(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−58(石見の守護・地頭−1)
25. 石見の守護・地頭 平安期末までの地方行政は、とにかく律令体制の国司、郡司によって統治されていた。 この体制は治承4年(1180年) 源頼朝が鎌倉殿と称せられるようになっ...
(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−59(石見の守護・地頭−2)
25. 石見の守護・地頭(続き) 25.2.承久の乱前後の地頭 鎌倉初期の石見の地頭に関する史料は殆ど見当たらない。伝承などで残っているものを拾い集めた。 「地頭」は原則とし...
(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−60(元寇−1蒙古)
26. 元寇 元寇とは、モンゴル帝国(元)の皇帝フビライが行った日本侵攻のことで、文永11年(1274年)と弘安4年(1281年)の二回行われた。 元寇という呼称が最初に...
(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−61(元寇−2 北条時宗)
26.1.2. 北条時宗 元寇について この元寇は日本史上、一、二を争う重大な出来事である。 歴史にIFは無いといわれているが、元寇の結果が違っていたら(つまり...
(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−62(元寇−3 文永の役)
26.2. 文永の役 フビライは、文永10年・至元10年(1273年)4月に日本に派遣した6回目の使者も返書を持ち帰らないことが分かると、日本侵略の準備を始める。 文永1...
(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−63(元寇−4 朝廷と鎌倉幕府)
26.3. 朝廷と鎌倉幕府 朝廷 博多の総司令官、小貳景資が元軍来襲を伝える飛脚を京都に送ったのは10月9日前後である。 その急報が京都に届いたのは、10月18日といわれてい...
(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−64(元寇−5 諦めないフビライ )
26.5. 諦めないフビライ フビライは日本を属国化することを諦めていなかった。 フビライは遠征軍の首脳部を叱責した記録がない。 「優勢に戦っていたが、...
(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−65(元寇−6 弘安の役)
26.7. 弘安の役 元は1279年(弘安2年)に南宋を滅ぼした。 フビライは弘安2年(1279年)杜世忠ら使節団が斬首に処されたことを知らないまま、周福を正史として8回目の使...
(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−66(元寇−7 元寇後)
26.8. 元寇後 26.8.1. フビライの三次日本侵攻計画 フビライは日本侵攻を諦めきれず再度日本侵攻を計画した。 弘安5年(1282年・至元19年)7月、フビライの再侵...