金曜日、午後から実家に行きました。ひとしきり昔話をすると、ふと加太の街を歩きたくなりました。駐車場に車を置いたまま、うちのお墓がある常行寺の前を通ります。ここの御住職に中学の時に英語を教えてもらっていました。そのまま、まっすぐに歩くと、消防署の交差点です。そこにあったのは、「金華堂」。お菓子屋さんでした。小学校の時、クリスマスが近づくと、ショーウィンドーにおいしそうなクリスマスケーキが並んでいたのを思い出しましました。50年前の話です。今は、自動販売機が1台あるだけでした。
そこを右に曲がると、かつて、「享楽座」という映画館があったところです。「座頭市」や大好きだった「ガメラ」を何度も父と見に行きました。館内は、いつもたくさんの人であふれかえっていました。映画館の跡が、市場になりましたが、それももうありません。その先には、駄菓子屋さんの、「でんごろ~」がありました。正式な名前はわかりません。みんながそう呼んでいました。おそらく、「善五郎」という人がいたのを、ネイティブな和歌山の発音で、「でんごろう~」となったのでしょう。昔は、おばちゃんがたこ焼きも焼いていました。今は、公文式の教室になっています。
その前には、「典美堂」。薬屋さんです。化粧品のポスターが張っていて、今もやっていました。中学の時の体育の先生のお宅です。和歌山の端っこの小さな中学のテニス部を、何度も日本一に導いた先生です。その先生は、今でいうメンタルトレーニングをいち早く導入していました。クラブは違ったのですが、一番心が揺れ動く中学時代の、僕の支えになった先生です。
その先を歩くと、「宮崎医院」。赤ちゃんの時から、大学を卒業するまで、ずっと見てもらった先生です。地元では、誰も宮崎医院とは言わずに、「おくま」と屋号で呼びます。息子さんが、車で10分ぐらいのところに開業しています。しかし、もう、「おくま」と呼ばれることはないでしょうね。
そこを左に曲がると、かつては、「ナカヤ電気店」という東芝の製品を扱う店がありました。僕の家は、電化製品はすべてそこから買っていました。「名門」という名の19インチのカラーテレビが、我が家にやってきました。その当時、19インチのカラーテレビは、どこのメーカーも一律198,000円だったのを覚えています。その東芝の家電も今はありません。ナカヤのあとは、かわいい花屋さんになっていました。
さらに進むと、「堺商店」。文房具屋さんです。僕たちは、「さかいみせ」と読んでいました。学校の教科書取り扱っていて、まだお店はやっていました。その角には、岸本商店。揚げパンが名物になっています。中学の時は、岸本商店と大田屋が交代で給食の時に、パンを販売に来ていました。
その向かいには、「春日神社」。そこの宮司さんの三宅先生が、僕が桐蔭に入った前年まで、野球部長でした。5月20日の「エビ祭り」は、春日神社からスタートします。
少し進むと、右側に、「たべ百科店」。僕が小さいころから、少しおしゃれなお店でした。運動会とか、遠足とかの前に、ここで買い物をしたのを覚えています。まだやっていました。その前には、理髪店の「権野」。看板も何もありませんでしたが、まだやっていました。おじさん(私も十分におじさんですが)が散髪をしてもらっていました。このお店、黙って座ると、ちゃんとパンチパーマに仕上げてくれる、地元の漁師さんにはなくてはならない、「パンチ専門店」とクラスのみんなが言ってました。
進んでいくと、右手に「武蔵野」。お寿司屋さんです。最近閉めたみたいです。加太の人は、「むさし」と言います。堤川の水がきれいになっているような気がしました。川の向こうには、いつも母が持たせてくれる名物のよむぎ餅を売っている、「先田商店」があります。手作りのよむぎ餅、本当においしいです。
左に曲がって、堤川沿いに歩いて、小学校の方へ。郵便局の前には、小学校の時に仲が良かった、「さなえ」ちゃんお家があります。昔と同じ青い屋根でした。表札には、「幸前」。加太を代表する苗字ですね。
少し歩いただけですが、一気に50年前に戻れたような気になりました。ふるさと。いいです。心が柔らかくなります。やっぱり、歩いて回るのが一番です。