真宗大谷派山科別院長福寺
『真宗大谷派
山科別院 長福寺
真宗大谷派山科別院長福寺は、 元文元年(一七三六年)に建立された。山科は、 蓮如上人が山科本願寺(一四八二年~一五三三年)を建立した地であり、上人の真宗再興が実現された場であった。
江戸時代のはじめ、本願寺は東西両派に分かれ、別々の道を歩むことになり、慶安三年(一六五〇年)には、本願寺が所有していた山科本願寺旧跡地の所属をめぐり相論が起こった。この相論は、ついには奉行所の栽決を仰ぐこととなるが、東西どちらの所有も認められず、旧跡地は奉行所の預かりとなった。その後も数度の相論を重ねるも旧跡地が帰属するこ
とはなかった。そのため東西両派は、蓬如上人の山科本願寺旧跡を再興するかたちで、旧跡地に隣接する土地に御坊(別院)を建立することとなった。東本願寺は、享保一七年(一七三二年)に旧跡地の北側に位置する竹鼻村領を買い取り、御坊建立に取り掛かった。この時、当初入手した土地は現在地より南東に位置し、四宮川の西岸だったが、狭小だったためか今の土地に変更された。御坊建立の際、京都の東本願寺寺内にあった長福寺という寺院を移転し、山科御坊とした。その故に山科別院には、長福寺という寺号がつけられている。
京都市』
(駒札より)
先日行ってきた浄土真宗の山科別院のすぐ北側にある。
その中間に蓮如上人の御廟所があり、ここは二つの山科別院が共同で管理している。敷地の広さなどはこちら真宗大谷派の方がやや小規模だが、ここもやはり本願寺派のお寺ということで、御影堂や阿弥陀堂など、さすがの迫力のある構えだ。
由緒については上の駒札の通り。元々は室町時代に蓮如上人が山科本願寺を建立したが、後に宗教対立による襲撃で灰燼に帰す。その後本願寺の門徒数が増加し、本願寺そのものがかなり強い力を持つようになってきた。それを恐れた幕府は本願寺を東西に二分することとし、東本願寺と西本願寺ができることになる。その後江戸時代中期になって、山科別院の再興が計られ、別院の建設が進められることになり今に至る。
ここも広い境内を持ち、少し端の方に本堂などの大きな建物が建立されている。周囲の樹木は少ない方だが、ツツジなどの綺麗な花があちこちに咲いて綺麗だった。
東西両本願寺とも現在、大きな勢力を誇っており、山科別院だけではなく岡崎別院など、他にも寺領を所有しており、全国の浄土真宗の拠点となっている。
ちなみに私自身は全く信仰心も何もない身だが、聞いてるところによると我が家は代々浄土真宗西本願寺派、ということのようだ。今家の中にはそれを示すものは何もない。私が子供の頃に一緒に住んでいた祖父母は、そういったものを何か所有していたのかもしれない。でも家の中に仏壇があったかどうかは記憶にない。
それにしても中世期の仏教各宗派の対立というのは凄まじいものがあり、先日の山科別院のところでも紹介したように、こちらの方も比叡山延暦寺の僧兵による襲撃を受けている。又日蓮宗派からの攻撃も受けており、仏教徒同士によるいわば権力 争い、破壊の仕合い、殺し合いと言うとんでもない歴史的な経過があったというわけだ。
なおこの土地の地名は、「竹鼻サイカシ町」という珍しいものだが、そのいわれについてはまた機会があれば書いてみたいと思っている。
若宮八幡宮
『若 宮 八 幡 宮
当宮は天智天皇が山科野に御巡幸の天智八年(六六九)の折、音羽の社に八幡神を勧請されたのにはじまると伝えられている。
当初の御祭神は仁徳天皇、応神天皇、神功皇后の三神であったが、後に摂社の二神(天武天皇、須佐之男命)を加え、五座となった。旧記は紛失し現存しないが、後小松天皇の御宇の応永年中(一三九四~一四二七)に社殿が再建され、明治六年(一八七三)八月に村社に列せられた。そして平成二年(一九九〇)に社殿を救メートル後退させ、その跡に幣殿を設けたのである。
境内には廃仏毀釈で廃された観音堂が再建され、十一面千手観音と、脇侍として不動明王、毘沙門天が祝られている。また、供養塔としての二基の宝箇印塔がある。一基は天武天皇の御子の大津皇子、他はその御子粟津王であり、現在も、氏子の中に粟津姓を名乗る氏人が多く存在する。
京 都 市』
(駒札より)
同名の神社は各地にあるが、ここ山科の若宮八幡宮は国道1号線の比較的近く。音羽小学校の真向かいにある。この場所だけが背の高い巨木に覆われた森になっていて、何かひっそりとした静かすぎるような雰囲気がする。
駒札によれば、古墳時代の頃にその始まりがあると言われているが、詳しいことはよく分かっていない。いずれにしろ天智天皇がこの土地を訪れた時に、八幡神を勧請されたと言う。
ただ天智天皇そのものは、後に大化の改新の首謀者であり「万葉集」にも詩が残されているのところから、実在の人物であるとされるが、聖徳太子を始めこの頃の人物や出来事については、かつての教科書に書かれていた内容から、最近の研究によってかなり違ったものになっているようだ。
天智天皇の実在性についても疑問が出されている面もある。同時に祭神として祀られている神にも実在したのかどうか、疑問も出されており、この辺は諸説あるという状態になっている。この頃の話については、そのような疑問を意識しながら見ていく必要があるだろう。 ただ駒札のような案内板を公的機関が作成したてているというのは、現時点での分かった範囲で、諸説あろうとも最も有力であろう説を記しているものと考えるべきだと思う。
境内は典型的な神社。周囲を高い木に囲まれ、拝殿から本殿もしっかりした建物だ。また観音堂があるというのも比較的珍しいと言える。
平安時代に神仏習合の折に境内に寺院が設けられ、そこに諸仏が安置された。その時期はいつの頃なのかはよくわからないが、仮に平安時代のものとすれば、写真にあるように千手観音立像はかなり状態の良いものであり、文化財指定になってもおかしくないようななかなか見応えのあるものだった。肉眼では堂内が暗くて鮮明に見えないが、カメラでは極力ブレないように、何枚も撮影したうちの1枚だけが少しは見られるような状態だったので掲載している。まさか神社の中でこのような見事な千手観音を拝見することができるとは思ってもみなかった。
静かな境内ではあるが、向かいの小学校から子供たちの元気な声が聞こえてきて、これはこれで良いものだと思える。
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