切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

管大臣天満宮~無量山 清聚院~住吉神社 京都市下京区・・・独特の御朱印があった

2020-02-13 23:26:39 | 撮影
管大臣天満宮



『菅大臣神社(かんだいじん)
 菅原道真を祭神とする神社。この地はもと道真の邸や、管家廊下といわれた学問所の跡
で、道真誕生の地とも伝えられ、産湯に使ったという井戶が保存されている。
 また「東風吹かばにほひおこせよ梅の花 主なしとて春なわすれそ」と詠まれた飛梅
の地でもある。
 古くは天神御所又は白梅殿・紅梅殿とも呼ばれ、境内には本殿、幣殿ほか多くの社殿が 建つ。本殿は、もと下鴨神社の本殿を明治二年(一八六九 年)に移築したもので、幣殿と合わせて八棟造りを成す。
  京都市』 (駒札より)

 菅大臣天満宮は、四条烏丸から西南方向の細い路地が交錯する平安時代からの住宅街の中にある。
 梅でも有名らしく今回まもなく梅の季節なので、撮影しに行こうと思っている。由緒については境内の駒札にある上記の通り。境内に大きな石柱があって天満宮降臨之地と掘られていた。やはり市街地の中心部とあって、境内全体としてはかなり狭い。その中に本殿などの建物が密集しており、本殿そのものはこれも駒札にある通り、下鴨神社から移築されたものと言う。さすがになかなか立派な構えの本殿だと言える。
 祭神の菅原道眞についてはあまりにも有名であり、中学や高校の歴史教科書にも登場する。誰もが教室で習ったはずだ。平安時代の貴族であり歌人であり、さらにそれだけではなく多方面の才能が豊かで、学問的にも優れた学者の側面も持っていた。同時に貴族、藤原氏のもとで政治的にも高い位についてはいたものの、側近の謀による無実の罪を押し付けられ九州の方へ左遷されることになった。その後彼は特にこれといって仕事も与えられることなく、この世の中に復活することなく、おそらく恨みを持って亡くなっていたと言われている。
それからしばらくして後、平安京において藤原氏の何人かの者が立て続けに亡くなるという不幸があり、これは道真の祟りではないかという噂が立った。さらに貴族達の間に悲劇が続き、一連の出来事に精神的なショックを受けた後醍醐天皇までもが若くして亡くなると言う実態に至って、菅原道眞の祟りを鎮めるという意味もあり、彼が無実の罪で左遷された事を取り消し、神として祀るということで天満宮の祖となったということだ。
 奈良時代や平安時代のこの辺りの歴史をみてみると、やはり科学的なものの考え方や見方というものが全くないような時代の中で、天災や何らかの災禍、あるいは高貴な者が亡くなるといったことが相次いで起こることは、誰かの祟りではないのかという話は結構多い。平安京造営の前に10年だけ都であった長岡京も、短期で放棄され平安遷都となったのも、藤原種継に関わる同じような話が背景にある。
 このような事実を見てみると、当時の人々のものの考え方や受け止め方、精神的な受容の仕方というのが見えてくるような気がする。
       


無量山 清聚院


 
 京都市の東西を結ぶ大動脈である五条通に面している。JR山陰線丹波口駅から比較的近い。
 このお寺については全く何の知識もなかったが、たまたま地図上で見つけて立ち寄った。お寺の山門の前に何やら派手と言ったらいいのか、変わったものと言ったらいいのかよくわからないが、独特のタッチの絵が掲げられていた。
 お寺はかなり小さな規模で、境内も非常に狭い。中に入って境内の写真を撮っていると中から比較的若そうな、と言っても40代と思われるご住職が現れて、どうぞ中に入ってください、と誘われた。
 御朱印が希望でしょうかと聞かれたが、私自身は御朱印集めはしておらず、あくまで撮影とお守りを集めるのに止めている。通された部屋には壁面にぎっしりと様々な絵が掲示されている。全て同じタッチだ。ご住職は喋るのが好きなようで、また新たな絵を描きながらどんどんどんどん喋っていく。
 聞くところによると元は別の仕事をしていたが、寺を継ぐにあたって、このような小さなお寺としては経営的にはかなり厳しいことがあり、何らかの形で特色を出そう、少しでも地域の檀家さんが気軽によってもらえるように工夫しよう、ということで自分自身で独自に絵を描き始め、それを御朱印として渡すようになったという。
 下書きも何もなしで一気に筆や絵の具などで描いていく。その手法というのはなかなかのもので、見ていても楽しいものだ。御朱印希望の方が来られると、その方とお話をしながら生活や経歴や仕事、様々な話、悩み事等を通してやり取りしながら御朱印を描くので、一枚あたり少なくとも1時間、長ければ約2時間もかけて描くと言う。だから御朱印目的で来る場合には、あらかじめそれだけの時間が必要だということを知っておいていただきたいとのことだった。ちょうどお話をしている最中にも携帯電話に御朱印希望の連絡が入り、日にちや時間の調整をしていた。かれこれ約1時間近くお話をして、御朱印も何もいただかずに体室。
 しかし私にとってみれば、肝心なのはこのお寺の由緒。そんな話は何一つ聞くことなく帰宅してから調べたものの、このお寺については確かにたくさんの情報はあった。ところがそれのほとんど全てが、と言うか100%、御朱印のことだった。逆に言えばそれだけ独特の御朱印で有名なお寺ということだ。このお寺がいつ頃創建されてどのような歴史を歩んできたのか、何一つ分からずに結局は御朱印が凄い、そして人気がある、ということだけをここに書かざるを得ない。
     


住吉神社



『住吉神社由来
御祭神 天照大神 田霧姫神 底筒男神 中筒男神 表筒男神 神功皇后 武内宿禰命
 後白河天皇が和歌の参神を平安京に 勧請される為保元二年(一一五七年)藤原俊成に
勅された。俊成は勅を奉じて摂津の国、住吉より五條室町の地に分祀し、 新住吉と稱え奉った。
 それより朝野の御崇敬厚く、和歌所の 別当が奉斎して、社運隆盛を極めた が、應仁の乱の兵火にかかり、社殿悉く 消失した永禄十一年(一五六六年)正親町天皇 が荒廃を惜しまれ、現在の地に遷座、 正殿を造営せしめられた。爾来、歴代の 御崇敬篤く歌道御傳受に際しては、 勅使が派遣され御代拜された。
 その後、二度にわたり類焼、再造されたが 明治三十二年(一八九九年)正三位伯爵 冷泉為紀卿の呼びかけで広く寄附をつのり、 同十月現在の社殿が建立された。』
 (石碑文より)

 京都市内に住吉神社を名乗るのはいくつかあるが、今回は高辻にある住吉神社。堀川通りに面している。阪急電車の四条大宮駅から南東へ約1 km 余り。
 上記の由来にある通り、後白河天皇が京都にも和歌の神を、ということで大阪の住吉社から勧請したものと言われる。社殿は境内と共にかなり狭く小さなもので、平安期からの千年近くに渡る歴史があるとはなかなか思えないのが事実。というのも何度も火災で焼け落ちており、その都度再建されて結果的に本殿なども割と新しいものになっている。和歌を嗜む人にとってみれば、ここは当然参拝に外すことはできない神社であるだろう。私みたいに和歌と聞くと、中学生時代に授業で作った和歌を国語の教師から馬鹿にされた思いが未だにトラウマとして残っている者としてみれば、和歌など絶対にやるものか、というのが未だに心の中に残っている。そういった意味では小学生や中学生時代に教師から受けた仕打ちというものは、たとえそれが良きものであれ悪しきものであれ、大変な影響力を持つものだと改めて思う。
 それはともかく、テレビなどでも和歌を取り上げたエンタメ番組などもあって、なんだかんだとやっているが、自分にとってみれば見たくもないものの一つだ。だからこの神社も和歌がどうのこうのということよりは、どういう経緯で存在している神社のか、ということに興味があり、その成り立ちや由緒について、あるいは祭神について調べることが興味の中心となる。
 住吉社から勧請されただけあって祭神も記紀に登場する神話上の神であり、ご利益は当時遣唐使が盛んであったために、住吉の港から航海に出る無事を祈って、いわば航海の守り神としての位置づけがあった。
 しかしその後遣唐使が廃止になり、住吉の地は平安期において、貴族たちのいわば景色を楽しむような遊びの場と化していく。その中で和歌が詠まれ、いつしか和歌の神としての位置づけが強まっていくと言ったことらしい。さまざまな古文書の研究からはそのような説が出されており、それで確定しているようだ。

     
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