69.山中鹿之介(続き5)
69.7.鹿之介、信長に拝謁する
因幡国より撤退した幸盛は、織田信長を頼り京へ上る。
京で信長に面会した幸盛は、信長より「良き男」と称され、「四十里鹿毛」という駿馬を賜わったという。
その後、幸盛は織田軍の下で尼子家再興を目指すことになる。
この鹿之介と立原が織田信長と対面したのは、隠匿太平記では元亀4年(1573年)と記されているが、一方では天正3年(1575年)であるという説がある。
多くの歴史解説は、この天正3年(1575年)説をとっているようである。
陰徳太平 巻第四十九
山中幸盛立原久綱謁信長事
去々年元亀二年山中幸盛(鹿之介)、宍戸・口羽を方便、縲紲(罪人として捕らえられること)の難を逃れ、美作へ逃げ上り、それより上洛して勝久を待ちける所、勝久も新山に堪へ得ず落去て京都へぞ上られける。
その頃、信長上洛し給い由を聞いて、山中鹿之介幸盛、立原源太兵衛久綱、うち連れて大津へ出で向かひ、明智日向守を頼み、然然(しかじか)の由案内を遂げれば、信長やがて対面有りけり。
鹿之介先ず諸士に一礼して、その後信長の御前に出で盃賜りければ、信長、鹿之介は能(よき)男也と宣う。
二番に久綱にすらすらと出で、信長の盃を呑んで退出するときに至て、諸士に対して一礼して通りければ、信長、立原は男も能きが立ち振る舞いも尋常也と褒め給う。
その後、鹿之介には四十里鹿毛と云う駿馬、源太兵衛には貞宗の刀をぞ賜りける。
山中、立原、信長卿中国へ御発向成され候はば、御先を奉はり御道案内仕り、御太刀陰を以って本国出雲を賜はり置き候う様にと望みければ、信長その旨領許有て、山陰道は明智日向守に先陣を命じたり。
渠が手に属し忠義を抽べし候へと宣いける間、山中、立原、明智に相従い彼が機嫌に違(たが)はじとぞ振る舞いける。
69.8. 鹿之介、明智軍で活躍する
天正4年(1576年)、幸盛ら尼子再興軍は明智光秀の軍に加わり、但馬八木城攻めや丹波籾井城攻めに参加する。
11月、明智軍が籾井城を攻めて敗れると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍の殿となり、追撃する波多野・赤井軍を迎え撃って切り崩し、軍の崩壊を防いだことで光秀より褒美を賜っている。
その他、丹波攻めの際には2度の比類ない働きをした。
天正5年(1577年)、幸盛は、信長の嫡子・織田信忠に従い、片岡城攻めや松永久秀が篭城する信貴山城攻めに参加する(信貴山城の戦い)。
幸盛はこのとき、片岡城攻めでは1番乗り、信貴山城攻めでは2番乗りの功績を上げた。
また、この戦いで幸盛は、久秀配下の将・河合将監を一騎討ちで討ち取っている。
69.9.鹿之介、秀吉軍下に入る
10月、信長の命令を受けた羽柴秀吉が播磨へ進軍を開始すると、幸盛ら尼子再興軍は明智軍を離れ、秀吉軍の下で戦うこととなる。
12月、秀吉が、播磨西部の毛利方の拠点である上月城を攻略すると、幸盛は、主君・尼子勝久と共にその城に入る。
尼子再興軍は、この城を拠点として最後の尼子家再興を図って行く。
上月城は小城であったが、備前・美作・播磨の国境に位置し、この地域を治める上で重要な拠点であった。城番となった幸盛は、この区域の守備を行うと共に、織田氏と美作江見氏との仲介を行うなど、美作国人の懐柔・調略を行っていく。
天正6年2月1日(1578年)、宇喜多軍の将・真壁次郎四郎が約3,000の兵で上月城を攻める。
この戦いは、幸盛が約800の兵を率いて宇喜多軍を夜討ちし、次郎四郎を討ち取って尼子再興軍が勝利している。
69.10.織田軍、尼子再興軍を見捨てる
2月中旬、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻し、毛利氏に味方する。
織田氏と交戦状態にあった毛利氏は、これを好機と捉え、4月、吉川元春・小早川隆景ら率いる3万以上の兵をもって播磨に進軍する。そして4月18日、尼子再興軍が籠もる上月城を包囲する。
5月4日、毛利軍による上月城包囲の知らせを受けた秀吉は、荒木村重らと共に1万の軍を率いて上月城の救援に向かい、高倉山に布陣する。
しかし、秀吉軍は、信長から三木城の攻撃を優先するよう命じられたことや、6月21日の高倉山合戦で毛利軍に敗れたこともあって、6月26日に陣を引き払い書写山まで撤退する。
その結果、上月城は孤立無援となり、兵糧が底を突き、また城を離れる者も後を絶たなくなったため、7月5日、尼子再興軍は毛利軍に降伏する(上月城の戦い)。
降伏の条件として、尼子勝久及び弟の助四郎は切腹、幸盛と立原久綱は生け捕られ人質となる。
その他、毛利氏に敵対した多くの者は処刑され、それ以外の者は許され解放された。
人質となった幸盛は、備中松山城に在陣する毛利輝元の下へと連行されることとなる。
しかし、途上の備中国合(阿井)の渡(現在の岡山県高梁市)にて、毛利氏家臣の福間元明により謀殺された。
享年34、39とも云われて。
鹿介の首は、首実検のため将軍・足利義昭の待っていた現・広島県福山市の鞆の浦まで運ばれ、その地に首塚が作られた。
胴体は、高梁市落合町阿部の観泉寺に胴墓として葬られている。
織田信長から追放されていた足利義昭は天正4年(1576年)2月、紀伊由良の興国寺を出て、西国の毛利輝元を頼り、その勢力下であった備後国の鞆に動座した。
義昭が鞆を選んだ理由としては、この地はかつて足利尊氏が光厳上皇より新田義貞追討の院宣を受けたという、足利将軍家にとっての由緒がある場所であったからである。
鹿介が最期を迎えた場所には榎が植えられ印とされていたが洪水で流出したため、供養塔として正徳3年(1713年)に当時の備中松山藩主・石川氏の家臣により、この墓が建立された。
陰徳太平記 巻第五十六
山中鹿之介最後事
栄枯盛衰は天理の当然、人事の常規也。
然るに十信初果にだも至らぬ凡夫は常有の見に堕して「未だ得ざるは得んと欲し則に得れば之を失わん」(まだ手に入れていないものを手に入れたいと欲するが、手に入れてしまえばそれを失うことを恐れる)を恐るる事の浅ましさよ。
況んや矢石剣刀の家に生涯を執る者をや、浮沈を一日の間に待ち死生を一戦の裡に変えるは戦国乱邦の習いなれば、之を得るも何ぞ歓び足り、之を失うも何ぞ悲しみ足れば、山中鹿之介幸盛、昨日までは主君勝久を輔弼して、千騎萬卒の命を黜陟(功績の有無によって官位を上げ下げすること)したれば其の威焱々として手を炙るべかりし身の、今日は何然君臣明暗の界を隔てて、楚人の囚われに就き、檻中の虎の尾を掉るありさまにて、心も進ぬ旅の路。
羊の歩程もなく、備中甲部川河井の渡に着きにけり。
兼てより天野紀伊守が嫡子中務少輔元明に鹿之介討つべき由下知し給ひければ、元明此の渡口に小舟一艘艤(ふなよそおい)して、鹿之介が手勢悉く乗せて渡しければ、鹿之介は後に残りて頸取り後藤と柴橋太刀介と云う者、二人召し具して、岩に腰打ちかけて扇つかい、肩脱ぎて汗拭いなどしける所に、天野が家人河村新左衛門と云う大剛の者、時分よしと思い、岸陰より狙い寄って袈裟懸けに丁と切る。
さしもの鹿之介も思いがけざる折なれば、あっと云って河水へ飛び下りける所を、河村続きて飛び降りけり。
鹿之介は達者の早業も、力も亦勝れたれば、河村を取って押し伏せんとするを、福間彦左衛門馳せ寄って、鹿之介が髻(もとどり)をつかんで引き倒し、終に首をぞ掻きたりける。
鹿之介当年三十九歳とかや。
郎党柴橋太刀介をば渡辺又左衛門、轉(うたた)右衛門二人して討ちてけり。
三上淡路守は鹿之介討たんと落合けれど、首を福間にとられければ、力無く鹿之介が頸に掛けたりける。
大海の茶碗入れ腰に佩(お)びる所の荒身国行の刀を取って、輝元へ進したりけるに、刀をば召し置かれ、茶入りをば返し与えられにけり。
(以下略)
69.11.山中鹿之介の墓
現在山中鹿之介の墓と云われている場所は上記以外にもある。
1、鳥取市幸盛寺(鳥取市鹿野町)
鹿野城主・亀井玆矩が尼子十勇士・山中鹿之助幸盛の菩提所と定めた。
山中鹿之助の墓や尼子十勇士のひとりでもある日野五郎之房の墓もある。
2、京都市本満寺(京都市上京区)
豪商鴻池の始祖は、鹿之介の長男幸元であると伝わっており、その鴻池所縁の誰かが建立したものと云われている。
建立は宝暦14年(1764年)と裏側に彫られていた。
<裏側>
69.12.亀井茲矩
尼子氏が滅んだ時、山中鹿之介と同じように流浪のみとなって、尼子再興を目指した武士がいた。
亀井茲矩(これのり)である。
亀井茲矩の子亀井政矩は後に石見津和野藩の藩主となった。
亀井玆矩は尼子氏の家臣・湯永綱の長男として出雲国八束郡湯之荘(現在の島根県松江市玉湯町)に生まれた。
尼子氏が毛利元就によって滅ぼされると流浪の身となった。
尼子復興軍に参加し戦闘を行っている。
鹿之介の養女(亀井秀綱の次女)を娶り、亀井姓を名乗ってその名跡を継いだ。
その後豊臣秀吉の家臣となったが、秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは東軍に与している。
亀井玆矩は関ヶ原本戦後に鳥取城を攻めおとしている。
その功績によって因幡高草郡2万4,200石を加増され、3万8,000石の鹿野藩初代藩主となった。
慶長17年(1612年)、茲矩が病死すると嫡子の亀井政矩がその跡を継いで鹿野藩主となった。
元和3年(1617年)、石見津和野藩主だった坂崎直盛が「千姫事件」により改易された。
それにより、亀井政矩は石見国鹿足郡・美濃郡・那賀郡・邑智郡への領地替えとなり、津和野の三本松城が与えられた。
<亀井家墓所 島根県鹿足郡津和野町>
<続く>