明けて1日、2日とWEB制作に取り組んでいます。
実際の制作は年初から稼働してくださるIT担当の方が
相当がんばってくださっており、
わたしは原稿入稿とディレクション担当のみ。
合計10ページほどの基本的なアウトプットになる予定だが、
それでも、自分の思いと考えをいかに結晶化するか、シンプルに伝えるかはいつもながら集中力と時間を要するのである。
*****
わたしはいつも、メッセージの結晶化度合を相対的にチェックしたいとき、哲学書を斜め読みしたり、宗教関係のHPを見たりする。
「やっぱりビジョンやミッションを語るときは
大川隆法氏が参考になるな~」なんて思いながら。
入信はしないですが。笑
*****
今日、ふと数か月前に購入したままになっていたエーリッヒ・フロムの古典 愛するということを手に取る。
うーむ・・今年一番の衝撃作!(まだ2日目ですが・・テヘヘ )
*********
要するに、(以下、わたしの解釈なのであしからず)
「多くの愛は『孤独』を免れたいがためのエゴ」であり、最もまぬがれるためには「自分から人を愛す」ことであり、「人を愛すために自分の人生を最大限がんばれ」と。
*********
■人は「孤独」を恐れている
大前提として、人は逃れることのできない「孤独」を恐れている。
どんな人でも生まれ落ちた瞬間から「死」という「孤独」に突き進む砂時計が動き始めている。
■だから人を愛す
しかし、せめて生きている間、その恐怖を和らげたいと、人は人を求める。
その手段として、人を愛し、その見返りに自分の傍にいてほしいと願うわけである。
結婚がどうして安らぎたりえるか、
どうして人は結婚に突き進むのか。
人はどうして家族を大事にするのか。
どうして好意をもってくれる人を好ましく思うのか。
人の経済活動においても、ある意味において、すべての行為は「孤独」を避けるためにあると言い切れるのではなかろうか。つまり、経済活動に従事し、注目と金を集めることで、その魅力でもってさらに人は人を自分の周囲に集めることができるのだと。つまり経済活動でさえ、求愛行為の一種なのである。
人は孤独である。
それはわたしもあなたも例外ではない。
*****
そう考えると、複雑に入り組んだ人間関係において活動をするにつけても、「人が嫌がること」「人の怒りを買うこと」の基準や予測はつきそうである。
踏んではいけない境界線は
その人を「孤独」にさせてしまうのかどうか、「孤立」させてしまうのかどうかの上にあるのではないだろうかと。
■「愛」は往々にして限定的である
ただ、「愛」にも見返りを求めず万人に与える「母権的愛」と、
見返りを精査した上で、選択的限定的に与える「父権的愛」がある。
残念ながら世の中にはびこる愛の大多数は、
シーソーゲームのように「自分を孤独にしない確度」と「愛の量」の交換、つまり父権的愛なのではないかと思う。
多大な愛を与えた暁にも「孤独」を回避する保証が得られないかもしれないという恐怖から人は逃れられない。
だからこそ「愛の量」を場合によって、姑息に調整するのではなかろうかと。
■恐怖から逃れたければ、自から愛することである
しかし、愛することの見返りに愛されるという安全や安定を求め、愛の量を調整しているようでは、いつまでたっても限定的な見返りしか得られないことに気付かなければならない。堂々めぐりが繰り返されるだけだ。
そうではなく、たとえ受け入れられなくても、「その人が大切だ」と判断した自分の愛に大いなる誇りと確信を持つのである。自分から多いに愛することが、愛されるための一番の近道だ。母権的愛に近づけるのだ。
しかし、それには不安がつきものだ。なぜなら「愛する」ということは何の保証もなしに行動を起こすことであり、愛せば愛されるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることだからである。
■そして、愛には「信念」をもつ
そこで揺るぎなく人を愛するためには、自分の愛に信念を持つことが肝要になってくる。「自分の愛は人をも変えられる」との信念をもつのである。
(ただし、ここで言っているのは何も一人よがりになって、いわばストーカー的愛に信念をもて、ということではない。)
愛することは「信念」の行為であり、わずかな信念しかない人はわずかしか愛せない。
■信念をもつためには、エネルギーを高め能動的に生きよ
結局人を愛するためには、自分の存在を信じること、自分を愛すことが必要になってくる。また、相手を自分から愛するためには能動的になることも必要だ。
そうなれば、求められるのは、人生において生命力を高めることであり、万物に対して積極的に取り組まなければならなくなってくる。
つまり、人を愛するためには、自分の人生を充実させることを追求していかなければならないのだ。
「愛」と「仕事」は切っても切り離せない。
***********
要するに、
愛とは人の「孤独になりたくない」というエゴから発起しているものであり、
孤独を回避するには、自分から積極的にゆるぎなく人を愛すことである。
そのためには、自分の愛に信念をもつ。
自分の愛に信念を持てるように、人は人生を能動的に豊かに生きなければならないのである。
*******
そういうこと??
なんて考えていると
「原稿まだですか~」の声が・・・
あ・・はぁい・・
すみましぇん・・・ 。。。
実際の制作は年初から稼働してくださるIT担当の方が
相当がんばってくださっており、
わたしは原稿入稿とディレクション担当のみ。
合計10ページほどの基本的なアウトプットになる予定だが、
それでも、自分の思いと考えをいかに結晶化するか、シンプルに伝えるかはいつもながら集中力と時間を要するのである。
*****
わたしはいつも、メッセージの結晶化度合を相対的にチェックしたいとき、哲学書を斜め読みしたり、宗教関係のHPを見たりする。
「やっぱりビジョンやミッションを語るときは
大川隆法氏が参考になるな~」なんて思いながら。
入信はしないですが。笑
*****
今日、ふと数か月前に購入したままになっていたエーリッヒ・フロムの古典 愛するということを手に取る。
うーむ・・今年一番の衝撃作!(まだ2日目ですが・・テヘヘ )
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要するに、(以下、わたしの解釈なのであしからず)
「多くの愛は『孤独』を免れたいがためのエゴ」であり、最もまぬがれるためには「自分から人を愛す」ことであり、「人を愛すために自分の人生を最大限がんばれ」と。
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■人は「孤独」を恐れている
大前提として、人は逃れることのできない「孤独」を恐れている。
どんな人でも生まれ落ちた瞬間から「死」という「孤独」に突き進む砂時計が動き始めている。
■だから人を愛す
しかし、せめて生きている間、その恐怖を和らげたいと、人は人を求める。
その手段として、人を愛し、その見返りに自分の傍にいてほしいと願うわけである。
結婚がどうして安らぎたりえるか、
どうして人は結婚に突き進むのか。
人はどうして家族を大事にするのか。
どうして好意をもってくれる人を好ましく思うのか。
人の経済活動においても、ある意味において、すべての行為は「孤独」を避けるためにあると言い切れるのではなかろうか。つまり、経済活動に従事し、注目と金を集めることで、その魅力でもってさらに人は人を自分の周囲に集めることができるのだと。つまり経済活動でさえ、求愛行為の一種なのである。
人は孤独である。
それはわたしもあなたも例外ではない。
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そう考えると、複雑に入り組んだ人間関係において活動をするにつけても、「人が嫌がること」「人の怒りを買うこと」の基準や予測はつきそうである。
踏んではいけない境界線は
その人を「孤独」にさせてしまうのかどうか、「孤立」させてしまうのかどうかの上にあるのではないだろうかと。
■「愛」は往々にして限定的である
ただ、「愛」にも見返りを求めず万人に与える「母権的愛」と、
見返りを精査した上で、選択的限定的に与える「父権的愛」がある。
残念ながら世の中にはびこる愛の大多数は、
シーソーゲームのように「自分を孤独にしない確度」と「愛の量」の交換、つまり父権的愛なのではないかと思う。
多大な愛を与えた暁にも「孤独」を回避する保証が得られないかもしれないという恐怖から人は逃れられない。
だからこそ「愛の量」を場合によって、姑息に調整するのではなかろうかと。
■恐怖から逃れたければ、自から愛することである
しかし、愛することの見返りに愛されるという安全や安定を求め、愛の量を調整しているようでは、いつまでたっても限定的な見返りしか得られないことに気付かなければならない。堂々めぐりが繰り返されるだけだ。
そうではなく、たとえ受け入れられなくても、「その人が大切だ」と判断した自分の愛に大いなる誇りと確信を持つのである。自分から多いに愛することが、愛されるための一番の近道だ。母権的愛に近づけるのだ。
しかし、それには不安がつきものだ。なぜなら「愛する」ということは何の保証もなしに行動を起こすことであり、愛せば愛されるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることだからである。
■そして、愛には「信念」をもつ
そこで揺るぎなく人を愛するためには、自分の愛に信念を持つことが肝要になってくる。「自分の愛は人をも変えられる」との信念をもつのである。
(ただし、ここで言っているのは何も一人よがりになって、いわばストーカー的愛に信念をもて、ということではない。)
愛することは「信念」の行為であり、わずかな信念しかない人はわずかしか愛せない。
■信念をもつためには、エネルギーを高め能動的に生きよ
結局人を愛するためには、自分の存在を信じること、自分を愛すことが必要になってくる。また、相手を自分から愛するためには能動的になることも必要だ。
そうなれば、求められるのは、人生において生命力を高めることであり、万物に対して積極的に取り組まなければならなくなってくる。
つまり、人を愛するためには、自分の人生を充実させることを追求していかなければならないのだ。
「愛」と「仕事」は切っても切り離せない。
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要するに、
愛とは人の「孤独になりたくない」というエゴから発起しているものであり、
孤独を回避するには、自分から積極的にゆるぎなく人を愛すことである。
そのためには、自分の愛に信念をもつ。
自分の愛に信念を持てるように、人は人生を能動的に豊かに生きなければならないのである。
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そういうこと??
なんて考えていると
「原稿まだですか~」の声が・・・
あ・・はぁい・・
すみましぇん・・・ 。。。