きらせん

仙台のきらめき










東北大学公共政策大学院准教授
佐分利 応貴

 「社会をモデルで見る」

2008-01-02 22:00:13 | Weblog
  年末に買った物理の本と電磁気学の本を読む。
  
  「… おおっっ。」
  「これだよなぁ。」
  「はぁ … もっと早くやっておけば」

  よくテレビで政治や経済の評論家が、ある時代と現在を比べて「○○の時代と類似している」「大恐慌前と同じだ」などという人がいるが、科学的には全くナンセンスである。時代が変われば、当然経済構造も社会構造も違うのだから。モデルが同じで、インプットが同じなら、アウトプットも同じになるが、モデルやインプットの何かが違っていれば、当然結果も違ってくる。

  数理社会学の発達で、社会をモデル化する技術は年々進歩している。
  例えば、ファッションなどの流行・ブームの発生と収束は数学式で書くことができるし、ゴミが捨てられているとさらにゴミが増える(きれいな町だとゴミもすてにくい)ことも数学式で説明できる。
  数学が社会学に応用可能なように、物理学はさらに複雑な社会現象を説明するモデルに使える。地域の活性化は、熱エネルギーと運動エネルギーのモデルで表すことができるし、コミュニケーションの影響力は熱伝導と電磁誘導のモデルが使える。

  いったい、「国語」「算数」「理科」「社会」の科目は誰が決めたのか。
  一度科目が決まってしまうと、カリキュラムと教師が自動的に再生産されるから、縦割りの壁はどんどん厚くなる。本来であれば算数も理科も社会も、実は一続きの学問のはずなのに。

  むしろ分類は、「意欲」「能力」「戦略」ではないか。
  小学校でいえば、「①人生のすばらしさについて」「②社会で生きていくために必要なこと」「③いろいろな人の気持ちがわかる」という科目では。算数や理科は②だし、国語や社会は②と③。でも①は誰が教えているのだろう? 米国では歴史教育、英雄教育を取り入れているというが。

  「手段の目的化」。 本来は人生を豊かにするはずの学問が、自己目的化して人生を貧しくしている。手段の目的化を防ぐためには、より高次な目標を定める必要がある。学問は、社会で生きていく力をつけるためのもの。それに気がつかない、気がついても何もしない教育者はいないだろうか。