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足立姫伝説~東京都足立区~

2005年04月11日 23時59分59秒 | 
東京の足立区には、「足立姫」の伝説があり、その墓もあります。ここでは、その伝説と、ゆかりの場所を紹介します。

 聖武天皇の時代、武蔵国足立郡に足立長者がいました。足立長者は、多くの富を持ち、風雅にも通じていましたが、子供ができませんでした。長者は妻とともに、子を授かりたいと、熊野権現に参詣しました。すると、夢に熊野権現が現れ、願いをかなえようと言いいました。喜んだ長者が足立の館に戻ると、妻が身ごもり、女の子が生まれました。その子は「足立姫」と名づけられ、大事に育てられました。
 姫が十七歳になったとき、隣の豊島郡の豊島左衛門清光が、姫を自分の妻にしたいと申し出ました。姫は、両家が反目することを悲しみ、やむなく嫁ぎました。ところが、清光の母が姫に辛くあたったので、姫は心楽しまぬ日々を送っていました。ようやく里帰りの許しが出て、姫は五人の侍女と里帰りしました。沼田川のほとりに来たとき、姫は突然入水してしまい、侍女たちもつぎつぎと入水しました。侍女たちの遺骸は見つかりましたが、姫の遺骸は見つかりませんでした。
 長者は、娘と侍女たちの霊を弔うため、回国修行の旅に出ました。長者が熊野本宮に参って祈りを捧げると、「私が子どもを授けたのは、そなたを仏の道に導くためであった。今後は新たに仏像をつくり、広く衆生を済度せよ。そなたに仏像のため光明木を与えよう。近いうちに行基という行脚僧が、そなたの家に立ち寄る。その僧に請うて六体の阿弥陀仏を刻んでもらうが良い」とお告げがありました。長者は、夢から覚めると、山中を探し、霊木を見つけました。長者は、切らせて姓名を書き記し、故郷へ流れ着けと願い、川に流しました。
 長者が故郷に帰ると、霊木は沼田の入り江に流れ着いていました。長者が行基を待っていると、行基が現れました。長者は行基にこれまでのいきさつを話すと、行基も自分の夢と一致すると、七日七夜の行で阿弥陀如来を念じると、阿弥陀仏が姿を現わしました。行基は合掌して、一夜のうちに一本の木から六体の阿弥陀仏を刻み上げました。長者は、六ヶ所に寺を建立し、六体の阿弥陀仏を安置しました。六ヶ寺の名称は、西福寺(北区豊島)、延命寺(荒川区小台にあった。現在は足立区江北の恵明寺)、無量寺(北区西ヶ原)、与楽寺(北区田端)、常楽院(台東区下谷。現在は調布市つつじが丘)、常光寺(江東区亀戸)と名づけられました。


性翁寺
 浄土宗の寺で、神亀3(726)年、行基が庵を開いたのがはじまりで、足立荘司宮城宰相が開基、明応元(1492)年には正誉龍呑上人を開山となったという。慶安元(1648)年には徳川家光から10石の地を寺領として与えられた。本尊の阿弥陀如来像は、平安時代のもので東京都指定文化財であり、足立姫と侍女の死を悼んだ父の足立荘司のために行基が霊木から六体の阿弥陀仏を刻み、さらに余った木からつくられたという伝説を持ち、「木余り如来」と呼ばれ、江戸時代から庶民の参詣が絶えなかった。

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足立姫の墓

(2005年4月10日撮影)



恵明寺
 真言宗の寺で、江戸六阿弥陀二番の札所として古くは小台の延命寺にあった。明治9(1877)年の合併の際、移された。この寺に伝わる六阿弥陀縁起、足立姫の伝説は広く知られており、人々の信仰を集めていた。境内には赤子を抱く子育て地蔵の座像が安置されており、その他に享保の百萬遍講中の塔や、文化6(1810)年武州足立郡沼田村と刻まれた宝きょう印塔もある。

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恵明寺

(2005年4月10日撮影)



宮城氷川神社
 豊島氏の一族・宮城氏の館の跡とされている。

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宮城氷川神社

(2005年4月10日撮影)



舩方神社
 ふるくは十二社といった。六阿弥陀仏の話では5人の侍女とあるが、十二天塚の縁起では、足立郡の庄司宮城宰相の娘・足立姫の12人の侍女が姫の後を追って入水したとなっている。

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舩方神社

(2001年7月1日撮影)


十二天塚

(2001年7月1日撮影)





 足立区の「足立姫」の伝説に対して、北区にはつぎのような伝説があります。登場人物を入れ替えただけの同じ構造の話です。王子町・編『王子町誌』(歴史図書社、1979年復刻)によりました。

 聖武天皇の時代、武蔵国豊島郡に庄司左衛門清光がいました。清光は、武勇に優れていましたが、熊野権現を深く信仰していました。すると、夢に熊野権現が現れ、自分をこの地に勧請しろと言いました。清光は、熊野権現を勧請し、王子権現としました。清光には子供がいなかったので、子を授かりたいと王子権現に参詣しました。すると、妻が身ごもり、女の子が生まれました。
 姫が15歳になったとき、隣の足立郡の沼田治部少輔が、姫を自分の妻にしたいと申し出ました。ところが、婚儀の儀式に欠いたことがあったので、沼田一族にあざけられてしまいました。これを恥じた姫は沼田川に入水してしまい、侍女5人も後を追いました。
 清光は、娘と侍女たちの霊を弔うため、回国修行の旅に出ました。清光が熊野に参って祈りを捧げると、「娘と侍女たちの霊を弔うため、新たに仏像をつくれ。そのため光明木を与えよう」とお告げがありました。清光が見ると、光明木が海に浮かんでいました。
 清光が故郷に帰ると、光明木が沼田川の淵に流れ着いていました。そのころ、行基は遊行の旅をしていましたが、光明木の話を聞き、訪ねてきました。行基はその木から六阿弥陀仏を刻み、清光に授けました。清光は、六ヶ所に寺を建立し、六体の阿弥陀仏を安置しました。

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