年末に買った物理の本と電磁気学の本を読む。
「… おおっっ。」
「これだよなぁ。」
「はぁ … もっと早くやっておけば」
よくテレビで政治や経済の評論家が、ある時代と現在を比べて「○○の時代と類似している」「大恐慌前と同じだ」などという人がいるが、科学的には全くナンセンスである。時代が変われば、当然経済構造も社会構造も違うのだから。モデルが同じで、インプットが同じなら、アウトプットも同じになるが、モデルやインプットの何かが違っていれば、当然結果も違ってくる。
数理社会学の発達で、社会をモデル化する技術は年々進歩している。
例えば、ファッションなどの流行・ブームの発生と収束は数学式で書くことができるし、ゴミが捨てられているとさらにゴミが増える(きれいな町だとゴミもすてにくい)ことも数学式で説明できる。
数学が社会学に応用可能なように、物理学はさらに複雑な社会現象を説明するモデルに使える。地域の活性化は、熱エネルギーと運動エネルギーのモデルで表すことができるし、コミュニケーションの影響力は熱伝導と電磁誘導のモデルが使える。
いったい、「国語」「算数」「理科」「社会」の科目は誰が決めたのか。
一度科目が決まってしまうと、カリキュラムと教師が自動的に再生産されるから、縦割りの壁はどんどん厚くなる。本来であれば算数も理科も社会も、実は一続きの学問のはずなのに。
むしろ分類は、「意欲」「能力」「戦略」ではないか。
小学校でいえば、「①人生のすばらしさについて」「②社会で生きていくために必要なこと」「③いろいろな人の気持ちがわかる」という科目では。算数や理科は②だし、国語や社会は②と③。でも①は誰が教えているのだろう? 米国では歴史教育、英雄教育を取り入れているというが。
「手段の目的化」。 本来は人生を豊かにするはずの学問が、自己目的化して人生を貧しくしている。手段の目的化を防ぐためには、より高次な目標を定める必要がある。学問は、社会で生きていく力をつけるためのもの。それに気がつかない、気がついても何もしない教育者はいないだろうか。
「… おおっっ。」
「これだよなぁ。」
「はぁ … もっと早くやっておけば」
よくテレビで政治や経済の評論家が、ある時代と現在を比べて「○○の時代と類似している」「大恐慌前と同じだ」などという人がいるが、科学的には全くナンセンスである。時代が変われば、当然経済構造も社会構造も違うのだから。モデルが同じで、インプットが同じなら、アウトプットも同じになるが、モデルやインプットの何かが違っていれば、当然結果も違ってくる。
数理社会学の発達で、社会をモデル化する技術は年々進歩している。
例えば、ファッションなどの流行・ブームの発生と収束は数学式で書くことができるし、ゴミが捨てられているとさらにゴミが増える(きれいな町だとゴミもすてにくい)ことも数学式で説明できる。
数学が社会学に応用可能なように、物理学はさらに複雑な社会現象を説明するモデルに使える。地域の活性化は、熱エネルギーと運動エネルギーのモデルで表すことができるし、コミュニケーションの影響力は熱伝導と電磁誘導のモデルが使える。
いったい、「国語」「算数」「理科」「社会」の科目は誰が決めたのか。
一度科目が決まってしまうと、カリキュラムと教師が自動的に再生産されるから、縦割りの壁はどんどん厚くなる。本来であれば算数も理科も社会も、実は一続きの学問のはずなのに。
むしろ分類は、「意欲」「能力」「戦略」ではないか。
小学校でいえば、「①人生のすばらしさについて」「②社会で生きていくために必要なこと」「③いろいろな人の気持ちがわかる」という科目では。算数や理科は②だし、国語や社会は②と③。でも①は誰が教えているのだろう? 米国では歴史教育、英雄教育を取り入れているというが。
「手段の目的化」。 本来は人生を豊かにするはずの学問が、自己目的化して人生を貧しくしている。手段の目的化を防ぐためには、より高次な目標を定める必要がある。学問は、社会で生きていく力をつけるためのもの。それに気がつかない、気がついても何もしない教育者はいないだろうか。
僕は「科目」とかそういう括りは必要悪というか、最低限で緩やかな枠に留めるべきと考えるので、先生の考え方には親和的だと勝手に思っています(というか思わせてください・笑)。学問区分とは、例えていえば、縦割りの頑強な壁ではなく、相互に行き来が可能な浸透膜的なものであるべきだと思うのです。
人文科学、社会科学、自然科学、というのもある種の括りですが、これらをヴェン図であらわすとしたら、必ず三つが重なる部分があって、それは結局人間のそれ自体を非合理たらしめている「心理」に行き着くのだろうというのが私の持論です。例えばいくら高い客観性を有するに思える「自然科学」におけるコンピュータによる統計であっても、初期プログラムの設定時点で、いやそれ以前にコンピュータが自然物でない時点で、科学には必ず人為は働くものなのだと思うのです。いわんや社会科学をやではないでしょうか。
高校生の時からこういうこと(学問を「総合」という観点からみること)に興味があって、総合科学という概念に触れられる大学に入り勉強しました。しかし、現在の日本社会の縦割り閉鎖性は、学ぶ人々のそうした「目的」なぞには目にもくれず、専攻という近視眼・虚実や大学ブランドなどの「手段」に傾倒しつつある様相を呈しているというのが現状でしょう。就職活動における企業の反応や人々の言動の端々から感じられるのが悲しくてたまらない今日この頃です。目下の「入学歴社会」ではなく真の「学歴社会」の登場を期待します。