けいはんのはざまにて

心にうつりゆくあれこれについて忘れぬうちに書きとめよう

辺野古に行ってきた(2) 2018.4.23~29

2018-04-30 13:26:12 | 沖縄
 今回の日程は23日(月)~29日(日)。ゲート前「6日間連続の500人集中行動」と重なった。カヌーチームで海上行動をする予定だが、1日はゲート前の集中行動に参加しようと思っていた。
 23日夕方、辺野古の宿に到着。荷物を片付けて海に出てみた。 




 海のテントはもう誰もいなかった。前の浜は潮が引き広い干潟が現れている。よく見ると無数の小さな砂山 … 。焦げ茶色のビー玉のようなものが同じ向きに動いている。ミナミコメツキガニだ。カニなのに前に向かって歩く変わり者のカニだ。近づくとソロリと砂にもぐっていく。愛らしい生き物。得した気分で宿にもどる。 



 宿はこの日の集中行動でゲートを5時間半も開けさせなかった熱気と疲労感が漂っていた。関西の大学から来た学生たちや「森友問題」を世に知らしめた豊中市議のKさんも宿泊していた。「森友」問題を「発見」したいきさつなどを間近で聞くことができた。

 24日(火)早朝。海上行動の集合場所へ。「前線通過」「雷注意報」の予報。海上は安全第一。本日の海上行動は中止と決定。早くも集中行動に参加できる日が来た。宿に戻りウェットスーツを脱いで着替えてキャンプシュワブのゲート前に向かう。 






 ゲート前はすでに数百人の人が座り込んでいた。驚いたことにいつもは置いてない機動隊の大型車両がゲート正面に置かれている。そのため座り込みの列が大きく車道にはみ出している。
 危険極まりない。何という嫌がらせ。やがて機動隊がいつもの様に米軍基地の中からやってきた。隊長がハンドマイクで形式的に警告し、指揮棒の合図で強制排除が始まった。 



 自分も排除され、鉄柵と大型車両と隊員が作る人垣で囲まれた歩道の「檻(おり)」に押し込められた。入れられた途端、閉じ込められた人たちが外に出ようとして内側から押して来た。それに対抗して機動隊員たちが外から押し返す。ある隊員に左胸をきつく突かれた。両者に挟まれる圧力に必死で耐える。危険を察知した人の制止の声でやっと押合いが終わった。この日は2回排除が行われた。

 翌25日(水)は「4・25海上座り込み」行動の日。カヌー82艇、抗議船11隻、128名の参加。海上パレード、海上抗議集会、阻止行動。昼からは浜の集会に270名が参加。カヌー等の片付けを終えてゲート前に向かった。 






 午後4時過ぎ。この日2回目の排除に間に合った。写真を見てわかるように大型車両のまわりを警備員と機動隊員を並ばせて、座り込める場所を昨日よりさらに狭くしていた。
 そして車両の左右どちらかの人たちを排除した後、内側の隊員が前に出てスペースを開ける。そこから車をどかせて入口をつくり工事車両を入れる作戦をとってきた。排除した人を閉じ込める「歩道監獄」の車両もこんなに長くなった。この日の資材搬入は2回。

 26日(木)は終日海上行動に参加。機動隊員に突かれた左胸が午後からまた痛み出した。27日(金)・28日(土)。痛みで利き腕である左腕が使えない。カヌーはやめて集中行動に参加。 


 27日は写真のように、車両のまわりの警備員と機動隊員を車から離れて並ばせ座り込める場所をさらに狭くした。 

 排除が始まると同時に、向かい側の歩道にいたリーダーを大勢の機動隊員が取り囲んで拘束し「歩道監獄」に閉じ込める暴挙を行った。

 工事当事者の防衛局職員は大型車両の後ろに隠れている。 



 「監獄」の中ではYさんの司会で整然と集会を行った。歌をうたい各地からの参加者が車両の前に並んで挨拶やアピールを行い交流を深めあった。 

 この日は9時・12時・3時にそれぞれ30分程度で排除され資材搬入を3度許した。初日に5時間半の交通渋滞を引き起こした機動隊は、隊員の人数を200名に増やし、少しずつ制圧の方法を工夫してきた。

 もちろん参加者も前が排除されたらすぐに横から詰めたり、少なくなった側に移動したり、ゲートから離れた地点でダンプの動きを遅らせる行動をとったり、各自が工夫を凝らした。
 だが機動隊も見せしめのように不当逮捕を行い弾圧の手を強めた。6日間連続の行動を成功させるためリーダーは極力不当な弾圧を招かぬよう繰り返し注意喚起をした。
 憲法も法律も無視した「歩道監獄」をやめさせられない中で1時間以上の不当拘束中に起こる問題の解決もリーダーは精力的に動いてくれた。
 結果、6日間で搬入された資材の量を大きく減らすことはできた。だが完全にストップさせることは叶わなかった。 



 28日の集会の最後。実行委員会の共同代表Gさん・Oさんはこの1週間500人以上集めることは成功した。しかし工事を完全に止めることはできなかった。そこは残念だったと挨拶された。自分もそう感じた。これからも集中行動を行うこと、市民の力で工事をストップさせることが提案された。

 はじめに声を上げてこの運動を立ち上げた方々。全県全国に呼びかけ運動の輪を広げた方々。大変な準備をして6日間の集中行動が成功するように動いた方々。本当にありがとう。感謝します。

 今回の取り組みで、新基地建設に心痛める全国の多くの人々が、呼びかけに応えて今も結集することが確かめられた。
 その数の力をどう活かせば、機動隊の組織的な排除の力を上回ることができるか。参加者のアンケートもとられた。次の集中行動に活かせるアイデアが出てきてほしい。自分も今回の行動を振り返り次に生かしたい。

 2月の市長選での稲嶺市長のまさかの敗北。沈みがちと聞いていた運動や人々の気持ちを今回の集中行動は大きく励ましたのではないかと思う。

辺野古に行ってきた(1) 2018.4.23~29

2018-04-30 06:07:50 | 沖縄
 4月23日(月)から29日(日)まで辺野古に行ってきた。
 ①ゲート前6日間連続500人行動
 ②カヌーでの海上行動
 ③25日の「4・25海上座り込み」
 ④28日の「4・28屈辱の日を忘れない県民集会」に参加した。

 〈4
・28屈辱の日を忘れない県民集会〉

 集会は11時から。その前に8時から資材搬入ゲート前で座り込み。だが今日はダンプによる搬入はなかった。
 2年前(2016年)の今日。うるま市でウォーキング中だった20歳の女性が元海兵隊員の軍属に殺害された。最初にみんなで黙祷した。彼女のことを思う度に娘がいる自分は悔しくて悲しくて涙が出て仕方がない。

 裁判は地裁で無期懲役の判決。被告側が控訴中。遺族側は3月に日米地位協定に基づき沖縄防衛局を通じてアメリカに補償請求。アメリカは「被告は地位協定18条6項の被用者に該当しない」として補償を拒否しているという。 








 座り込みの時、玉城デニーさんの「憲法と警察法2条」の話、10歳で沖縄戦を体験した山内徳信さん(元読谷村長・参議院議員)の話、彫刻家の金城実さんの話があった。それぞれ論理的に諭すように、また怒りを顕にして背後に立つ機動隊や警備員の若者たちに強く訴えかけた。
 警察法 第2条(警察の責務)
(1)警察は、個人の生命、身体及び財産の保護に任じ、犯罪の予防、鎮圧及び捜査、被疑者の逮捕、交通の取締その他公共の安全と秩序の維持に当ることをもつてその責務とする。
(2)警察の活動は、厳格に前項の責務の範囲に限られるべきものであつて、その責務の遂行に当つては、不偏不党且つ公平中正を旨とし、いやしくも日本国憲法 の保障する個人の権利及び自由の干渉にわたる等その権限を濫用することがあつてはならない。 


 11時からの集会も、はじめに全員で黙祷を捧げた。
 多くの方の挨拶や訴えがあった。今日(29日)の沖縄タイムス2面に、集会の実行委員長の高良鉄美さん(琉球大学教授:憲法学)の挨拶要約が出ていたので書き留めてみる。 


 「(1945年の)沖縄戦で分離された上、ここで地上戦があった。それが屈辱の始まりだ。7年後の1952年、『分離しないでほしい』と住民72%の署名を提出したが、無視された。思いを無視されるという屈辱を味わった。
 いま、辺野古に新基地を造らせないという思いも無視されている。民意を無視される屈辱が70年以上続いている。
 憲法ができて5年目、屈辱の日に沖縄は憲法からも切り離され、基本的人権も平和主義も国民主権もなくなった。憲法からみると沖縄には抗議の声を上げる、主権を持った人がたくさんいる。私たちには憲法に期待し、憲法も私たちに期待している。本当の主権者はここにいる人たちなんだ。
 これだけ米軍基地を置かざるを得ない状況に、屈辱を感じる(べきな)のは政府の方だ。それを感じずに辺野古に新基地を造ろうとしている。私たちは負けない」
 「屈辱の日・4月28日」
 1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効した。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離され、米軍による支配が続いた。そして
沖縄が日本に復帰するまでの27年間に、本土から沖縄へ多くの米軍基地が移転。日本国憲法は適用されず人権が蹂躙(じゅうりん)された。
 過重な基地負担など、現在の沖縄差別の源流となったこの日は沖縄で「屈辱の日」と呼ばれている。

ノーベル賞平和賞、ICANの川崎さんの話を聞いた(3)

2018-04-18 12:21:54 | 集会
3.核不拡散条約から核兵器禁止条約へ

 
世界の核兵器数の推移(赤:アメリカ 青:ロシア 黄:その他)
 これまで核兵器を制限するための国際条約は1968年にでき1970年に発効した「核不拡散条約(NPT)」があった。
 それは5カ国(米・露・英・仏・中)を「核兵器国」として核保有を公認。その他186カ国を「非核兵器国」として核保有を否認。それぞれに義務を課した。「核兵器国」には核軍縮に向けて「誠実に交渉する」義務を負う(第6条)。写真のように1980年代に比べて4分の1に減ったとはいえ現在も15000発の核兵器がある。一方ではNPTに加盟せず核保有国になったインド・パキスタン・イスラエル・北朝鮮の存在がある。

 核軍縮の行き詰まりを打開する新しいプロセスは2010年から始まった。2010年4月、赤十字国際委員会が「核兵器の時代に終止符を」という声明を発表。2011年には国際赤十字・赤新月運動の代表者会議が「核兵器の使用禁止と完全廃棄」を求める決議を上げた。
 「軍事的・政治的」議論ではなく「人道法の基本原則」に則ったアプローチを求めた。つまり「もし核戦争が起きたら救護活動は有りえない。人道的機関でさえ入れない。だから核兵器は非人道的だ」という考え方。これが人道的機関である赤十字・赤新月から打ち出された意味は大きかった。
 実際「3.11」のフクシマの際にも、人道的機関も誰も入れずに救えたかもしれない命を救えなかったのはこの前のことだ。

 その後各種の国際会議が繰り返し行われ「核兵器禁止」の流れができていった。そして世界中のNGOがそれぞれの政府に働きかけ、2016年末、国連総会決議で「核兵器禁止条約」交渉の国連会議開催が決定された。


  エレン・ホワイト議長(コスタリカ)
 
  ICAN事務局が日本の席に置いた折り鶴
 2017年、国連本部でコスタリカのエレン・ホワイト大使を議長にして交渉会議が開かれた。会議場の外では米国国連大使が抗議の記者会見を行い日本政府は別の場所でライブ中継を見ていて、後で参加者からようすを聞いていたそうだ。オランダはNATO加盟国だが参加。オランダの市民運動が何万も署名を集め、議会が「交渉参加」の決議をしたため。


 国連加盟国中、緑色が賛成した諸国
 世界190カ国超のうち9カ国が核武装国、約30カ国が核武装に協力する国(日本が含まれる)。一方150カ国超の非核国は核兵器の非人道性を憂慮し、120カ国超は核兵器禁止条約に賛成した。国連加盟国の圧倒的多数は、自国また世界の安全保障のために核兵器は不要かつ有害という立場を明確にした。

4.核兵器禁止条約の意義について
【第1条(禁止)】
 締約国は、いかなる場合も以下のことを行わない
a)核兵器の開発、実験、生産、製造、取得、保有、貯蔵
b,c)核兵器や、その管理の移譲
d)核兵器の使用、使用するとの威嚇
e,f)これらの行為をいかなる形でも援助、奨励、勧誘すること
g)自国内に配置、設置、配備

 日本政府の「米国の核抑止力への期待」いわゆる「核の傘」は、上の e,f)に該当する。また日本の「非核三原則」の「持ち込ませず」(現実は疑問符がつくが)はg)に当たる。

【第3条(保障措置)】
 この条項は南アフリカが提案した。かつて6発の原爆を所有していた南アフリカ。アパルトヘイト(黒人差別政策)をやめて国際社会に復帰する時、自らIAEAに廃棄の検証を依頼した経験に基づく。これはまさに北朝鮮のためにある条項と言える。日本は「北朝鮮問題があるから(条約に不賛成)」というが、この条約こそ問題の解決に役立つはずだ。

【第6条(被害者援助と環境回復)】
 これこそ日本が果たすべき役割。ヒロシマ・ナガサキ、そしてフクシマ。被爆者医療や汚染の除去など、日本にはこの条約に入るべき大きな必然性があるのだ。

 
5.これからの課題として
 ①署名・批准を進める
 50カ国の批准で条約は発効する。どの国も様々な課題を抱える中、この問題の優先順位を上げるための働きかけが重要。
 ②条約ができたことを広く知らせる
 日本でもまだまだ知られていない。「唯一の被爆国が参加していない」ことが知られていない。
 ③「核の傘」(核使用・威嚇の「援助、奨励」)問題
 ④将来の加入を考えた関与、「核放棄」の検証作業の精度を上げること
 日本も「いかなる場合でも核兵器の使用・威嚇に協力しない」という立場を明確にすれば、同盟関係を維持したままでも条約に加入できる。
 ⑤企業・金融機関への働きかけ
 「非人道」兵器を製造している企業、それに協力する金融機関。世界で20の企業に329銀行が55兆円融資。日本でも7銀行が2兆円。すでに30銀行が融資をやめている(日本はまだ)。これは市民運動としてすぐにでも取り組める課題。
 



 「ヒバクシャ国際署名」
 日本被団協の集計によると、核兵器禁止条約制定を求める「ヒバクシャ国際署名」に応じた国内自治体の首長が全国の半数を超えた。都道府県・区市町村の計1788自治体の54.64%、977自治体。知事20人を含む。条約に賛成する決議を上げた議会も150を超えている。
 「ぜひSNSなどでこの条約の存在と意義を広く知らせて欲しい」と川崎さんは最後に呼びかけられた。

 被爆国日本の悲願でもあった核兵器禁止条約がなぜ出来たのか。今日の講演でわかったのは「非人道的」という考え方でのアプローチが大きかったこと。
 日本では「戦争そのものが悪」という平和主義の考えから、戦争の方法をどう規制するか(人道的な規制)という考えが弱かった。しかし世界では化学兵器や生物兵器、対人地雷やクラスター爆弾などを「非人道兵器」として禁止してきた歴史があり、それが禁止条約に結実した。こうした条約の考え方や運動の進め方をモデルにして、今回の核兵器禁止条約ができたことがよくわかった。  
※詳しくは〈岩波ブックレット「新版 核兵器を禁止する」川崎哲〉参照

  
受賞講演で「核兵器は必要悪ではなく、絶対悪です」と訴えるサーロウ節子さん

ノーベル賞平和賞、ICANの川崎さんの話を聞いた(2)

2018-04-18 01:27:17 | 集会
 1.ICANと川崎哲(あきら)さんについて
 昨年「ICANがノーベル平和賞を受賞」と聞くまでICANの存在を知らなかった。聞いた時も「Yes,We Can」のオバマ大統領を思い出したくらいだ。
 ICANとは、International Campaign to Abolish(=廃絶)Nuclear Weaponsの略で、日本では「核兵器廃絶国際キャンペーン」と呼ばれる。2007年に、核戦争防止国際医師会議を母体としてウィーンで発足した。101カ国、468の団体が参加するNGO(非政府組織)の連合体だ。

 川崎さんは、ICANに参加するピースボートの共同代表としてICANの国際運営委員を務めている。
 ピースボートは、被爆国・日本のNGOとして、核兵器の非人道性を世界に訴えるために、2008年から「おりづるプロジェクト」を実施している。広島・長崎の被爆者と船旅を続け、世界各地で原爆被害の証言を聞く場を設け、核廃絶のメッセージを世界に届ける活動だ。これまでに120人の被爆者が参加。訪れたどの国でも被爆者の話を直接聞くことができる「めったにないチャンス」として多くの方が参加されてきた。


  核被害の記憶を刻む記念碑の前で(タヒチ島)

  オーストラリア先住民の方と。写真のように、フランスが200回以上の核実験を繰り返したポリネシアのタヒチ。イギリスが核実験を行いウラン鉱山(日本にも多く輸出される)もあるオーストラリア。またロシアの核実験場だったカザフスタン、など各地の核被害者たちとも交流している。フクシマの被害者もそうだ。

2.ノーベル平和賞受賞式
 「ノーベル賞はスウェーデン」と思っていたが、平和賞はノルウェーのノーベル委員会が決め、毎年12月に首都オスロで授賞式を行っているそうだ。


  授賞式のようす 
  授賞式の記念コンサート。映画「ララランド」の音楽担当の方が、被爆ピアノを使って演奏された。

 授賞式の後「核兵器禁止条約に参加せよ」とオスロ市内をデモする市民


  平和記念館。その年の平和賞に関係する資料が1年間展示される
 
  展示された被爆者の鞄など

 オスロ市内の目抜き通りに林立する「核兵器禁止」ののぼり
 「核兵器禁止条約に日本政府は参加していない」とよく言われる。しかし参加していないのは政府だけ。授賞式当日も一番目立っていたのが日本。オスロの街にヒロシマがあふれていたそうだ。
 今回の受賞は、特定の個人や団体でなく、反核を願う世界の流れが賞を受けた。その中でも核兵器禁止のため、思い出したくない悲惨な体験の証言活動を続けて来られた被爆者の役割の大きさ。ICANもその被爆者の方と二人三脚で歩んで来たと。

 ノルウェイはNATO加盟国で、政府は条約に賛成していない。しかし議会が決めたノーベル委員会は政府が困るような平和賞を出す。そして街には「核兵器禁止」ののぼりが林立し、式の日には「条約に参加せよ」のデモが行われる。政府は「参加はしない」が「議論はするべきだ」として、この条約とNATOとの関係について1年間かけて議論し、報告を出すと決めたそうだ。
 川崎さんも言われたが、ノルウェイの国民と政府の、このサバサバした姿勢が素晴らしい。それぞれの立場は立場として「はじめから結論ありき」で押し付けるのではなく、しっかり議論する・対話するというノルウェイ社会のあり方を見習いたいと思った。

ノーベル賞平和賞、ICANの川崎さんの話を聞いた(1)

2018-04-17 23:33:44 | 集会
 昨年ノーベル平和賞を受賞した ICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)。その国際運営委員である川崎哲(あきら)さんが大阪で講演される。「核兵器禁止条約」のことを知りたかったので講演会に参加した。主催は「ヒバクシャ国際署名推進・大阪の会」。

 挨拶のあと、はじめに二人の女性の方が被爆体験を話された。

 お一人はSさん。両手に杖を持って支えられながら登壇。座ってお話しされた。18歳で被爆。挺身隊に応募し、広島の部隊に所属。事務の仕事だったが当日は作業動員。仲間と二人で向かい合い材木を持ち上げようとした瞬間、左側からフラッシュのような強烈な光と熱さを感じた。あたりは真っ暗。
 どのくらい時間が経ったのか周りからザワザワとした声が…。「焼夷弾が落ちたのだ」と思った。人が動き出す気配がしたので、自分も立ち上がり流れについて歩き始めた。
 やがて明るくなり、初めて自分が真っ裸の状態だと気づいた。顔の左半分は腫れて水ぶくれ、頭から流れた血で右顔は引きつっていた。だがよく見ると他の人も裸で、めくれた皮膚をぶら下げ痛そうに歩いていた。早く身を隠す所へと思っていると、女性が白衣を投げ渡してくれた。身につけた白衣には血がにじみ、心はズタズタ。「誰か助けて」と叫びたい気持ちだったが、みんな自分が生きるのに必死。一緒に作業していた女の子を思い出したが、どうしようもなかった。
 やがて大きな川に出た。みんな「熱い熱い」と言って水を飲む。おばあさんが「水を飲んだら死ぬよ」と言った。でも自分もすくって少し飲んだ。「歩ける人は船のところまで」と聞き、桟橋まで歩いた。
 船の中は人がたくさん横たわっていた。荷物のように、名前を書いたエフ(荷札)を髪に付けられ「何番へ」と言われ自分も横たわった。隣の人が動かなくなったので「兵隊さん死んでいるよ」と言うと、担架で運び出し死体の山に積み上げた。三日目にやっとやけどの頬に油をつけてもらえた。
 あっという間に終戦の日を迎えた。こう見えても体はぼろぼろ。今日まで生きてこられたのが不思議。二度とこんな目には会いたくない。元の体には戻れないが、できるだけ元気に生きていきたい。もっとお話したいが、時間がないのでまたの機会に。

 もうお一人はMさん。演壇で立ってお話された。5歳で、爆心地から1.5kmの所で被爆。子どもの頃「日本は戦争に強い国」と聞かされ、手まりやお手玉する時も、戦争の数え歌を歌いながら遊んだ。「一列談判破裂して 日露戦争はじまった さっさと逃げるはロシアの兵 死んでも尽くすは日本の兵 五万の兵を引き連れて 六人残して皆殺し 七月八日の闘いに ハルピンまでも攻め寄せて クロパトキンの首を取り 東郷大将 万々歳」。日露戦争を歌ったものだった。
 やがて父に赤紙が。その時、兄弟は四人いて母のお腹にも一人。人材・物資とも底をついていた。父が戦争に行ってから、広島上空にB29が来るようになった。大きな空襲警報の音が聞こえたら何をしていても手を止め、防空ずきんを被り防空壕へ。これが頻繁になり、落ち着かない毎日を過ごしていた。
 8月6日8時15分。家族で朝食中、ピカッ、ドン! 一瞬で家の下敷きに。しかし幸いなことに、台所の部分が強かったのか屋根が斜めに落ちてその隙間に挟まれた。
 気がついた時、あたりは真っ暗でがれきの下に。やがてある場所から外の太陽の光が差し込んできた。長男がそこから這い出し、母が中から押して家族は外に出た。見ると、街は鉄筋の建物以外全て潰れていた。母は「川沿いの竹やぶに一時避難しよう」「火が上がるといけない。二人は今すぐ行って」「長女は赤ん坊を抱っこして」「私と長男はがれきの下から取り出せるものを探してから」と指示を出した。私たちは着の身着のまま、裸足で竹やぶに向かった。
 途中がれきの下からうめき声が聞こえ、柱の下敷きになり「助けて」という声を聞いた。外にいた人たちは全身やけどで、手から皮膚が垂れ下がり、本当に幽霊のようだった。5歳の私たちは怖くて逃げるしかなかった。
 戦争は二度といらない、そんな思いで生きてきた。時間がないので今日はこれしか話せない。これからも(署名の)呼びかけ人 として頑張っていきたい。協力をお願いしたい。
 
 お二人とも時間が許せばもっと詳しく証言したかっただろうし、自分も聞きたかった。川崎さんの講演があるので残念ながら今日はここまでだった。これからもお体を大事にされ、多くの若者に被爆体験を伝えて欲しいと思った。
 会の最後に、壇上に川崎さんと来場された被爆者の方が上がって一緒に写真撮影された。たくさんの方が参加されていた。被爆者の方の「核兵器禁止」への強い思いを感じた。