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KGセミナー塾長の日記 生徒との日々の生活と高校野球 個人塾型予備校を始めて、40年目になります。

初めての人は、2008年2月26日の「みんなに伝えたい話」を読んで下さい。私がこの仕事をやり続ける支えとなった話です。

「政治史の授業で 樺美智子が出てきました!」

2022年05月19日 | 卒業生

 おはようございます。昨日は、26233歩。病院の往復を歩いたのでかなりの歩数になった。

 6月15日。国会南通用門で今年も追悼集会が開かれる。1965年、6月15日、国会に突入した全学連と警察隊とが衝突した時に死亡した東大生女子、樺美智子を追悼する集会だ。幼いころから貧富の差に気づき、恵まれている自分の境遇に後ろめたさを持っていた彼女。

 東京武蔵野で生まれた彼女は、父が神戸大学の教授になったので関西へ。芦屋に住んで神戸高校に通う。高校でも、おかしいと思うことには先生にでも突っかかっていく性格だったらしい。炭鉱不況で公布の家族の生活が苦しいのを知るとカンパを集めたそうだ。その当時の時代背景もあって、若者は、政治を今以上に熱く語る時代だった。浪人生活を経て東京大学へ。活動に深く入っていく。

 彼女のことを昨年の浪人生の日本史の時間に話した。戦後の安保闘争の話をしていた時だ。山川の用語集には載っていない。50年代最後に生まれた私たちが大学に入った時には、学生運動はすっかり下火になってしまっていた。少し興味のあった私は、自治会の組織に入ろうとしたが、あまりの現実とかけ離れたことを話す先輩に、やはりおかしいと思ってやめた。そのあとは、大学レジャーランドの幕開けとともに流された大学時代だった。だからこそ余計に彼女の話をしたかったのかもしれない。

 「先生!今日の政治史の授業に、樺美智子出てきました!」

 法学部に進んだOGからのラインが届いた。樺美智子のことを、心のどこかに留めていてくれたことがうれしかった。入試が終わって、教えたことをすべて忘れてしまっても、心のどこか片隅に残っているもの。そんなものを持っていてくれたら、これ以上の喜びはない。合格の連絡をもらった時と同じほどうれしい一日だった。

 

  


関西私立大学のトレンド

2020年12月02日 | 卒業生

 おはようございます。今日は昨年度の関西の私立大学の志願者数から、関西私立大学のトレンドを探ってみたいと思います。志願者2万人を超えている大学は、9大学。「関関同立」では、立命館が103669人でトップで、最少は、関西学院の33209人です。関学、もう少し集めて欲しいなあ。

 「産近甲龍」では、日本一の近畿大学が145350人の志願者を集めています。ただ甲南大学は、18999人と2万人を割っていました。甲南大学は、「売り上げよりも、ブランド力を維持する」作戦に出ているおしゃれなお店のようで、独自の路線を展開しているように思えます。

 「摂神追桃」中では、摂南大学と神戸学院大学の2大学がランクイン。摂南大学は、大阪工業大学の姉妹大学として1975年に工学部から始まった大学ですが、今では文系4学部、理系4学部の8学部を擁する総合大学になりました。また神戸学院大学は、1966年に栄養学部から始まった単科大学でしたが、今では文系7学部、理系3学部の総合大学です。一時期、入りやすくなってしまった時代もありましたが、ポートアイランドにキャンパスを構えて人気も復活してきました。摂南大学とともに、薬学部を設置しているのが強みです。

 5000人以上の志願者を集めている大学は、11大学。甲南大学、追手門大学、桃山学院大学の3大学に、大阪経済大学、大阪工業大学、佛教大学。この3大学は、関西地区での評価が高い人気大学です。大経大は就職にも力を入れています。大工大は、関関同立の理系の次に来る大学で、佛教大学は、教育学部に強みがあります。

 あとの5大学は、まずは武庫川女子大学。女子大で唯一のランクインです。今では、関西3大女子大は、京女、同女、それに武庫川とすっかり定着してしまった感があります。我々の頃は、黒い制服の時代だったのになあ。

 阪南大学。この大学も和歌山からの受験者が多い大学です。1965年、かつての野球の名門、大鉄高校と同じ法人が設置した大学です。大阪産業大学。1965年に開設された大学で、系列校に大阪桐蔭高校があります。

 京都橘大学。13857人を集めています。かつての橘女子大学。1967年に橘女子大学として開学。1988年に京都橘女子大学に改名。2005年から京都橘大学として男女共学になりました。名前に京都を入れたり、男女共学にしたり、時代をいち早く取り入れて成功した大学と言えます。文系4学部、理系2学部。理系の看護・健康系の学部があるのも特徴です。

 最後は、大阪経済法科大学。我々の頃は、本当に評判があまり良くなかった大学でした。1971年設立の大学です。しかし1997年から「Sクラス」というのを設置しました。いわゆる資格試験に特化したコースです。そのコースの生徒には、授業料を免除したり、特別な自習室を設置したりして実績を上げていきました。今では、10185人の志願者を集めています。経営努力。大学にもそれがあるのとないのとでは、大きな違いになってしまいます。


教え子の結婚式

2017年08月20日 | 卒業生

  教え子の結婚式に行ってきました。神戸の洋館、サッスーン邸で行われました。久しぶりの神戸です。こんなに坂道が急だったかなと思いました。きれいな洋館で、芝生のお庭がとても印象的でした。

 新婚の2人は、1年前からチェコで暮らしています。大学時代にチェコに留学したのがきっかけで、卒業後にチェコにわたった教え子。その地で、ヴァイオリン奏者であるご主人と出会ったそうです。

 心のこもったいい披露宴でした。教え子の妹さんの言葉も、素朴ですが、本当に心がこもっていました。高校時代のハンドボール仲間のメッセージ。途中で涙、涙になってしまいましたが、じ~んとして思わず涙が出ていましました。

 新郎のお兄さんの言葉の中に、音楽でプロになれるなんて、まさに「宝くじに当たったようなもの」という言葉がありました。日本の大学を卒業して、チェコの大学に進んで、大学院を卒業し、そのチェコの地で、プロのバイオリニストとして頑張っています。音楽の道は、本当に厳しいです。

 お母さんの嬉しそうな顔、よかったです。素直の気持ちになれた1日でした。ありがとうございました。


40歳を超えてからのセンター試験受験

2015年10月07日 | 卒業生

 おはようございます。予備校生は、まずイディオムのチェックをしてから、センター試験対策の文法・語法の問題を毎日20問解いています。センターの過去問や模試の問題から作っているのですが、昨日の問題は、特に印象深い問題でした。

 それは、私が、40歳を超えてから実際にセンター試験の会場で受けた問題だったんです。新聞に載った問題をゆっくりとくつろいでやるのとは違って、本番のあの会場でやるのは、やはり緊張します。失うものが何もない状態の私でも緊張したのですから、将来のかかった受験生は、その重圧、大変なものだろうなあと心の底から実感しました。

 その年の予備校生に、星林から来てくれた I 君がいました。柔道部出身。国公立の教育学部に進んで、体育の教師になりたいと目を輝かせていたのを今でもはっきり覚えています。その彼が、ゴールデンウィークに突然、事故で亡くなってしまったのです。単車の乗っていて、トラックにぶつかってしまいました。あわてて彼の家に駆けつけると、机の上には、「浪人生の英単語」が開いたままでした。今まで一緒に勉強していた生徒が、一瞬でいなくなってしまう現実。

 その机の上にあった鉛筆を借りて、彼の気持ちをくんで、私が代わりにセンター試験を受験に行ったのです。高校に卒業証明をもらいに行きました。受験の前に彼の家に行くと、お母さんが、大学受験の問題を解いていました。「先生が代わりに受験してくれると言いましたが、人の心は変わります。もしもの場合は私が受けようかと思って・・・・」と語っていました。

 借りてきた鉛筆を持って、会場の大阪観光大学へ。日根野駅で降りて山道を歩いて行ったのを覚えています。私の携帯電話には、今でも、I 君の電話番号が入っています。家の電話番号でした。空の上でちゃんと先生になって、柔道を教えていますか?充実した日々を送っていますか?君のことは、今も忘れていません。君の悔しかった気持ち、ちゃんと毎年、毎年、君と一緒の予備校生たちに話しています。安心してください。みんなちゃんと君のことを心に刻んで受験に行っています。


「17年目の授業料」

2015年01月20日 | 卒業生
 センター試験が終わって次の日。朝から予備校生たちが、報告に来てくれる。学校に報告に行った現役生たちが、塾にも報告に来てくれる。事務室の中は、いつも人がたくさんいた月曜日だった。自然と笑みがこぼれている人もいれば、表情を失っている生徒もいる。試験には結果が付いてくる。悲嘆にくれている人に、次の目標に向かって歩みださせるのも我々の仕事だ。

 
 お昼過ぎ、ちょうど誰もいなくなった時に、事務室に業者風の人が入ってきた。「営業かな?」と思っていると、「先生、覚えていますか?昔、予備校部でお世話になったKです。」名前を聞くと昔のことが蘇ってくる。心の真っすぐないい生徒だった。今は、塾の近くの不動産会社で頑張っているそうだ。顔を見れば、一生懸命に仕事をしているのは直ぐにわかる。

 
 「実は、予備校時代の授業料、ずっと気になっていたのですが、なかなかすぐにはお金が作れなくて・・・。」僕は、そんなことはすっかり忘れてしまっていた。でも彼は、17年間、ずっと心の片隅にそのことがあったのだ。

 
 「今、子供が3人いるんです。嫁さんに内緒でためていたので、すっかり遅くなってしまいました。」と言って分厚くなった封筒を差し出してくれた。びっくりしてしまった。こんなことってあるんだな。

 
 実はこれが2回目だった。1度目は、JR和歌山駅の教室に引っ越してきて夏の朝、OGが事務室の前で待ってくれていて、授業料を持って来てくれたことがあった。「就職して、2年目になってやっとボーナスがもらえて、払えるようになりました。」と言って封筒を手渡してくれた。2浪目で授業料は出せないと親に言われた彼女から、あの時は、授業料はもらえなかったのだ。

 
 昔、他の先生を雇っておらずに、全く一人で塾をやっていた頃、お金に困った生徒には、面倒をよく見ていた。金銭的な面で苦しんでいる生徒の少しでもためになろうと思ったのもこの仕事を始めた大きな理由の1つだった。

 
Kは結婚して、子供が3人いる中で、予備校の授業料を奥さんに内緒で工面していた。そんなこと普通の人では到底できないことだ。17年前の事をちゃんと心にとどめておいてくれている人がいる。それだけで僕はどんなに幸せを感じたことか。前に持って来てくれたOGに、「今日のこのことで、10年は突っ走っていける。ありがとう。」と言ったのを覚えている。あの時は涙、涙の夏の朝だった。

 
「ありがとう。本当にありがとう。前にこんなことがあった時も、お菓子だけ貰ったんよ。気持ちだけ頂いておくわ。今度一度飲みに行こうか。その費用、1万円だけもらうわ。」と言って、分厚いお札の中から1枚、抜き取らせてもらった。こんなこともあるのだな。今のこんな世の中でも、ちゃんと昔のことをずっと覚えてくれている人がいる。有難い。こんな気持ちを味わえたら何があってもやっていけそうな気がする。これでもう10年、いい気持ちで仕事ができる。何とも言えないいい気持ちになれた月曜日だった。