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おらほの街河辺雄和のいいとこ発見 ~「大正寺地区(神ヶ村)」の歴史に学ぶ~

2020-05-31 15:05:23 | 日記
神ヶ村の村名が初めて記録に上に登場するのは、慶長17年(1612)の「由利郡中慶長年中比見出検地帳」においてである。
このなかに、繋村・新波村・荒沢村(萱ケ沢村の誤記か)・猪狩田村(碇田村)とともに、「神か村」の名で、大正寺郷五ゕ村中の一村として記されている。
当時、由利郡の大部分は、山形に本拠をおく最上義光の領地となっており、従って大正寺郷も最上氏の支配を受けていた。
最上氏は慶長5年(1600)の関ケ原の合戦で徳川方に組みし、その功労によって慶長7年家康から由利郡の加増を受けたのである。
最上氏はその家臣本城豊前守(楯岡豊前守ともいう)に由利の支配を任せ、本城氏はその家来大泉讃岐守に、大正寺郷を統治させていたのである。

慶長17年(1612)最上氏は家臣をして由利郡の一斉検地を実施させ、その直後の12月17日、大正寺郷五ゕ村の肝煎に対して出した「掟」と「法度」の二つが、いずれも菅野俊隆家に伝わっており、これは雄和町文化財の指定を受けている。

最上氏はその後元和8年(1622)8月、家中騒動の故をもってお家断絶となり、その領地を失った。
由利郡はこの時一時佐竹義宣の手に預けられたが、翌9年10月、新たに六郷政乗・岩城吉隆・仁賀保拳誠らが、由利郡の地を分与されて入部した。
このとき神ヶ村は大正寺郷の村々とともに岩城氏支配下の一村となったのである。

岩城氏は入部直後の寛永2年(1625)に領内二万石の総検知を実施した。領内の土地と農民を把握し、支配体制を固めるためであった。この際、佐竹藩の強い援助、協力を受け、特に佐竹氏の重臣梅津政景が深く関与し、直接亀田藩内の村々に足を運んで検地を指導している。
このときの地検帳によると神ヶ村の村高は岩城領内79ゕ村中4位となっている。
検地が終わると、岩城藩ではそれを基礎に村に対する年貢その他諸負担を決め、村々に割当て状を交付した。これがいわゆる黒印御定帳である。
これによれば、神ヶ村はこの頃「神ヶ沢村」と呼ばれており、岩城藩の家臣の給分地となっていた。給分地とは、藩が直接年貢を取立てをするのではなく、家臣(給人)が年貢徴収を任された土地のことである。すなわち岩城藩では入部当初は地方知行が行われていたのである。

正保3年(1646)の「出羽国油利郡内高目録」には、神ヶ村は「水損所、はへ山有」と記されている。
水損所とは水害を受け易い土地ということであろう。
はへ山とは雑木、青木の茂った山の意であろうから、林産は豊富だったことを示している。
さらに正保4年(1647)の「出羽一国絵図」には、村高753石とある。これは繋村401石、荒波村235石、碇田村346石、萱ケ沢村93石と比べても、ズバ抜けて多く、大正寺郷内でも最大の村であったことを物語っている。
その後村高は、元禄15年(1702)には615石、明治2年(1869)534石と減少し、明治4年の資料によれば61戸の農民中、10石未満の零細農民層が38戸を占めているなど、全体としては生活の苦しい村であったようである。

神ヶ村は明治元年の戊辰戦争では、亀田、庄内連合軍の陣屋がおかれ、直接放火による被害は受けなかったが、8月から9月にかけて多数の兵士たちが村を出入りし、また、食糧、弾薬などの集積地ともなったため、村民は不安の日を過ごした。そうした苦悩の一端が高尾村肝煎の記した「大友林七日記」の中に書き留められている。

神ヶ村には、浅野家、神田家、小縄家、斉藤家、佐々木家、福原家、藤原家など、多くの一族(分家)を持つ旧家が多いが、菅野家もそうした旧家の一つで、庄兵衛家がその本家であり代々肝煎を務めてきたのである。

出典:雄和町教育委員会・雄和町立図書館発行「雄和町史料集2 神ヶ村 菅野家文書」






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