
 出典:国立社会保障・人口問題研究所、人口統計資料、2013年版、I.人口および人口増加率
   表1-13 世界の主要地域別人口割合および人口増加率:1950~2100年
   UN, World Population Prospectsを筆者の判断で要約、その要約をグラフ化した。

グラフから、地球の人口は1950年に約25億人だったが、2100年には4倍の約101億人に達し、さらにその先も増加を続けている。その原因は、2050年頃から始まるアジアの人口の減少以上にアフリカの人口が増えるからである。

上のグラフには数字を示さなかったが、アフリカ、ヨーロッパ、ラテンアメリカ、北部アメリカおよびオセアニアの1950年と2100年の人口は、それぞれ次のように増加する。

アフリカ:
  1950年  2億3000万人 ⇒ 2100年 35億7400万人(約15.54倍)
ヨーロッパ:
  1950年  5億4700万人 ⇒ 2100年  6億7500万人(約1.23倍)
ラテンアメリカ(カリブ海諸島を含む):
  1950年  1億6700万人 ⇒ 2100年  6億8800万人(約4.12倍)
北部アメリカ:
  1950年  1億7200万人 ⇒ 2100年  5億2600万人(約3.06倍)
オセアニア:
  1950年     1300万人 ⇒ 2100年    6600万人(約5.08倍)

アフリカの人口が1950年から2100年の150年で約15.54倍の35億7400万人に爆発的に増加する。このアフリカの35.7億人は、1950年の世界の総人口25.3億人より10億人も多い数字である。今から100年の内にアフリカの人口は容赦なく伸び続けるが、アジアでは高齢化と人口の減少が深刻になる。そのとき、現行の社会システムと食料供給が対応できるかどうかが問題になる。

人口予測は大きく外れることはないという経験則があるので、百年以上の先の話ではあるが、2050年から2100年の地域別人口を脳裏に収めておく必要がある。

ちなみに、上のグラフの時間軸(X軸)の1950年から2100年までの画面上の長さは約6cmである。このX軸の15万年前の位置を計算すると、画面の左側約60m先になる。15万年前から1900年の15~17億人までは非常に緩やかな増加、その後は2000年にかけて急激に人口が増加した。1970年頃には、先に述べたように年平均伸び率が最高の約2.07%に達した。このような人口の推移を広義の成長曲線ととらえるとき、1970年頃に変曲点を通過したのかも知れない。

次に、世界の人口から各国の経済情勢に目を移す。下の表は、現在の国別一人当たりの名目GDP(USドル)のリストである。

GDPの中身はさまざま、工業製品や農産物の生産高、オイルマネーや金融取引など様々であり一般論では片付かない。しかし、世界経済の現状を知る上で一つの参考になるので、ここにできるだけ多くの国をリストした。 

          
          

出典:世界経済のネタ帳(IMF-World Economic Outlook Databases)、世界一人当たり名目GDP(USドル)ランキングのデータを加工・作表した。

次回は、上のリストに黄色でマークしたオーストリア、日本およびオランダの経済指標をチェックする。オーストリアのウィーンはかつて住んでいた街、オランダはよく訪れた国、この辺りの話も交えて今後の日本を考える。

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