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Crónica de los mudos

現代スペイン語圏文学の最新情報
スペイン・米国・ラテンアメリカ
小説からグラフィックノベルまで

ラウラ・パチェコ『第一世界の諸問題』

2019-02-21 | グラフィックノベル

グラフィックノベルというより本の袖にもあるようなコミックで、日本風に言えば四コマ漫画だけれど、必ずしも四コマとは限らない、要するに1ページのなかで完結した小話集。作者のラウラさんは絵画修復師としての経験もおありなのだとか。とにかく絵のセンスがよくて、リアリズム系のグラフィックノベルにありがちな土臭さとは無縁。こういうのを待っていました。

 2011年の『レッツ・パチェコ~家族の一週間』と2013年の『セニョール・パチェコ~秘密情報員』は家族に題材をとったオートフィクションのグラフィックノベルのようだ。いまはエルパイス紙別冊やモード雑誌を中心に活躍中。

 ご本人のHPの about でお話が聞けます。

 ブログでは作品の中身も少し。

 たとえば下のような感じ。

 あるある、的なシチュエーション。

 スペイン語知らなくても分かりますよね。

道ですれ違った知りあいに声をかけたら相手はアディオスと一言。まあ、そういうこともあるのだけれど、こっちはオラなのに、なんでそっちはアディオスなんだよ。

 むむむ、あるある。

 というようなシチェーションばっかり。

 押しボタン信号をめぐる駆け引きとか。

 そんな信号、スペインにもあるんだ。

 数人の女性を中心にテーマごとに8つの章に分かれている。職場、恋人、家族、SNS、友だちと隣人、休暇。このうち休暇というのはヨーロッパ人の強迫観念的な休暇のことなので、働きマニアの日本人には少しわかりにくいかも。あとは私たちがふつうに読んで楽しめて、にやっとさせられるものばかり。

 絵も可愛らしく、キャラの描き分けもきちんとできていて、吹き出しの文字も短く、きちんと落ちがあって、ややシニカルで、そうかといって変なメッセージ性はなく笑って読み飛ばせる。スペインの長谷川町子を目指してぜひ頑張ってもらいたいです。

 下は「隣人」の章に出てくるマンション管理人のコンスエロさん。どこかにくめない意地悪ばあさんです。

どうも。私宛のはありました?/お部屋番号は?/4B。/ああ、それなら見たような気が…えっとたしか…。/もうポストに入れたってばさ。/銀行からの通知が二通と絵ハガキ一枚。差出人の名前までは見えなかったけど。/どうも、コンスエロさん。

Laura Pacheco, Problemas del primer mundo. 2014, Lumen, pp.159.

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マリナ・コチェー、フアン・セプルベダ・サンチス、アントニオ・サントス・メルセロ『ビオレタ』

2019-02-20 | グラフィックノベル

1955年から73年まで、つまりフランコ時代のスペインを舞台に当時はビオレタ、菫男、と呼ばれて蔑まれた男性同性愛者を主人公とするグラフィック・ノベル。オールカラー。といっても表紙で分かるように全体に暗めのトーンで年寄りの目にはきつい。漫画を読み慣れた人間にとってグラフィックノベルのカラーはややウルさく映る。たいていのグラフィックノベルはギオニスタとイルストゥラドール(ーラ)の分業体制になっていて、ギオニスタの手を離れた段階で描き手の創作が始まってしまうのだろう。そこに欠けているのは編集者の目だと思われる。売ることを考えないでいい商品である以上、作り手の自由な創造性が尊重される、と言えば聞こえはいいが、それは裏を返せば、読み手側の最大公約数的ニーズを無視することでもあるので。

 話はいたって深刻。

 スペインでこういうことがあったのは、正直、私はあまり知らなかった。男性同性愛者を社会的矯正するという発想はキューバを連想させるが、この本を読む限り、スペインであったことはキューバのそれをはるかに上回ってひどい。あとがきを見る限りオートフィクション系ではないので、どこまでが事実なのかは分からないけれど。スペインやチリの場合は性的少数派=共産主義者で、キューバでは性的少数派=資本主義の毒の染まった享楽主義者、まさに右を向いても左を向いても地獄。

 おばの菓子店で働く青年ブルーノは、週末になると同性愛者の集まる映画館にたむろしている。父は20年前から行方が知れず、母は精神病院で死亡していた。ある日、悪徳警官のマルコスに捕まったブルーノは、同性愛者仲間らと一斉逮捕され、恋人のフリアンとともに社会的逸脱行為(conductas desviadas)の罪で刑務所送りになる。3年間の刑務所暮らしのあいだに筋金入りの反体制派で同じく同性愛者のアグアドらと知り合うが、ある日、理由も分からぬまま釈放される。刑務所の外で待っていたのは20年ぶりに姿を現した父だった。

 ブルーノの父は秘密警察の大物になっていた。息子がホモだと知ってショックを受けた父は、彼を「立派な男」にすべく知り合いの警察学校長に手をまわして入学させる。こうしてブルーノは国家に忠実な男として再教育されていく。そして、校長の娘とほぼ無理やり結婚させられ、やがて子どもも生まれる。ブルーノの妻は夫の性的指向を知りつつ結婚していた。

 やがて、かつて自分を逮捕したマルコスの同僚となり、ひげもたくわえ、もはやすっかり普通のマッチョなスペインの親父になったブルーノに昇進の話が舞い込む。昇進の条件は、引退した父と同じ秘密警察の下で働き、バレンシアに潜伏中の危険分子をひとり抹殺することだった。そして、その危険分子とは、強制収容所に送られた後で行方不明になっていた、かつての恋人フリアンだった…。

 アルタリーバの『空を飛ぶ話』にもあったノイローゼ妻がここにも出現。私はむしろそっちが気になって仕方がなく、嫁になって(結婚前にふつうに付き合うこともないまま)子供を産み、その後は冷え切った関係を生きていくしかない……みたいな悪夢のような人生を送っていた女たちの話のほう。そっちはそっちで無数の話があるのだろうが、たぶん死ぬまで読み切るのは無理だと思う。20世紀のスペイン文学って、最後はやはりそこに行くんじゃないでしょうか。

 話を戻すと、絵の色付けの感じがシツコイと思う以外は、比較的よくできた作品。吹き出しの文字が綺麗なのもよかったです。せめてこれくらいの読みやすさにしてくれないと。版元の案内で中身が少しだけ見られます。

Marina Cochet, Juan Sepúlveda Sanchis, Antonio Santos Mercero, El Violeta, 2018, Drakul, pp.104.

 

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クリスティアン・ラクス『セルバンテスとかいう男』

2019-02-18 | グラフィックノベル

 スペイン・アマゾンでときたま20冊くらいまとめ買いをするとき、グラフィックノベルはわりとテキトーに買い物かごに放り込んでいく。届いてみたら「そんなはずでは…」が再三。今回もセルバンテスなのでてっきりスペインと思いきや(作者の名前を見て気づけよ、と一か月前の自分に言い聞かせたい)、フランス人がアメリカを舞台に描いたバンドデシネのスペイン語訳だった。ノルマはスペインコミックという枠を設けずすべて「ヨーロッパコミック」としているので紛らわしい。

 しかも読みにくい手書きの文字。どうしても前のめりになり、サテンではいわゆる「漫画オタク」みたいな感じになっているのだと思います。

 主人公は米兵マイク・セルヴァンテス。

 アフガニスタンで左手を失い、帰国後はさえない独り暮らしをしていたが、甥とかかわるうちに資本主義体制のありかたに不満を抱くようになり銀行に押し込みをはかり(ATMをぶっ壊しただけですけど)懲役刑に。服役中に読みだした自分と同名のセルバンテス作『ドンキホーテ』の主人公や、セルバンテスという人物そのものに興味を抱くようになり、出所後は図書館に勤めるが、そこでも揉めて本を盗んでカリフォルニアの砂漠へ逃避行に出る。そこで南の国境からさ迷いこんできたクスコ出身のペルー人トランキージョ君を拾う。すっかりドンキホーテになり切っているマイクは彼をサンチョと命名する…。

 いわゆる帰還兵もの(アメリカの20世紀後半ってこればっかり、よほど戦争ばっかしてるってことですよね)にセルバンテスの生涯を重ねた不思議な味わいのロードノベルだった。実際、レパントの海戦で左腕を怪我し、アルジェリアで虜囚生活を送った末、ままならない後半生を送ったセルバンテスの話も並行して描かれ、途中からマイクはセルバンテスを幻視し、語りかけるようになる。

 絵はシャープで、物語自体もそう悪くはないのだけれど、なんというのでしょうか、よく世の中でいうところの「下手うま」の逆、いわば「うま下手」とでも言いましょうか、これはリアリズム系のグラフィックノベル全般に言えることなのだが、上品すぎて深みがないと言いますか、絵のうますぎる劇画を読まされている気分、と言いますか。説明しにくいけれど、日本のコミック環境があらかじめ高度過ぎるせいで私たちの採点基準が辛すぎるのかもしれない。

 ところで、マイクの会っては別れの繰り返しみたいな人生、ふつうは挫折に次ぐ挫折とか同情されたりするのだけれど、実際に自分でもやってみると、相手がひとりであろうが百人であろうが同じ人間といつまでも付き合い続けている人生がむしろ超自然の驚異に見えてきますよ。いや、ほんと。

Christian Lax, Un tal Cervantes. Traducción de Nuria Viver, 2018, Norma, pp.204.

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ドゥニ・ラピエール、リカール・エファ『ひとりぼっち』

2019-02-12 | グラフィックノベル

 原作者という言葉がスペイン語の guionista にふさわしいかは微妙なところ。そうかといって脚本家や台本という舞台系の言葉もしっくりこないし、強いて言うなら構成担当ということになるだろうか。実際に彼らがどういうスタイルで創作しているのか、具体的にはそのギオニスタがどういうマテリアルを画家に渡しているのかを知りたい。いっぽうの画家も言葉はまちまち。漫画家といえば、日本の場合はたいてい(アシスタントなどの分業体制を考慮に入れない)単看板だから、それとは違う。イラストレーターが近いのかもしれないが、スペイン語でイルストゥラドールを嫌がる人もいるようだ。ノルマのHPを見る限り、この本のリカールはイストリエティスタ、日本風に言えばコミック作家を名乗っている。一度この辺の用語を整理する必要があるかもしれない。

 その構成担当ギオニスタのドゥニはベルギー人。フランスのコミックを主戦場としてきたが、SFもののシリーズ『アルテル・エゴ』でカタルーニャ人のリカールと組んでから、彼とコンビでスペインの内戦に題材を得た作品に二つ関わっている。

 うちの一冊が本書。

 もとは2017年にフランスの会社でフランス語版が刊行され、それをノルマがカタルーニャ語版とスペイン語に訳してスペインに紹介した。厳密に言えばフランスのコミックでしょうかね。ま、そのあたりの変な線引きにこだわる必要もない地域でしょうか、南欧は。ちなみにノルマは右下の会社ロゴが赤ならカタルーニャ語版。私はスペイン・コミックはもっぱらアマゾン・スペインで取り寄せていて、前に一度だけスペイン語版と思って注文したらカタルーニャ語版が届いたこともあった。両方ふつうに読めるから困らないけどね、と、いつかエラそーに言ってみたいもんです。

 スペインのグラフィックノベルはオールカラーが多い。これはおそらく物語や吹き出しの展開よりも絵のほうを重視しているからだろう。いわゆる漫画との違いはそのあたりに見出せるかもしれない。本書もコマ割りは大きめで、下のようにページに4つ程度から多くても10程度。多くなりがちな文字の少なさも読み手にはフレンドリーだ。

 本書の主人公は実在の人物で、表紙裏に実名で現れるマルタ・バディーアというカタルーニャ人女性の祖母ロラ。つまり祖父母の世代から聞き取った話をグラフィックノベルの作者二人が聞き取って再構成したもの。なので、これはある種のオートフィクションに読み手が勝手に想定する<実作者=体験者およびその親類>という構図とは少しずれている。フランス語圏南欧とスペイン系諸語イベリア半島を活動拠点にしている作者コンビが、スペインをテーマに描くなら内戦と独裁の聞き語りだろうと判断した結果が本書。どうした形であれ、やはりスペインの物語はいまのところこの祖型に行き着くようである。

 本書の内戦は後衛が舞台。

 なので戦闘場面は一切なし。

 ときたま炸裂する爆弾、村にやってくる国民軍兵士、あるいは逃れてきた共和国軍兵士など、日常生活の後景として描かれている。日本でも戦争を描く際には前線ものと後衛ものがあるように、内戦を描いたスペインのグラフィックノベルもたいていはその二つに分類できるようだ。

 少女のロラは祖父母の元に預けられていた。共和国軍志願兵となった父親は行方知れず。そして収入源もなく二人の娘を養うことが難しくなった母親は、妹だけを引き取り、長女のロラを田舎の村にいる祖父母の元に預けたのだった。

 やがて戦乱が激しさを増し、祖父と離れ離れになったロラは、表紙にあるように戦火の村々を抜けて、バルセロナにいる母親のもとへと旅立つ。その母親との再会場面が少し泣かせるところ。彼女は母と一夜話したのち、ベッドでこう悟るのだ。Su madre le tenía cariño pero no la quería. 本書の語り手はロラの孫のマルタなので、ここは三人称になっているが、ロラの目線で訳せば「母はわたしに愛情を抱いてはいるが、愛してはくれないのだ」となりましょうか。とても難しい一文。

 カリーニョはあるけれど愛してない。

 そして祖父の元へ帰ったロラは内戦を生き延び、マルタの話によれば、孫にはなにもか包み隠すことなく笑って語り聞かせたという。自分を愛してくれなかった母のことも笑って許していたという。なにも話さないスペイン人、というのとは真逆の、なにもかも笑って語るスペイン人。そういう人間特有の強さが絵でも表現されている。お涙頂戴もの、でもなければ、リアルに戦争の惨禍を描く社会派でもないが、なぜか読み応えがあった。

 いつもの彼のお話です。

Denis Lapiere, Ricard Efa, Sola. Norma, 2018, pp.72.

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アナ・ペニャス『みんな元気』

2019-01-16 | グラフィックノベル

 1987年生まれのイラストレーター、アナ・ペニャスが実の祖母二人を描いたグラフィックノベル。通った学校で身近な人物を描くという課題を与えられたことがきっかけで生まれた作品なのだとか。

 マルハとエルミニア。

 内戦期に子供時代を送り、マルハはバルの店員をしていたとき町医者と(いわゆる日本における見合いのような過程を経て)結婚した。いっぽうのエルミニアはトラック運転手と結婚した。孫のアナが二人の祖母から話を聞く場面と、二人の過去とが交互に進行する。

 この作品については作者自身がブログを書いていて、それによると、20世紀末に生まれた彼女にとっては、女子がふつうに進学して、自らが望む職業について自活していくことは当たり前だった。なので、進学もせずいきなり主婦になり、あとは夫のために食事を作ったり掃除をしたり洗濯をしたり、あるいは何人もの子育てに追われる人生というのは容易に想像しがたいものだった。とはいえ、スペインでもフランコ時代はそういう女の一生のほうがふつう。彼女らはどういう「あり得たかもしれない人生」を夢見ていたのか、思うままにならない生活の中でなにを大切にしてきたのか。孫はテープレコーダーを手に二人の祖母のもとを何度も往復した。

 最後に祖母どうしが電話でやり取りする。

 どちらかといえば悲観的なマルハは「人生って退屈ね」と繰り返し、いっぽう、男と駆け落ちして行方不明になった母(アナにとっては曾祖母)をもつ自由奔放なエルミニアは気楽な余生を送っている。バルをばあさん仲間で占拠して店主をうんざりさせる場面などが可愛らしい。

 スペインの若い作家たちは、私たちの目からすると真面目過ぎるくらいに、自分たちの親や祖父母世代の記録を残そうとしているように見える。アントニオ・アルタリーバの『空の飛び方』から、フランコ時代を生きた女性たちの平凡な日常を綴った本書に至るまで、いったいこの情熱はどこから来るのかといつも考えているのだが、おそらくそれは、彼らが問わねば、彼らの世代が敢えて言あげしなければ、マルハやエルミニアの世代は一切を語らぬまま死んでいく可能性が高いからだろう。

 これは内戦や独裁といった暗い時代を経てきた20世紀スペインに特有の事情なのだろうか。

 あるいはより普遍的な傾向なのだろうか。

 今日も世界中のフェイスブックやインスタが、生きている人間のいま現在、だけを、驚くほどの情熱を傾けて実況中継しあっている。いっぽう、小説やコミックといった旧時代の死にゆくメディアは、身近な人間の過去を記録することにますます傾いているように思われる。そこになにか関連があるとは想像しにくいが、この二極化の動きは今後ますます加速するのかもしれない。

Ana Penyas, Estamos todas bien. 2017, Salamandra, pp.112.

 

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