この日は七条鴨川沿いの一帯を回ってみた。お寺や神社があちこち入り組んだところにあるがそのうち4箇所。
まず「三ッ梅稲荷大神」 七条大橋の西側にある大きな横長のマンションにへばりつくように建っている。比較的小さな神社だ。真っ赤な鳥居が何本かあって、一番奥に小さな祠がある。由緒その他については全く何も資料がない。
名前の通り稲荷社であるので、狐が鎮座していた。全国各地にある稲荷社っていうのはかつての稲荷信仰に関わって建てられたものであり、いわばきわめて一般的な神社だ。大きなものからここのように小さなものまで、まさしく千差万別。こういう小さな神社も含めて数えると、本当に日本にはどれだけの神社があるんだろうかと思わざるを得ない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/68/9c/74bcd61a855beb9f7900a7dc9ea632dc.jpg)
続いて同じく七条大橋西側にある「松明殿稲荷神社」 先ほどの神社の真後ろに建つ大きなマンションの反対側で、鴨川沿いとなる。こちらの方は駒札も立てられていて、かなり由緒がある神社だと思われる。
平安時代の創建で伏見稲荷大社の境外末社と言われる。松明と言う語が使用される珍しい神社名ではあるが、これは駒札にもあるように「燎祭」つまり、かがり火を焚いて厄除けをすると言う神事にまつわり、火を灯す際の松明から来てると言う。
元は違う場所にあったものだが、様々な経緯を経て今現在の場所に落ち着いた。千年以上の長い歴史を持つ由緒ある神社であり、建物を含め再建されたものとはいえ、やはり何らかの風格といったものを感じさせる。撮影中にも通りすがりの人たちが何人かお参りをして行った。七条通りに面しているのでお参りもしやすいということだ。
次に「専称寺」 由緒は駒札の通り。鴨川を東側を渡る。ちょうど三十三間堂と鴨川の間の細い路地に面している。車で行く場合にはかなり要注意な細い路地だ。
江戸時代初期の創建であり、さほど古いというわけではない。このお寺にはかつて陶磁器の名作家がおり、今現在においても陶芸作家たちから敬われている。
最後に「浄雲寺」 鴨川沿いを五条通りまで上がる。東側へ少し行ったところにある。
山門に当たるところが車の出入り口で、コンクリートの壁になっており、そこに浄雲寺の表札がかかっている。そういった意味ではお寺という感じではない。その後調べてみたが資料は皆無。
そのまま境内に入って写真を撮ってきたが、草木が生い茂っており緑でいっぱいだ。本堂は決して大きくないもののなかなか立派な構えをしていた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/3f/7e/f651db144b97a23600f75fac368bee69.jpg)
『松明殿稲荷神社
伏見稲荷大社の境外末社で田中社ともいう。
平安時代の天暦二年(九四八)に創始され、 社名は、同十年 (九五六)、勅により燎祭が行 われた際に「炬火殿」の号を賜ったことに由来すると伝えられる。また、江戸時代に出された「都名所図会」には、伏見稲荷大社の春の稲荷祭のとき、当神社の氏子が松明をともしてその神輿を迎えていたことから、「松明殿」の名で呼ばれたと記されている。
はじめ、黒門通塩小路辺りにあったが、その後、七条東洞院などを経て、宝永八年(一七一 一)現在の地に移ったとされる。
大巳貴命、伊弉諾命、伊弉冊命、猿田彦命、 倉稲魂命を祭神とし、天智天皇像(木像)及び 大友皇子像(木像)を安置する。 また、境内西側には、五条坂の安祥院の僧で、日ノ岡峠の改修、亀の水遺跡などで知られる江戸時代中期の僧・木食正禅養阿の銘のある手洗石及び井戸がある。 京都市』
(駒札より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/62/69/6e8290459ef629c4cebe82c966ee9397.jpg)
『専称寺
当寺は、もと天台宗の末寺であったが、現在は浄土宗西山禅林寺派に属している。創設は慶長十六年(一六一一)で、本堂は元禄十二年( 一六九九)の再建である。
境内には、醍醐三宝院の開山である理源大師の自作念持仏「馬頭観世音菩薩」が祀られて いる。このことから馬頭山専称寺と号し、「馬頭さんのお寺」と呼ばれるようになった。 古文書によると、その昔、霊地大峰山に大蛇が伏して人々を悩していた折、理源大師は、
三面慣怒の相好で虎牙を現し宝冠に白馬の頭を戴いた馬頭観音の姿は、まさに悪魔も降伏させると確信し、自作の観音像を持参して山に入り難なく大蛇を退治したという。
また、寺に所属する江戸時代の名物・ 欽古堂亀祐(一七六五~一八三七)の陶墓や青磁象香炉は、貴重な美術品として珍重されている。
京都市』 (駒札より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/46/b1/41bb8603e9e89122bb1ac55555eedacf.jpg)
この界隈には有名な寺社があるとともに、中にはまだ撮影に行けていないところも結構多い。 Google マップなどの地図を詳しく調べてみるとあちこちに散在している。まだまだたくさんあるなとの思いだ。
まず「三ッ梅稲荷大神」 七条大橋の西側にある大きな横長のマンションにへばりつくように建っている。比較的小さな神社だ。真っ赤な鳥居が何本かあって、一番奥に小さな祠がある。由緒その他については全く何も資料がない。
名前の通り稲荷社であるので、狐が鎮座していた。全国各地にある稲荷社っていうのはかつての稲荷信仰に関わって建てられたものであり、いわばきわめて一般的な神社だ。大きなものからここのように小さなものまで、まさしく千差万別。こういう小さな神社も含めて数えると、本当に日本にはどれだけの神社があるんだろうかと思わざるを得ない。
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続いて同じく七条大橋西側にある「松明殿稲荷神社」 先ほどの神社の真後ろに建つ大きなマンションの反対側で、鴨川沿いとなる。こちらの方は駒札も立てられていて、かなり由緒がある神社だと思われる。
平安時代の創建で伏見稲荷大社の境外末社と言われる。松明と言う語が使用される珍しい神社名ではあるが、これは駒札にもあるように「燎祭」つまり、かがり火を焚いて厄除けをすると言う神事にまつわり、火を灯す際の松明から来てると言う。
元は違う場所にあったものだが、様々な経緯を経て今現在の場所に落ち着いた。千年以上の長い歴史を持つ由緒ある神社であり、建物を含め再建されたものとはいえ、やはり何らかの風格といったものを感じさせる。撮影中にも通りすがりの人たちが何人かお参りをして行った。七条通りに面しているのでお参りもしやすいということだ。
次に「専称寺」 由緒は駒札の通り。鴨川を東側を渡る。ちょうど三十三間堂と鴨川の間の細い路地に面している。車で行く場合にはかなり要注意な細い路地だ。
江戸時代初期の創建であり、さほど古いというわけではない。このお寺にはかつて陶磁器の名作家がおり、今現在においても陶芸作家たちから敬われている。
最後に「浄雲寺」 鴨川沿いを五条通りまで上がる。東側へ少し行ったところにある。
山門に当たるところが車の出入り口で、コンクリートの壁になっており、そこに浄雲寺の表札がかかっている。そういった意味ではお寺という感じではない。その後調べてみたが資料は皆無。
そのまま境内に入って写真を撮ってきたが、草木が生い茂っており緑でいっぱいだ。本堂は決して大きくないもののなかなか立派な構えをしていた。
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『松明殿稲荷神社
伏見稲荷大社の境外末社で田中社ともいう。
平安時代の天暦二年(九四八)に創始され、 社名は、同十年 (九五六)、勅により燎祭が行 われた際に「炬火殿」の号を賜ったことに由来すると伝えられる。また、江戸時代に出された「都名所図会」には、伏見稲荷大社の春の稲荷祭のとき、当神社の氏子が松明をともしてその神輿を迎えていたことから、「松明殿」の名で呼ばれたと記されている。
はじめ、黒門通塩小路辺りにあったが、その後、七条東洞院などを経て、宝永八年(一七一 一)現在の地に移ったとされる。
大巳貴命、伊弉諾命、伊弉冊命、猿田彦命、 倉稲魂命を祭神とし、天智天皇像(木像)及び 大友皇子像(木像)を安置する。 また、境内西側には、五条坂の安祥院の僧で、日ノ岡峠の改修、亀の水遺跡などで知られる江戸時代中期の僧・木食正禅養阿の銘のある手洗石及び井戸がある。 京都市』
(駒札より)
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『専称寺
当寺は、もと天台宗の末寺であったが、現在は浄土宗西山禅林寺派に属している。創設は慶長十六年(一六一一)で、本堂は元禄十二年( 一六九九)の再建である。
境内には、醍醐三宝院の開山である理源大師の自作念持仏「馬頭観世音菩薩」が祀られて いる。このことから馬頭山専称寺と号し、「馬頭さんのお寺」と呼ばれるようになった。 古文書によると、その昔、霊地大峰山に大蛇が伏して人々を悩していた折、理源大師は、
三面慣怒の相好で虎牙を現し宝冠に白馬の頭を戴いた馬頭観音の姿は、まさに悪魔も降伏させると確信し、自作の観音像を持参して山に入り難なく大蛇を退治したという。
また、寺に所属する江戸時代の名物・ 欽古堂亀祐(一七六五~一八三七)の陶墓や青磁象香炉は、貴重な美術品として珍重されている。
京都市』 (駒札より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/64/46/471d3df3424ec00bf4cb718eaea3a70f.jpg)
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この界隈には有名な寺社があるとともに、中にはまだ撮影に行けていないところも結構多い。 Google マップなどの地図を詳しく調べてみるとあちこちに散在している。まだまだたくさんあるなとの思いだ。
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