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ケッタでグルグル

久々にケッタ(自転車)を購入。
これを機にブラブラ回ってみよっと。

那古野城

2008-01-04 | 城跡

     

名古屋市中区にある城跡。城名は「なごや」と読むが、地名は「なごの」らしいです。 
室町時代に駿河の守護大名であった今川氏の庶流、那古野氏が領有していたそうで、後に今川氏豊が築城したと伝えられているようです。その後、1532年に織田信秀がこの城を奪い拠点を置き、嫡男となる織田信長はこの那古野城で生まれた可能性が高いと言われています。1555年に織田信長が清須城に移った後しばらくして一旦は廃城になりました。そして約50年後の1609年に徳川家康が荒れ果てたこの地に新しく名古屋城を築城するのに至りました。

那古野城の遺構は殆ど存在しないらしく、現在は後に名古屋城二の丸の場所に石碑が立つのみです。その石碑も文字が消えかけていて、興味を持って足を止めなければ何かも良くわからないような状態です…。名古屋城に足を運ぶ人は数多くいれど、ここがかの織田信長生誕の地(の可能性)である事を知る人は数少ないのではないでしょうか。。


黒野城

2007-12-21 | 城跡

岐阜市黒野になる城跡。

黒野城は慶長2年(1597)に加藤貞泰によって築城されました。貞泰の父、加藤光泰は豊臣秀吉配下の武将でしたが数々の戦功を重ねて甲府24万石を与えられるまでの大名にまで上りつめました。朝鮮出兵の際に陣中で没したため、嫡男の貞泰が後を継ぎます。

しかし、貞泰が幼少という理由からか大幅に減封され文禄3年(1594)に厚見・方県(美濃国)の領地に移されました。関ケ原の合戦では当初西軍に属するも岐阜城落城を機に東軍に移り、戦後に黒野藩4万石を安堵されました。

その後、慶長15年(1610)に加藤貞泰は米子藩6万石に加増移封され、黒野藩は廃藩。城下町の整備などに尽力していたそうですが、築城からわずか13年で黒野城は廃城になりました。

廃城後は城内を耕作地として利用されていましたが、現在は「黒野城址公園」として整備されています。

  

外から見ると周囲は堀に囲まれています(左写真)。南西付近が入口になっており、ここに「黒野城址」の石碑(最上部写真)が立っています。説明板には入口付近には城門の礎石があるとの一文がありますが、ここに転がっていた石のことでしょうか?(右写真)

  

曲輪内は入口付近が公園で内部が野球のグラウンドになっています。それをぐるりと土塁が取り囲んでおり、見事にここが「お城の跡!」ってのが感じられます。上空からの写真を拝借するとハッキリと土塁に囲まれた城跡が確認できます。各地の小規模な城跡は埋め立てられて影も形もなくなっている所が多いのですが、これだけしっかり残っているのは珍しいと思います。


鷺山城跡

2007-12-20 | 城跡

岐阜市鷺山にある戦国時代の城跡。

鷺山城は「美濃明細記」文治年間(1185~)に佐竹常陸介秀義が居住していたとあるそうですが、その後しばらくの詳細は不明となっています。

時代は約300余年下り、戦国期に最後の美濃守護であった土岐頼芸が居住するも斎藤規秀(後の道三)により越前に追いやられ、以後斎藤道三が事実上の美濃の支配者となります。天文17年(1548)に道三は息子の義龍に家督を譲り、自らはこの鷺山城に隠居します。しかし、義龍は自分が道三の実子では無く、弟に家督を継がせるつもりではないのか?との疑念を持ち、道三の実子である2人の弟(孫四郎、喜平次)を殺害し、道三に反旗を翻えします。弘治2年(1556)道三は鷺山城を離れ、北野城(岐阜市北野)に逃れるも最期は長良川の戦いにて義龍との決戦に敗れ討ち死にしました。そしてその後、鷺山城は廃城になりました。

昭和36年(1961)に周辺の宅地造成や名神高速道路の工事のため山の南側が削られてしまい、現在見られる鷺山は以前の半分以下となってしまいました。現在、鷺山城跡としての遺構はほとんど見られません。(上写真)は南側から鷺山を撮った写真で、この地点は50年ほど前までは山であった場所だと思われます。

  

鷺山城への登り口は3ヶ所ありますが、西麓にある「心洞寺」さんに続く参道から登ってみました。ビッシリ生え揃った竹やぶの中に整備された遊歩道があり、快適に登れます。

    

しばらく登った先の左手の石段の上に建物を発見しました。屋根は朽ち果てそうで、周りはトタンが張り巡らされ現在使われている様子は全くありません。これは何の為に建てられたものなのでしょうか?

そして、その裏手に熊が出現!…いやタヌキかな…。だれが彫ったのか、生えている木を直接掘り込みオレンジのペンキが塗られています。こんなことしていいのかな^^; なんだかパラダイスですなぁ~。

    

はてさて、ようやく…というか10分足らずで山頂に到着。標高68m。山頂には「鷺山城趾」の石碑(左写真)が立っており(昭和8年・岐阜日日新聞)ます。彫が浅いので非常に見にくい…。一段降りた所に説明版と東屋があり、一見曲輪っぽいです。

   

山頂の東屋付近からは少しだけ視界が開けています。
南東方向には金華山。その手前には岐阜メモリアルセンターの競技場が見えます。戦国時代の長良川本流はメモリアルセンター付近を流れていたといいます。(昭和初期までは古川と呼ばれていました)

西の眼下には大型ショッピングセンター「マーサ21」があります。今では住宅密集地となっていますが、以前は一面田畑の土地でした。岐阜市周辺を回る環状線道路ができ、「マーサ21」ができた事により、この一帯は一気に活性化しました。反面、柳ヶ瀬をはじめ岐阜市の中心部空洞化(ドーナツ化現象)の一因になったともいえます。 また、北西約2キロの所に江戸初期までは黒野城が築かれていました。

  

山を東側に下りると北野神社(左写真)があります。ここに亀のような巨石があり上には説明版(右写真)があります。それによると、昭和39年(1964)頃の鷺山南側宅地造成工事の際に出土したもので鷺山城の石垣に使われたものではないかと言われているそうです。

自分の中では司馬遼太郎「国盗り物語」での一舞台として印象が非常に強く一度はジックリ訪れたい場所でありました。現在、遺構は殆ど残っていないですが山頂から金華山を眺めつつ歴史を頭で想像する面白さはあります。


伊木山城跡

2007-12-09 | 城跡

 左写真:伊木山遠望(別名:夕暮れ富士)】

各務原市にある戦国時代の城跡。伊木山の山頂にあった。
1561年(永禄4)、織田信長が美濃斎藤氏との戦いでこの地を攻めた際、家臣の香川長兵衛忠次が武功を挙げた。これにより信長から、この地の名より「伊木」の姓をさずかり伊木忠次を名乗り、この伊木山に「伊木山城」を築いた。その後に忠次は信長家臣の池田恒興に仕え、1590年(天正18)に渥美郡田原へと転封される。その際に伊木山城は廃城となりました。現在は「伊木の森」として市民に親しまれています。

  

伊木山西麓にある観音寺から登城することにしました。1687年(貞享4)に再建されたお寺です。現在は無住寺でしょうか。深閑としています。その奥にある鳥居をくぐると熊野神社。参道は枯葉のジュータンが敷いてあるよう。春の桜並木もキレイでしょう。まずは本殿で無事を祈って手を合わせます。

  

熊野神社からは登山道が三つに分かれています。さぁ…一番南の道を進みました。坂道はずっと階段になっており、おそらくここがメインルートではないかと思われます。途中、上人洞との分かれ道がありますが、とりあえずは頂上を目指します。登りきった所が「旧熊野神社跡」です。石垣の上に祀られていました。ここからは稜線に沿って頂上を目指します。

  

ゆるいアップダウンを繰り返し、こんもりした丘の上が山頂です。人為的に土が盛られたような場所で岩が露出していない。所々に石が並べられています。ここが本曲輪なのでしょうか。そこを登った先に電波塔が立っており頂上に到達しました。173mです。今は樹木が生い茂りあまり視界はよくありません。しかし昔は濃尾平野を一望できるような景観だったのでしょう。山頂を後にし更に東へ向かいます。

    

山頂から東に下り、10分ほど進むとキューピーの鼻と呼ばれる場所に来ました。東のピークで木曽川をはさみ犬山・鵜沼方面が一望できます(左写真)。犬山城も眼下に見え、その先にはモミジの美しかった寂光院がありました。すこし茶色くなっていましたが、ここから見るモミジ山もいいものですね。その後、再び山頂に戻り、帰りは上人洞を目指します。上人洞への道は木曽川沿いを通り、途中対岸の愛知県扶桑町方面が一望できます(右写真)。その向こうには小牧山城、そして彼方にはJR名古屋駅のツインタワーもうっすら見ることができました 。

    

上人洞は石段の上(左写真)…というか洞窟だと思ってましたが違うのでしょうか?? 上には上人様(?)がおられました(右写真)。とりあえず、ここから見える南側の景色は木曽川が眼下に広がりオススメです。 その先で行きの登山道に合流。帰りは三本の道のうち、真ん中を選択。ここは階段は無く坂道、落葉多くスニーカーでは滑ってコワイ…やがて見えてきた熊野神社で無事の感謝で手を合わせ、山を後にしました。

あまり下調べすることなく登ってみましたが、どこが遺構かあまり分からずじまいなのが消化不良でした。もう少し勉強しなおしてから再び違うルートで訪れたいと思いました。それからすれ違う見知らぬ人とも声を掛け合うことができる、普段の生活ならそのまま通り過ぎるであろう人でも自然にあいさつができる。あらためて山の魅力も感じました。