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ソシュール言語学の概要~あくまでもその一部ですぞw~

2005年03月29日 17時09分44秒 | 研究ノート
 つぎの文章は、竹田青嗣・著『現代思想の冒険』の第2章「現代思想の冒険」の1「ふたつの源流─ソシュール言語学から構造主義、記号論へ」からの引用で、ソシュール言語学の概要である。
 なぜ、そうしたかというと、客観的な事物の秩序(実在の秩序)がまず存在し、それを言葉が呼び当てている、と素朴に信じている人が多いということである(そう思うのがあたりまえだろうけど)。しかし、実際は、人間の言語行為が、網の目のように絶えずこの秩序を作り上げ、かつ絶えずそれを編み変えていく、ということを説明するためである。

 引用する際、ルビは[ ]に入れ、強調点はボールドに変えてある。




 すでに見て来たように、現在の日本のポスト・モダン状況は、フランスの現代思想の流れからその基本的な養分を汲んでいる。そしてこのフランスの現代思想の展開にとって、もっとも重要な意味を持つ思想家をぶたり挙げるとすれば、おそらくスイスの言語学者ソシュールと、生成の哲学を説いたニーチェということになるだろう。
 このふたりの思想家の業績は、たとえば、デカルト─カント─ヘーゲル─マルクスと辿った近代哲学(思想)の“主流”からは全く独立したかたちで立っており、ヘーゲル=マルクス主義へのアンチ・テーゼとして現われたフランス現代思想(構造主義、ポスト・構造主義)の源泉をなしているからである。
 まずわたしたちは、ソシュールの言語学の基本の考え方と、ついでそれがどういうかたちで現代思想に影響を及ぼしたかを考えてみよう。
 ソシュールの言語思想の特質を見るためには、彼が立てた言語に関する三つの枠組に注目するのが分り易い。この三つの枠組によってソシュールは従来の言語学の方法を、全く新しく書き換えてしまったからである。

 (1) シニフィアン(記号表現)─シニフィエ(記号内容)
 (2) ラング(言語規則)―パロール(個々の発語)
 (3) 共時態─通時態

 まず(1)の問題を見よう。ソシュールによれば言語記号(シーニュ)は、〈シニフィアン/シニフィエ〉というふたつの側面をもつ。たとえば「馬」というシーニュは、「UMA」という音声像(シニフィアン)と、その意味(概念)としての馬(=シニフィエ)という、コインの両面のような契機を持っている。
 ところでこの分割によって明らかになるのは、このふたつの側面の結びつきは、ある国語[ラング]の体系の中ですでに決まっているという点では必然的なのだが、しかしもとをただせば、たまたま「馬」が「UMA」と呼ばれるようになったという意味で、本質的には恣意的であるということだ。
 この「言語の恣意性」という考えをもうすこしひきのばすと、もうひとつの問題が出てくる。
 日本語の「ウマ」は、英語では「ホース」と呼ぶように、音の像は「馬」の概念と必然的に結びついているわけではない。これは、〈シニフィアン〉→〈シニフィエ〉という、いわばたて系列の恣意性である。
 だがもっと重要なのは、たとえば、犬─野犬─山犬─狼といった、語の横系列の恣意性がここから出てくる点だ。たとえば『ソシュールの思想』という優れたソシュール研究の著者である丸山圭三郎は、これを箱と風船のわかりやすい比喩で説明している。
 いま図1のように、犬─野犬─山犬─狼という言語の横系列(範列)があり、それぞれの語(シニフィアン)は、それに対応した概念を持っている。ところが、言葉は時代や場所で変化してゆくから、図2では山犬[ヤマイヌ]という語が死んで消えたと考えよう。すると常識的には、山犬[ヤマイヌ]という語で表わされていた概念が消えてしまうように思えるが、実際は図3のように野犬や狼という語の概念(シニフィエ)が拡がって、消えた領域をカバーすることになるのである。

 こういった言語の恣意性ということからは、次のような重要な観点をわたしたちにもたらす。それはつまり、言葉というものは、すでに客観的に存在する事物の秩序に、わたしたちが記号によって名前をつけていったものではなく、むしろ、事物の秩序とは、人間が言葉によって編み上げたものにほかならない、という見方である。
 丸山圭三郎は、この見方こそソシュール言語学のもっとも重要な核心であり、これによってそれまでの言語学(言葉は客観的な事物の秩序に名前=記号を与えたものだとする「言語名称観[ノマンクラチュール]」)の見方が、根本的にひっくり返されることになったこと、さらにそれだけでなく、この見方は、ヨーロッパの哲学や認識論を通底していた「実在論」の発想を打ち砕き、「関係論」という新しいパラダイムを導き入れる重要な転回点になったことを指摘している。
 だがこの点についてはのちに触れるとして、もうすこし進もう。
 (2)の分割は、〈ラング/パロール〉というものだが、ラングは、言語の諸規則(単語の意味、文法、その用法のきまり)を意味し、パロールは、それに従って行なわれる具体的な発話行為を指している。
 この分割は、一見わたしたちの常識的な考え方によく重なり合うものだ。誰もひとつの言語を習得するとき、その国の国語[ラング]の規則を身につけ、それに従ってしゃべることによって相手に意味が通じるようになるわけだから。
 しかし、ここで肝要なのは、この分割によって逆に、ラング/パロールの関係がそういう静的な対応関係に決して納まり切らないことがはっきりしてきたという点である。
 図4においてラングとパロールは静的な対応関係を保っている。しかし、実際には人間の個々の発語は、言語の規則の体系としてのラングをつねにはみ出すような仕方で存在する。その端的な例は詩的言語であり、ここでは意識的に一般的な言語規則からズレるような用法が使われることによって、新しい表現がもたらされるということが起る。
 つまり、現実としては、個々のパロールの実践は、ラングの体系を乗り超え、それを作り換えてゆく源泉となっているのである(図5)。ラングが単に規則的な差異の体系ではなく、「恣意的な差異の体系」と言われるのはそのためだ。

 さて、もうひとつの(3)〈共時態〉─〈通時態〉という分割がある。これは基本的には、言語がいま見たように、つねに差異の一般的な規則を乗り超えてゆくような性質(言語の恣意性)を持っているところから必然的に現われたものだ。
 言語はこの性質によって、ラングの体系を時間によっても空間によっても変化させる。すると、言語を差異の形式的体系として捉えようとするなら、ある特定の時の、特定の地域(たとえば東京と大阪では語彙も用法も違っている)の中だけでの体系性を想定しないと、そもそもラングの体系性ということが成立しない。そのため、ソシュールは、言語を記号の差異的体系として把握しようとする限り、その通時的な(歴史的)変化の研究と、共時的な(その時、その空間)体系性の研究は、はっきり分け隔てられなければならないと考えたのである。
 ところで、このようなソシュール言語学の最も重要な核心は何だろうか。
 まずそれは、わたしたちは知らず知らずのうちに言葉というものを、事物の客観的な秩序を正しく写すための道具だと考えているが、じつはその認識の道具としての言葉が非常に謎めいた性格を持っているということに着目させた点である。
 さしあたり明らかになったのは、まず客観的な事物の秩序(実在の秩序)があり、それを言葉が呼び当てるのでなく、むしろ人間の言語行為が、いわば網の目のように絶えずこの秩序を作り上げており、しかもまだ絶えずそれを編み変えていくのだということである。この見方は、すでにすこし触れたように、人間は事物の「実在」に対して言葉を介してむきあっているのではなく、むしろ言葉は、人間が事物に対して取っている実践的な「関係」を表現しているのだという新しい観点を導くことになったのである。
 ソシュールの言語学が切り拓いたこの発想は、従来の言葉と認識の関係に対する見方を大きく揺がし、やがて、ヤコブソンやトルベッコイなどの、ソシュールの形式化による言語分析を承いだ言語学者たちを経て、ふたつの大きな現代思想上の文脈を形づくることになった。

パラトラパ雅さんのサイト

2005年03月22日 21時00分00秒 | 研究ノート
パラトラパ雅タソのサイトを再ハケ~ンしたので、紹介します。

やほよろづ.COM

 パラ(パラサイコロジー=超心理学)+トラパ(トランスパーソナル心理学)の中村雅彦さんです。

 このホームページは、日本的霊性(スピリチュアリティ)についての体験的理解を試みる学術系サイトです。トランスパーソナル学、超心理学、霊性研究と霊的実践に関する豊富なコンテンツを紹介しています。

HP管理者のポリシー
 本HPは神道的な世界観を扱います。しかし、教派神道など特定の宗教団体、政治結社、および教義とは無関係です。
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とのことです。「心霊」に分類するとまた怒られそうなので、カテゴリは「研究ノート」でつ。。。

企画院=経済安定本部の役割~1940年体制と官僚制度~

2005年03月16日 18時47分00秒 | 研究ノート
この文章は、1995~96年くらいに、NHKの特集番組をもとにして、「現代社会」の授業のために書いたものである。どういう題名の番組だったかは忘れてしまったが。野口悠紀雄さんの『1940年体制~さらば「戦時経済」』(東洋経済新報社、1995年)をもとに書いたとずっと思っていたが、内容からしてちがうようだ(野口さんは官僚の役割を重視していないから)。いずれにしても、日本の経済システムが戦時中につくられ、戦後も連続してきたという内容である。




1.企画院=経済安定本部の役割
 日本では、中央官庁が日本全体の経済戦略を立て、私企業を指導・監督してきた。日本の高度経済成長はこれによって実現したとも言える。この中央官庁と私企業との官民協調体制は、世界的にみてもたいへんめずらしい。ここでは、戦中に設置された企画院と戦後に設置された経済安定本部をとおして、その成立を見てみたい。

2.国家総動員体制と「資本と経営の分離」
(1)国家総動員体制
 日本は1945年の敗戦まで、1931年の満州事変、1937年の日中戦争、1941年の太平洋戦争と、15年間にわたって戦争を続けてきた。この戦争遂行のためにつくられた国家総動員体制が官民協調体制の原形となった。
(2)企画院の設置
 日本政府は戦争遂行のため、経済の全面統制をめざし、1937年に企画院を設置した。企画院は1938年に、電力の国家管理を行い、すべての電力会社を「日本発送電株式会社」に統合した。そのとき問題となったのが、「私権」と「公益」のどちらを優先させるのか、という問題であった。日本政府は「私権」よりも「公益」を優先させた。
(3)資本と経営の分離
 笠信太郎(りゅうしんたろう 1900-67)は『日本経済の再編成』を1939年に刊行し、「資本と経営の分離」を唱えた。企業には、私的利益(利潤)を追求する側面と、生産によって公的利益に奉仕する側面とがある。このうち、利潤追求の側面を統制によっておさえ、生産力増強のため経営担当者に公的人格を付与する(企業の重役に経済官吏の身分を与える)のである。つまり利潤より生産を優先させるのである。

3.経済安定本部と傾斜生産方式
(1)経済安定本部の設置
 1945年、日本は戦争に敗れ、アメリカ軍の占領下におかれた。日本の生産設備の多くは空襲によって破壊され、経済復興が急務とされた。1947年に成立した片山内閣は、経済安定本部を設置し、経済復興の中心においた。経済安定本部の長官は企画院で活躍した和田博雄(1903-67)であり、副長官には経済学者の都留重人(つるしげと 1912-)と、後に日本商工会議所会頭をつとめる永野重雄(1900-84)を起用した。
(2)傾斜生産方式
 この経済安定本部が採用した生産方式が傾斜生産方式である。これは、当時の基幹産業であった石炭と鉄鋼に、資本と労働を集中的に投入する方式であった。また復興金融金庫をつくり、基幹産業に積極的な融資を行ったが、この資金を大量の紙幣の増刷で補ったため、インフレーションが起った。
(3)ドッジ=ラインと大蔵省
 日本のインフレーションを憂慮したアメリカは、アメリカの援助と補助金という2本の「竹馬の足」を切るドッジ=ラインを実施した。同時に赤字歳出をまったく許さない超均衡予算を要求した。当時、予算編成権を誰が持つか、ということをめぐって大蔵省と経済安定本部の間で対立があったが、このとき大蔵省が予算編成権を握り、以後「官庁の中の官庁」としての地位を得ていく。

4.官民協調体制と「高度経済成長」
 1950年代になると、経済安定本部の機能は縮小され、現在の経済企画庁となっていく。かわって企業を監督・指導する権限は通商産業省(通産省)など各省庁に移っていく。こうして官僚が私企業を監督・指導する官民協調体制が完成し、1960年代に日本は高度経済成長に成功したのである。




 日本の経済システムが戦時中につくられ、戦後も連続してきたという話をいちばん最初に聴いたのは、日本現代史の藤原彰先生(『昭和史』[岩波新書、新版1959年]の作者のひとり)の集中講義だったが、当時はその意義をまったく理解していなかった。
 都留重人さんは、伊東光晴先生の先生だったんで、『都留重人著作集』(講談社、1976年。全13巻)のうちどれか1冊を買って読んだはずなんだが…。
 えらい先生の授業を受けている割に、ダメポ人間だな。w

野口悠紀雄『1940年体制』~レミングスは崖っぷちを目指すw~

2005年03月15日 20時25分00秒 | 研究ノート
 現在、ライブドアとフジ・サンケイ・グループとのニッポン放送の支配をめぐる争いがつづき、マスコミにも大きくとりあげられている。
 このことについては、このgooブログでも、経済アナリストの森永卓郎さんが、「ライブドア問題を考える」(2005年03月09日)と「東京地裁」で、ライブドアを批判している。
 この問題は、マスコミ的関心とは別に、日本社会のあり方を考えるうえでひじょうに重要な事件だと思える。そこで、今回は、ホリエモンが何を壊そうとし、日枝フジテレビ会長・亀渕ニッポン放送社長がなにを守ろうとしているかを考えてみたい。
 もちろん、そのようなことを私だけで考えられるわけもないので、『「超」整理法』(中公新書、1993年)の著者として有名な野口悠紀雄さんの『1940年体制~さらば「戦時経済」』(東洋経済新報社、1995年)を引用したい。
 ただ、断っておきたいのは、私は必ずしも野口さんの考えに全面的に同意しているわけではないことである。私は大学で経済学をほんの少しだが学んだことがある。そのときの先生は、ケインジアンの伊東光晴さんと、マルクス経済学者の南克巳さんであった。どちらも市場経済=資本主義経済を信頼していなかった。その影響のため、市場経済=資本主義経済にまかせるにはとても危険だと私は考えている(この点は森卓さんと同じ)。
 しかし、それ以上に、「異常」に思えるのは、フジ・サンケイ・グループの手段を選ばない姿である。彼らは、ホリエモンを批判しながら、彼以上に手段を選んでいない。そこまで、彼らを必死にさせるには何なのか? それを考えてみたいのである。




2 総力戦遂行のための一九四○年体制

現在と戦時との連続性
 以上では、やや断片的に戦時体制の残存を示した。問題は、これらの「残存物」の評価である。これらは、個別的、例外的なもので、経済の実態には大きな影響はないといえるであろうか?実は、以下に示すように、これらは、決して限界的なものとはいえない。それどころか、これらは、日本経済の基本的なメカニズム─いわゆる「日本型システム」―の本質に深くかかわっている。後に述べるように、この体制こそが高度成長の中核であり、その重要性の認識なくして高度成長の秘密は解明できない。それだけではない。現在の日本経済で改革をなしとげるために大きな障害となっているのも、この体制である。戦時体制の残存という事実は、きわめて根の深い問題なのである。
 戦時経済体制に向けての諸政草は、一九四○年前後に集中してなされた。この時期は日本が太平洋戦争に突入する直前であり、総力戦を戦うためにさまざまな準備が必要だったのである。そこで、この時期に形成された経済体制を、「一九四○年体制」と呼ぶことが出来よう。それらが、現在に至るまで日本経済の基本的な仕組みを形作っている。これらについて、ここで簡単にまとめておこう。

日本型企業
 第一は、「日本型」の企業構造である。日本の企業は、経済学の教科書にあるような株主のための利潤追求の組織というよりは、むしろ、従業員の共同利益のための組織になっている。これは、日本の文化的・社会的な特殊性に根差すものだと説明されることが多い。しかし、戦前期においては、日本でも経営者は会社の大株主であり、企業は株主の利益追求のための組織だったのである。
 それが大きく変わったのは、戦時体制下である。一九三八年に「国家総動員法」が作られ、それに基づいて、配当が制限ざれ、また株主の権利が制約されて、従業員中心の組織に作り替えられた。これによって、従業員の共同体としての企業が形成されていった。
 また、終身雇用制や年功序列賃全体系も、その原型は第一次大戦後にあったが、戦時期に賃金統制が行われたことによって、全国的な制度に拡大した。
 労働組合も、日本では特殊な形態をとっている。先進諸国では、一般に産業別組合が典型的な労働組合組織となっているのに対し、日本では企業別労働組合がほとんどで、産業別組合という場合も、企業別組合を単位とする連合体組織である。この原型も、戦時経済期にそれまでの労働組合が解散され、労使双方が参加して組織された企業ごとの「産業報国会」に見いだすことができる。
 また、日本の製造業の大きな特徴である下請制度も、軍需産業の増産のための緊急措置として導入された。

間接金融
 第二は、金融システムである。一九三○年代ごろまでの日本の金融システムは、直接金融、とりわけ株式による資金調達がかなりの比重を占めていた。このようなシステムが、戦時期に間接金融へと改革された。これは、資源を軍需産業に傾斜配分させることを目的としたものである。
 また、これは、企業の形態が株主中心のものから従業員中心のものに変貌したことと裏腹の関係をなしている。配当が制限されれば、当然株価は低下し、株式市場からの資金調達が困難になるからである。
 間接金融の仕組みは、現在に至るまで、日本の金融システムの重要な特質である。

官僚体制
 第三は、官僚体制である。官僚制度自体は明治以来の伝統をもつが、その性格は、戦時期に大きく変貌した。
 それまでは官僚が民間の経済活動に直接介入することは少なかった。しかし、一九三○年代の中頃から、多くの業界に関して「事業法」が作られ、事業活動に対する介入が強まった。さらに、第二次近衛内閣の「新経済体制」の下で、より強い統制が求められるに至り、「重要産業団体令」をもとに「統制会」と呼ばれる業界団体がつくられた。これらが、官僚による経済統制の道具となった。また、営団、金庫など、今日の公社、公庫の前身も、この時代に作られた。
 これらの業界団体、営団、金庫などは、形を変えながら現在も生き残り、また、分野によってはその数を増やし、経済活動に対する官僚統制、行政指導の道具として、あるいは官僚の天下り先として、重要な役割を果たしている。
 さらに見逃すことが出来ないものとして、この当時の官僚の思想面での変化がある。これは、当時、革新官僚と呼ばれた官僚群の主張に典型的に見られるもので、企業は利潤を追求するのではなく、国家目的のために生産性をあげるべきだというものである。このため、企業の所有と経営の分離、古典的な所有権概念の修正などの主張がなされた。これは、現在に至るまで、官僚の意識に大きな影響を与えている。また、彼らは、政治家や財界に対する強い不信感をもっていた。こうした考えも、戦後の官僚の思考に大きな影響を残している。
(なお、政府の政策が戦後の経済成長にどの程度の役割を果たしたかは、疑問である。とくに産業政策の効果について、本書は、いわゆる「日本株式会社」的な見解には批判的な見解をとる。政府の基本的な役割は、経済成長をリードすることではなく、衰退産業の調整や、低生産性部門に補助を与えることであった)。

財政制度
 第四は、財政制度である。戦前期の日本の税体系は、地租や営業税など、伝統的な産業分野に対する外形標準的な課税を中心とするものだった。また、地方財政はかなりの自主権を持っていた。
 一九四○年の税制改革で、世界ではじめて給与所得の源泉徴収制度が導入された。所得税そのものは以前からあったが、これによって給与所得の完全な捕捉が可能になった。また、法人税が導入され、直接税中心の税制が確立された。さらに、税財源が中央集中化され、それを特定補助金として地方に配るという仕組みが確立された。
 税収が給与所得課税に大きく依存し、また補助金によって地方財政が国のコントロール下にあるというのは、現在にいたるまで日本財政の基本的な性格である。

土地制度
 この時期の経済改革には、いま一つの側面がある。それは、経済的・社会的弱者に対する保護制度が、社会政策的な観点から導入されたことである。
 農業、農村対策がその典型である。現在にいたるまで農業政策方基本となっている「食糧管理法」は、一九四二年に制定された。これは、単なる食糧管理にとどまらず、江戸時代から続いた地主と小作人の関係を大きく変え、地主の地位を大きく低下させた。これによって、戦後の農地改革の準備がなされたのである。
 また、四一年には、借地・借家人の権利を強化するための「借地法・借家法」の改正が行われ、契約期間が終了した後でも契約が解除しにくくなった。この背景には、家賃統制を実効的なものにすること、とりわけ、世帯主が戦地に応集したあとに残された留守家族が、借家から追い出されるのを防ぐという目的があった。
 これらの制度の運用は戦後むしろ強化され、地主の権利は著しく弱められた。それは、単に土地制度の基本を規定し、さまざまな意味で戦後の日本の土地問題に大きな影響を与えたというだけではない。より深いレベルで、戦後日本社会の基本的な性格を規定したのである。第一に、地主がいない社会、大衆社会を作った。経済成長や産業化が迷うことなく社会全体の目的とされたのは、これによるところが大きい。第二に、大多数の世帯が不動産の所有者である状況を作り出し、政治的な保守性と現状維持指向の基本的条件を作った。戦後社会の基本的な性格付けは、戦時経済体制の中で準備されていたのである。

野口悠紀雄、前掲書、6~12ページ。





 上でも、書いたが、私は必ずしも野口さんの考えに全面的に同意しているわけではない。野口さんが批判する「1940年体制」は、世界史的に見れば「1930年体制」と言った方がよく、アメリカのニューディール政策と同じ「修正資本主義」の一種である。全面的に市場にまかせてきた経済が、1929年に発生した「世界恐慌」で崩壊し、それを建て直すために、国家が経済に干渉するようになったのである。そういう点では、歴史的必然として出現したことを認めなければならないだろう。

 また、「1940年体制」以前の日本の社会もけっして住みやすい社会ではなかった。日本の戦前の農村は、地主が土地の半分を所有しており、農民の半分は小作人として地主の土地を借り、地主に高い地代を払っていた。現在の共産党につながる「講座派」は、このような農村の姿から、日本の農村はまだ封建制の中にあると考えた。そして日本の資本主義はこのような農村を基盤に発展してきたと考えた。
 山田盛太郎の『日本資本主義分析』によると、日本の労働者の多くは、『女工哀史』に出てくるような農村出身の女性たち、あるいは農家の二・三男であった。彼らは都市で家庭を持たなかった(持てなかった)ので、家族の維持のため支払われる賃金を必要としなかった。そのためひどく安い賃金(山田はこれを「インド以下的低賃金」といっている)で働かすことができた。こうして日本の資本主義は、本来労働者の家族のために払わなければならない分を払わずに、蓄積することができたので、急速に発展することができた。
 一方、農村はどうかというと、地主は小作人から非常に高い小作料を得ていたが、それを可能にしたのが都市から送られてくる労働者たちの送金であった。彼らはもともと安い賃金のうちからそのいくらかを実家に送金していたのである。
 このようにして日本では、農村における高い小作料と、都市における安い賃金が、互いに補填し合っていた、と「講座派」は考えたのである。

 1991年にソ連が崩壊した後、ロシアではツァーリズム(皇帝の支配)やロシア正教会への見直しが進んでいる。ツァーリズムやロシア正教会よりも、共産党支配のほうがよほどマシだと思っている私から言わせれば、バカじゃないかと思うのだが、どうもロシア人は、ついこの間まで自分たちを支配していた共産主義の方が、はるか昔のツァーリズムやロシア正教会より、憎いのである。
 野口さんの主張には、「1940年体制」をきらうあまり、それ以前のろくでもない半封建主義的資本主義を持ちあげすぎているように思える。

 それでもだ。ホリエモンに何かを期待してしまうのは、1940年代に成立して高度経済成長を支えてきたシステムが崩壊し、新しいシステムがまだできあがっていない、つまり行く方向がわからない日本社会にとって、彼が何らかの指針を与えてくれるのではないかと思ってしまうからなのである。彼の指し示す方向が「崖っぷち」かもしれないのに…。

リースマン『孤独な群衆』にある「内部指向型」と「外部(他人)指向型」人間

2005年03月08日 19時02分00秒 | 研究ノート
リースマンという社会学者が書いた『孤独な群衆』(加藤秀俊・訳、みすず書房、1964年)という本があります。現代社会の人間の社会的性格を「内部指向型」と「外部(他人)指向型」にわけた本なんですが、300ページもあって読む気力がありません。守弘仁志さんが「『情報化社会』とは何か」という論文(守弘仁志ほか・著『情報化の中の〈私〉』福村出版、1996年)の中で解説しているので、そのなかでリースマンをあつかっている部分を引用します。


〈私〉にとっての情報の位置づけが変化した

情報と〈私〉
 「情報に左右されずに生活を送りたい」と考えたり、他人から「そのときどきの情報に影響されて行動するのは、自分がしっかっしていない証拠だ」などといわれたことはないだろうか。また、流行のレストランに行列する人びとや、マスコミュニケーションで流行が伝えられた商品にいち早く飛びつく人びとのように、そのときどきの情報に踊らされて行動する人間をみると軽佻浮薄な在在のようにみえたことはないだろうか。
 このようにみると、どうも情報を取り入れて行動するのは社会的にすべてよいことというように意味づけられているものでもないようだ。しかし、われわれはさまざまな分野での最新の情報を求めている側面もある。サラリーマンにとって株式や企業情報などの経済情報は必須のものだろうし、営業活動をしている者にとっては得意先との商談に入る前の雑談としての昨夜のナイターやサッカーの結果、ゴルフのスコアをあげる方法、芸能人の結婚や離婚などの話題は得意先の相手の好みによっては知っておかなくてはならない情報であろう。なぜこのようなさまざまな「情報」がわれわれにとって必要となってきたのだろうか。「情報」と〈私〉、それはいまあげたように対立しているものとしても密接な関係をもつものとしても扱われている。
 そこで、本節では情報化と〈私〉についてその関連性とその変化について検討してみよう。まず、〈私〉にとって「情報化」が重要になってきたのはそれがまさに情報と〈私〉との関連づけが変化したからなのではないだろうか。情報と〈私〉の関係というのは、けっして時代的にみても固定的なものではない。よくみられる例としては、若者がファッションなどの流行現象の新しい情報を比較的取り入れやすいのに対して、年長者は取り入れにくかったり新しい情報を取り入れる若者を軽薄な存在として批判したりする。このような年齢差による情報観の差異はよくみられるものだが、つねに若者は新しい情報を積極的に取り入れ、つねに年長者は新しい情報を拒絶し、取り入れない存在なのだろうか。年代差のみでなくそれには時代的な要因、つまり時代的な〈私〉の情報の捉え方の差異がこのような両者の対立を生んでいるというような側面はないのだろうか。

「孤独な群衆」と情報
 ここで社会学者として高名なリースマンのもっともよく知られた著作である『孤独な群衆』を引いて説明していこうと思う。『孤独な群衆』を取り上げるのは、それがここで説明した〈私〉の情報に対する考え方、いわば「情報意識」 の差異を適切に説明できるように思われるからである。
『孤独な群衆』
 リースマンによる現代人の意識の変化を説明した著作(1961年)。リースマンは社会の歴史の中でのマクロな人間の意識変化を、歴史の中での三つの段階とその段階の間にある二つの革命に分けている。これらの客段階と革命はオーバーラップしていてゆるやかに変化していくものである。
 リースマンはまず二つの革命について説明する。第一の革命はルネッサンスから宗教革命、座業革命(16世紀から19世紀にかけて)であり、家族・氏族といった集団中心の生活から個人中心の生活への変化である。この革命によって 「個人」が自覚されしてくるのである。これに対して、第二の革命は「説明不可能な革命」なのだとリースマンはいう。なぜならこの革命はまだ始まったばかりなのでその全化について確定していないからである。ただ、モノを生産することが中心の時代からそれを消費することが中心の時代へという転換に関連する社会のさまざまな変化なのだという。
 次に、この二つの革命前後の三つの時代をまず彼は人口変化から説明している。人間の歴史にとって最初の時期は「高度成長潜在期」とよばれ、寿命は短く出生と死亡が等しいため人口は低い水準で横ばいを続ける。ところが第一の革命によって食料の増加、医学の進歩があり、死亡率は減少し人口は急速に増加する。これによって人口が増加し続ける第二の時期である「過渡的成長期」 に入る。これは17世紀から19世紀ぐらいまでである。そして第二の「説明不可能な革命」の結果も徐々に社会に現れるが、人口的には西欧諸国が経験しているような出生率の低下による「初期的人口衰退」期に入る。

 リースマンは社会史の中での人間の意識変化を、「高度成長潜在期」「過渡的成長期」「初期的人口衰退期」の三つの段階とその段階の間にある二つの革命に分けるが、これらの各段階と革命はオーバーラップしていてゆるやかに変化していくものとされる(Riesman, 1961)。
 このような時代に〈私〉はどのようにかかわり、また情報はどのような位置づけにあるのだろうか。高度成長潜在期における〈私〉は最頻的(modal)な性格として「伝統指向型(tradition-directed types)」のパーソナリティをもつ者が多い。この時代の主要な産業は農業などの第一次産業であり、農業生産のものが決まった季節に種をまき、また決まった季節に収穫するという規則性、安定性のもとに成り立っている。むしろ違う季節に種をまいたり収穫したりすることは食料を失うことになり危険な行為なのである。人口も変化しないから決まった季節に決まった量だけ種をまきさえすれば一定の収穫があり、社会はそれで維持される。このような社会においてはすでに存在する規則である伝統を守ることが重要な意味をもつ。<私>は何ら新しいことを考えず先祖から受け継がれてきた伝統をひたすら守ればよい。したがって〈私〉は個性のない人間である。同世代の人間と比べても親と比べてもあまり違わないことのほうが重要なのである。そして「情報」は先祖から受け継がれてきた伝統そのものであり、この情報は時代が過ぎてもあまり変化せず、固定されたものになる。

「内部指向型」における情報
 これに対して、第一の革命を経た第二の「過渡的成長期」における〈私〉は内部指向型(inner-directed types)」のパーソナリティをもっている。この時代の主要な産業は第二次産業であり、とくに工業である。また、この時代になると人口が増加するため、新たな土地へ移動するなど社会の構成員の流動性が高まる。そして伝統指向の社会におけるような社会自体の固定的な安定性がなくなる。また、工業自体も新たな産業技術がどんどん開発される技術革新によって進行していく。そのため、それまでは固定的だった〈私〉のまわりの状況は流動的になり、新しい状況が現れてくる。そして、かつては都合のよかったさまざまな規則よりも、新しく開発された技術に見合った新たな規則のほうが都合がよい、したがって規則をどんどん変えていくということになる。ここで、人間は伝統的で固定的な規則や考え方では工業に携わることができなくなり、古くから受け継がれてきたという理由だけで維持されてきた「伝統」は無力化する。
 この時代の〈私〉は、将来新たな状況に遭遇しても適応可能なように幼児期に年長者(両親、教師など)によって人生の目標を位置づけられる。リースマンはこの幼児期に植えつけられた目標を心理的装置としての「ジャイロスコープ(羅針盤)」としている。〈私〉はそれをもってほかに何の手がかりもないままに人生という大航海に旅立つのである。心の中にはつねにジャイロスコープがある。それはつねに〈私〉が植えつけられた人生の目標の方向を指し示す。ときには何らかの大きな障害物がジャイロスコープの示す方向に現れるかもしれない。しかし〈私〉は本来の人生の目標をけっして失うことはなく、苦労してそこを乗り越えたり、いったんはまわり道をして迂回しつつも、最終的には人生の目標の方向へと向かうのである。これが「内部指向的性格」である。したがって、内部指向的性格はどのような新たな状況が生じてきてもそれに対処することが可能である。〈私〉は自分自身で人生を切っ開いていくという感覚をもち、伝統指向の時代に比べると、各々の人生の目標のもっている差異が存在し、個性的な人間になる。時代の変化の激しい時代にあってはこのような性格が適合的なものになるのである。ただ自分のもっているジャイロスコープの妥当性について心の中ではそれが他人によって据えつけられたという一抹の不安感をもちつつも、自分のジャイロスコープが指し示す目標を唯一のものとして、それに対する他人の批判はけっして取り入れないのである。
 この時代の情報はジャイロスコープの目標として示される内部にもたれた固定的な情報群と、つねに変化する自分のまわりの新たな状況から構成される情報群とに二分される。前者はつねに保持され捨て去られることはない。それに比べて後者は前者の情報群を実現する際の外的状況であり、前者に実現に有利なものは取り入れられ、障害となるものは何らかの策をもって対処される。後者の情報枠はそれが前者の情報群にとって促進的な情報なのか、阻止的な情報なのかという点で重要なのである(現代的な表現でいえば前者はコンピュータの読み出し専用メモリー ROM(read only memory)であり、後者はランダムアクセスメモリー RAM(random access memory)のようなものである)。このようなことから内部指向型の〈私〉にとって情報とは「人生の目標」として内部にあり、幼児期からもっている変わらない固定した情報群と、外部からの日々変化する新たな情報群があり、後者は前者の実現のための外部状況を知るために利用されるものである。そのようにみると前者の情報は確固とした〈私〉を形作り、後者の情報は確固とした〈私〉が社会に適応するための手段としての情報でもある。その意味で後者の情報にあまりに依存することは前者の情報群である「内部指向」を脅かすことになり、危険である。現在の若者に対して「外的な情報にばかり動かされて、内部に本当の自分がない」というような批判はまさに内部指向型からの批判なのである。
 また、この時代の主たる産業は工業であった。工業生産は主として機械や生産物に人間が働きかけることによって成立する。そのため内部指向の人間においては、人づきあいのよさは必ずしもよい人間とは限らないのである。おしゃべりのうまい人間よりも、黙って機械を操作する人間が評価される。自分の心の中に壮大な人生の将来目標を抱き、外部の「騒音」(情報)には耳を賃さず、いまは黙々と地道に生産活動に従事するのが「内部指向型」である。

「外部指向型」における情報
 リースマンは、現代社会の社会心理学的パーソナリティが「内部指向型」から別の型へ移行している時代として捉えた。第二の、現代において「まだ始まったばかりの」革命を経た、第三の「初期的人口衰退期」の人間は「外部指向型(other-directed types)」のパーソナリティをもっている。この時代の主要な産業はサービス産業などの第三次産業である。この時代に入ると出生率が低下する。その一方で技術の発達により生活が豊かになるとともに、技術革新によって人間が直接機械の操作に携わることが少なくなり、非生産的産業が多くなる。非生産的産業とはサービス産業などの他人を相手にする、いわば「人間接触的な産業」である。しかもその一方、交通の発達で人間の移動の機会はさらに多くなる。したがって「他人」との接触の機会が増加し、「他人」が気になるようになる。つまり、他人と付き合い、相手をする職業についているので、他人とのコミュニケーションを行えることが必要となってくるのである。
 ここで技術革新の進行はさらにスピードを早めているので、内部指向型のようにその人の幼児期に据えつけられた人生の目標でさえ実現は危うくなる。本書の筆者たちの多くが大学生だった1970年代後半から1980年代にかけては、大学生の就職人気企業としては金融、損保、マスコミと並んで製造業にも人気があった。その理由は資本金が多額で、大きな工場や社屋をもち、従業員数も多く、まさに大企業だったからである。しかし、現在では製造業は生産縮小、海外移転、リストラなどで話題を呼び人気がなくなってしまった(もっとさかのぼると1950年ごろの大学生の就職先人気企業は石炭会社だったのである)。つまり、時代の変化があまりに速いため幼児期に「このような仕事につく」と決められ、それに向かって進んでいったとしても、その職業自体がすでになくなり在在しない、というような状況が出現する恐れが出たのである。「内部指向型」は時代の変化に対応できるように、ゴールだけを設定しそこにいたるまでの新たな状況に柔軟に対応できるようにしたパーソナリティであった。「内部指向型」のパーソナリティは時代に合わなくなってくるのである。
 第三の「初期人口衰退」の時代の人間は、人生の目標を設定しても仕方がないということになる。しかもこの時代に多くの人間が従事する産業は人間接触的産業である。このことからこの時代に多いパーソナリティは「外部(他人) 指向型」になるのである。そこでは〈私〉が時代を生きる方向づけを与えるのは「同時代人」なのである。「内部指向型」が人生の長大な目標をたててもそれはあまりに大きな時代の変化によって達成されない恐れがあるので、むしろそのときどきの状況に応じて他人の動向に合わせて行動するほうが得策になるのである。何しろ明日は何が起こるかわからないのだから何十年も後の計画をたててもむだである。むしろそのときどきに他人がしているのと同じ方向についていくほうがよい。いま、職業として注目されているものにつき、それが廃れたらまた別の注目されている職業につく。〈私〉が幼児期に形作ったジャイロスコープはもはや時代の変化に合わないため打ち捨てられ、代わりに同時代人が何を考え、行動しているかをいち早く察知する心理的装置が必要になる。リースマンはこの装置を「レーダー」とよんだ。外部指向型の人間はこのレーダーによって同時代人の動向を知るのである。
 さて、この時代における〈私〉と情報の関係をみてみよう。内部指向型の人間にとって「情報」とは幼児期にもった人生の目標を実現するために、刻々変化する現実社会から取り入れるものであるといえる。ところが、外部指向型のパーソナリティで必要なのは「人生の目標」ではなく、レーダーで取り入れた 「他人は何をしているのか」というまさに「情報」のみなのである。「外部指向型」は「他人指向型」でもあるが、「外部」とはまた「情報」でもあるのだ。変化する外部の情報を取り入れ、それに従ってさえいれば、時代に合致した生き方ができるのだ。

情報の意味づけが矛盾している現代
 このようにして現代人にとって情報、しかも刻々と変化する情報がしだいに重要な意味をもつようになってきたことがわかると思う。かつては〈私〉にとって情報はある程度固定的なものであったが、現代社会に生きるためには、新しい情報をつねに取り入れなければならないのである。リースマンの『孤独な群衆』は1960年代には、内部指向型を評価し外部指向型を批判したものとして読まれた。これはこの時代の現代人が内部指向型の人間だったからであろう (リースマン自身はそのような意図がないことを繰り返し述べている)。しかし、現代の観点では、外的情報を取り込んで生きる外部指向型人間のほうが現代人を的確に表現しているように思われる。
 そして、現代は第二の革命が生起している時期にあたり、「内部指向型」のパーソナリティをもつ人間と「外部指向型」のパーソナリティをもつ人間が社会の中に並存するとともに、個人の中でもこれまで受けてきた「内部指向的」 教育と「外部指向的」な社会情勢との狭間で迷ってしまうこともあるのではないだろうか。したがって、内部指向的な「外的な情報に左右されずに、しっかりと自己を確立して生きろ」という発言にはうなずいてしまうし、内部指向的に人生の目標をもって黙々とその目標に向かって努力している人間には、その努力に対して社会的な評価が与えられことも知っている。その一方、このような人びとは人付き合いの悪い人間としてのマイナス評価もあり、1980年代以降、話の下手な「暗い」「ネクラ」人間として嘲笑する風潮が続いていることも知っている。
 逆に、外部指向的にそのときどきの状況に適応している人間に対しては、時代にあった職業をいち早く見つけ、そこで社会的な名声を得る「世渡りのうまさ」が、またコミュニケーションの上手な「ネアカ」な側面が評価されたりしながらも、個々の状況には適切に対応できるが長期的な自分の人生の統一性がなく、状況依存的な「軽さ」が批判されていることもまたよく知るところである。
 このように現代社会ではある情報を、われわれの内部にすでに存在したりこれから培われたっする固定された情報群と、外部にありそのときどきに処理されることを待っている多くの情報群とどちらに位置づけるべきなのかという対処法が問われるという難しい時期なのではないだろうか。なぜなら、人間の情報のかかわり方自体の変化としての「内部指向型」から「外部(他人)指向型」ヘの変化自体も一朝一夕に進行するものではなく、かなりの長いスパンをもって変わっていくものだからである。その意味で人生を送る中で自分の中にもった確固たる変化しない情報群が効力を発揮するときも、また新しい情報群をいち早く自分の中に取り入れることが有効なこともあるだろう。したがって、情報に対する考え方である「情報観」そのものも人によって大きく違うということは、われわれ自身が身をもって体験していることである。したがって、これからは「外部指向型」「他人指向型」の時代だから、そのときどきに合致した情報をどんどん取り入れてその情報の指し示す方向に生きていくのが情報とかかわっていくうまい生き方てあり、将来失敗しない情報とのかかわり方である、と断言することはできないのだ。
 リースマンと同時代の社会学者で、彼の論敵でもあり、現代社会をより批判的にとらえたミルズは、現代人を「陽気なロボット(cheerful robot)」とよんでいる(Mills, 1959: 169-176 [223-231])。情報に従って他人とうまく付き合い陽気にみえるが、じつは心の中は冷たく人間性がない。あまりに外部情報を重視しすぎると、膨大な外部情報のたんなる処理に追われ、「〈私〉は何なのか」がわからなくなってしまう恐れはある(このことについては4章で詳しくふれよう)。
 成田康昭によると、現代社会には大量の情報が流通しているが、それを何らかの手段で自分の中に取り入れていかないと社会の中で生きていくことができない。ところがこの大量の情報は個人が知り尽くすにはあまりに多く、何らかの手がかりをもって効率よく知っていかねばならない。ここで情報を知る能力は二つに分けられる。たんに多くの情報を迅速に処理する能力で情報処理機器によって代替することが可能な能力は「情報的能力」とよばれ、情報を「知る」能力である。これに対して処理される大量の情報をまとめ、必要なものと不必要なものに分けたり、必要な情報のみを見分けたりすることのできる能力で情報処理機器によって代替することが難しい人間的な能力は「統合的能力」 とよばれ、まさに「手がかり」をつかむ能力である。しかし、とくに社会の入り口に立ったばかりの若者はどのような手がかりを用いればよいのかわからない。そのような中で、現代の若者の情報統合の型は次の四つに分けられる(成田, 1986: 20-105)。
 それは、(1)処理する情報をせまい範囲に限定し、その中に関しては完璧に統合し知り尽くす「マニア的世界」の若者、(2)ある特定の原理を無条件に信じ、多くの情報をその原理に則って強引に解釈することによって統合する「オカルト」の若者、(3)多くの情報をその場の自らの恣意的な感覚で解釈することによって統合する「ノリ」の若者、(4)多くの情報の多様な中身を自ら詳細には検討せず、その情報についているレッテル(社会的な評価)だけで判断し統合する 「ブランド」の若者、の四つである。これをリースマンの型にあてはめるならば、(1)(2)は「内部指向型」の影を引きずっており、(3)は「内部指向型」のふりをしているだけで「内部」がないし、(4)はより「外部指向型」に近い。
 たとえば1989年には幼女連続誘拐殺害事件の被告のマニア的世界が問題に、1995年には今度はオウム真理教のオカルト的若者が問題になった。ジャーナリズムを含めて、このような若者は理解不可能な「新しい」若者として扱われた。だが、そこで扱われた「新しい」若者たちは、じつは内部指向型の現代的な対応だったという、より古い型の〈私〉をもった若者だったことさえ考えられるのだ。

文中の参考文献
 Rieseman, D., The Lonely Crowd, Yele University Press, 1961 renewed 1989. [加藤秀俊・訳『孤独な群衆』みすず書房、1964年]
 Mills, C., The Sociological Imagination, Oxford: Oxford Univ. Press, 1959. [鈴木広・訳『社会学的想像力』紀伊國屋書店、1965年]
 成田康昭・著『高感度人間を読解する』(講談社現代新書、1986年)

有機的生産と機械的生産との本質的差異(0/3)

2004年12月02日 19時16分58秒 | 研究ノート
 これは、Eduard David, Sozialismus und Landwirtschaft, 2. Aufrage, Leipzig, Verlag von Quille & Meyer, 1922. (エドゥアルト・ダーヴィト『社会主義と農業』第2版、ライプツィヒ、1922年)の第2章「有機的生産と機械的生産との本質的差異」の翻訳です。
 ダーヴィト(1863-1930)は、ドイツ社会民主党(SPD)右派に属し、修正主義論争で活躍した論客です。彼は、農業(有機的生産)と工業(機械的生産)を同一視し、資本主義の発展によって農民層の消滅を予言したマルクスを批判し、農業と工業は本質的に異なっており、資本主義が発展しても農民層は消滅しない、と論じました。ダーヴィトのほうが正しかったんですが、「修正主義者」というレッテルを貼られ、長らく評価されませんでした。
 ダーヴィトを知ったのは、『玉野井芳郎著作集2 生命系の経済に向けて』(槌田敦/岸本重陳・編、学陽書房、1990年)によってです。題名に「生命系の経済」とあるように、エコロジカルな視点から見直すと、おもしろいことを言っているというわけです。
 この本を手に入れるのに、当時アルバイトをしていた一橋大学の図書館から借り出しました。スペイン内戦関連のカードをつくるアルバイトだったんで、司書の人に頼んで、けっこう自由に本を借り出せました。w
 ドイツ語からの翻訳ですが、ドイツ語は大学1~2年生のとき勉強しただけなので、細部はけっこうあやしいです。w
 構成はつぎのとおりです。
第2章 有機的生産と機械的生産との本質的差異
 §5 マルクスの発展論における労働手段の重要性
 §6 農業生産過程の特殊な本質
 §7 機械的生産と有機的生産のいくつかの重要な差異

有機的生産と機械的生産との本質的差異(1/3)

2004年12月02日 19時16分01秒 | 研究ノート

§5 マルクスの発展論における労働手段の重要性


 社会の発展に関するマルクスの理論は、物質的な財貨生産への彼の考察の結果である。人間の共同体がその物質的な存在のために欠くことのできない物を手にいれる性質は、その残り全ての存在の形成にとって基本的に重要である。「物質的な生活の生産様式は社会的、政治的、精神的生活諸過程を一般に制約する。」(1)

(1) カール・マルクス『経済学批判』カール・カウツキーによる新版、シュトゥットゥガルト、1897年-1859年出版のその著書の序言でマルクスは彼のいわゆる「唯物史観」を簡潔に述べている。詳しい描写はフリードリヒ・エンゲルスの『オイゲン・デューリンク氏の科学の変革』(第3版、シュトゥットゥガルト、1894年)の第3篇に見られる。-ここではこの歴史哲学的理論に対して態度を決めてはならない。我々はそれを、農業の発展についてのマルクスの理解の描写にとって必要なだけ、我々の考察に取り入れる。


 ある時代の財貨の生産の分析はマルクスによってその内部の状態、その闘争と成果の全複合体の理解のための門を開いた。それは同時に歴史的変化の秘密を暴露し、発展の原動力を示す。それが物質的な財貨生産の領域における発展であると、社会的諸制度と社会観の改造にはずみを与える。物質的な生産の発展はすべての歴史の土台である。
 カール・マルクスの長年の協力者であるフリードリヒ・エンゲルスは次のように述べている。「唯物史観は次の命題から出発している。つまり生産と、生産に続くその生産物の交換は、全ての社会制度の基礎であり、それぞれ歴史的に出現する社会において生産物の分配、そしてそれとともに諸階級あるいは諸身分の社会的編成は、何がどのように生産され、生産されたものをどのように交換されるかに従う。これによってあらゆる歴史的変化と政治的変革の最終原因は、人間の頭の中で、つまり永遠の真理と正義についての増大する理解の中でではなく、生産と交換の様式の変化の中に求めるのであり、それらは問題の時代の哲学の中ではなく、経済の中に求めるべきである。」(前掲書、286ページ)
 しかし財貨生産の対象と方法は、生産によって社会が利用できる手段に依存している。「人間が彼らの生計費を獲得し、彼らがそのために必要な富を生産する性質は、その道具と原料の性質、一言で言うと財貨生産(生産)のために自由に使える手段、その生産手段に依存している」とカール・カウツキーは述べている。(『エルフルト綱領』3ページ)そしてマルクスは労働手段が社会の経済的基盤の形成におよぼす決定的な影響について次のように述べている。「滅亡した種の組織の知識のために骨格の構造が持つのと同じ重要性を、労働手段の聖遺骨は没落した経済的社会構成体の判断のために持っている。何がつくられるかではなく、どのように、どのような手段でつくられるかが経済上の諸時代を区別する。労働手段は、単に人間の労働力の測定器のみではなく、その中で労働が行われる社会的諸関係の指示器である。」(『資本論』第1巻、142ページ)
 およそこの様式で物質的生産の領域における諸変化をとおして歴史的発展を規定して見る人は、これらの諸変化をさらに生産手段の諸変化に帰し、生産手段とくに労働手段(道具)にそのような決定的な役割を割り当て、彼の経済的研究の突出した場所を財貨生産の技術に論理的に明け渡さなければならない。そのためカール・マルクスは、財貨生産の労働過程の技術的手段と方法を詳しい分析に服させることで、それを行っている。その結果は、より大きい段階にある経営が、その段階でこれだけに用いられうる動力・工作機構のために、小経営を経済的に打ち負かす、という理解である。大経営は、小さな手工業の経営よりも、相対的によりわずかの労働力の消費で生産費用をつくりだす。後者はほとんど競合できず、衰退の状態にあり、後者はそれだけになおさら、大経営が生産物の販売と同じく原料の購入で得る、あらゆる前者の商業上の利益をなしで済ますことになる。だから、原則的説明がエルフルト綱領の実践的要求を前提とされたとき、ブルジョア的社会の経済的発展が自然的必然性で小経営の没落を導くという原理が、理論的な思考の鎖の出発点を形成する。
 小経営の潰滅はいっそう広い小さな所有の潰滅を前提としている。より強力な大経営の外的形成とともに、より少ない手の中へのより大きな富の堆積が実現している。現在の経済的・社会的制度の全体的貧困は、より大きなそしてこのもっとも大きな[生産者]による小さな生産者の収用過程を結果として生んでいる。
 財貨生産の技術的手段と方法の止まることのない進歩は、しかしまた他方必ず、資本主義的[経済様式]から社会主義的経済様式へのより広い発展に結果としてなる。巨大なものに成長し、生産の社会的組織をより大きな段階にする生産諸力は、私的所有諸関係と和解できない対立を引き起こす。ただ社会主義的物体の制度によってのみ生産形態と所有形態との調和が回復される。「社会主義的社会を必然的につくるのは大経営である。」(カウツキー『エルフルト綱領』150ページ)
 大経営による小経営の駆逐についてのマルクスの予言は、工業生産のもっとも重要な諸分野にとってだいたい真実であることが証明された。(2)

(2) それがここではより大きな原型にしたがってすべてひとつの道を行くわけではなく、集中の速度についても極端な観念に陥ってはいけない、とエドゥアルト・ベルンシュタインは説明している。この本を参照、『社会主義の諸前提と社会民主主義の任務』シュトゥットゥガルト、1899年、55ページ以降。


 農業の領域ではこれと異なっている。そこには発展の全体図にまったくあの経営の集中の動きが欠けている。反対に農業が強力な使用様式に進んでいるところではどこでも、反対の傾向が出現している。つまり大経営は後退し、小経営が繁栄し、前進している。
 したがって、この綱領に反する農民的経営の状態を説明するために、あらゆる種類の農業的生産過程の他に存在する理由が求められている。もっとも近くにある考え、つまり農業的生産それ自身の固有な特性の中に決定的な理由を探すことに思い至らなかった。マルクスの生産分析の権威はその動きの中にある。

有機的生産と機械的生産との本質的差異(2/3)

2004年12月02日 19時14分50秒 | 研究ノート

§6 農業生産過程の特殊な本質


 一般的な労働過程の理論的分析によっても(『資本論』1巻、5章、1節)、協業、分業および近代的工作・動力機構の影響下で生産過程が受ける形態変更の詳しい描写によっても(『資本論』1巻、11~13章)、マルクスによって、その固有の特性の中で農業の生産過程を理解する試みは、行われなかった。マルクスは、農業と工業の生産過程は本質的に同質であり、工業の生産の分析によって発見された小経営から大経営への発展傾向は同じく農業の財貨生産にも当てはまる、という暗黙の前提から出発している。彼が農業に投げかけたたくさんの一時的な側面からの眼差しは、ほとんど何もかも同質性についての例示の性格を持っている。そして同じく農業に捧げられた総括「大工業と農業」(『資本論』1巻13章10節)は、経営技術の発展は工業と同じく農業においても実現する、という根本思想から引き出されている。そこと同じくここにも、大経営による近代的機構と他の資本主義的設備と方策の助けをともなった小経営の駆逐が存在する。
 我々はこの同じとする立場の批判的考察にはいる。マルクスによって適用された労働過程の術語を農業的生産に転用する試みは、両方の生産領域の間の本質的差異の無視から出発し、同じものであるという理解に導く、という困難にもうすでに巻き込まれている。
 3種類の、(1)人間の目的意識的活動である労働、(2)それから生産物がつくられるはずの自然物である労働対象、(3)それをとおして労働対象が労働者によって加工される物体である労働手段が、マルクスによると生産物の製造に属している。後二者である「客体の要素」は「生産手段」としてまとめられ、それと「人格的要素」としての労働は対立している。
 「労働手段は」マルクスの定義によると「労働者が自己と労働対象との間に置き、彼の行動の導体としてその対象に奉仕する、物体あるいは物体の複合体である。彼は物体の機械的、物理的、化学的諸特徴を利用し、他の物体に対する力の手段として彼の目的に応じてそれを作用させる。」(『資本論』1巻、141ページ)-マルクスは大地もまた農業における労働手段に含めている。(142ページ)ところが農業における生産過程において大地は、種子の耕作で見られるように、労働対象に対する人間活動の単なる「導体」としてだけ機能しているわけではない。大地は、単なる仲介者つまり植物の卵の孵卵器ばかりでなく、養育者でもある。土地はその物質の一部を植物性生産物の増成のために譲り渡す。土地は、耕作によって補給された労働手段との合作において、労働手段と同じく原料としても見なされるべきである。マルクスの定義はそれゆえに貫徹していない。耕地の表土は、同時につまり同じ生産諸過程の同一の段階で、-そのうえ問題なのは-客体の生産要素の両方の範疇の中に出現し、外部装置としてそれが人間の労働を植物本体に移動させ、同時にそれが材料として生産物の形成に移行する。
 同じくマルクスの労働手段の定義は農業の家畜について不十分であることが判明している。農業の家畜が生産過程に積極的に関与させられている限り、マルクスはそれを労働手段に含めている(前掲書、142ページ)。しかしその家畜が労働手段として演じている役割は前述の労働手段の定義では収まりきらない。農家は、ものを引く馬、乳を搾り子牛を生む牝牛、卵を生む雌鶏および雄鶏を利用するとき、けっしてこの「物体」の「機械的、物理的、化学的特性」を、他の物体に対する力の手段として合目的に行使させるために、利用しているだけではない。ここではその上あるいはそれどころか第1に生理学的特性を考慮にいれる。(3) 「家畜の意志」つまり家畜の素質、能力、欲求が生産過程に同じく決定的な要素として現れる。それゆえここではマルクスの定義があまりに狭いことがはっきりする。農業は特有の生命の問題と独自の機能・能力で労働手段を用いている。

(3) 生理学的特性は単に機械的、物理的、化学的特性の組み合せにすぎず、その限りでは本質的に異質なものではない、という反対があるだろう。生物学的問題がいつかこのような意味で消滅し、有機的生命を非有機的成分からつくりだすことに成功することも不可能ではないだろう。しかし我々はまだこの問題の解答の跡をたどっているわけではない。自然の支配の中に生理学的特性と法則はいずれにせよそれ自体として序列づけられている。


 また「原料」としての種子については、それ固有の事情が存在している。種子が生産物の増成を行う機能は、マルクスによるそのなかに原料の実体が存続するような、形成されるべき生産物へのその物質の引渡しに終わるのではない。胚芽核のまわりについている栄養物質は、後で外から補給される栄養の集まりの多さに比べるととてもとるに足りない。(植物と家畜の)種子を種子たるものにしているのは、将来の生産物のためにその法則と形態の中にしまい込まれている胚芽細胞の中心の生きている点である。そのことが農業の生産過程において種子に、マルクスの原料の定義にはけっして含まれていなかった、それ独自の意味を与えている。農業において種子が満たす機能を、工業的加工部門たとえば製粉所、醸造所、蒸留所等の演じる役割と比べると、ここに存在する特殊性がはっきりと現れる。そこには実際、機械的、物理的、化学的作用による単なる形態変化をとおして新しい生産物になる、マルクスの意味での原料、つまり死んだ物体が存在している。農業生産ではまったく異なっている!そこでは種子は生きた有機体として活動しており、それが経験する変化は生理的な進化である。
 そしてそれとともに我々は農業的生産と工業的生産との根本的な相違の前に立っている。農業においては生きているものの生育が問題であり、工業においては死んだ物体の加工が問題である。死んだ物質の加工には人間の意志が存在しており、それが、直接の推進力をとおして、つまり自分の意志を持たず次々にまわしていくにすぎない諸結合部分をとおして、生産物の製造のために必要な物体の分離と結合を実行する。それに対して農家は、分離させ、結合させる活動を生きた自然の自発的行為に譲り渡さなければならない。これが直接的な生産者である。人間の労働はまず二次的な立場に立つ。人間の労働は生きているものの育成の法則と気分に自分自身を適合させる。人間の労働は直接生産者を生産物製造過程に参加させるだけである。工業的財貨製造は機械的過程であり、農業の生産は有機的過程である。
 生産の経営的区分は原料生産と加工生産における区分である。それによると、農業を除いた採石、鉱山等における原料の経営的獲得は原料生産と見なされる。完全に手元にある自然物のこの単なる占有は、両方とも原料の源である土地に結びついている限りでは、今はなるほど農業的生産と同質である。しかし経済的観察の他の側面にとって両者は対立している。人間の労働が生産物の創造で演じる役割については、鉱山における原料生産と耕地での原料生産との間には、耕地での原料生産と加工生産との間にあるのと同じ根本的差異がその代わりに存続している。鉱物と鉱石の獲得は、その同一の段階が人間の意志の主導権と指導の中断されない結集の監督下にある、純粋に機械的な過程の中で実現する。だから我々は加工とともに占有を機械的生産の概念の中にまとめ、それを有機的生産としての農業と対立させる。
 農業的財貨獲得の中心にある有機的過程がその固有の本質を決定している。有機的過程が消滅するやいなや、本来の農業的生産は中断してしまう。取り入れ作業は農業的生産領域から工業的生産領域への移行を形成している。それは、一方では農業的労働過程の特別の条件の下でなお続いており、他方動かしうる死んだ対象に関する労働(輸送、脱穀、精白等)として機械的生産の領域に属するのに十分である。製粉、製パン、、バターおよびチーズつくり、蒸留業等におけるより広い加工はこれに含めるのに十分である。農業経営の中にそれがまだしばしば埋め込まれることは、それについてはまちがってはいない。他の加工部門と同じく、このいわゆる「農業の副次的工業」にもマルクスの生産理論は当てはまり、そこから、我々が後で見るような、ひどくまちがった推論がより狭い本来の意味での農業的生産の発展に導入された。
 農業労働は植物と動物の生命現象のための準備と補助の臨時労働であるという事情から、生産のこの領域にとっての一連の根本的な特質が生じている。仮の方向づけへの個別的描写にはいる前に、いくつかの重要なことがらへの視点、つまり工業的生産と農業的生産との本質的違いから直接生じてきた相違を見ることは、適切であると思える。

有機的生産と機械的生産との本質的差異(3/3)

2004年12月02日 19時13分38秒 | 研究ノート

§7 機械的生産と有機的生産のいくつかの重要な差異


 1.有機的生産で使用される労働は、我々が機械的作業による製造で見る、継続した流れをまったく欠いている。スカート、テーブル、機械等の製造は、別々の時間に開始されたり、一度に開始されたりできるし、もはや労働を中止することもない。人間は労働を中断できるが、中断する必要はない。そしてそれは完成した部分であり、そのためいかなる内部の困難も同じ性質の新しい生産過程のすぐの開始と対立することはない。1トンの小麦の生産はまったく異なったところに立っている。ここでは自然が労働過程の開始時期を定めている。すでに耕地の準備は中断されない経過では実現しない。最初の、2度目の、場合によっては3度目の畝づくりの間に数日あるいは数週間がかかる。耕地における物理・化学的、細菌学的事象には、必要な時間がかけられねばならず、都合のよい天気が待たれねばならない。種子を耕地に蒔くと、数週間および数カ月の労働の中断が生じる。春にはそれからいくつかの短い時期が追肥、砕土、そして起こりうる害虫の防除に当てられる。新たな長い中断の後、とうとう刈入れ月とともに締めくくりの仕事が近づいてくる。その諸過程の繰り返しが年間に義務づけられている。

 2.連続する労働の仕方の変化は時間的な中断と結びついている。耕地での施肥、犂、ハロー、種蒔、ローラー、鍬、草刈、輸送労働は、お互いに分離している。しかし機械的作業の製造では労働が個々の生産段階で異なっているが、生産過程の個々の段階は時間的に固定されていない。それはまとまった連鎖と不変の循環の中で行われる。それが原因で、異なった生産段階と、それとともに異なった部分労働の継続した時間的並列の可能性が生じる。その上まず第1に機械的生産における技術的な労働の分割は、特殊な熟練の部分労働の指揮棒をもったマニュファクチュアの発生に基づいている。その上さらに工場経営の可能性は専門製品だけの製造に限定することに基づいている。
 進歩した性質の農業経営はどちらもまったく行えない。我々が述べたように、1種類の品物に限定する農家は、数週間および数カ月の中断を強いられる。(この労働技術的困難の他に、このような専門化は、物理的に実り多い条件の保存に関する合理的な輪作が与える、全ての利益を農家から奪い取る。)農業的経営の全体労働は不変の流れの中にとどまるべきであり、そうすればそれは異なった植物の耕作によってのみ実行され、この労働期間は補足的に混じり合ってかみ合う。またそれでもなお十分により短くあるいはより長い中断が存在し、そしてなによりも深い冬におけるほとんど完全な中断まで季節の循環における労働需要の上げ潮と引潮が存在している。それに家畜の日常の世話の労働をともなった家畜による耕作を加えることで、経営労働の総経過はまた確かな永続を経て、冬にいたる。しかしマニュファクチュアのほどよい労働の分割の実行はまたさらに可能ではない。同一の経営の中での異なった植物の耕作および家畜による耕作の総括の結果として、今やなるほど確かにいつもすることもあるが、しかし他にすることもある。労働の性質の多様性は特別に増えるが、しかしこの労働の[多様性]は不変の流れにとどまらない。

 3.農業労働の空間的不定性は時間および性質の不連続性と密接に関係している。労働の場所は持続的に変わる。耕地、牧草地、中庭、家畜小屋、納屋と農家の仕事場はいろいろに変化する。植物の生育過程は場所的に決められている。人間と彼の道具はわざわざそこに行かなければならない。また耕地と牧草地での労働自体がまったく蒸気機関車の性質である。製造においては通例、労働対象が動きまわり、それに対して労働と労働手段は動かない。そこでは動力および工作機構の固定したシステムを整えることが可能になる。反対に農業的経営の道具置き場は一般に動きまわる性格のものを運んでくる。
 農業の耕作機構は動きまわる単独の機械である。そしておよそ耕作および草刈にかかわるものは、動力機が動きまわらなければならない。狭い境界が農業機械の寸法を決め、耕作に用いられる動力は工業の小型の動力と比較される。そして動力機の動きまわる性格は、機械の動力による家畜の動力の取り替えの問題にとって、特別の意味がある。その上加えられるのは、たいていの耕作機械がその年のうちのほとんど数週間のうちに機能を発揮することができ、全体の残りの時間は非生産的な暇と見なされ、そのため、なぜ耕作における機構と輸送設備の固定的な利用が工業におけるより困難で高価なのか、そしてなぜ動きまわる単独の機械さえが一年中活動している工業の単独の機械よりも相対的に高くつくかを明らかにしている。

 4.農業の生産過程のはじめの期日とおわりの期日で自然はまたその経過の速度を決める。人間は熱心にあくせくしたがり、昼も夜もせきたてたり、駆り立てたりするが、有機的育成は本質的に速められないし、自然はその調子からはずれることはない。自然は、自然が欲する以上に早く穀粒を実らせず、サクランボを赤くさせず、母胎の中の子牛を生育させない。農家が早熟の品種の選択と適した育成によって行える成長期の短縮は、工業において機械が獲得できるような生産速度の加速化と比べると、相対的にわずかである。農業において機械はこの点に関してまったく無力である。自然の生産機関のつりあいのとれた息づかいはそれを嘲笑している。

 5.農業にとって土地は単なる場所ではなく、同時に生産手段と原料であるので、経営の空間的拡大は-所与の地力とともに-獲得した生産物の量に応じて増大する。労働場所の広さは農業大企業家に工業企業家よりもより費用のかかる労働者の監督を強いる。それだから行われる労働の量とそれ以上の質の管理はそれ自体としては工業よりも困難である。耕地での準備、種蒔、世話労働のつりあいと品質は、それが完了した直後にはふつうわからず、それはまず成長過程の発展の中でその成果から確かめられる。生じた生産物が部分労働者の手から他の労働者の手にひとつの結ばれた段階的連続の中を動く労働分割的な工業経営においては、ある労働者の労働が他の労働者の労働を管理する。この内的な管理は農業の経営では完全に欠けている。工業では生産の成果に対する労働者自身の重要性が農業と比べてそれほど重要でないことは、べつに驚くほどのことではない。

 6.農業的経営が知っているある性質の労働とは、機械的生産においてはまったく対応物を見ない。ひとつの農業経営の生きている共同体は生産物のかなりの部分を再び消費することによって、生産的な経営労働を同時に提供し、その場所で改めて耕地での生産物形成に入る欠くことのできない原料を生産する。
 動物的生命体のよどみない排泄物の中から植物的生命体にとって不可欠の栄養素がまったくもとのまま受けられ、それは農地の中に限られただけしか存在しなく、その返済によってその肥沃さの弱められない持続は左右される。工業経営は死んだ設備のメカニズムであり、その内部で人間は頭脳および肉体労働者としてだけ機能していて、個人の消費は生産過程の外部で行われている。農民経営は生き物のコスモスであり、その中に人間の物質的な生活も埋め込まれている。このコスモスが閉じていればいるほど、生産物が経営のまとまった植物および動物の生命の過程の循環から外へ出るものが少なければ少ないほど、そのだけいっそう農地の静止的状態、つまり収穫による栄養物の引き出しと施肥による栄養物の返却をとおして作用するつりあいの持続的維持は容易である。しかもその上、農民的家族経営に挿入された大部分は自然経済に、都合の悪い市場経済の運命に際して、強い国民経済の抵抗力を与える。

 7.所与の空間的大きさの工業経営において、時間経過の加速と生産過程のより多くの繰り返しによって生産量は早く、強力に増加させることができる。前提とされる必要な原料は、生産物の増大のために改良された機構による労働過程のより速い処理だけを必要とする。生産量の急速な増大は資本主義的経営に能力を与え、それを駆り立て、それ自身だけで市場を征服する。小さな技術的に時代遅れの経営から市場の空間と生存の可能性は取り上げられる。-所与の空間的大きさの発展した農業経営は、機械的な財の製造で可能なほど、ほとんどそのように速くまたそんなに大きな広がりでその生産量を増加させることはできない。所与の地面にはある決まった数の同じ性質の植物だけが共存できる場所を見つける。同質の植物の存在の連続は期日的に決定され、生産的な有機的過程の加速度的繰り返しはそのため排除され、もっとも多く、もっとも重要な温帯の耕作植物は1年に1度だけ成熟する。所与の面積単位および時間単位ごとの可能な生産過程の数はこれで固定的に制限されている。そしてそれは、有機的過程をともなった労働過程のより遅い処理かより速い処理かに左右されない。改良した機構等による後者の加速は、それ自身では生産量の増加を成立させない。
 数ヘクタールの耕地で前よりも多い小麦が生産されなければならないとき、それは生産過程の繰り返しによってではなく、より高い植物有機体の内的な生産物形成過程の発展によってのみ行われうる。科学はそのために手段と方法を示す。科学の一般的利用によって有機的生産の今日的平均水準は確かにそうとう増加されうる。しかしこの増加の時間と大きさは、遺伝の才能、つまりよく耕作される植物と家畜の身体の個体ごとの、そして類的に一致した限られた成長能力の中にある。生理的能力の量的および質的増加のための手段を我々はひとつひとつ知識として学ぶであろう。それは、栄養の割合、犂、保護、そして何よりも植物的および動物的有機体のより高度な飼育を把握することである。その際、小経営は、農業の進歩のこのもっとも重要な領域で、大経営に様式において圧倒されたわけでもなく、大経営に対してはるかにまさっていることがはっきりしている。

 8.内的な生産発展の手段はすべて、生産量のほぼ同じだけの増加を引き起こすのでは、それを機械的生産の中で近代的な機構に続いて実現することを我々が見るように、不十分である。生きている自然の保守性は人間の行う努力としぶとい成長の抵抗を対立させている。なるほど総生産の増加の最高限度が引かれることはないが、しかし科学と技術のその都度与えられる位置によって、各々の耕作の性質にとってある一定の強さの段階があり、それを越えてのより大きな生産出費はもとの出費に適合した増加収益をもたらさない。有機的生産力のより大きな酷使の下では、出費と収益の割合は悪化し、生産性は低下する。この事実は有名でしばしば誤解され反対されたにもかかわらず、その核となる諸思想においては正しい「収穫低減の法則」の中にその表現を見つけ、そのことを我々は詳しく考察させられる。

 9.この法則によって農業的生産量の任意の増加は膨大な生産水準の拡大によってのみ可能となる。より有利な自然的および社会的生産条件の下で、新たな不変の領域が古い hochberentetem の耕作地の上に強い代替経済をともなって競争にはいる。それはひとつの土地の内部での大経営と小経営との競争関係にとって、全世界経済の生産の発展にとってと同じくらい、根本的に重要である。

クリステーロ反乱と「インディオ」~序/はじめに~

2004年12月02日 16時33分09秒 | 研究ノート
 この論文は「クリステーロ反乱と『インディオ』―メキシコ革命に対する反革命とマイノリティ」という題名で、下村由一・南塚信吾・共編『マイノリティと近代史』(彩流社、1996年)に発表したものです。
 大学・大学院と、農民反乱と宗教の関係を研究してきたので、マイノリティ問題は苦手でした。したがって、いまいち出来はよくないです。また、これを最後に研究から遠ざかってしまったので、「いまさら」という気持ちがないわけでもありません。それでも、知識は多くの人が共有してこそ意味がある、と思っているので、あえて掲載しました。
 わたしの論文はダメポですが、他の人は大学で中堅の研究者として活躍しているので(たぶん)、マイノリティに関心のある方は、この本を読んでください。まあ、買ってもらっても、わたしに印税が入るわけではないんですけど。。。w
 メキシコはスペイン植民地だったので、スペイン語がつかわれています。ところが、日本語環境では、スペイン語特有の文字を表わすのがとってもめんどうです。そこで、つぎの形式に特殊文字を変えました。
  


はじめに


 1910年にはじまったメキシコ革命は、農地改革と地下資源の国民所有、労働基本権と社会保障を理念とする当時としては画期的な憲法を1917年に産み出した。これらの理念とともに掲げられたのが、カトリック教会の力を押さえようとする反教権主義 anticlericarismo である。革命政府の反教権主義政策に対して、カトリック教会は一切の宗教活動の停止で対抗し、革命政府は教会を閉鎖した。その結果、メキシコ中央高原西部でクリステーロ反乱 Rebelio'n Cristera と呼ばれる、革命政府に対する反乱(1926~29)が起きた。
 この反乱の中心となったのは、革命政府の指導者ともカトリック勢力の指導者とも異なった意識を持った農村民衆であった。こうした農村民衆の中には「インディオ」も含まれており、クリステーロ反乱は「インディオ」が反革命のカトリック勢力に組織される可能性を示していた。反乱地域の最北に位置するドゥランゴ Durango 州では、州都ドゥランゴ市の南に位置するサンティアゴ・バヤコラ Santiago Bayacora の住民と、ドゥランゴ州南部の自治体メスキタル Mezquital の山中に住むテペワノ Tepehuanos によって反乱が戦われた。
 本稿では、このうち、サンティアゴ・バヤコラの反乱を中心に、(1)彼らはどのような人々で、どのような宗教意識を持っていたのか、(2)革命政府の行った反教権主義政策がなぜ彼らを反乱に駆り立てたのか、(3)どの程度カトリック勢力は彼らを組織できたのか、(4)革命政府はどのように反乱を終結させたのか、の4点を論じる。そして「インディオ」が反革命運動に参加したことが、メキシコ革命にどのような影響を与えたのかを考察したい。

地図1:クリステーロ反乱がおよんだ地域

で囲んだ地域が地図2にあたる。

クリステーロ反乱と「インディオ」~1.サンティアゴ・バヤコラの住民と宗教意識~

2004年12月02日 16時31分26秒 | 研究ノート
内容:(1)サンティアゴ・バヤコラの住民/(2)サンティアゴ・バヤコラの宗教


(1)サンティアゴ・バヤコラの住民


 サンティアゴ・バヤコラの住民について説明する前に、「インディオ」とは何か、という問題を考える必要がある。メキシコの社会学者で人類学者のボンフィル・バターヤ Bonfil Batalla, Guillermo によると、「インディオ」とは、植民地時代の支配構造の中でつくり出された「服従を余儀なくされているセクター」である。
「インディオ」は、「被植民者」と同義であり、従って、支配構造のあらゆる側面で服従を余儀なくされているセクターを意味する。そしてこの支配構造は、エスニック的特徴を異にする2集団の存在を前提とし、そこでは、支配者集団(植民者)の文化の優位性が主張される。「インディオ」とは、植民地システムの所産としての超エスニック的範疇であり、そのようなものとして初めて、理解され得る存在なのである。*1

 同時に「インディオ」とは、植民者が被植民者につけた「差別的呼称」なのである。「植民地の支配構造が被植民者に差別的呼称を強要し、彼らを一括してひとつの枠組にはめ込んだ」ため、「諸集団間の大幅な相異は完全に無視され、既存のアイデンティティーが認められる余地はなかった」のである。つまり「インカもピリ(アステカ貴族)も農耕民も狩猟民も遊牧民も定住民も戦士も司祭も、そして既に征服された人々も拡大の一途をたどる植民地フロンティアの外縁に住む人々も、あるいはまた話のなかでのみ存在が知られている人々、想像の世界・啓示の世界の人々も、これら全てが等しくインディオなのであった」。*2
 これに対して、テペワノのようなエトニアは、個々の特定の社会・文化的単位集団であり、エトニアを規定しているのは独自のアイデンティティーである。
エトニアとは、個々の特定の社会・文化的単位集団の特性を表現する際に使用される範疇であり、従って、分析的というよりむしろ記述的性格の範疇である。実際、われわれが「スー族」「タラウマラ族」「アイマラ族」「トバ族」といった言葉を用いてものを語る時、問題は各集団の弁別的特徴であって、その集団の全体社会における位置を問題とするわけではない。確かにこれらの集団が、かつては自律性をもっていたが現在は被植民者の地位にあり、そして将来は解放されるであろう歴史的諸集団であることに変わりない。しかし、こうしたひとつの地位から別の地位への移行は、各集団を消滅させるとは限らない。なぜなら、これら集団を規定しているのは、「インディオ」の場合とは異なり支配関係ではなく、独自の弁別的アイデンティティーを備えた集団としての歴史過程の持続性だからである。云うまでもなく、このエスニック・アイデンティティーも、完全にエトニアに内在する固有の条件ではなく、ひとつの歴史過程の所産ではある。エスニック・アイデンティティーの存続に基礎を与えるのは、集団としての共通の過去と、一連の固有のコミュニケーションの形態と原則をその集団に付与した歴史過程だからである。*3

 クリステーロ反乱に参加した「インディオ」のうち、メスキタル自治体の山中に住んでいたテペワノは、独自の文化とアイデンティティーを有したエトニアであった。彼らは、独自の言語を持ち、カトリック教会から見れば「異教的」な宗教儀式を行っていた。さらにテペワノとしてのアイデンティティーを有していた。彼らは、バラサ Barraza, Dama'so やバスケス Va'zquez, Federico といったメスティーソの反乱指導者に率いられた兵士として、あるいは反乱軍に食糧や情報を提供することで、反乱に参加した。*4
 これに対してサンティアゴ・バヤコラの住民は、かつてはテペワノであったと推測されるのであるが、すでにテペワノとしての独自の文化とアイデンティティーを失っており、独自のエトニアとはいえなくなっていた。サンティアゴ・バヤコラの村はドゥランゴ市の南方約20kmに位置し、行政的にはドゥランゴ市に属している。この村は、三方を丘に囲まれ、その中を川が流れ、畑の中に家が点在し、小さな教会があった。村の人口は正確にはわからないが、約400人の反乱参加者を成人男子とすると、おそらく千数百人と推定できる。ドゥランゴ市に近いという地理的条件からか、サンティアゴ・バヤコラの住民は、テペワノの言語を理解できず、テペワノの宗教儀式を自分たちとは異質な宗教儀式だと見なしていた。またテペワノを「インディオ」と呼んで自らと区別していた。*5
 しかし、ドゥランゴ市の住民は彼らを、「サンティアゴのインディオ」と呼び、侮蔑と恐怖の眼で見ていた。敵情視察のためドゥランゴ市に潜入したフランシスコ Francisco とアガピート Agapito のカンポス Campos 兄弟は街でたむろしていた連邦軍の兵士から、また武器弾薬や情報を戦場の男たちに渡すためドゥランゴ市に住んだシエラ Sierra, Joaquina は夫を殺された女性から、「サンティアゴのインディオ」の恐ろしさを聞かされた。*6
 また彼らは共同体の土地の収奪にも苦しめられていた。インディオ共同体の土地を奪うという行為は、19世紀後半に永代所有の禁止が定められて以来、行われてきた。当時、彼らは自分の農地での労働と森林の伐採で生活していたが、森林伐採会社によって彼らの森林に対する権利が侵されつつあった。*7
 以上のことから、サンティアゴ・バヤコラの住民を、テペワノのような独自の文化とアイデンティティーを持ったエトニアとみなすことはできないが、植民地時代の支配構造の中でつくり出された「服従を余儀なくされているセクター」であり、ドゥランゴ市の住民から「インディオ」として侮蔑と恐怖の目で見られている点で、この時点では「インディオ」とみなせるのではないか、と考えられる。なぜなら、「インディオ」という呼称それ自体が、植民者から押しつけられた「差別的呼称」であり、彼らがどのようなアイデンティティーを持っているかをそもそも問わないからある。

地図2:サンティアゴ・バヤコラ周辺

ドゥランゴ市のすぐ南に位置している。

(2)サンティアゴ・バヤコラの宗教


 つぎにサンティアゴ・バヤコラの宗教について考えてみたい。彼らは、テペワノとは異なって、キリスト教と非キリスト教的な宗教が重合した状態にあるわけではない。しかし共同体への強い帰属意識と結びついた独自の宗教意識を持っていた。サンティアゴ・バヤコラの住民は、自分たちがカトリック教徒であり、神が彼らの運命を決定している、と信じていたが、彼らにとってより重要なのは村の教会にある2体の守護聖人像であった。
 教会にある2体の守護聖人像のうち、1体は白い馬に乗り、いなか風のソンブレロをかぶった聖サンティアゴ Santo Santiago であり、もう1体は、カルメン Carmen あるいはファティマ Fa'tima と呼ばれるコーヒー色の服を着た「最も神聖な聖母 Santi'sima Virgen」である。反乱の最中にドゥランゴ市に潜入したカンポス兄弟は連邦軍の兵士から、「サンティアゴのインディオ」を率いる白い馬に乗った将軍とコーヒー色の服を着た女の話を聞かされる。それによると、将軍と女は、彼らには見えないが、奇跡によって彼らを助けていた、と言うのだ。彼らは、その将軍こそ聖サンティアゴであり、女こそ最も神聖な聖母である、と語っていた。この守護聖人は、カトリックの聖者であるとともに、共同体の守護聖人なのである。*8
 これに対して、彼らの村とその守護聖人に害をなす者は、「悪魔」とみなされた。部下の諫言に耳を貸さずに彼らと戦って敗死したラレス Lares, Ismael 将軍は「フリーメイソンで、無定見」であり、彼らが埋めたラレス将軍の死体を喰い散らかした獣は「神の使い」であった。またドゥランゴ市で生活していたフランシスコ・カンポスの妻子を追放したオルティス Orti'z, Eulogio 将軍は「ひどい悪魔で、彼の家にいる女中が、ある日彼を見ると、彼はツノとシッポを持っていた」ことになる。*9 このことから、反教権主義政策の一環として教会財産、特に前述の守護聖人像の引き渡しを強いた革命政府を、共同体の守護聖人を攻撃する「悪魔」と彼らがみなしていたことが推測できる。

クリステーロ反乱と「インディオ」~2.革命政府の反教権主義政策と反乱の勃発~

2004年12月02日 16時30分05秒 | 研究ノート
内容:(1)革命政府の反教権主義政策/(2)サンティアゴ・バヤコラでの反乱の勃発


(1)革命政府の反教権主義政策


 メキシコでは、征服以来カトリック教会の力が強く、独立後も大きな力を持っていた。19世紀後半の自由主義的改革であるレフォルマ Reforma で行われた永代所有の禁止と教会財産の没収によって、その没落は決定的となったが、影響力は無視できないものがあった。メキシコ革命後の反教権主義は、このレフォルマを継承し、教会の力を徹底的に弱体化させようとした。
 その成果は、1917年に制定された憲法の3条・5条・27条3項・130条に明記された。第3条で宗教団体および聖職者による教育が禁止され、第5条で奴隷労働の禁止として修道会が禁止された。農地改革や地下資源の国民所有を定めた第27条では、その3項で宗教団体による不動産所有が禁止された。そして反教権主義条項といわれる130条では、政府による宗教活動への介入の正当化(1項)、民事婚(3項)、教会の法人格の否認(5項)、州政府による聖職者数の制限(7項)、聖職者の出自のメキシコ人への限定(8項)、憲法・政府への批判の禁止および選挙権・被選挙権・結社の権利の否認(9項)、寺院新設の許可制(10項)、聖職者の登録制(11項)、神学校の特権の否定(12項)、聖職者による政治批判の禁止(13項)、寺院内での政治集会の禁止(14項)、聖職者の相続権の制限(15項)が定められた。もちらんメキシコ司教団は、この憲法に反対を表明した。
 革命政府とカトリック勢力との対立は、双方が民衆を組織しようとした1920年代に激化した。当時、革命政府はメキシコ労働者地域連合 Confederacio'n Regional Obrera Mexicana (以後CROMと略す)を通じて、またカトリック勢力も社会カトリック行動 Accio'n Cato'rica Social という運動を通して、労働者を組織しようとしていた。特にカージェス Calles, Plutarco Ellias が大統領(1924~28)となると、この対立は決定的となった。CROMの指導者のモロネス Morones, Luis が商工労働大臣に、ベラクルス Veracruz 州知事で有名な反教権主義者のテヘダ Tejeda, Adalberto が内務大臣になった。
 1926年になると、カトリック教会による宗教活動の停止、それに対する革命政府による教会の閉鎖にいたり、対立は頂点に達した。7月2日に憲法の反教権条である130条の違反者をきびしく罰する「カージェス法」が公布された。メキシコ司教団はこれに対抗して7月31日に一切の宗教活動を停止し、革命政府は宗教活動を停止した教会を閉鎖した。これより前の7月29日に政府は、「教会の閉鎖についての内務省布告」を出し、「カトリックの司祭が教会を放棄するという知らせを受けた」自治体は「すぐ、厳密な財産目録と厳格な責任の下で、その司祭にそれらの引き渡しを行」わせ、「教会を10人の隣人に引き渡」さなければならず、「もし必要条件が満たされなかったり、住民会議が存在しないのなら、自治体の長が信頼できる経歴を持つ住民の中から指名しなければならない」と命じていた。*10
 なぜ、このような強硬な反教権主義政策が行われたのだろうか。どうも革命政府の中枢は、反教権主義政策の実施が3年にもおよぶ反乱を引き起こす、とは予測していなかったようである。それは、革命政府の中枢がアメリカ合衆国と国境を接するソノラ Sonora、チワワ Chihuahua、コアウィラ Coahuila、タマウリパス Tamaulipasといった北部諸州の出身者で構成されていたからである。これらの諸州ではカトリック教会の力が弱く、住民もアメリカ合衆国の住民に近い意識を持っていた。例えば反乱の後半に暫定大統領(1928~30)となり、反乱の終結につとめたポルテス・ヒル Portes Gil, Emilio は、最高位のフリーメイソン*11であり、タマウリパス州知事時代から農地改革・反アルコール運動・幼児の保護運動を熱心に行っていた。彼は、憲法の規定に従ってタマウリパス州の司祭の数を13人に制限しようとしたが、司祭が9人しかおらず、その政策に反対する者も少なかった、と回想している。*12

(2)サンティアゴ・バヤコラでの反乱の勃発


 教会による宗教活動の停止の後、メキシコ各地でクリステーロ反乱が勃発した。サンティアゴ・バヤコラでは、メキシコじゅうの教会がすべて7月31日に閉鎖され、司祭も全て外国に追放され、政府に反抗する者は罰せられる、という内容の立て札が教会の前に立てられた、とフランシスコ・カンポスは回想している。これに対抗して住民は、モラ Mora, Trinidad を指導者に選び、武器を集め、8月15日の聖サンティアゴの祭りに蜂起することを決めた。しかし、政府に従った方がよいとする少数の反対者の存在や武器の不足、さらに神父の反対によって祭りは行われず、最初の蜂起計画は不発に終わった。*13
 ところが、8月12日にこの地方の司令官が来て、教会の中にある聖像の目録を2つつくり、1つをドゥランゴ市に送り、もう1つを村に残すこと、そして聖像と鐘を運び出すことを命じた。住民はこの命令に怒り、命令を拒否した。司令官はあきらめて引き上げた。つづいて9月18日に司令官は、市当局が勝手に指名した10人の名簿をつくることを命じてきた。これら一連の手続きは、前述した「内務省布告」に基づいて行われたものであるが、住民によってやはり拒否された。9月28日に村で踊りがあり、何人かの住民が夜通し酒を飲み、他の住民も教会の周りで散策を楽しんでいた。翌29日の朝8時、教会の財産目録をつくるため、3人(モラによると4人)の男が自動車でやって来た。彼らは、教会の鍵を手に入れるため、教会の土地に足を踏み入れ、泥酔した住民と悶着を起した。泥酔した住民は、彼らを石で殴打し、殺して武器を奪った。*14
 この事件の結果、政府による弾圧は不可避であると判断したモラは、住民に武器を持って集まるよう命じた。武器のほとんどは旧式で弾薬も少なかったが、彼らは戦闘準備をして「緑の丘」で待ち伏せした。午後1時に連邦軍が現れたが、待ち伏せに驚き、武器と弾薬を捨てて逃げ出した。彼らは勝利を神に感謝し、武器を没収した。こうして約3年間におよぶサンティアゴ・バヤコラの反乱がはじまった。*15

クリステーロ反乱と「インディオ」~3.反乱の過程~

2004年12月02日 16時28分55秒 | 研究ノート
内容:(1)地域的反乱(1926年10月~1927年6月)/(2)全国的な反乱への組織化(1927年7月~1929年2月)/(3)連邦軍の分裂とドゥランゴ市の占領(1929年3月~7月)


 サンティアゴ・バヤコラの反乱の過程は、(1)1926年10月~1927年6月、(2)1927年7月~1929年2月、(3)1929年3月~7月の3つの時期に分けることができる。(1)1926年10月~1927年6月の時期は、サンティアゴ・バヤコラの住民、ドゥランゴ州南部のメスキタル、エル・サルト、ナヤリー州北部のワヒコリの各自治体の住民による、地域的な反乱であった。(2)1927年7月~1929年2月の時期は、ドゥランゴ州南部の地域的な反乱が、サカテカス州の反乱と結びつき、さらに全国的な規模の反乱の一部に組織されていく時期である。(3)1929年3月~7月の時期は、革命政府内部の権力闘争から「エスコバルとマンソの反乱」が発生し、連邦軍がこの反乱を鎮圧してしている間に、ドゥランゴ南部の反乱軍がドゥランゴ市を一時的に占領する事態となった。*16

(1)地域的反乱(1926年10月~1927年6月)


 9月30日に前日以上の兵力で連邦軍が攻めてきたが、サンティアゴ・バヤコラの住民はそれを撃退した。しかし10月1日に400人以上の連邦軍が村を包囲し、機関銃を使って攻撃を開始した。翌2日に村民は、村を捨て、妻子を連れ、山中を放浪した。彼らは、青いトウモロコシを食べ、野生の蜂蜜を飲み、飢えをしのいだ。そしてレオン Leo'n, Enrique 将軍の率いる第26大隊と第76連隊を破り、食糧や武器・弾薬を手に入れた。10月26日、サンティアゴ・バヤコラの反乱軍は、ラレス将軍の率いた連邦軍を待ち伏せで破り、大量の馬・武器・弾薬を手に入れた。*17
 この戦いの後、モラはフランシスコ・カンポスに、メキシコ革命期にメスキタルのビジャ派の司令官の一人だったバラサとの会見を命じた。バラサは、「インディオ・バラサ」と呼ばれるメスティーソで、ドゥランゴ州南部のメスキタル、エル・サルト、ナヤリー州北部のワヒコリの各自治体に大きな影響力を持っていた。バラサは、「宗教のために戦っているのなら、それはよいことだ」と、反乱に参加する約束をした。彼の他にも、マヨルキン Mallorqui'n, Porfirio、アセベド Acevedo, Valente、バスケスなどがサンティアゴ・バヤコラの住民とともに、反乱に参加した。とくにバスケスは、メスキタル自治体の山中に住んでいるテペワノに対して影響力を持ち、テペワノを反乱軍に組織した。*18
 1927年の1月に「1月蜂起」と呼ばれる大規模な蜂起が行われた。この蜂起は失敗に終わり、1927年の夏に反乱は下火となった。1月11日にバラサ、モラらに率いられた反乱軍1200人が連邦軍2000人と戦闘を行い、連邦軍を破った。さらに1月17日にカプリン Capuli'n の丘でバラサの部隊が5000人の連邦軍と戦った。この戦いは反乱軍の勝利となったが、バラサが戦死し、この後、バラサが率いていたメスキタルの人々が反乱から離脱してしまう。反乱はモラ、マヨルキン、アセベド、バスケスの指揮下で継続されるが、下火となり、連邦軍からの停戦に応じ、2ヶ月間戦闘を停止した。*19
 このころになると、女たちと子供たちは山中の野営地を離れ、ドゥランゴ市などに住みついた。そして、武器弾薬・食糧・敵についての情報を野営地にいる男たちに供給していた。しかしオルティス将軍は、夫が山中に行っている女と子供をドゥランゴ市から追放した。フランシスコ・カンポスの妻子も、ドゥランゴから追放された。*20

(2)全国的な反乱への組織化(1927年7月~1929年2月)


 1927年7月になると、反乱軍の動きが再び活発化した。すでに6月にモラは、アガピート・カンポスとともにサカテカス州の反乱の指導者であったキンタナール Quintanar, Pedro との会見に出かけた。タヒカリンガ Tajicalinga からドゥランゴ南部の山を通って、サン・ファン・カピストラノ San Juan Capistrano に到着した後、モラは一人でウエフキジャ・エル・アルト Huejuquilla El Alto に出かけ、そこでキンタナールと会見した。この会見の詳細は不明であるが、以後ドゥランゴ州の反乱は、キンタナールを通して、ゴロスティエタ Gorostieta, Enrique を中心とするカトリック勢力の軍事組織に組み入れられていった。*21
 最初、カトリック勢力の反乱指導部は宗教的自由防衛全国連盟 Liga Nacional Defensora de la Libertad Religiosa (以下「連盟」と略す)であった。しかし「1月蜂起」の失敗によって、「連盟」の反乱に対する影響力は低下した。そこで「連盟」は、メキシコ革命期に反革命側のウェルタ政権の軍人であったゴロスティエタを使って、反乱を組織化しようとした。ゴロスティエタは、「国民への宣言 Manifiesto a la Nacio'n」を「連盟」に起草させ、1928年10月28日に公表した。この宣言のなかでゴロスティエタは、「真の国民的代表」によって指名され、「解放運動の軍事的指導者」になったと主張した。そして反乱の指導者は、ゴロスティエタが運動の「最高指揮権」を持つと認めなければならないとした。*22
 1927年10月にドゥランゴ州の反乱軍は、ゴロスティエタの命令に従って、ドゥランゴ市周辺で鉄道を襲撃するようになった。1928年3月にジャーノ・グランデ Llano Grande で連邦軍にアセベドの部隊が襲撃された。彼を救いに出かけたモラとマヨルキンの部隊はオティナパ Otinapa のそばのメサ・デ・オソ Mesa de Oso で連邦軍と戦い、敗れた。この敗北にもめげず、モラとバスケスの部隊は、セロ・デ・ラス・パパス Cerro de las Papa's でルイスRuiz, Jose' 大佐の部隊を破り、彼を殺した。この戦いでは、近隣に住むテペワノの情報によって連邦軍のいる場所を知り、奇襲で敵を破ることができた。*23
 1929年1月になると連邦軍は、ドゥランゴ州の反乱軍を破るために、ドゥランゴ市の守備軍の司令官ウルバレホ Urbalejo 将軍によって4度の遠征が試みられた。第1回目こそモラの野営地の襲撃に成功するが、後の3回は失敗に終わった。1月12日にナヤリー州のナヤール Nayar で反乱軍が結集し、バスケス、アセベドなどの部隊が合流した。2月になると、さらにモラなどの部隊が加わり、メスキタルでウルバレホ将軍の連邦軍に大打撃を加えた。*24

(3)連邦軍の分裂とドゥランゴ市の占領(1929年3月~7月)


 1929年の3月になると、反乱に大きな影響を与える事件が起きた。革命政府内部の権力闘争の結果、エスコバル Escobar, Gonzalo とマンソ Manzo, Francisco R. の反乱がメキシコ北部で発生した。ドゥランゴ市の守備軍の司令官だったウルバレホ将軍もこの反乱に加わり、クリステーロ軍との協力を申し出てきた。この協議は、モラとウルバレホの間で3月12~14日に行われたが、反乱の「最高指揮権」をどちらが持つのかをめぐって決着がつかず、決裂した。3月15日に反乱を鎮圧するため連邦軍がドゥランゴに向かって来たので、エスコバル派の軍隊はドゥランゴを離れ、チワワ州に向かった。クリステーロ軍も、連邦軍との戦いをさけ、ドゥランゴを離れた。しかし連邦軍は、エスコバル派の軍隊を追い、北上した。クリステーロ軍は、この期に攻勢に転じ、約1ヶ月間にわたってドゥランゴ市を占領した。しかしエスコバルとマンソの反乱は約1ヶ月で鎮圧され、4月には連邦軍が南下してきた。戻って来た連邦軍は、クリステーロ軍に協力的な村を襲撃し、略奪を行った。しかしクリステーロ軍は、6月に革命政府とカトリック教会の和解がなされるまで、抵抗を続けた。*25

クリステーロ反乱と「インディオ」~4.革命政府と教会の和解と反乱の終結~

2004年12月02日 16時27分08秒 | 研究ノート
内容:(1)革命政府とカトリック教会との和解/(2)サンティアゴ・バヤコラの反乱の終結


(1)革命政府とカトリック教会との和解


 反乱が長期化する中で、革命政府とカトリック教会を和解させ、反乱を鎮静化させようとする動きが出てきた。革命政府内部でこのことを主張していたのは、前大統領(1920~24)のオブレゴン Obrego'n, A'lvaroであった。彼は、アメリカ合衆国の駐メキシコ大使モロー Morrow, Dwight の仲介で、司教ルイス・イ・フローレス Ruiz y Flores, Leopoldo とディアス Di'az, Pascual と交渉していた。オブレゴンは1928年の大統領選挙に立候補することを公表し、彼の大統領就任によって革命政府と教会との和解が成立する可能性が高まってきた。7月1日に選挙が行なわれ、オブレゴンは大統領に選出された。しかし7月17日にオブレゴンはビルチス Vilchis, Luis Segura によって暗殺されてしまった。ビルチスは、プロ Pro Jurez, Humberto 神父とともに処刑されたが、革命政府と教会との和解の妨害には成功した。
 オブレゴンの暗殺後、革命政府とカトリック教会の和解に務めたのは、暫定大統領に選ばれたポルテス・ヒルであった。まず彼はカージェスの周囲から熱心な反教権主義者であるモロネスとテヘダを遠ざけた。ポルテス・ヒルは、モローの仲介でルイス・イ・フローレスおよびディアスと交渉をはじめた。1929年4月22日に武装闘争に積極的なメキシコ大司教モラ・イ・デル・リオ Mora y del Ri'o, Jose' が死亡し、かわってルイス・イ・フローレスがメキシコ大司教に就任した。彼は、憲法の反教権主義条項の廃止を断念し、革命政府との和解に応じた。6月21日、革命政府と教会との和解が成立し、宗教活動が再開された。

(2)サンティアゴ・バヤコラの反乱の終結


 この宗教活動の再開は、反乱軍を分裂させ、反乱を終結させることとなった。宗教活動の再開が知らされると、反乱を行なう「大義」がなくなったとして、革命政府の恩赦を受け入れ、投降しようとする者が現れた。彼らは、教会による宗教活動の停止と、それに対して革命政府が行った教会の閉鎖が参加の動機であり、その原因が取り除かれたので、反乱をやめようとしたのである。これに対して、あくまでも「解放軍の司令官」の命令に従って、反乱を続行しようとする者もいた。彼らは、当初は宗教的な動機で反乱に参加したかも知れないが、反乱の過程でカトリック勢力からの影響を受け、革命政府の打倒そのものが反乱の目的となっていたのである。サンティアゴ・バヤコラの部隊では、カンポス兄弟が前者であり、モラが後者であった。
 7月になって、宗教活動の再開を知らせにナヘラ Na'jera, Abundio 神父がサンティアゴ・バヤコラの反乱部隊に遣いを送った。このとき、モラは家族に会いに出かけており、部隊を率いていたのはアガピート・カンポスであった。カンポスと神父はサンティアゴ・バヤコラで会合を持った。神父は、宗教活動の再開と、連邦軍の司令官からの恩赦を知らせ、投降するように説得した。「宗教のため」に戦っていたカンポスは、このことを喜んだが、モラの了解を得なければならないので、返事を保留した。*26
 カンポスは、神父といっしょにモラを探しまわった末、サンティアゴ・バヤコラで彼を発見した。神父は連邦軍の申し出をモラに伝えた。しかし「宗教のため」に戦っていたはずのモラは、「解放軍の司令長官の指令をうけていない」ことと、村の再建の確約を得なければだめだ、との理由で、降伏勧告を拒否した。*27
 これに腹を立てたフランシスコ・カンポスは「君は我々が戦っている大義が宗教だということを知っている。それはすでに解決した。いっしょに苦しみを受けてきたので、私としては君に感謝してきた。君は、私や私の兄弟、それに我々のことを考えないで、その大義を欲さない者のことを考えるのか」とモラを非難した。そして、神父といっしょに恩赦を受けに行くことを宣言し、これに応じた者が200人以上もいた。一方、モラとともに反乱を続けようとする人々もいて、両者は射ち合い寸前にまでなった。結局、神父が間に割って入ったので、大事には至らなかった。カンポスは、この事件は「うらやましがった悪魔が最後の瞬間に勝利を奪おうとした」のであり、大事に至らなかったのは「神が悪魔を許さなかった」からだと、ファティマの最も神聖な聖母にひざまずいて感謝している。こうしてカンポス兄弟らは、連邦軍に降伏し、恩赦を受けた。革命政府も、サンティアゴ・バヤコラに対して、村の主張する森林の所有権を保障した。結局、モラは9月28日に恩赦を受け入れ、3年間続いた反乱は完全に終結した。*28
 しかし、カトリック勢力から影響を受けた反乱の指導者たちは、しだいにかつての反乱参加者から孤立するようになった。カルデナス Ca'rdenas, La'zaro が大統領(1934~40)となり、教育をめぐって革命政府と教会との関係が再び悪化すると、彼らの多くは「第二次Segunda」反乱を起した。しかしこの反乱にかつての反乱参加者はほとんど加わらず、彼らだけの孤独な反乱となっていた。この反乱の中でかつての反乱指導者の多くは戦死し、生き残った者にも悲惨な最期が待っていた。
 反乱終結後、モラはドゥランゴ市に住み着き、カトリック行動 Accio'n Cato'lica の運動を広めるため、8日ごとにサンティアゴ・バヤコラに来るようになった。革命政府と教会との対立が再燃した1935年に、2人の議員が、モラの行動を問題視し、彼を処刑するよう政府に要請した。窮地に立たされたモラは、再び革命政府に対して反乱を起そうと、フランシスコ・カンポスを勧誘した。しかしカンポスは、「反乱を起す大義がない」と申し出を断り、村の人を私事に巻き込むなと彼を非難した。結局モラは、40人以上の仲間を集め、アセベド、バスケスらとともに山中でゲリラ戦を行なった。前の反乱参加者が約400人なので、その10分の1しか集められなかった。しかもその隠れ家を連邦軍に密告され、1935年7月18日に襲撃を受けて殺された。その後、アセベドも殺され、バスケスは連邦軍に投降し、許された。バスケスは、サンティアゴ・バヤコラの森林を勝手に区画して利用し、住民に嫌われ、1941年に「ならず者」に殺されてしまった。*29

クリステーロ反乱と「インディオ」~おわりに/註~

2004年12月02日 16時25分54秒 | 研究ノート
 最後にこの反乱がメキシコ革命に与えた影響について考えてみたい。
 まず第1に「インディオ」の「国民国家」への統合政策である。1930年代になるとメキシコでは、インディヘニスモ indigenismo と呼ばれる「インディオ」を「国民国家」に統合するための政策が行われるようになった。この政策がクリステーロ反乱の結果であるということはできないが、「インディオ」が反革命のカトリック勢力に組織される可能性を示した点で、反乱が革命政府に与えた影響は大きいのではないかと考えられる。*30 特にドゥランゴの反乱は、カトリック勢力に組織される可能性だけでなく、革命政府に反旗を翻したエスコバル派とも結びつく可能性があったので、革命政府にとって無視できない存在だったはずである。革命政府がサンティアゴ・バヤコラの主張する森林の所有権を保障したのも、共同体への土地の返還という革命の理念以上の理由があったのではないかと思える。この措置は「第二次」反乱のときに功を奏し、反乱に参加した住民は前回の10分の1にとどまった。
 第2は革命政府のメキシコ化 Mexicanizacio'n である。1920年代に革命政府の中枢を担ってきた人々は、北部諸州の出身者が多く、必ずしもメキシコ全体を代表するものではなかった。そもそもメキシコ革命の理念の一つである農地改革もモレーロス Morelos 州のサパタ Zapata, Emiliano 派の運動によって提起されたものであった。事実、北部諸州の人々にとって教会の財産の一つにすぎなかった守護聖人像も、サンティアゴ・バヤコラの住民にとっては共同体の守護聖人だったのである。日本の5倍の面積の土地に多様な文化を持った約1400万(1921年の国勢調査)の人々が住んでいたメキシコを「国民国家」として統合することは容易ではない。そのために革命政府は、それぞれの地域の多様性をいったん認め、その上で統合を進める必要があったのである。このことを革命政府に突きつけたという意味がこの反乱にはあったのではないか。1929年のカトリック教会との和解はこのような文脈でとらえる必要があるだろう。
 本稿は、植民地時代の支配構造の中でつくり出された「服従を余儀なくされているセクター」である「インディオ」と、個々の特定の社会・文化的単位集団であるエトニアとを明確に区別するボンフィル・バターヤの定義をもとに論じてきた。しかし実際にインディヘニスモ政策を進めてきたメキシコ政府は、「インディオ」とエトニアとを明確に区別せず、エトニアの消滅を政策目標としてきたのであった。*31 政府の定義どおりなら、独自の文化とアイデンティティーを持たないサンティアゴ・バヤコラの住民は、「インディオ」ではないということになる。しかし前に論じたように、もしクリステーロ反乱が一連の「インディオ」統合政策に影響を与えていたとすると、政府は、自らが「インディオ」とはみなさない人々の反乱参加への対処として、「インディオ」統合政策を推進してきたことになる。これを歴史の皮肉と言わずして何と言うことができるのだろうか。


 *1 ボンフィル・バターヤ、ギイェルモ『アメリカにおける「インディオ」の概念』(清水透訳、東京外国語海外事情研究所、1985)、10ページ。
 *2 前掲書、5ページ。
 *3 前掲書、13~14ページ。
 *4 Meyer, Jean, The Cristero Rebellion: The Mexican People between Church and State, 1926-1929 (Cambrige, Cambridge University Press, 1976) pp.98-99.
 *5 Meyer, Jean, El coraje cristera: testimonios (Me'xico, Universidad Auto'noma Metropolitana, 1981) p.47, p.48.
 *6 ibid., p.19, p.71.
 *7 Meyer, The Cristero Rebellion. p.92.
 *8 Meyer, El coraje cristero. pp.5-6, p.19.
 *9 ibid., pp.82-85, p.32, p.38.
 *10 Tomo, Alfonso, La iglesia y el estado en Me'xico (Me'xico, Tallares Gra'ficos de la Nacio'n, 1964) pp.418-419.
 *11 カランサ、デ・ラ・ウェルタ、オブレゴン、カージェス、カルデナスといった革命政府の歴代の大統領もまたフリーメイソンであった。Negrete, Martaelena, Relaciones entre la iglesia y el estado en Me'xico, 1930-1940 (Me'xico, El Colegio de Me'xico, Centro de Estudios Histo'ricos, 1988) pp.287-290.
 *12 Wilkie, James W. y Edona Monzn de Wilkie, Me'xico, visto en el siglo XX: Entrevistas de Historia oral (Me'xico, Instituto Mexicano de Investigaciones econo'micas, 1969) p.499, p.501, p.579.
 *13 Meyer, El coraje cristero. pp.11-12. メイエによると、立て札は存在しなかった。
 *14 ibid., p.12.
 *15 ibid., pp.12-13.
 *16 反乱の日付はフランシスコ・カンポスの回想による。しかしモラが残した文書と日付が異なるものも多く。正確なものとは言えない。反乱の後半になると、ドゥランゴ市に駐在していたアメリカ合衆国の領事の記録などから正確な日付がわかるようになる。
 *17 Meyer, La cristiada (Me'xico, Siglo XXI, 1985) Tomo 1, p.111, pp.115-117.
 *18 ibid., p.143, p.185.
 *19 ibid., pp.143-145, p.185.
 *20 Meyer, El coraje cristero. pp.37-38, pp.52-54.
 *21 Meyer, La cristiada. Tomo 1, p.221.
 *22 Olivera de Bonfil, Alicia, Miguel Palomar y Vizcarra y su interpretacio'n del conflicto religioso de 1926: entrevista (Me'xico, Instituto Nacional de Antropologi'a e Hsitoria, 1970) p.58-60.
 *23 Meyer, La cristiada. Tomo 1, pp.221-222.
 *24 ibid., pp.259-260.
 *25 ibid., pp.290-292.
 *26 Meyer, El coraje cristero. p.55.
 *27 ibid., pp.56-57.
 *28 ibid., pp.57-58.
 *29 ibid., pp.58-60, p.61, p.63.
 *30 清水透『エル・チチョンの怒り-メキシコにおける近代とアイデンティティ』(東京大学出版会、1988) 133~134ページ。
 *31 ボンフィル・バターヤ、前掲書、14~15ページ。