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今日のころころこころ

2020・2・28 横須賀の几号水準点 久里浜・ペリー公園

横須賀に残る高低几号標。
久里浜のペリー公園へ。
京急・久里浜駅から住宅地を抜けて海へ。






途中の公園には海軍工作学校跡の碑があったりなんかする。

裏側からペリー公園。
嘉永6年(1853年)黒船4隻を率いた米海軍提督ペリーは大統領の親書を携えて開国を迫った。
戦闘も辞さない威圧的な態度に幕府はやむを得ず久里浜に上陸を許し浦賀奉行が親書を受け取った。
ここはペリー上陸の地。




ペリー記念館。
ペリー提督と老中間部詮勝が入り口を挟む。




2階には間部詮勝の人生双六。







間部詮勝は鯖江藩7代目藩主。
初代詮房が失脚していらい間部家は幕政からは遠ざかっていたが、詮勝の代で再び幕政に返り咲いた。
安政5年(1858年)に大老井伊直弼とともに老中に抜擢され、開国へと大きく歩を進めた。が、尊王攘夷派の反発を受け安政の大獄による弾圧で反対派を粛正した。
赤鬼が井伊直弼なら青鬼は間部詮勝。
しかし翌年安政6年(1859年)には井伊と対立して老中を罷免された。
その井伊は翌々年安政7年(1860年)に桜田門外で暗殺された。
間部は文久2年(1862年)に安政の大獄の責を問われ隠居。
明治17年(1884年)回顧録等残すことなく東京の屋敷で死亡。
正直、このお方誰なんだろう?なのだが、どうも、欧米列強から日本を守った影の立役者のようだ。
ま。
高低几号標。
高低几号標はベンチの横に可愛く建つ。


横須賀の図書館に寄ってこなかったから、この高低几号標が当初からこの位置だったかは調べてない。
でも、都内の道路やら地面に埋め込まれてすっかりと謎の存在になってしまってる高低几号標は元々はたぶんこんな形だったんだろうな。
それを四角く切断して更には当初の設置位置とはかけ離れた地面に埋め込んだのが最大の謎だけど。
海岸へ。
東京湾フェリーが来た。
この沖に黒船が4隻現れて日本の近代が始まったんだよな。
浦賀方面へ行けば平作川に架かる開国橋。


久しぶりに平作川沿いを少し歩く。
陸上自衛隊久里浜駐屯地。



写真を撮りながら歩いている私の前をジョギング姿の人が行ったり来たりする。なんだこの爺さまは?と思ったら陸上自衛隊久里浜駐屯地へと橋を渡って行った。
あちらもたぶんなんだこの婆さんは?だったのだろう。ま。
その先にはかながわの橋100選に選定された夫婦橋。


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