KGセミナー塾長の日記 生徒との日々の生活と高校野球 個人塾型予備校を始めて、40年目になります。

初めての人は、2008年2月26日の「みんなに伝えたい話」を読んで下さい。私がこの仕事をやり続ける支えとなった話です。

加太の道を歩く

2017年02月25日 | 生活

 金曜日、午後から実家に行きました。ひとしきり昔話をすると、ふと加太の街を歩きたくなりました。駐車場に車を置いたまま、うちのお墓がある常行寺の前を通ります。ここの御住職に中学の時に英語を教えてもらっていました。そのまま、まっすぐに歩くと、消防署の交差点です。そこにあったのは、「金華堂」。お菓子屋さんでした。小学校の時、クリスマスが近づくと、ショーウィンドーにおいしそうなクリスマスケーキが並んでいたのを思い出しましました。50年前の話です。今は、自動販売機が1台あるだけでした。

 そこを右に曲がると、かつて、「享楽座」という映画館があったところです。「座頭市」や大好きだった「ガメラ」を何度も父と見に行きました。館内は、いつもたくさんの人であふれかえっていました。映画館の跡が、市場になりましたが、それももうありません。その先には、駄菓子屋さんの、「でんごろ~」がありました。正式な名前はわかりません。みんながそう呼んでいました。おそらく、「善五郎」という人がいたのを、ネイティブな和歌山の発音で、「でんごろう~」となったのでしょう。昔は、おばちゃんがたこ焼きも焼いていました。今は、公文式の教室になっています。

 その前には、「典美堂」。薬屋さんです。化粧品のポスターが張っていて、今もやっていました。中学の時の体育の先生のお宅です。和歌山の端っこの小さな中学のテニス部を、何度も日本一に導いた先生です。その先生は、今でいうメンタルトレーニングをいち早く導入していました。クラブは違ったのですが、一番心が揺れ動く中学時代の、僕の支えになった先生です。

その先を歩くと、「宮崎医院」。赤ちゃんの時から、大学を卒業するまで、ずっと見てもらった先生です。地元では、誰も宮崎医院とは言わずに、「おくま」と屋号で呼びます。息子さんが、車で10分ぐらいのところに開業しています。しかし、もう、「おくま」と呼ばれることはないでしょうね。

 そこを左に曲がると、かつては、「ナカヤ電気店」という東芝の製品を扱う店がありました。僕の家は、電化製品はすべてそこから買っていました。「名門」という名の19インチのカラーテレビが、我が家にやってきました。その当時、19インチのカラーテレビは、どこのメーカーも一律198,000円だったのを覚えています。その東芝の家電も今はありません。ナカヤのあとは、かわいい花屋さんになっていました。

 さらに進むと、「堺商店」。文房具屋さんです。僕たちは、「さかいみせ」と読んでいました。学校の教科書取り扱っていて、まだお店はやっていました。その角には、岸本商店。揚げパンが名物になっています。中学の時は、岸本商店と大田屋が交代で給食の時に、パンを販売に来ていました。

 その向かいには、「春日神社」。そこの宮司さんの三宅先生が、僕が桐蔭に入った前年まで、野球部長でした。5月20日の「エビ祭り」は、春日神社からスタートします。

 少し進むと、右側に、「たべ百科店」。僕が小さいころから、少しおしゃれなお店でした。運動会とか、遠足とかの前に、ここで買い物をしたのを覚えています。まだやっていました。その前には、理髪店の「権野」。看板も何もありませんでしたが、まだやっていました。おじさん(私も十分におじさんですが)が散髪をしてもらっていました。このお店、黙って座ると、ちゃんとパンチパーマに仕上げてくれる、地元の漁師さんにはなくてはならない、「パンチ専門店」とクラスのみんなが言ってました。

 進んでいくと、右手に「武蔵野」。お寿司屋さんです。最近閉めたみたいです。加太の人は、「むさし」と言います。堤川の水がきれいになっているような気がしました。川の向こうには、いつも母が持たせてくれる名物のよむぎ餅を売っている、「先田商店」があります。手作りのよむぎ餅、本当においしいです。

 左に曲がって、堤川沿いに歩いて、小学校の方へ。郵便局の前には、小学校の時に仲が良かった、「さなえ」ちゃんお家があります。昔と同じ青い屋根でした。表札には、「幸前」。加太を代表する苗字ですね。

 少し歩いただけですが、一気に50年前に戻れたような気になりました。ふるさと。いいです。心が柔らかくなります。やっぱり、歩いて回るのが一番です。

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あなたに借りた 鴎外も・・・

2016年09月21日 | 生活

 教室の後ろに、かつての予備校生たちが残していった受験参考書などがたくさんあります。その中に「国語便覧」がありました。高校生になると全員購入させられます。私も42年前に買いました。しかしほとんどページを開くこともなく高校を卒業しました。

 この便覧、受験に関係なく読んでみると、なかなか面白いです。「貴族の食事」が載っています。王朝人は、巳と申のころに食事をとるそうです。午前10時と午後4時ごろになります。魚介類と野菜、木の実が中心で、味付けは、塩、酢、醬( ひしお)です。普通の日本人が一日3食、食べ始めるのは、江戸時代になってから。まだ400年ほどしかたっていないのです。ということは、身体はひょっとすると、まだ2食に慣れているのかもしれません。

 後ろのページには日本を代表する小説家が、写真入りで載っています。口ひげをはやし、横顔で写っているあの有名な写真があります。森鴎外です。鴎外という文字を見ると、さだまさしの一番好きな歌、「追伸」を思いましました。とりわけ何と言っても2番です。

   たとえば 今日のあなたのこと

   他の人と楽しそうに笑ってた

   あなたの声が眩しくて 耳をふさぎました

   下手なくせに あなたのために

   編みかけた 白いベスト

   やはり夢でした ほどき始めましょう

   あなたに借りた 鴎外も

   読み終えていないのに

   最後のわがままです あなたの

   肩巾 教えてください

   風に頼んでも 無駄ですか

   振り返るのは嫌いですか

   どこにもあるよなことですか

   私髪を切りました

  何年ぶりに思い出したでしょうか。今、読み返しても本当にいい詩です。どうして鴎外が出てくるんだろうか。いつか鴎外を読もうと思っていたあの頃。まだ読んでもいません。「声が眩しくて・・・」なんとも言えません。久しぶりにユーチューブでグレープの「追伸」を聞きました。こんな気持ちになれたのは、「国語便覧」のおかげです。

 

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「人間関係は・・・」

2016年06月01日 | 生活

 昨日の朝日新聞の、「ひととき」が、心に染みました。

 64歳の女性です。夫とは結婚当初から性格が合わなくて、12年前に死別するまで26年間、1度も楽しいことなんかなかったと思うほどだったそうです。

 しかし、夫がなくなって数年経った後、「私も意固地だった。」と反省したそうです。夜、休む前に夫の遺影にあいさつをするようになって、夫に、「ごめんなさいね」と心から言えるようになると、今まで一度も見たことのない笑顔の夫が夢に何度も出てくるそうです。

 夢の中の夫は、明るくいきいきとしていて、私は何の気疲れもなく自分のままでいてとても楽しく、起きてからも胸がホッコリしているそうです。人間関係は、私が生きている限り変化して続くんだ。と結んでいました。

 普通の主婦が書いた文章に、心が揺さぶられました。

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リハビリ

2016年01月07日 | 生活

 エレベーターを降りて、左に曲がって、いつものように、窓側の明るい病室に行くと、メモがあった。

 「2階のリハビリ室にいます。」

 乗ってきたエレベーターで2階へ。奥の方へ進むと、リハビリ室があった。

 その背中を見てすぐに父だとわかった。先生と一緒に、ゆっくり、ゆっくり一所懸命に歩いていた。

 涙が出そうになった。その時、方向を変えて、こちらを見て、私に気がついて、手を挙げた。

 「今日は、初めて自分で歩けたよ!」

 声が弾んでいた。

 いい姿を見せてもらった。

 昨年の暮れ、倒れて病院に運ばれた。幸い、発見が早かったので、左半身の機能が少し麻痺しているだけで済んだ。

 「左手も動くし、話をするのも大丈夫だし、あとは、リハビリをちゃんとすれば歩けるようになるって、先生が言ってくれているから。ほんまによかった。有難い。」

 と口からは、ポジティブな発言だけしか出てこない。

 父が入院して、まわりのいろんな人々に支えてもらって、本当に、その有難さが、身にしみてわかった。担当してくれている看護師さんも、たまたま、昔私の塾で予備校生活を送った人だった。

 時間が少しでもあれば、たとえ30分でも、話をしに行くことにしている。それは、父を励ますと言うより、父に会って、私が元気をもらいに行くのだ。私も頑張らねば。本当にそう思う。

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ホークス、木塚選手

2015年12月27日 | 生活

 久しぶりに、愛犬と散歩に行ってきました。忙しくてなかなかいけませんでしたが、今日はたっぷりと2回、行ってきました。は少し寒がっている犬もいましたが、服を着せて楽しく歩いてきました。愛犬と歩いていると、心がほっとします。

 昨日、お昼から、星林の高校2年生が7人、体験授業にきてくれました。7人とも、モチベーションが高くて、集中して授業を聞いてくれました。彼らの心に、化学変化を起こすことができればと思っています。高校2年生、センターまであと1年少しです。

 今は何でもすぐに情報が手に入る時代です。でも昔は、自分が本を読んだり、人に聞いたりして手に入れた「情報」は、なんだか宝物のように思えました。

 「南海ホークスの広瀬の前の盗塁王、木塚選手。大阪の名人と言われたスリが、木塚選手を狙って後をつけたが、全くすきがなく、諦めた。こんな人は初めてだと語ったそうだ。」という話を、小学生の時に聞いた。その時、木塚選手はもう引退していて、そのプレースタイルを見ることはなかったが、木塚選手のイメージがどんどん頭の中で大きくなって言ったのを覚えています。情報が少なければ、そこに想像力が入ってきます。そんな時代が懐かしくなってきました。

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