キムカズの気まぐれブログ Part2

キムカズブログPart2がスタート!
Part1は→http://blog.goo.ne.jp/kimukazu1

おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「種平地区」の歴史に学ぶ~

2020-05-28 22:53:13 | 日記
種澤村は雄物川の下流、右岸にある歴史の古い村である。
村名の起源について、「天保3年(1076)6月大降雪の折出火し、このため附近が消雪し秋に籾千升の収穫があり、これを種子として田植えができ生活に安堵を得たことから地名を種ヶ沢とした」と「雄和町史」に記されている。しかしこれは古い伝記で、確かな証拠が残っているわけではない。

村名が古記録に見えるのは戦国時代のことで、天正19年(1591)の「出羽国秋田郡御蔵入目録写」から、豊臣秀吉が前年9月、上杉景勝に命じて秋田地方を検地した時、種沢村、平尾鳥村を蔵入地(直轄地)に指定し、その年貢の取立を秋田実季(さねすえ)に任せたことがうかがえる。

戦国時代のはじめ種沢村は種澤城に拠る種沢氏の領下にあったが、元亀元年(1570)ごろ、豊島氏の手に落ち、さらに秋田実季の手に渡り、その後秀吉の蔵入地となったという。いかにも戦国時代らしく、短期間に領主を変えたものである。

種沢村には柳林大堤・釜ケ沢大堤、その外いくつかの小堤もあるが、これららは秋田氏支配の時代から、佐竹入部の初めにかけて築造されたものといわれている。慶長7年(1602)9月、佐竹氏が秋田に入るに及び、種沢村はその支配下の村となった。

種沢村にとって水源確保の上から、山王堂川上流にある柳林大堤や釜ヶ沢大堤の果たす役割が大きかったが、またこれらの堤は洪水のためしばしば破損し、その普請には藩の力に頼らねばならないこともあった。

明治22年4月町村制が施かれた時、種沢、平尾鳥、左手子、女米木、戸賀沢、相川の六村をまとめて中川村となった。
しかし、28年には中川村は種平、戸米川の二村に分離した。

慶応4年(1868)戊辰戦争では、村内が戦場となったので大きな損害を受けた。戊辰戦争で民家の多くが焼かれたためか、種沢村の近世古文書の保存は決してよいとは言えない。



出典:雄和町教育委員会・雄和町立図書館発行「雄和町史料集7 種沢村 古文書集」


最新の画像もっと見る

コメントを投稿