建国記念の日です。神武天皇が、畝傍の橿原に宮柱太立て、そこを都と定めた日が2月11日だとされております。「日本書紀」には“辛酉年春正月庚辰朔“と書かれてありますが、何故、これが「2月11日」かということについては私には分かりませんが???
まあ、これが「建国記念の日」の言われなのだそうです。
でも、此の神武天皇が日向の高千穂の宮から東に向かって出発されますが、先ず、最初に立ち寄られた所が筑紫の国「莬狭です。宇佐神宮のある所です。そこから、今度は、安芸の国に渡られます、そこに3カ月ほどいた後、「吉備国」に到着されます。
神武は、この吉備の国に、、日本書紀によりますと、3年間滞在され、兵力や船などの東征のための補強を此の吉備の国で行うのでした。筑紫でも、安芸でも摂津でもないのです。吉備の国があって、始めて、神武は大和朝廷成立に至ることができたのです。吉備は大和朝廷成立のの影の力となったのです。此の神武の吉備に滞在された事に付いて「日本書紀」には、次のように書き現わされております。
“乙卯年春三月甲寅朔巳未徒入吉備国起行宮 以居之是曰高嶋宮 三年間備舟檝蓄兵食将欲以一挙而平天下也”
吉備国の高島宮に滞在して、三年間で、戦力としての舟を補強し、更に、兵隊の数も増やし、食料も十分に備えたのです。吉備の国は西から突然来た神武に大変な協力をします。反抗したということは書いてありません。それくらいよそ者を大切にする暖かい心の持た国民だったとしか言いようがありません。普通なら。見も知らない人物がどやどやとやってきて、「やれ船だ」「食料だ」と言っても相手にされないのが普通です。でも、どうしてかわからないのですが、吉備の国は、従順に従ったのです。
まあ、こんな吉備の絶大なる協力があって、初めて大和政権は成立するのです。難波におけるこの後の神武の戦いには相当の苦労があるのです。それと比較しても、吉備の協力は大和朝廷成立に大きな力となったのです。だから今日「2月11日」は、吉備にとっても、大変な意義ある日なのですが、そのような気配は有史以来無いと言ってもいいのです。そのような関心が皆無だからです。
なお蛇足ですが、この高島宮について、「笠岡だ」「いや旭川の下流にあるのだ」なんて言う人もあるようですが、それは違います、足守川のほとりにある、あの枕草子にある「吉備の中山」にあったことには間違いありません。
以上、今日も、又、又脱線しました。筆敬さんからのお叱りは覚悟しております。
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