戦国の石見−4(続き−2)
61.3.広瀬富田城攻め
天文10年(1541年)尼子勢の吉田敗退の結果は備前・安芸・岩見の諸族に大衝撃を与え、尼子家を離れて大内家に服属させる結果となった。
61.3.1.広瀬富田城攻撃
大内義隆は、討つべしの声を聞き、一気に雌雄を決せんものと、毛利元就とともに出雲進軍を決意する。
当時石見の戦況は大内方の吉川経安が石見大田において戦い、銀山は大内方の手中に戻されていた。
明けて天文11年(1542年)義隆は1月15日兵一万五千を率いて山口を出発した。
一方毛利方は元就、隆元、宍戸隆家が将となり安芸から石見に入り出羽のニッ山城に到着、都賀より赤名を通り富田城へと軍を進めた。
石見国人で従軍したものは、都治隆家・岡本大蔵大夫・都賀駿河守・周布武兼・益田藤兼・本城常光・小笠原長雄 その他出羽、羽根、富永氏等の東石見人はことごとくこれに参加している。
毛利の本隊は出羽に入ると頓原・三刀屋と攻め入り、本陣を馬潟ヶ原に移した。
天文12年(1543年)2月12日、義隆は本営を経羅木山に移して富田城に泊まった。
61.3.2.大内軍の敗退
3月14日には城下菅谷口において激突死闘が展開され多 くの死傷者が出た。
尼子方はこの間にもよく防戦し勝敗の程も決しかねたが、毛利の武将であった三刀屋・吉川・本城等の寝返りがあり尼子方についたので、連合軍はむなしく潰え敗北した。
この寝返りについて、「陰徳太平記」では次のように激しく批判している。
陰徳太平記巻第十四 大内義隆朝臣敗軍付晴持最後之事
かくて備・雲・石三州の武士ども、一味同心して手を反覆するが如くに、大内家左袒の志を変じて、尼子右帰の約をなす。
げに、世の中は定めなき、昨日の淵はいつしかに、今日は瀬となる飛鳥川、明日をも知らぬ人心。
頼みなしとは云いながら、一度は尼子の手に属して芸州吉田の城を攻めしかども、戦い利無くして晴久敗軍せられしかば、頓て弱きを棄てて強き大内に威風を仰ぎ、今また大内家の智計拙しとて再び尼子家へ帰参しけること、志士仁人の恥ずる所、浅猿共中々評論を付くるに及ばず。
大内軍は、三刀屋・吉川・本城等の武将が寝返ったことに驚愕した。
これらの武将の留守を守る一族が、大内軍の食糧の補給路を押さえ、退路を断つことを恐れたからである。
大内義隆は重臣を集め協議し総軍撤退を決めた。
5月7日、養子の晴持(義房)を伴い退却を始めた。
61.3.3.大内晴持
月山富田城からの追跡を避けなが らの退却だったので、本隊が揖屋灘(松江市東出雲町)に辿りついたときは日がとっぷり暮れていた。
大内晴持は、追っ手の放った矢を受けて負傷したため、一足遅れて浜に着いた。
大内義隆は、すでに乗船して沖へ出ていた。
晴持はなんとか船に乗り込んで、浜辺を離れようとした。
しかし、取り残された将兵が、
「情けない、見捨て拾うか、御乗せ候え」
と、口々に叫んで海に飛び込み、舟べりにつかまって乗ろうとした。
晴持の取り巻きが、長刀をふるって手を切り払ったが、次から次へ将兵がしがみついたため、舟はあっという間に沈没し、義房は溺れてしまった。
晴持の水死の場所は、錦の兵といい、遺体は冷泉隆豊が山口へ運んだと、大内氏実録は伝えている。
晴持は、本名を義房といい、京の公卿、一条大納言房家に嫁いだ、 義隆の姉の子で、3歳のときから義隆の養子となっていた。
晴持とは、将軍足利義晴から、晴の字をもらってつけた名で、大内家の後継者として期待され、歌、 皆、のほか、武芸にすぐれた、りりしい若武者だった、という。
晴持の遺体は、冷泉隆豊が海底を探して見つけ、山口まで持ち帰ったとされている。
生きていた晴持
ところが、この若武者は助けられて、 あくる月の6月24日まで生きていたと、地元で語り伝えられている。
この夜、 揖屋の江尻灘の手繰り船の網元、吉儀惣右衛門が、漁に出ていたところ、 手繰り網に、うら若い武士の水死体がかかった。
気品があって美しい、さぞ名のある若武者に違いないと考えた惣右衛門は、漁をうちきって自宅に運び、色々と手当てしたところ、不思議に息をふき返した。
若武者は、苦しい息づかいの下から「大内晴持です」と 名乗った。
カンが当たったことに驚いた惣右衛門は、家族や出入りのものに、かたく口どめをして、ひそかに看病を続けたが、 矢傷の悪化か、あるいは肺炎でもおこしたのだろうか、一ヶ月余りのあとの、6月24日短い命を絶った。
大内系図には20歳としるされているが、揖屋のいい伝えでは17歳だったという。
晴持は存命中に、助けられたお礼だといって大刀二振を贈り、惣右衛門には「別当」(大内家の首席家臣という意味)の称号を与え、月山城攻めは初陣だったことを語ったという。
晴持は自分が助からないと悟ったとき
大内を出でに雲の身なれども
出雲の浦の藻屑となぞる
と辞世の歌を残している
神に祀られた若武将
惣右衛門は、そのころ海辺で松林だった自分の所有地に、晴持から譲られた大刀の一振を御神体として、権現社を 建立し、10月24日に鎮座祭を行った。
惣右衛門は、思わぬ死をとげた若武将の無念を押しはかって、周防の地を望む形で神社を建てた。
昔の揖屋の人たちの情け深さや、尼子氏のお膝元であるのに、晴持を助けた秘密が守り通せたことは驚きである。
晴持の死後、江尻離では、馬に乗った人が通ると亡霊が襲いかかるという怪事が続発した。月山城から退却するとき、騎馬武者に追われたという怨念からだったかもしれない。
「権現さん」の名称は、明治になってから歴史研究家によって、いま 大内神社に改称された。
大内神社は毎年12月24日に大祭、6月24日は麦祭りの名で例祭を営み、不運な花の若武者の霊を慰める行事が続けられた。
61.3.4.小早川正平
小早川又太郎正平は安芸の国沼田庄、高山城主であった。
小早川又太郎正平も大内方も敗残兵として宍道湖北岸に落ちていった。
8日未の刻(午後2時)ごろ、小早川又太郎正平は、家臣の真田大蔵、萬台善四郎らと、現在の平田市美談町西谷の鳶巣川に差しかかったとき、落ち武者を狙う武装集団に襲われ命を落とした。
正平はこのとき花の21歳の若武者だった。
陰徳太平記の巻14に「小早川正平討死之事」として書いている。
8日未の刻(午後2時)ごろ、小早川又太郎正平は、家臣の真田大蔵、萬台善四郎ら主従三人と共に、現在の平田市美談町西谷の鳶巣川に差しかかった。
この川を渡ろうとしたところ、物陰にひそんでいた軍勢が、いきなり矢を射かけながら追って来た。
三人は必死に川を渡り、何とか逃げのびようとした。
しかし、7日に広瀬から退却し、ろくに眠らず、ほとんど歩きづめの逃避行で、三人は疲れ果てていた。
敵はしつこく追いかけてくる。
逃げきれないと思った萬台善四郎は、主人を落ちのびさせようと、川の中より引き返し敵の中に打ち入り敵を数人倒して討ち死にした。
追跡はなおも激しいので、真田大蔵も「私がここで防いでる間に早く逃げてください」と川の中で敵を待ちうけ、迎え討ったが、石つぶてや矢を全身にうけ、血だるまとなって倒れた。
正平はこの隙に、敵から脱出することが出来たが、二人の無残な死を目の前にして、大事な家臣を死なせておいて、私だけが助かろうとは思わないと覚悟をきめた。
「私が小早川又太郎だ。 私を討って尼子晴久に捧げて手柄にせよ」と大声で叫んで、真一文字に敵の群れに突っこみ、十数人を斬り伏せたのち、その身はずたずたになるという壮烈な死をとげた。
西谷地区の人々は、美しい絆で結ばれた、主従の最期のようすをかいま見て、心をうたれ、 八騎塚を築き、祠を建てて冥福を祈った。
西谷で八人の遺体を葬っているのは、小早川又太郎正平、家臣の真田大蔵、萬台善四郎ら三人と後は足軽と呼ばれる無名の人五人だったようである。
西谷地区ではいまも、「小早川さん」の愛称で、その昔の悲劇を偲んでいる。
後日談
小早川正平の子に繁平という幼子がいたが、視力を失っていた。
ここに目をつけた毛利元就は三男の隆景を小早川家の養子にすることに成功し、小早川家は毛利氏に併呑されることになった。
<興源寺>
永禄十年、毛利元就が出雲を平定すると間もなく、小早川家へ養子に入った隆景が、義父にあたる正平の戦死した地である鳶巣川を訪ねた。
正平の戦死から24年間、八騎塚の祀りを続けている西谷地区の人々に、お礼の言葉を述べたが、新しく五輪墓 をつくり、 興源寺 (臨済宗)を建立して、 永代供養の願いをたてた。
<美談神社>
出雲市美談町の美談神社内の摂社に小早川神社があり、「小早川正平と小早川隆景」が祀られている。
<大内晴持、小早川正平退却経路>
<続く>