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旅日記

望洋−52(多良間島の㋹艇回収(続き))

30.多良間島の㋹艇回収(続き)

30.2.2.青木雅英

青木雅英県会議員は村の有力者であった。

昭和6年(1929年)から昭和8年(1933年)まで多良間島第6代村長に就任し、昭和12年5月の県会議員選挙で宮古島郡区から民政党所属で選出された。

記述したように青木は、宮古島で軍との折衝などに当たり、住民のために尽力している。

青木雅英は昭和9年から昭和19年まで、多良間島で酒造業を営んだ。

酒造業をやめた理由は良く分からないが、戦況によるものだと想像する。

【余聞】

平成28年1月青木雅英の孫である青木省吾氏(埼玉県在住)が青木酒造の跡地を多良間村に贈与した。

この報は同年4月1日の「広報たらま」に掲載された。

 


宮古島からの連絡を待つ日が続いたが、その間敵機の爆破を免れた舟艇の整備や、島の巡視、魚捕り等をして過ごした。


時折空襲があるが戦局は全く不明で不安な日々を島民の好意を受けながら過ごすのだった。

 

青木雅英との宴

ある日の夕方の事だった。

原山達が泊っている離れに青木雅英が訪ねてきた。

手には、お酒と焼いた魚の乾物を持っていた。

「みんな、居るか? 今日は君たちに差し入れを持ってきた。

昔、儂の家で造った酒と、鰺の干物だ。美味しいぞ」


原山は一瞬唖然としたが、「ビックリしました。いつもお世話になっているのにこのようなことをして頂き、申し訳無いです」と慌てて言った。

5人で車座になって宴会となった。

青木雅英は、酒を一人一人に注いで順番に年齢や、出身地、家族のことを尋ねた。

青木は物知りだった。

隊員たちが出身地を言うと、その土地の有名な人物や郷土特産物を挙げて褒めた。

隊員たちは郷土を褒められると悪い気はしなかった。

打ち解けた雰囲気になると、青木は、沖縄・宮古島の戦況を語りだした。

「君たちも知っていると思うが、3月1日に宮古島平良港は空襲を受けた。

港には前夜入港した物船二隻が停泊していた。豊坂丸と大健丸だったかなぁ、この貨物船には食料や衣類、油や弾薬を積んでいたが、残念なことに銃撃や空中魚雷を喰らい二隻共撃沈された。

実を言うと、この船に積んでいた食料や衣料は儂が沖縄で苦労して掻き集めて送ったものだったのだよ。

これ以来宮古島の食糧事情は悪化の一途を辿るようになった」

といって、青木雅英は酒を一口呑んだ。

青木は、何か考えている様で、一呼吸おいて青木は再び話しを続けた。

「軍の主力が上陸してからは宮古島は大変な状況に直面した。

軍は、日常の経済業務例えば物の生産や配給などまで軍主導でやろうとした。

儂は、宮古島支庁の担当者と宮古警察の署長と三人で、協力は惜しまないがこれらは民間主導でやるべきだと強硬に反対した。理屈は我々の方にあるから、軍も折れた。

最後は、軍民が協力して非常時を乗り切る体制を作ることで一致した。

定期的な会合を開いて話し合うようになったら、軍の師団長も乗り気になって、会合費用は全部軍が持ってくれた。

軍の信用を得た儂は、2月の終わりに軍の飛行機で沖縄まで行き、食料や衣類を調達して、船で送ったのだ。

それが、この撃沈された船なのだった」

 

悔しそうに青木は言った。

酒を注いで飲み、鰺の干物を一口かじり、さらに言葉を続けた。

原山達は黙って聞いている。

「船が撃沈された報を聞いて唖然とした。もう敵はすぐそこまで近づいているのに、肝心の弾薬や食料が不足して来ている。

どうなることかと心配していたら、3月28日には慶良間諸島に、4月1日には沖縄本島に米軍が上陸したという知らせが入った。

どうやら、米軍は宮古島を通り越して沖縄本島に向かったようだ。

しかし、無傷ではなかった。

君たちがここ、多良間島に来た5月4日に、宮古島は沖縄本島に向かう途中の英太平洋艦隊に、砲撃された。

飛行場が狙われ、約30分の鑑砲射撃を受けたらしいが幸いにも大きな被害は無かったようだ。

宮古島に敵が上陸してくるかどうか分からんが、空や海からの攻撃は続くだろう。

ところで、君たちは海上挺進第四戦隊は特攻部隊だと聞いているが、敵の上陸が無い場合はどう戦うのか?

沖まで出かけて行って艦隊に突撃するのか?」

といって青木は隊員たちを見回した。

原山達は黙っていた。敵が上陸してこない場合の命令は受けていないからである。

青木は「まぁいい」と話題を変えて、挺進部隊に入った理由を聞いた。

原山達は、国家、郷土、家族を守るためであり、命をかけてでもするべきだと思い志願した、とほぼ同じ様な理由を言った。

「良く分かった。立派な心掛けだ。

兵隊さんは、国家や国民を守るために命を捨てる覚悟があるから敬われるのだ。

しかし、こんなことを言うと嫌な気がするかもしれんが、軍の中には、守るべき国民をいじめたり、乱暴を働く者が少数ながらいることも事実である。

軍というものは、特別な権限や能力を与えられているが、全てこれらは、国の為、国民の為に使われるものであり、これらを間違って使ってはいけない。

宮古島や、ここ多良間島から非戦闘員は台湾に疎開しているが、残っているのは軍に奉仕する人々で、農家の畑はみな、軍需品としてイモや野菜を作っている。

多くの国民は軍への協力は惜しまないから、しっかりやってくれ」

青木はそう言って満足そうに頷いた。


30.3.宮古島に帰還

6月上旬、待ちに待った宮古島からの迎えの船が来た。

しかし、舟艇曳航は出来ないので「舟艇を焼き払い人員だけ直ちに帰還すべし」との命令を受けた。

命令を受けた原山達は唖然とし理由を聞いたが、伝令者は理由は何も知らないと言った。

何か言い返したかったが言葉が出なかった。例え何か言ったとしても命令が覆る事は絶対ないと知っているからである。

原山達は急いで、舟艇の爆破作業に取り掛かった。

舟艇を海に浮かべ、涙ながら大切な兵器である舟艇を爆破した。

江田島から運んできた㋹舟艇であった。

我々は、この㋹艇に乗って敵艦目掛けて特攻する部隊だ。

そのために、命懸けで訓練した。

つまり、見事に体当たりして、敵艦に莫大な損傷を与えることが目的であり、折角死ぬのだから無駄死に、犬死にをしないように、命懸けで練習・訓練を行った。

その目的を果たすため、航海の途中で時化や敵軍の襲撃に遭いながらも守り抜いた㋹艇であった。

また、ここ多良間島でも㋹舟艇を秘匿して、毎日整備や特攻訓練を行った事が脳裏に浮かんだ。

命がけで守った事や行った事が一瞬にして無になったのである。

いや、自分たちの手で、その㋹艇を無にしてしまったと言う、無力感、喪失感にかられた。

しかし、いつまでも感傷に浸ってはいられなかった。

原山達は村に引き返して、お世話になった島民に別れの挨拶をして回った。

何時か再会を約束し、別れを告げて宮古島に帰った。

 

<続く>

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