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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−191(戦国の石見−4(続き))

戦国の石見−4(続き)

 

61.2.吉田郡山城戦

大内、尼子が石見で攻防戦を演じている間に、 安芸国では大内方の毛利氏が強固な地位を固めつつあった。

これを知り尼子晴久は軍勢をひきいて備後路を下り、別動隊は新宮党をひき具して尼子国久が赤名・ロ羽・河根と 南下して毛利、大内連合軍と戦いを始めた。

天文九年の八月に至り、晴久の軍三万は元就の居城郡山城を包囲攻撃し た。

十月に入るとかえって毛利軍に反撃されて敗色濃く、年が明けると大内の援軍も吉田に到着、尼子軍は大敗北をする結果となった。

退却する尼子方の軍勢は都賀方面から出雲に帰陣して行った。

この一戦で毛利の名声はいよいよ 高まり、尼子はその底を見抜かれたかたちになり、晴久の安芸進攻は徒労に帰したのである。

 

61.2.1.尼子の侵攻

尼子の国内及び伯耆方面の問題、大内の九州問題に気をとられている隙に、 めざましく抬頭してきた元就の勢力に驚き、大内は元就の嫡子隆元を質として盟約を確かめ、尼子は元就攻勢を強化しようとする。

後太平記によると、天文8年(1539年)8月、尼子は安芸侵入を企てている。

天文8年(1539年)8月、尼子勢安芸侵入を企て、三吉隆信(畠敷の比叡尾城主)の合力により備後布野より進んで江川沿いに陣を構えた。

元就は江川で尼子勢の侵攻を防ごうとし戦うが、元就側が不利な状況となり、九月になると戸坂まで退いた。

この時、吉川興経が尼子と呼応して毛利の居城である吉田に迫らんとする動きがあった。

元就はこれを察し山県郡に出兵して吉川と戦い、吉川の動きを抑えた。

一方、大内方は尼子の芸備侵入を牽制するため銀山に侵攻した。

同年、大内勢は大森銀山を攻略し、尼子の奉行を追払う。

内田正重を奉行とし、吉田大蔵丞・同釆女丞及び坂根次郎兵衛をして昆布山谷において銀の精錬を始めた。

 

61.2.2.吉田郡山城攻め

尼子晴久は多年芸備両国の間に扶植していた自己の勢力が、元就によって次第に侵害せられつつあるを憂慮した。

11月、晴久は毛利の根拠地吉田郡山城を攻略して、その勢力を壊滅せんとして軍議を開いた。

しかし、晴久の祖父経久はこれに反対する。

経久は云う。

元就は智謀傑出せる勇将であるばかりでなく、その国は富み兵は強く、かつ大内義隆の後援があるから、尼子の兵力のみでは粉砕することは不可能である。

また、まだ石見・備後両国の征服が完全でないのに、深く敵地に侵入することは極めて危険である。

この二つの理由を述べて、飽くまで反対し、晴久の反省を促した。

だが、晴久はこれを聞かず、多数の賛成を得て出征することを決定するのである。

かくて諸般の準備を整え、各地に軍勢が集結した。

尼子晴久は、この軍勢のうち、出雲・伯耆・石見三国の将兵は晴久自身統率し侵攻する。

そして、備中 備後の国衆には直接安芸に進入し、吉川興経以下安芸の将兵とともに本軍の到着を俟ち、吉田に参会すべきことを命じた。

この頃、晴久の大がかりな吉田攻めの動きを察知した義隆は、天文9年(1940年)1月恒持とともに防府に出で、3月にさらに岩国に移って元就援助の態勢をとっている。

 

出雲より吉田(現在の安芸高田)に至る要路には、富田城のある広瀬から熊野・三刀屋・掛合・頓原・赤名を経て三次に出で、甲立より吉田に達する備後路。

もう一つは赤名から石見邑智郡に入り都賀・口羽を通って安芸高田郡川根に出で、多治比より吉田に達する石見路とがあった。

備後路は山坂が多く険難ではあるが距離が近い。 

一方、石見路は迂回して遠距離となるが道が楽であった。

尼子晴久は一族及び部将と協議の上、まず与党の三吉隆信らの支援を得て、備後路を経由、吉田の動静を探らんとした。

6月中旬、国久(晴久の叔父)・誠久(国久嫡子)・久幸らは将兵三千余を率いて出発し、隆信の臣中村慶久の拠る備後志和地の八幡山城に着陣した。

毛利元就は、宍戸元源の弟深瀬隆兼の守備する祝山城が、八幡山からわずか四キロ余の地点にある要衝なので、特別の警戒を厳命している。

はたして、尼子勢は祝山城麓の石見堂の渡場に来襲したが、深瀬隆兼は宍戸元源父子の来援を得て防戦しており、尼子勢はこれ以上の進出はできなかった。 

尼子国久らは軍を退いて出雲に帰った。

そして、備後路よりの吉田侵入の困難を報告した。

結局、尼子晴久は郡山城攻めの経路は、石見路としたのである。

8月、尼子晴久は指揮官に大叔父の尼子久幸を据えた。

尼子久幸は、国久ら一族与党以下雲・伯・因三国の兵約三万を率いて富田を出発した。

途中別動隊を石見に派遣して大森銀山を奪取し、かねて石見における大内方の郡山城支援を阻止せんとした。

尼子別動隊は予定通り進撃して、16日、大森銀山を急襲してこれを奪った。

大内の銀山奉行内田正重は自殺した。

その後尼子方は石西周布方面まで侵攻したという。

 

9月、石見邑智郡都賀・口羽から安芸高田郡川根を経由して、吉田に進撃した尼子晴久の本隊は、4日、高田郡多治比の風越山に着陣、附近一帯に布陣した。

風越山は吉田の西北約四キロの地に聳え、高峻にして郡山城を眼下に見ることができる場所である。 

毛利元就は一族家臣から住民に至るまで男女数千人を城中に収容し、守備を徹底した。 

宍戸元源は甲立五龍城に、小早川興景は坂に、福原広俊は鈴尾(高田郡福原)に布陣、熊谷信直・香川光景は佐東銀山の武田信実を警戒に当たった。

守る毛利方の勢力は八千といわれているが、その多くは領内の農民であり、実際の戦闘要員数は僅か三千弱といわれている。

元就は籠城作戦をとり、大内勢援軍を待つ作戦であった。

 

5日、尼子勢は、吉田上村に進出し民家を焼いた。

6日、さらに進んで太郎丸及び町家を焼く。 

12日、尼子勢は郡山城麓に迫まり後小路に放火し、大田口・広修寺縄手・祇園繩手にて交戦した。 

23日、尼子久幸は、本陣を風越山から青山・三猪山に移した。 

26日、部将湯泉宗綱(仁摩郡温泉津城主)が討死する。

10月11日、籠城作戦に痺れを切らした尼子誠久ら新宮党率いる一隊が郡山城麓に来襲すると、毛利元就勢は城門を開いて突進し、激戦となった。

この合戦の形勢は尼子勢不利となり潰走を始めた。

毛利勢はこれを急追して青山土取場に大勝する。

この戦で尼子の部将三沢為幸が討死する。

 <吉田郡山城跡地>

本丸跡地

 

尼子勢の敗退

以後膠着状態となり両軍の間にはもはや大規模な合戦はなかったが、般若谷・瀬木・室坂・小山・相合(以上高田郡))河井(山県郡)などで局部戦が断続していた。

12月3日、大内の援軍、陶隆房・内藤興盛・杉重政らの諸勢が吉田に到着し、郡山城の東南上小原に陣した。

翌天文10年(1541年)1月11日、大内勢は本陣を郡山城麓の天神山に移した。

13日、毛利元就は、尼子の部将らの守備する宮崎長尾の陣営を強襲した。 

尼子の先鋒高尾豊前守、二陣黒正甚兵衛らを次ぎ次ぎと粉砕し、三陣吉川興経に迫る勢いとなった。

しかし、合戦の勝敗は容易に決せず、日没に至って、毛利勢は敵営に火を放った後、兵を撤した。 

この時、尼子の部将三沢蔵人・高尾豊前守が討死している。

 

この日、天神山に布陣していた陶興房の主力は、尼子久幸の本陣青山、三猪山に突進したので、陣中混乱する。 

尼子久幸は、勇戦奮闘して陶勢をやや後退せしめ得たが、ついに壮烈な最後を遂げた。

 

指揮官を失った尼子勢は、その夜一族郎党以下幕僚を三猪山の本陣に招集し、協議する。その結果撤退することに決まった。

 敗残の兵を収容し夜陰に乗じ即時撤兵を開始した。

高田郡北生田方面に逃れたが、犬伏山麓の積雪に悩まされ、万難を排してやっと邑智郡都賀に到着した。

そして暫くこの地に滞在し四方から集ってきた敗兵を収容して、倉皇として富田に帰着したのであった。


この合戦によって、 安芸の一豪族に過ぎなかった毛利の安芸における地位は確立し、 芸備石の諸族をして次第に毛利に降服せしめることとなった。 

大内義隆は、毛利元就の自分に対する忠誠を認め、吉田郡山城戦の褒賞として、過去四年間質として山口に滞在せしめていた元就の嫡子隆元を吉田に帰国させた。

また義隆は、石見東部の大勢が尼子を離れて大内に一味するようになったので、その監督として厚狭弾正を邑智郡上出羽の二つ山城に派遣した。

 

62.2.3.尼子経久の死没

しかし、安芸国内における反大内派の動きは、決して休止していたのではない。

正月、桜尾城主友田興藤は厳島を占領、大内与党これを排撃し、棚守房顕を社職とする。

3月、山内義隆、桜尾城を攻める。 

4月、友田興藤は城を焼いて自殺した。

5月、毛利元就は、武田信実の拠る佐東銀山城を落し、ついで武田の残党の拠る伴城(安佐伴村)を攻略して、ここに安芸の武田勢力は壊滅したのである。 

7月、義隆、 元就に対して可部・温科の代りに、佐東郡緑井・温井・原・矢賀・中山などを与え、その子隆景を竹原小早川家の嗣たらしむることにつき種々周旋して、毛利懐柔につとめる。

8月、出雲国造千家高勝、元就に就いて神領安堵を乞う。元就はこれに証状を与えるた。 
毛利の勢力陰然として出雲に及んでいることを注意すべきである。 

9月、尼子勢、安芸に侵入したが何程の戦果も挙げ得なかった。 

11月、一世の雄尼子経久、84歳をもって死去、孫晴久(母は吉川経基女)が28歳で名実ともに尼子家を主裁することとなった。

 

<続く>

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