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旅日記

望洋ー121(思い)

71.兵士の思い

兵士とは軍隊で士官の指揮下で任務を遂行する者を云う。

軍隊に於ける兵士は、将校や下士官の指揮下で、戦闘や警備、訓練など様々な任務を担う。

71.1.特攻隊

71.1.1.特別攻撃隊

特別攻撃(特攻)という戦死が前提となる攻撃を日本陸軍、日本海軍もそれぞれに行っている。

特別攻撃隊の語源は、日米開戦の緒戦に日本海軍によって編成された特殊潜航艇「甲標的」の部隊に命名された「特別攻撃隊」の造語からである。

しかし、この「甲標的」は生還方法を講じており、必死作戦ではなく決死というべき作戦であった。

戦況悪化に伴い、後には航空特攻(陸軍・海軍)や水上特攻(陸軍・海軍)、水中特攻(海軍)などの「体当たり攻撃」を行うようになった。

特攻での戦死

日本軍が行った体当たり攻撃「特攻」により、海軍と陸軍合わせて約6,371人の隊員が戦死した。

特攻は航空機によるものが多く、約4,000人が戦死している。

 

71.1.2.海上挺進戦隊

陸軍の水上特攻隊である海上挺進戦隊に編成されたのは、つぎのようにいづれも若い兵士たちであった。

戦隊長には陸軍士官学校出身の若い少佐、または大尉を充てた。
(具体的には陸士51期から54期で、その年齢は24歳〜28歳の若者であった)

中隊長には陸士57期を主体として、不足分は陸士55、56期で補った。
(年齢は20歳から25歳であった)

群長(小隊長)には船舶兵甲種幹部候補生(大正10年から12年生まれ)を主体として、そのほか他の兵科の見習士官も含めてこれに充た。

一般の隊員は船舶特別幹部候補生(大正13年4月以降、昭和4年生まれで満15歳から20歳未満)を充てた。
                 
前述したように、海上挺進戦隊は第1戦隊から第30戦隊まで編成された。

これらの戦隊の総員は3,125名で戦没者は1,793名であった。

但し、この戦没者は特攻によるものは少数で、連合国軍との戦闘に巻き込まれて戦死したものが大多数であった。

 

71.1.3.特攻隊員たちの心情

特攻隊員たちの気持ちは次のようなものであったと一般的に云われている。

特攻隊員の多くは若く、人生経験も浅く、「国のため」という言葉を純粋に信じ、その言葉に従うことが最良の道だと信じていた。

そして、天皇を頂点とする国家のために命を捧げることが最も尊い行為とされていた当時の日本の価値観に基づいて、自らの命を国のために役立てようとした。

一方ではまた、家族への愛と別れを惜しむ気持ち、絶望感、命令に従うことへの葛藤、生への執着、自分が死んだ後の未来への希望など様々な気持ちを抱いていたと思われる。

遺書などを見ると、家族への感謝や未来への希望が記されている。

 

自ら進んで特攻に入隊した者は少ないだろう。

「特別隊にどうか?」との誘いを断ることができなかったというのが事実に近いのではないだろうか。

何故断れなかったのか?

それは、日本や郷里の仕来り・伝統を遵守すること、国体、家族・家系を守り、祖先を敬うことなどを幼い頃から教育され、実践することが務めであるとされていたからである。

だから、日本が存亡の危機にある状況で自分だけが逃げるようなことなど言えなかったし、そういうことを思ってもいけないと、自分で戒めていたのではないだろうか。

こういった行動の縛りは、日本だけではないが死を賭けてまでそれを行うかというと日本特有のものなのであろうか。

イスラム教信者の中には殉死といって敵を道連れに自爆するということが最近行われているが、これは死んだら天国に行けると云われているからである。

これは、犠牲ではなく取引であり、自分のために行う行動である。

日本のように只々自分以外のために死を賭ける民族は他にないであろう。

 

71.1.ある海軍兵の遺書

この兵士達はどの様な思いで戦場に出ていたのであろうか。

ここに元海軍兵士の遺言がある。

この海軍兵は当時26歳の青年で、昭和19年3月10日、伊号第52潜水艦でドイツに向かって呉港を出航した。

伊52の派遣の目的はドイツ製工業製品の製造技術の取得のためであった。

しかしこの頃イギリスの天才数学者アラン・チューリングによってドイツが使用していた、エニグマ暗号機を利用した通信の暗文を解読するための機械「bombe」が開発されて、ドイツの暗号文が悉く解明され、それによりドイツの潜水艦が撃沈されていた。

つまり、この頃は潜水艦でヨーロッパまで潜航して行くことは非常に危険な任務だったのである。

こういうこともあり、出立前に大西洋で藻屑と消える覚悟の遺言書を書き遺したのであった。

この遺言書を読むと命を賭けて日本を守ろうという意気込みが滲み出ている。

しかしこの遺言書は必ず検閲されるため、本心を全て吐露しているわけではないと思う。

この凄絶な心持ちを思うと何とも言えない切なさを感じる。

国、家族を守るため、命を顧みず行動し、決して後ろ指を刺される様なことにならないようにと教育されていたのであろう。


 「戦死セル場合開封スベシ」と書かれている。

         


遺書

欧州作戦参加の首途(門出)に当り一筆書き遺き致します。

私は国家の御為に死す。

神州日本男子と生れ三千年の歴史を有す皇国に生を受けしかも無敵帝国海軍潜水艦乗員として栄ある艦と共に大君の魂が御盾となりて屍を遠く大西洋の荒波に晒す。

あゝなんたる光栄ぞ。

還りみれば七年前故兄上支那事変にて国家の御為に死す、一家の名誉更に此れに過ぎざる者なし。

希くば私なき後は弟静雄、英夫共に立派なる帝国軍人中堅幹部なりて国家の守りに立たせ給わんことを。

この世に生を受けしより二十有六年御両親様の御慈愛の胸に抱かれ今日に至るまで一度親孝行等しき真似事さへ出来ず先立つ事何よりの私として心残りに存じます。

しかれども国家存亡の秋に当りいささかも私情を云々することは国家の不忠であります。

三千年の歴史を有する神国、皇国の万一に報ぜんの秋「国のため死すこそ最大の親孝行なり」との格言を肝に銘じ必ずや未練な振舞わなさらず力づよく強く生て下さいませ。

決して他の人におくれをとらぬ様最後の御奉公を致す覚悟であります。

されば何卒先立つ不幸はお赦しください。

決戦の下の今日私なき時の覚悟は充分にあられる事と信じますけれども、決してお嘆きあるまじく若し戦死の報至らば先ず「よくやった」と一言おほめ下されば私も喜ぶ事と存じます。

あまりお嘆きの、あまり身体にさわられる様ことあらば私重ねての親不孝の罪をつくることになります。

小生とて家督相続の件もありませうが、弟二人とも軍人であれば、いずれは国家にお返上致さなければなりません。

結局大東亜の為ならば原田家が無くなれば此の上もない名誉な事です。

子供四人をお国に捧げれば光栄です。

・・・・中略・・・・

どうか年老て居られる故充分に元気一杯長くお暮らしの事お祈り致します。

旅立つにあたり何物も残すものなし、唯々神体として此の遺書と遺髪なるのみ。

御両親様を始め皆様方どうか強く元気にて大東亜戦争の御為に盡されん事を大西洋の海底よりお祈り致します。

では元気にて特別任務を及びて、支那、独国へ征きます。

戦死后は何ら心配は無用です。

水清く屍は覚悟の上、金銭の貸借り、婦女子関係は何等なし。

男である以上最后の最后迄皇国の御為に働き神州権持の守護神たらん。

御両親様お姉様弟達十三枝左様奈良。

昭和十九年三月十日

辞世二首

身は大西洋の玉と砕けるも
示さでおかじ鉄鯨魂

咲く春を知らずに征く若櫻
咲かさでやまじ日本櫻

この海軍兵は昭和19年3月10日、伊号第52潜水艦でドイツに向かって呉港を出航した。

伊52の派遣の目的はドイツ製工業製品の製造技術の取得のためである。

伊52に便乗していたのは主に民間の技術者であった。

ドイツへの技術供与の対価として2トンの金塊、および当時のドイツで不足していたスズ・モリブデン・タングステンなど計228トンが積載されていた。

アメリカ軍は遣独潜水艦作戦に特別な関心を示し、日本とドイツ間で交わされる無線を傍受、その動きを追い続けていた。 作戦中の暗号名は「アカマツ」。

3月21日にシンガポールに到着し、ここで大量の物資を積み込み、同月23日にシンガポールを出港した。

5月20日喜望峰を越えて大西洋に入り、北上し6月4日北半球に入った。

6月8日、ドイツのベルリンよりレーダー逆探知装置受け渡しの為6月21日午後9時15分に北緯15度00分 西経40度00分の海域でドイツ潜水艦と会合せよとの無線命令が入る。

これが運命の分かれ道となった。

アメリカはこの情報を傍受し攻撃部隊を現場に派遣する。

6月22日、伊52は合流地点に到着し、23日午後8時20分にドイツ潜水艦U530と合流した。

 同日午後11時20分にアメリカ海軍護衛空母ボーグを飛び立ったアベンジャー雷撃機より最初の攻撃を受ける。

1時間半後の翌24日の午前1時に第二波攻撃を受けて北緯15度16分 西経39度55分の地点で沈没し、艦長の宇野亀雄中佐以下乗員106名、便乗者9名全員戦死した。

伊号第五十二潜水艦は8月2日大西洋方面で喪失と認定、12月10日に除籍となった。

艦体の発見とその後

大量の金塊が積載されていたという記録が公開されたのを受け、1995年にトレジャーハンターのポール・ティドウェルにより沈没位置が特定され、船体も発見された。

そして1998年の再調査で遺品や積荷のごく一部が引き上げられたが金塊は発見されず、水深5,000mもの深海であることから資金がかかり過ぎるので、それ以上の調査と金塊の引き上げは断念された。

この時回収された遺品は日本に送られた。

この伊号第52潜水艦について、NHKはNHKスペシャルで平成9年(1997年)3月2日に放映した。

平成11年2月16日にポール・ティドウェル氏と関係者が来日し呉市を訪れた。

ティドウェル氏は遺族会の代表者たちと面会し、引き上げた靴を手渡した。

またその時に一連の作業のビデオが映写された。

<回収された靴の写真。静之の許に遺族会から送られてきたもの。 靴の持ち主は特定されていない。>

遺族会が受け取った靴は、呉市に渡したということである。

 

<続く>

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