切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

梅撮りシーズンは終わったが 11・12 大豊神社~東本願寺岡崎別院・・・地味だがなかなかいいネ

2018-04-02 22:50:12 | 撮影

 今回は2箇所を紹介。京都市左京区の大豊神社東本願寺岡崎別院
 元々は大豊神社を目指して行ったが、途中車窓から梅の花が見えた。帰りに寄ることにして先に大豊神社行く。

  

  場所は金戒光明寺の東側の山裾にある。ちょうど哲学の道に参道が面していて、比較的行きやすい場所。歴史は由緒書きにある通り。梅の撮影に行ったが、むしろその対面にある枝垂れ桜の巨木が有名で、数年に1回ぐらい、梅と桜の共演が見られることがあると言う。訪れた日は桜はまだまだで、梅だけだった。すぐ北側にノートルダム女学院中学高校があって、体育の授業か何かで声が響いていた。
 この神社は本殿よりもむしろ、4社ある抹社の方が有名と言うか、特に大黒社の狛鼠というのが全国的にも珍しいようで、ねずみ年には新聞記事などでも紹介される。実物そのものはかなり新しいもので、作り直されたもののようだ。この大黒社がいつ頃、末社としてこの境内に建てられたのかはわからないが、大豊神社の創建当初からあったものではないだろうと思う。行きやすい場所なので、哲学の道散策と共に寄るのもいいと思う。

                 

『大豊神社由緒略記

御祭神 医薬祖神 少彦名命
    学問の神 菅原道真公
    勝運の神 応神天皇
末社  日吉社 災難除の神  狛猿鎮座
    愛宕社 火難除の神  狛鳶鎮座
    美田稲荷社 商売繁昌の神  狛狐鎮座
    大国社 七福神、縁結びの神 狛鼠鎮座

大国主命を祀る。「古事記」の中に野火の危機からネズミが救ったという神話に基づいている。右側は学問を表す巻物を持ち、左は豊穣や薬効を象徴する水玉を抱え、子宝を育んでいる形でもあります。

由緒
 社伝に依ると東山三十六峰中、十五峰目である椿ヶ峰を御神体とした山霊崇拝の社でありましたが、仁和三年(八八七年)宇多天皇の御悩平癒祈願のため、贈正一位尚侍藤原淑子が勅命を奉じて、少彦名命を椿ヶ峰に奉祀して創建された勅願社であります。又、宇多天皇の信任の厚かった菅原道真公が合祀されました。
 創建当初は椿ヶ峰山天神と称せられ、皇室公家はじめ朝野の信仰厚く次いで大宝大明神と呼ばれ、円成寺の鎮守神として霊験殊の外なるに合せて、清遊に好適なる現在の地に、後一条天皇の寛仁年間(一〇一七年)に遷座、大豊大明神の神号を賜わり、当時は社運盛大にして神域は広大なものでありました。なお平安時代の古地図には、はっきりと大豊神社の名が記されております。
 歴史は巡り昌平の御世となりました。自然の相を観、自然の声を聞く幽玄閑静なる霊地として、北は法然院・鹿ヶ谷、南は南禅寺までの産土神大豊神社は、昭和二十九年、京都市よりいにしえの都の古刹として「名勝地」に指定され、又、哲学の道の「ねずみの社」として全国より多くの参拝者を迎える今日となりました。

御神徳
 「大」いに「豊」かならしむる御神号の如く、治病健康、福徳長寿の御神徳があり、又、椿ヶ峰より流れる水は天の真清水として、身も心も洗い清める「御神水」であります。 「惟神の道」とは、精神的にも肉体的にも健康で勤しみ勉めたならば、価値創造の喜悦に輝き福徳はおのづからにして身に具わるという弥栄の哲理なのです。人間としてこの世に生をうけた本当の尊さを知り、遠き祖先と民族を偲ぶと同時に、今の幸せを神に感謝し、世の為、人の為に尽すのが神道の教えです。
 旧鹿ヶ谷村にあたる桜谷町では、今日でも「虫干」「山の神」「日侍」などの古来よりの伝統的神事を、旧家講中に依り、守り受け継がれております。又、洛中一の枝垂紅梅、多くの古典種が咲く「椿の名所」でもあり、四季折々の山野草がご参拝の皆様の心をおなぐさめいたしております。

祭礼日 氏神祭 五月四日

 薬喰人に語るな鹿ヶ谷 蕪村
 比枝寒き峰のつづきや東山 碧梧桐
 鴬や障子あくれば東山 夏目漱石
 今日はいとど桜本こそゆかしけれ 百人一首
 春の形見に花や残ると 周防内侍

石碑文
山賀良の声澄む峰の松の彩
酒造り薬の法を創めたる医師祖神椿名どころ
これやこの椿ヶ峰の谿間より寄りて流るる天の真清水
大豊の大明神と仰がれし神の御跡の椿峰山(山上)
                橘 常紀
  (パンフレットより)


 撮影を終えた後、先ほど車窓から見えた梅の花がある東本願寺岡崎別院に立ち寄る。ちょうど金戒光明寺の南側に隣接している。広い駐車場と境内があり、幹線道路に面しているにもかかわらず境内は比較的静かな雰囲気を保っている。特に梅の名所というわけでもないが、思った以上にいくつかの種類の梅が綺麗に咲いていて、ちょっとした穴場を見つけたという感じだった。
 ここは浄土真宗の宗祖、親鸞聖人が草庵を置いたところとして、今日まで整備されこの地に鎮座している。親鸞は言うまでもなく鎌倉期の僧侶で法然から教えを学んだ。彼は法然の教えの中から改めて自身の思いを、難しい文字などを読めない、当時の農民や庶民などが簡単に極楽往生できるように、南無阿弥陀仏の念仏をひたすら唱えると言う方法にたどり着いた。また彼は「教行信証」「歎異鈔」などの仏教の真髄を説こうとした著作があり、日本の仏教史において極めて大きな存在だと言える。

  

 ところでよく一般的にも親鸞の教えの中の「他力本願」という表現が、日常会話の中でも使われるが、大半の人はその意味を全く間違って使っている。むしろその間違った使い方の方が、他力本願の本当の意味だと思われている節すらある。
 まあ仏教というのは割と寛容なところがあって、厳格に様々な教えや教義の内容を、少なくとも一般庶民に押し付けることはあまりないようだ。でも様々なお寺に行って住職とお話をする機会があると、やはりそれぞれの物事の本質というものを、仏教による解釈できちっと説明してくれる。いろんな生き方の場面でも、こうでなければならないということではなく、仏教の教えとして、かくかくしかじかの教えが参考になるのではないか、と諭すような話しが多い。仏教も様々な宗派があり、中にはその歴史的経緯から、かなり厳格な教えを守り通しているところもある。
 ここのお寺では住職を始め、門徒の方々が数日後に何かの行事があるらしく、慌ただしくいろんな準備をしていて、お話をするどころではなかった。
 梅の方もしっかり撮影させてもらい、2箇所回れてまあまあ満足な1日だった。

            

『親鸞聖人岡崎草庵跡(岡崎別院)
 真宗大谷派(東本願寺)宗史蹟 第二号

『大谷遺跡録』や『二十四輩順拝図会』によれば、親鸞聖人は法然上人の吉水の禅坊に通われたころ、この岡崎の地に草庵を結ばれたといわれています。
 この草庵跡は、のちに「親鸞屋敷」と呼ばれましたが、一八〇一(享和元)年、東本願寺第二十代達如上人の時に「岡崎御坊」と呼ばれるようになり、一八七六(明治九)年に岡崎別院となりました。
 本堂の西脇には石の柵で囲まれた小さな池があり、これを「鏡池」または「姿見の池」といいます。言い伝えによると、聖人は越後御流罪のとき、この池に姿を映して名残りを惜しまれたと伝えられています。
 また、鏡池の西側には紅梅があり、その初代は聖人のお手植えと伝えられています。ひとつの花に八つの実がなることから「八房の梅」と呼ばれています。

真宗大谷派(東本願寺)
宗宝宗史蹟保存会
 (境内説明書きより)

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 梅撮りのシーズンは終わった... | トップ | 梅撮りのシーズンは終わった... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

撮影」カテゴリの最新記事