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旅日記

(物語)民話と伝説と宝生山甘南備寺−190(大内−尼子−毛利)

61.戦国の石見−4

61.1.大内−尼子−毛利

 

61.1.1.大内義隆

大内義隆の概歴

・永正4年(1507年)生誕〜天文20年(1551年)死没
・周防・長門・石見・豊前・筑前守護
・父は大内義興(周防・長門・石見・筑前・安芸・豊前・山城守護)

天文元年(1532年)豊後の大友義鑑は肥前の少弐資元を誘って、大内領国豊前、筑前へ積極攻勢をかけた。

これに対し、大内義隆は陶興房を九州に派遣、その守護代筑前の杉興連、豊前の二保氏らとともにこれに当たらせた。

このような状態で動乱は九州北部の大半に拡大し、この戦乱は2年間続いた。

天文3年(1534年)10月、少弐資元の隠居、その子冬尚の東肥半国安堵を条件に講和する。

そして将軍足利義晴の仲裁で大内義隆と大友義鑑が和睦して、漸く戦乱は終了した。

その後、天文5年(1536年)9月少弐資元が再び反乱すると、陶興房はこれを攻め、少弐資元を肥前多久城に囲んだ。

城を囲まれた少弐資元は自害し、落城した。

かくて、大内義隆の九州経略はここに一段落し、やがて芸・備・石を侵攻する尼子と再対決となる。

 

大内氏が九州で交戦している頃、尼子氏は家族内の揉め事が起こっていた(塩冶興久の反乱(享禄3年(1530年))。

佐陀城に立て籠もった興久は経久に攻められ敗退し、舅の備後山内直道を頼って走った。

経久が直道を責めたため、天文3年(1534年)興久が自害して事は終わった。

かくの如く、大内氏は連年九州に大軍を送って征戦に日を送り、尼子氏はまた肉親の深刻な問題を抱えて両者とも芸備に勢力を集中し得なかった。

この隙に、毛利元就は高橋一族の広大な領地をたやすく奪い、群小の一豪族の位置から頭角を現し、思いのままに勢力を伸ばすことが出来たのである。

毛利元就は、​​天野氏や、安芸武田氏と関係が悪化した熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保する。

また、元就は長年の宿敵であった高田郡甲立の五竜城主宍戸元源と同盟する。

天文3年(1534年)正月、元就は五竜城を訪れ、長女と元源の嫡孫隆家との婚約をまとめ、父子の契約を結び、これによって備後進出の門戸を開くことになる。

 

61.1.2.石見銀山

この時期以降、石見銀山をめぐって、大内・尼子・毛利の激しい争奪戦が行われる。

これらの中に入って、邑智郡川本の温湯城主小笠原氏も一時銀山を支配する。

「銀山旧記」に、享禄4年より永禄3年に至る20年余の間、小笠原氏が銀山を領した、とある。

 

享禄2年(1529年)邑南の松尾城主高橋弘厚は大内義隆に反して尼子経久に通じたということで、毛利・大内 の連合軍に攻略された。

次いで弘厚の子興光のいる藤根城、阿須那城も占領され興光は自殺し、出羽祐盛、熊谷信直等は毛利に従った。 

この様に毛利は、石見の一角に侵入するようになった。

しかし、尼子氏はこの毛利氏を何もせずに見逃すわけにはいかなかった。 

尼子方で温湯城主小笠原長隆はこのような情況下において、大内勢力のおよんでいた銀山近くの矢瀧城を奪い、ついに銀山を占拠した。

享禄4年(1531年)のことである。

 

小笠原長隆

<丸山伝記>には長隆について次のように記述されている

第十二小笠原與次郎兵部大輔上総介長隆
妻は佐波休々の息女なり
嫡男 長徳
二男 長晴 大内・尼子取合の時、郡山にて討死
三男 甘南備寺第十一世住僧宥恒法印、天文二十二甲寅年七月十六日寂
四男 長実 鳥居金子分知行す
五男 長相 都賀東始めて知行す
女子 壱人山名式部少輔婿に取る
 この五人の男子、女子一人佐波休々の孫なり
六男 兵部丞長節 谷戸に住す別腹なり

<石見小笠原氏系図>

 

長隆は、永正4年(1507年)大内義興が足利義稙を奉じて上洛したときに従っており、その時の長隆の功名として、次のように伝わっている。

永正年中に今出川殿御供に任じ長隆上洛す、時に勅命に依り平安城に五年守護す、その時大納言許し給ひ広汲寺殿と号す、在京中御敵出来して船岡山合戦の時、江州の住人九里を組伏せ討取る、疵数カ所手負ひながら太刀の誉世に越えたり、此時今出川殿御自筆の御感状を下賜はり、上総介に任ぜらる、歌道手跡の達者なり、同じく此時大内義興上洛す、京都にて犬追物ありて人数に加えらる、 細川高国別して御目に懸けられ当国守護として下向す。

注)今出川殿とは足利義視(1941年死没)を指すが、これは第10代室町書軍足利義稙(足利義視の子)の間違いであろう。

また、当国守護も間違いである。

しかし、その2年後に銀山は大内氏に奪い返され奉行二人が置かれて銀山の経営にあたるようになった。

銀山は博多より宗丹桂寿と神谷寿禎等が訪れて、直接現地で採銀する灰吹法が用いられるようになった。

そのことにより銀の純度が上がり、また生産量も飛躍的に上昇し、石見銀山の価値は一層高まっていくのである。

天文3年(1534年)大内義隆が、朝廷に即位費用を献じたのも、銀山という財政基盤があったからでもある。

これ以後は銀山をめぐって諸将達の激烈な戦闘が数次にわたって転開されその領有者は変っているが、銀山支配ということが戦力に至大な影響を持ったからに外ならない。

天文6年にいたり出雲の尼子晴久が銀山を攻めて大内方の奉行を切りこれを手中におさめた。 

吉見氏は大内氏の本拠山口に最も近い関係もあって尼子に味方しなかったが、 小笠原、福屋、三隅、 益田氏は尼子に従って戦った。 


銀山由来記にその当時の状況が記されている。

<石見銀山周辺模型>

(銀山旧記)

・・・・
享禄元年大内義興矢瀧ノ城主を以て銀山の押とす。
矢瀧城、銀山より一里計り南、此時小笠原長隆、志谷修理大夫、平田加賀守を以て矢瀧の城を攻落す。
頃は享禄四年卯月二月下旬也。
長隆銀山を領する事三年の中、銀を出す事夥し。
天文二年大内復(ふたたび)銀山を取り返して吉田若狭守、飯田石見守両人に仰て銀山を守護しけり。
此年寿亭博多より宗丹、桂寿と言う者を将(ひき)い来たり。
八月五日、鏈[銀と石と相まじわる物を鏈というなり]を吹き溶かし銀を成す事を仕出せり。
是を銀吹始成、大工は采女丞、大蔵丞なり。
吉田若狭守、飯田石見守是を奉行とし、毎年銀子百枚を大内に貢納す。
其後天文六年八月十六日、雲州の尼子は銀山を攻め、吉田・飯田を誅戮す。
大工采女、尼子に従いて銀を吹く。
小笠原、福屋、三隅、益田等の諸士、皆尼子晴久の旗下に成けり。
天文八年五月下旬は復銀山を責めて取り返し(内田)正重を以て奉行となし、大蔵丞・坂根治郎采女之丞等、昆布山谷にて銀を吹き、毎年の運上銀五百枚なり。
亦天文九年九月十八日、小笠原蜂起して大久保肥前守、大谷遠江守に仰、銀山を騒動す。
(内田正重は)数度攻戦するといえども叶わずして終に奉行内田正重自害して銀山亦小笠原に属しけり。
同十一年小笠原長隆死去、同年下旬小笠原兵部大輔長徳、山吹城に入る。
同年八月四日大風雨有りて人多く死す。
同十六年八月廿一日、長徳死す。
其の子長雄明年三月城に入る。
享禄四年より永禄三年に至り二十年余の間、小笠原銀山を領す。
・・・・

 

 

<龍源寺間歩>

<大久保間歩>

 

石見銀山の争奪

天文8年(1539年)になると尼子が敗退して引上げたので、銀山はまた大内の支配に帰した。

このころ銀山は尼子、大内という二大勢力の攻防に終始し、その間にあって石見の諸族は自己の行動を決定しなければならなかった。 

尼子強しと見れば尼子方、大内優位と考えれば大内方であり、 戦国争乱の世相がこれによってもうかがわれる。 

天文9年(1540年)にはその月、尼子晴久が石見に押し出て大内義隆の軍を銀山より駆逐した。 

この時一時小笠原氏が管理した。 

尼子方につ いて働いた者は、石見では小笠原長徳、 佐波隆重、 本城常光、 福屋隆兼、 岡本大蔵正長等のほか周布、祖式氏がいた。 

 

<続く>

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