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Crónica de los mudos

現代スペイン語圏文学の最新情報
スペイン・米国・ラテンアメリカ
小説からグラフィックノベルまで

アントニオ・アルタリーバ、キム『空の飛び方』

2019-01-09 | グラフィックノベル

 2009年に初版が刊行され、その後2017年のエルパイス紙におけるスペインのグラフィック・ノベル・オールタイムベストに推された書。作者は物語がアントニオ・アルタリーバ、絵がカタルーニャ人のキム。物語はアルタリーバの実の父に関するもので、ほぼ実録といっていい。このコンビでもう一冊こうした身内の実録物を出しているらしく、そちら『折れた翼』は現在取り寄せ中。こんなものを読んでいるのは私だけかと思っていたら、近ごろ宮城のスペイン書房もHP店舗にグラフィックノベルを並べるようになっていた。なんとかビジネスになればいいのだが。

 オールタイムベストの評価に恥じない重厚な作品。

 スペイン中北部の寒村ペニャフロールに生まれ、サラゴサで内戦に遭遇し、運転手としての腕を買われて共和国と国民軍の両方に加わって戦い、共和国軍兵士としてフランスに逃れ、第二次大戦終結後はマルセイユで様々な闇商売に手を染め、やがて意を決してフランコのスペインに帰国し、結婚して子を設けるも、深い喪失感を抱いたまま老後を迎え、世紀の明けた2001年に老人ホームの屋上から投身自殺をした父。その一生をまさしく「つぶさに」描いてゆく。

 最初は字の細かさに呆れる。

 そのうち呆れを通り越して怒りがわいてくる。

 なにしろこんな感じなので。

試しにここを全訳してみよう。各コマ端の直線枠内は本書の語り手、すなわち作者アントニオとその父(の名前もアントニオ)の独白で、丸い線の吹き出しが人物の発話。そこの判別も慣れるまでシンドイ。吹き出しの順番もよくわからない。それでもなんとか読んでいく。スペインに帰った主人公は、政権の要職についている大物とのコネを利用してクッキー会社を経営している伯父のもとに身を寄せる。伯父には愛人がいて、伯母がある日その愛人のもとへ乗り込んでケガを負わせるという場面の続き。主人公は昔なじみのカルロタの家に集まった元共和国兵士たちと食事をする。

(左上)エミリアはひどい傷を負ったにもかかわらず生き延びた。一週間の入院と傷跡数針で済んだのだ…。もちろんエミリアは訴えもせず警察にすら行かなかった…。私はあの場所に二度と戻ることはなかったが、エミリアの店は閉まったと聞いた。

(右上)犯罪者は事件現場に戻るのか…。私が言えるのは、人はかつて優しくしてもらった場所に戻る、ということだ。私はカルロタの下宿に戻った。/アントニオ、スープのおかわりは?/ありがとう、こいつは最高だね。

(中央)カルロタは息子のフアンに死なれてから別人になっていた…。フアンは37年に下宿を後にし、サラゴサを出て共和国軍に加わろうとしたのだ…。その後の消息は不明になっていた…。/配給手帳がもう今月は切れちゃって。月末まで粉団子とニンニクスープで我慢してもらわなきゃ。/心配ないさ、カルロタ。すぐによくなる。今は外国の連中が不買運動をやってるからな。でもフランコがきっとなんとかしてくれる。みんなが少し頑張って愛国心を発揮すればいいことさ、だろう、アントニオ?/ああ…どうかな…。

(左下)下宿人たちも別人になっていた…。いちばん変わってしまっていたのは、サラゴサから離れなかった連中だった。私にアナーキズムのイロハを教えてくれたルシオは熱心なフランコ支持者になっていた。/スペインには平和と秩序が必要だ…。大帝国としての使命を果たすには団結せねば。やたらと騒ぎ立てるばかりでは経済は上向きにならんよ。この国はようやく今になってマトモになりつつあるのさ…。/そう思わんか、アントニオ?

(右下)スペインに何が必要かなんてわたしにはわかりませんけどね、アントニオに必要なのは奥さんじゃないのかしら。あなたにお似合いの綺麗な姪っ子がいるのよ。/またあの姪っ子の話か…。/ルシオさん、スープはもう要らんのかい? だったら冷めちまう前にわしがいただくがね…。

 ニンニクスープはこの後も再三登場。仕事仲間の背信で破産したアントニオ一家、妻が「この歳になってニンニクスープを飲む羽目になるとは…」と愚痴る。sopa de ajo というのはそういう料理、日本風に言えばスイトンみたいなもんでしょうか。

 貧しさの記憶が本書全般を覆う。

 特にペニャフロールのようなスペインの寒村が20世紀初頭に置かれていた状況は、多くの内戦を描いたグラフィックノベルに共通してみられる。過激なアナーキズムがスペインを覆ったとき、そこに同調したのは「明日から好きなだけ飯が食える」と勘違いした貧しい田舎者だった、ということが痛いほどよくわかる。

 それにしても上の細かい字。

 途中で何度も投げ出しそうになりながら読み進めたが、悔しいことに慣れてしまった。愚かな女と付き合ううち、その愚かさ自体もなぜか好きになってくるのに近い感じ?

 父アントニオが行った先々で出会う人々がいちいち丁寧に描かれている。戦場で右往左往する連中。愚かなスローガンのもとで何も世のなかのことを知らないまま若くして死んでいった青年たち。逃れた先のフランスでの収容所暮らし。ドイツ占領下の農村で主人公をかくまってくれた心優しい農家の人々。マルセイユで闇商売をしきっていた亡命スペイン人。

 そして帰国した主人公を待ち受けていた偽善者の群れ。この本でいちばん面白かったのはフランコ体制下で「生きていかざるを得なくなった人々」の無体もない日常である。性についても踏み込んで描いてあるのが面白い。主人公は結局カルロタの姪と結婚するが、ファナティックなカトリック信者となっていた妻とのセックスでは「罪を犯している」気持ちにしかなれない。フランスで気楽な恋愛を経てきていた主人公は息子が生まれた段階で「そういうこと」に見切りをつける。ところが周りの男どもは妻以外の女や娼婦と寝ることしか頭にない。そういうシンドイ生き方をしている彼らにとっては過去も未来も存在していない。とにかく今を心安らかにサバイブしていくだけなのだ。

 やがて75年がやってくる。

 常に現在以外の時間と向き合っていた主人公は、自分の老化する肉体という現在と真剣に向き合わざるを得なくなる。そして老人ホームのなかでまた人間模様はスペイン的。

 主人公はなぜ自殺という道を選んだか。

 丹念に読んでいけば最後に分かる。

 そしてそれを補完する後日譚も素敵だ。この部分はこの第二版に付け加えられたもの。

 仮に日本語版をつくるとすれば、上のような文字のところをどうするかという問題に直面することになるが、はしょると作品のもっているデリケートな構造が壊れてしまうので、なるたけ少ない文字で全訳するしかないだろう。

 内戦を描いたどんな活字小説よりも本書が優れている点はまさにそこ、ディティールにある。活字本であれば注意が向かない木々や、街路、食事の風景、ちょっとした表情、そうしたディティールは映画のような「時間経過芸術」でも見過ごしがちだ。グラフィックノベルというジャンルの大きな可能性を改めて示してくれたという意味でも、やはりオールタイムベストの称号にふさわしい力作である。

Antonio Altarriba, Kim, El arte de volar. 2da ed. 2017, Norma, pp.222.


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クリスティーナ・ピカソ『田舎教師~ただいま実習中』

2018-12-12 | グラフィックノベル

ネット上で(どういう形でかは知りませんが)掲載され、スペインの学校教師から絶大な人気を博しているというコミック。題名の pueblo はここでは「村」くらいの意味。マドリードから少し離れたチョルタレホ・デ・ラ・シエラという、どうやら架空の村のようだ。私も二度ほど観光でスペインを訪れたが、都市を離れるとすぐに原野かオリーブ畑になるのを見て驚いた。いわゆるド田舎が無数にある。副題の con L de novata はどうやらスペインで仮免許取得者に与えられるカードを指しているらしい。日本風に言えば「若葉マーク」でしょうか。

 教育学部のマリアが代替講師として田舎の村の小学二年生のクラスの担任になる。彼女を出迎える子どもたち、その親たち、教師仲間に飲み仲間たちとの日常が綴られ、結局、学校の仲間や親たちに認められるまでが描かれている。でも正規のポストに就くまではまだ難題が。そのあたりは続編に書かれているようだ。

 私も実は(自分ではたまに忘れますが)「センセイ」と呼ばれる職業。飲み仲間にはよく「もう授業は終わりですか?」と尋ねられて、「来週で講義は終わりです」と答えて「いいなあ、センセイは…」とうらやましがられる。大学での教育よりずっと時間を取られる仕事が家に山積している実情はどう説明しても理解されない、それは20年かけて骨身にしみてわかっているから、それ以上はなにも言わず「へへへ、すみません…」と頭をかく。

 思えば、小中高の先生にほとんど知り合いがいない。これで子どもでもいれば美しい担任の先生と知り合うことができたのだろうか。

 重労働と言われている、真のセンセイたち。

 あの人たちこそ尊敬されるべきだ。

 この本のマリアも最初は頼りないのだが、周囲にもまれてオロオロしているうちに、親たちの厚い信頼を勝ち取ってしまう。それは彼女が有能な教師だからではなく、教師という役割をきちんと演じるようになっていけたから。その役割とは「村のみんなに尊敬されてしまうこと」にすぎない。スペインのセンセイたちも色々とシンドイようだが、クラブ活動だの補習だの残業が多いばかりで、親たちからも、場合によっては地方行政の愚かな長からも攻撃の矢面に立たされる日本のセンセイたちに比べたら、まだマシなのかもね。

 そう、この本は翻訳して日本のセンセイたちにも読んでもらえたら、いいかもしれないな。私みたいな「なんちゃってセンセイ」ではなく、今日も頑張っている真のセンセイたちに。

 それにしてもスペインのスペイン語における形容詞 menudo の使用頻度、本当にメヌード(すごい)ですね。チリなんかで聞くことはまずありません。

Cristina Picazo, Maestra de pueblo con L de novata. 2017, Grijalbo, pp.109.

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アナ・ペニャス『移行期に』

2018-12-06 | グラフィックノベル

スペイン内戦に関する忘却の歴史は、日本における先の戦争に関する忘却の歴史とかなり異質なようで、少し似通っている部分もある。日本の場合は、沖縄を除いて「みじめに負けて大量の同胞を死なせた事実」を忘却する代わりに経済発展という褒美を得た。もちろん、その間、記憶をつなごうとする試みもあった。スペインの場合は、亡命者を除いて「一族郎党で殺しあった事実」に関して黙ることを余儀なくされたが、世紀末にかけての急速な文化的解放とその後の経済発展のなかで封印していた記憶をなんとか再構築しようとしている。

 この本もその試みのひとつ。

 グラフィックノベルというよりは絵本といったほうが正しいかもしれないが、言葉の選択も含めてけっこう難しく、(スペイン以外の)大学生に読ませて議論させてもいいくらいのレベルかもしれない。

 本書は昨今はやりの両論併記という名の判断放棄とは無縁で、一定の歴史解釈を提示している。まずひとつは、第二共和政が市民の自由をめぐる戦いの一環であったこと。スペインではこの一点だけが今なお割れる議論かもしれない。私も最初の一文「そう遠くない昔、疲弊していた国に、ついに自由が訪れた」には少し違和感を覚えた。共和国内部に暴力革命や思想統制を匂わせる言説が多々飛び交っていたことは、内戦を描いた数多のグラフィック・ノベルでも詳細に描かれている通りで、共和国の創設にかかわった人たちのみを大義とし、ほかのすべてを悪とする二元論は、容易に受け入れがたいものがある。

 そこは目をつぶって先を読み進めると、その後、内戦と亡命者と言論弾圧と暗い時代が描かれ、真ん中あたりで1975年がやってくる。表紙にもなっている見開きページ。皆が神妙な顔つきでフランコ死去の報道を見つめているなか、カフェの店主と思しき女性だけがうっすら微笑んでいるのが印象的だ。

 一般的にはこの1975年から78年の新憲法発布までをスペインにおける(軍政から民政への)移行期という。実際、西和辞典で transición という語を見るとそう書いてある。だが、本書はそこに異を唱え、移行期とは今なお続いているのだと主張する。絵とこの一言で。

 過去はその存在をとめてしまった。

 つまり、内戦ぼっ発から75年までの記憶は、掘り起こされずにいる遺体とともに、今なお生きている現役の市民によって「発見されるのを待っている」という考え方である。この欲望に関しては、20世紀に数多くの内戦や暴力を経験しているラテンアメリカのどの国よりもスペインのほうが強いように思う。グラフィックノベルのテーマにも、異常なまでに内戦の話が多い。

 イラストレーターへのインタビューを読むと、本書は版元の編集者による企画に彼女が絵をつけたという経緯のようだ。すでにフランコ時代の記憶を語る絵本を出していたアナに、そのアルベルトという編集者が「ちょっとビールでも飲まないか」と声をかけてきた。素敵なお誘いの文句ですね。意気投合した二人は、その後も構成をめぐって何度もやり取りを重ねている。だったらほとんど共作なのだが、表紙に彼女の名前だけ置くなんて、アルベルトも粋な奴である。

 1987年生まれのアナにとっては、内戦も、フランコ時代も、狭義の移行期もどれも未体験。知らない過去である。そこをイメージで構成するには、どうしても先人の体験を今現在につなぐ必要があったようだ。さらに、本の構想そのものが大きく関係しているのが、2011年に始まった15M(キンセエメ)という社会運動で、今日の政党ポデモスの原点になった。しかし、この運動をやや冷めた目で見るようになってきたアナは、最後のページで、たとえば拳を振りかざしてデモ行進するような、そういう勇ましいイメージに訴えたくなかった。そんなときにたまたまブエノスアイレスを訪れ、軍政時代の失踪者の救済を訴える「五月広場の母たち」の集会に参加し、そこで本書の最後の見開きページの着想を得る。

 ふつうは逆、すなわちラテンアメリカでの暴力の記憶をめぐる言説が先行するスペインのそれにリンクするのだが、もう彼女のような世代にとってはアルゼンチンの軍政もスペインのフランコ体制も「同じ程度に昔のこと」なのだろう。私がふだん接している学生諸君にとってもそうかもしれない。だから、仮に「20世紀のスペイン語圏を語る」というようなゼミがあったとして、そこでのテーマが「失踪者」になれば、参加する学生にはアナのような見方や発想が必要になってくるのだろう。

En transición. Ilustrado por Ana Penyas, 2017, Barlin Libros, pp.30.

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カルロス・エルナンデス『ダリの夢』

2018-11-27 | グラフィックノベル

サルバドール・ダリ(1904-89)が死の直前に見た夢を再現するグラフィックノベル。ダリの画風とはまるで異なるポップなタッチで、ぱっと見「むりやり感」が濃厚なのだが、慣れてくるとそれなりに面白いところも。

 調べていくと、あるわ、あるわ、芸術家がらみのグラフィックノベル。スペインでやはり多いのはピカソ。同じノルマから刊行された『内戦下のピカソ』も売れ行き好調(というのが具体的にどれほどの部数を指すのかわかりませんが)らしい。

 前に紹介したベラスケスや、明日紹介予定のカリオン&サガール『ゴシック』のように、特定の美術館で販売することを前提にしている本もあるが、ピカソやダリのコミックがどういう販路を目指しているのか私には今ひとつピンとこない。

 絵画に関する書物なら、すでに山のようなビジュアル本がある。それらは、たいていの場合、原画を高度な印刷技術でコピーし、そこに活字で多種多様な説明を付し、場合によっては写真も交えて作品の背景を説明する本である。いわゆる美術専門書と呼ばれる書物の中にも、真に専門家向けのものもあれば、好事家向けのやさしい内容もある。ではグラフィックノベルはなにを目指すのだろう。それは古典文学のビジュアル化と同様、やはり、作品の翻案になるのではないだろうか。作品そのものを大幅に解釈し、新たな世界を構成したもの。

 私が求めているのはそれだ。

 ダリの絵の翻案。

 ただ、もしそんな才能をもつ「画家」がいるとして、誰が読むかわからないようなグラフィックノベルなどは描かないだろう。確固たる芸術作品として世に問うだろうから。

 グラフィック・ノベルが「ノベル」である以上、その最大の特徴は時間的な幅のある物語性にあることは言うまでもない。なので、仮に特定の芸術作品の翻案を実行するとすれば、そこには物語の作り手が必要になる。そういうことは小説家の専門であり、先般紹介したアルゼンチンのマリア・ガインサのようなスタイルになるのだろう。グラフィックノベルがノベルである以上、イラストレーターは物語のプロ、すなわち活字文学の書き手と手を組むのがいいように私は思う。

 そうでないと、今後も芸術を取り上げる限り、本書のような伝記的なスタイルをとるか、世の美術専門書とは少し違う角度からの教育啓蒙的なスタイルをとるしかないのではないか。それだけではあまりに退屈だ。

 ところで、ガラが死んでからダリは彼女との再会を望みつつも死を恐れ続けた(とこの作品は推測する)。芸術家や作家は時としてミューズを必要とする。いや、することが、かつてはあった。私にはこのミューズという存在のことが今ひとつよくわからない。特定の人間がなんらかの創作行為の動機や根源になるとは想像しにくいからだ。男の創作家が女によるインスピレーションを必要とする、というのは、妻が家庭を守ってくれて男は戦える、の類の妄言と同じで、ある時代の、ある地域の、ある共同体に特有な一過性モードにすぎなかったのではないか。

 本書でも、ガラとの関係を描いた部分は、私には興ざめ以外のなにものでもなかった。

 もちろんそれは私の個人的印象。

 ダリ好きには面白い本であることは確か。

 作者のエルナンデスには、ガルシア=ロルカを扱ったグラフィックノベルもあるらしく、そちらも只今、入荷待ち。

 ちなみに、版元のノルマは、アメリカンコミックと日本の少年漫画に強い憧れを抱いているようで、グラフィックノベルという言葉をあまり用いない。日本からの翻訳はマンガ、アメコミはそのままアメコミ、そしてヨーロッパのものは中東あたりも含めてすべて「ヨーロッパ・コミック」としている。ノベルではなくコミック。これ一本のすがすがしい会社。高尚な文学的世界を目指すわけでもなく、ある種、なんでもあり的な、無節操さがこの会社の面白いところ(かつ弱点)なのだろう。

Carlos Hernández, El sueño de Dalí. 2018, Norma, pp.72, オールカラー/版元の宣伝(スペイン語)

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ラウラ・ペレス、パブロ・モンフォルテ『遭難者たち』

2018-11-25 | グラフィックノベル

バルセロナの海辺で10年ぶりの再会を果たす二人の元恋人。アレハンドラ、アレックスは老人ホームで暮らす母を週に一度見舞いに行く書店員。フリオは婚約者のカルラとの微妙なすれ違いに直面し、いい加減な広告会社を牛耳る連中との付き合いにうんざりしている日々だった。二人が知り合ったのはマドリードの大学で、フリオが小説『遭難者』を連載していた文学の小冊子『ハルディン・メタリコ(金属の庭)』を介してのことだった…。

 というのは物語の概要。

 実際には10年前と10年後が交互に進み、その色分けがとてもユニークで、いっぽうが赤を基調に、いっぽうは青を基調にしている。カヴァーのようなフルカラーはなくて、若いころの二人の陽気な感じは暖色で、そして現在の孤独な感じは寒色で描き分けられている。二人のモノローグというのだろうか、いわゆる「意識の流れ」は四角い吹き出しで、セリフは漏斗つきの吹き出しでという文法はグラフィックノベルによくみるそれだが、内戦などを扱った話に多い背景説明はいっさいなくて、絵から読者に想像させるふうにしてあり、とっても読み手フレンドリーな本だった。文字量はせめてこれくらいにとどめてほしいと思う。

 ものすごくベタな恋愛ものを、茶化さず、ごまかさず、そして主としてそれを女の目線から描いているのがいいと思う。アレックスは母を捨てて消えた父への思いを断ち切れない。その母との愛憎半ばする関係も描きこまれている。10年来の親友ラモーナとのレティーロ公園での思い出話も泣かせる。フリオの婚約者のカルラについても単なるわき役に留まらない。なによりアレックスの地下鉄での通勤(+通学)場面が繰り返し描かれていて、そこでのモノローグが詩的でいい。なんというか、全体に、とてもいいリズムがあるのだ。オッサンが書いた「やたらと能書きが多く、字が細かすぎて、説教くさい」戦争グラフィックノベルに飽き飽きしかけていた身としては、まさしく(目と)心が洗われる思いでした。

 再開した二人が再び別れるところ。

 この台詞、やや難しいが敢えて訳すと

 ア:知ってた? あなたがサラゴサに行ったまま消えちゃってから、わたしはあることだけしてきた。古い思い出がたくさんつまった場所に新しい思い出を建て直すこと。お願いだからあなたにも同じことをしてもらたい。

 フ:二人の記憶を建て直すほうを選びたいんだけど。きっとできるさ。

 ア:わたしには無理。ねえ、このあいだのわたしたち、あの頃の思い出にちょっと血迷っただけなのよ。もうそんなの要らないでしょ。あなたにも、わたしにも。

 読んでいて、ここのところだけは心から「その通り」と思っていた。この種のことは国や文化を越えて同じ。一度変わった運命を逆に戻すことはできない。エピグラフにはスペインの作家カルメン・ラフォレの言葉が。

まずなにげない思い出が次々に押し寄せてきた。夢、戦い、私自身のどちらともつかない現在。それから強烈な喜び、悲しみ、絶望、生というこの貴重な痙攣、そして無への沈没

 この優れた詩的センスはどこから来るのかと思っていたら、作者ペアのうちの女性ラウラ・ペレスは詩人。全体の構想を彼女が組み立て、絵をつけたのがコミック作家のパブロ・モンフォルテということらしい。

 スペインの恋愛コミック。

 少なくとも「メキシコの恋愛コミック」よりは売れると思うのだが…。

 みなさん、読みたくないですか?

 マドリードとバルセロナの名所満載。

 絵も素敵、とってもいい本ですよ。

Laura Pérez y Pablo Monforte, Náufragos. 2016, Salamandra, pp.200.

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