今年の6月末に「大人の休日クラブ」を利用して電車旅 をしたとき、鎌倉の「高徳院(鎌倉大仏)」にも行って来ました。
第6波と第7波の谷間で、第7波の波が少し押し寄せ始めた頃に。
↑ 仁王門。
↑ 仁王門に鎮座する仁王像。
↑ 券売所で拝観券を購入し。
↑ 高徳院案内図。
境内へ。
↑ 以前と比べると、人はかなり少ない。
鎌倉の、青銅の大仏が完成した760年前だそうです。
鎌倉大仏の像の高さ:11.3m。
総高は:13.35m。
重量は:121tだそうです。
↑ 学校の生徒さんたちを多く観かけましたが。
コロナ前とく比べたらかなり少ない。
↑ 考えられないくらい人はいない。
写真 撮影をするにはありがたいが。
↑ 大仏の螺髪(らほつ)・白毫(びゃくごう)。
螺髪(らほつ):大仏の頭部にあるぶつぶつは「螺髪(らほつ)」と呼ばれます。
螺髪は、お釈迦様が人間を超えた存在であることを示す一つの特徴とされています。
白毫(びゃくごう):仏(如来)の眉間のやや上に生えているとされている白い長い毛です。
↑ 撮影モードを変えて。
↑ 鎌倉大仏の内部を見学できますが、私はまだ見た事が無い。
見たのは 📺 の中で。
↑ 鎌倉の大仏はこのようにして作られたそうです。 イメージ図拝借しました。
鎌倉大仏が建立された場所は、谷間に成っていて。
↑ 山を削り平地にし、大仏を建立する場所に盛り土をして。 イメージ図拝借しました。
↑ こんな感じにしながら、下から上に部分的に造り積み上げていったそうです。
↑ 最終的にはこんな感じになったと感がえられているそうです。
↑ 今から十数年前に発掘をして分かったそうです。
1枚上の写真の赤枠の辺りを発掘して、下の斜めになった地層で立証されたようです。
↑ 下の枠組みに喰いこませるように、上を重ね。 イメージ図拝借しました。
↑ 又は、下の枠の穴に青銅を流し込んだり。 イメージ図拝借しました。
↑ 時には覆いかぶせたり。 イメージ図拝借しました。
↑ 3通りの手法を駆使して建てたそうです。
今から約760年前に。
↑ 観てわかるように、何段かに分けて重ねて鋳造した後がハッキリわかります。
当時は、大仏鋳造に必要な100tを越える金属を、一度に溶解することは不可能であったので。
下から順に7回に分けて金属を鋳込んで胴体部分を作り、頭部については前面に5回、背面に6回の鋳造を行ったのだそうです。
大仏の体に平行に走る横線は、鋳造時の接合の跡だそうです。
↑ 鎌倉大仏の建物の敷石。
最近鎌倉大仏の成り立ちが、色々解ってきて。
鎌倉大仏の建物は、間口42メートル、奥行き38メートルくらいあったとか。
大仏堂宇は、資料に残る記載だけでも二度にわたって倒壊している(1335年、1369年)そうです。
しかし、1369(応安2)年以降は新しい大仏殿が建設されることはなく、大仏は今日まで青空の下に座り続けています。
緑青の浮き出た肌を見ると、この大仏は、風雨に晒されながら、何百年もの間、瞑想しながら私たちを待っていてくれたのでしょう。
↑ 古地図。
鎌倉の大仏に、鎌倉の外から訪れる時は「大仏坂切通し」か「極楽寺坂切通し」から行っていたようです。
以前「大仏坂切通し」を訪れた時が有りました、その時のブログは ↑ の「大仏坂切通し」をクリックして観てみてください。
↓ 過去に「鎌倉大仏(阿弥陀如来)」を訪れた時の写真。
↑ 海外からの観光客が大勢いました。
↑ 小雨の日も。
↑ 着物姿の人も。
一般の人の様でしたが、観光客の要望に応えていました。
↑ ススキ越しに観る鎌倉大仏。
海外からの観光客が大勢いました。
以上が過去の訪れた時の写真です。
↑ 出土した鎌倉時代に中國から取り寄せたお金と陶器。
↑ 大仏の裏庭にある、与謝野晶子さんの歌碑。
今回気が付きました。
与謝野晶子は、「釈迦牟尼」と詠んでいますが、鎌倉大仏は「阿弥陀如来」です。
本人に聞いてみないと解りませんが。
↑ 与謝野晶子さんの歌碑は。
↑ 鎌倉大仏の裏手側のお庭にあります。
↑ 江ノ電長谷駅。
こんなに空いているホームには遭遇したこたが無い。
観光客相手のお店は大変なんだろうな。
長谷駅から高徳院までの狭い歩道を歩 くのはかなり楽でした。
↑ 藤沢駅方面から来た電車 🚊。
↑ こちらは、鎌倉駅方面から来た電車 🚊。
鎌倉大仏高徳院への電車旅でした。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます