切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

小栗栖八幡宮・本経寺 京都市伏見区・・・いろんな謂われが興味深い

2019-07-06 23:23:59 | 撮影

小栗栖八幡宮



『小栗栖八幡宫
創建は清和天皇の御宇武内宿
称末裔紀興道が貞観四年
(西暦八六四)九月二十二日に男山八幡宮
を奉還した紀興道は参議紀朝
臣梶長の子で小栗栖姓を名乗り
神主を務めた弘和二年(一三八二)飯田民
部郷越中守永盛が引継ぎ寬政元年
十五代民部卿能登守明天法印まで務
めたが南小栗栖に渡し中津瀬氏
が神主となる
足利時代には社領三十六石あり、
室町将軍滅亡後は当社も衰え
天文六年(一五三七)二月社領焼亡した
社宝古記などは焼減している、
大正八年三月十五日指定村社となる

(由来)
紀興道という人が関東守護職を命じられ
下向するに当り男山八幡宮の分霊を勧
請して当八幡宮を創建した、
社頭が東を向いているのはそのためである
祭槽は四月十五日と九月十五日
大祭は十一月一日と一月十五日
地頭は飯田左近将監左近屋敷は神主で
小栗栖城主で飯田家の屋敷であり
現在は石垣のみ残る
 (説明板より)



 伏見区の小栗栖八幡宮へ行く。
 外環状線の下を走る地下鉄東西線石田駅から西へ数百メートルのところにある。近くには小学校や保育園など、そして住宅地が広がるが、神社は少し小高いところにあり、鳥居をくぐり石段を登っていくにしたがって、鬱蒼とした森に囲まれた非常に静かな人気(ひとけ)のないようなところに至る。
 境内は広くはないが、小高く巨大な樹木に囲まれた日光が届かないような場所と言える。石段を登る途中から本殿が見えてくる。やや小ぶりだが拝殿・本殿ともにしっかり整備された建物であり、いかにも神社という風格を感じさせる。
 上の説明書きによれば、創建は平安時代ということになる。現在の八幡市にある男山八幡宮(現石清水八幡宮)から分霊を勧請して創建されたものだと説明されている。
 祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后。
 これらの祭神は少なくとも平安時代においては、日本史上実在の神として扱われていたものであり、信仰の対象として大切にされていたものと考えられる。
 応神天皇については、中国のいくつかの古文書との比較検証から、実在した可能性がかなり高いのではないかと言われている。
 仲哀天皇については、実在性はかなり否定的であり、神話上の人物という説が有力だ。
 神功皇后についても、実在説と神話説が入り混じっており、学問的にも決定的な結論は出ていないようだ。平安時代以降についても、神功皇后が卑弥呼ではないのかという説もあったくらいだ。
 日本の文献だけでは記紀の内容が元になり、結論が出しにくく、その後の文献においても記紀が元になっているものが基本であり、やはり中国に残されている文献との比較検証が大事になってくる。そういった点では今後とも研究が深められることが大事ではないかと思われる。

 神社の名前である「小栗栖」というのは、日本全国の中でもかなり珍しい名称であり、地名にしても人名にしても極めて少ない。地域分布で最も多いのはやはり京都府。古代においては山城国宇治郡の小栗郷(乎久留須)、という地名から今現在に引き継がれているものと考えられている。読み方や当て字にも様々あり、最終的には現在の文字が使われている。漢字をそのままに意味を取っていけば、栗が実っている比較的小さな場所、というふうな意味になるが、果たしてそうなんだろうか。とにかく諸説あって詳細は不明のようだ。
 境内は小高い所にあって、巨木の間から僅かに近くの小学校や住宅が見えるだけで、この地域が一望できるわけではない。鳥居近くにあった説明板に記された内容は読みにくく、意味も分かりにくいが、改めて文字に起こしていくと、おぼろげだが記されてる意味も少しは見えてくる。神社というのは歴史的な深さがあるので、様々調べると非常に興味深い。
       


本経寺



 小栗栖八幡宮のすぐ北側にある。
 やはり住宅街の中の高台にあって、神社と違い巨木が囲んでいるわけではないので、周辺の見晴らしはとてもいい。
 ここは明智光秀の終焉の地として知られている。山崎の合戦で豊臣秀吉軍に敗れた明智光秀は、今の大津の坂本を目指し逃れる途中、この近くで竹槍で刺され亡くなったと言われている。その場所は「明智の藪」とよばれる史跡となっているが、そのことを全く知らずに、お寺の中に明智光秀のお墓があるだけだと思っており、帰ってからそのような史跡があることを知った。いつものことだが、大事なポイントを知らずに撮影してしまって、後から後悔と言うパターンだ。
 境内は特に塀もなく非常に開放的で、山門といったものもないようだった。本堂などは比較的新しく、庭園も全体的によく整備されて花が綺麗だった。
 日蓮本宗のお寺で、室町時代の末期に近い永正3年に建立された。江戸時代に火災で消失しており、その後再建今に至る。
 お寺の名前の「本経」というのは、そのままの意味にとれば、基本となる教典、ということだが、このお寺のその名前については、当てはまるのかどうかは全くわからない。

       
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