けいはんのはざまにて

心にうつりゆくあれこれについて忘れぬうちに書きとめよう

詩仙堂訪問

2020-09-30 11:47:28 | 日記
 9月27日。京都の詩仙堂を訪ねたので紹介したい。
(色々なHPやブログの記事、図書を参照・引用させて頂きました。ありがとうございます)
 Google mapより
 場所は京都盆地の北東。比叡山から続く南峰の山裾、左京区一乗寺。
京都市バスの5系統(京都駅~四条河原町~)の「一乗寺下り松町」で下車し、東へ約300mほど坂道を登る。

 「小有洞」の門
 詩仙堂(しせんどう)は、石川丈山(じょうざん)という江戸時代初期に活躍した文人の山荘跡だ。

 「小有洞」という門をくぐり竹林の中の道を行く。石段の上に「老梅関」という門がありその先に詩仙堂の玄関がある。

 「老梅関」の門

 玄関の上には三階建の建物がある。「嘯月楼(しょうげつろう)」と言うそうだ。

 受付を済ませて中に入る。庭園は撮影OKだが室内はNG。いくつもの部屋があるが、嘯月楼と詩仙の間の部分だけが丈山当時の建築で、他は後世の改築だという。

 庭が見えてきた。

 庭造りの名手・丈山が設計した庭はとても素晴らしかった。
 もう45年も昔になるが、京都の大学に入って間もなく一人で京都の寺を見て歩いた。

 その時に詩仙堂も訪ねた。この縁側から長い時間ぼんやりと庭を眺めていた記憶がある。
 本来この部屋は広い畳の間。後で受付の方に確かめたが、市松文様のように置かれた青い毛氈は、やはり「ソーシャル・ディスタンスのため」だそうだ。
 白い砂(白川の砂だろう)が美しい。しかしあの“海に浮かぶ島”の周りを取り囲む“潮の流れ”を表す丸い筋は、どうやって描くのだろう。考えたが分からなかった。

 備え付けのスリッパに履き替えて庭に降りた。この庭は1641年、丈山59歳の時に造営されたと言われる。

 室内に写真が展示されていたが、この庭は四季折々に楽しむことができ、春 (5月下旬) のサツキ、秋 (11月下旬) の紅葉が特に有名で、観光客でとても賑わうらしい。空いている時で良かった。

 ししおどし。正式には添水(そうず)と呼ばれる。山から流れてくる沢水を貯えた竹が、時折り水を排出し元に戻る時に台石を打つ。「コンッ!」と鳴り響く音で鹿や猪の進入を防ぐのが本来の目的。だが、静寂な空間の中で時の流れを記すモメントとして、庭が表現する世界の奥深さを一層際立たせている。添水が初めて置かれた庭だとも言われる。この庭園の大きな魅力の一つだ。
 Wikipedia「石川丈山」より(詩仙堂所蔵)
 ここで、丈山について触れておく。
 石川丈山(天正11年~寛文12年:1583年~1672年)。元々は徳川家の家臣の武士だった。大坂夏の陣(1615年)に参加したが、軍令に反し抜け駆けの先登(=一番乗り)をしてしまい家康に賞されることはなかった。家康の寵臣(ちょうしん:寵愛を受けている家臣)として厳しくけん責されたようだ。
 ともかくそれを契機に丈山は徳川家を離れて浪人の身となり妙心寺に隠棲する。まだ30代前半だった。

 1617年頃、知人で同年だった林羅山(はやしらざん)の勧めで藤原惺窩(ふじわらせいか)に師事し、儒学を学んだ。文武に優れると評判になった丈山には各所から仕官の誘いがあったが、丈山に仕官の意思はなかった。

 だが病気がちな母を思って紀州・和歌山の浅野家に仕官。浅野家の転封に従って安芸・広島に赴きそこで13年ほど過ごす。

 母が死去したので浅野家に引退を願い出たが許されなかった。丈山は強引に退去して京都に戻った。1636年、相国寺(上京区相国寺門前町)の近くに「睡竹堂(すいちくどう)」をつくり隠棲した。自由に詩歌や儒学を学び、文人の道を歩みたかったのだろう。

 1641年、丈山59歳のとき洛北・一乗寺村に凹凸窠(おうとつか)を建て終の棲家と定めた。「六六山詩仙堂丈山寺凹凸窠」が詩仙堂の正式名称だ。

 凹凸窠とはデコボコの土地に建てられた住居の意味。建物や庭園が山の斜面に沿って作られているからだ。 丈山は「詩仙の間」を含め建物や庭の10個の要素を凹凸窠十境と見立てた。
 詩仙堂HPより引用
 当時、三十六歌仙の肖像を掲げた歌仙堂があった。それは北政所の甥で歌人の木下長嘯子(ちょうしょうし)によって東山霊山に建てられた。丈山はそれに倣って、林羅山の意見を参考に漢晋唐宋の各時代から中国の詩人36人選び、三十六詩仙とした。山号が「六六山」なのは六×六=三十六から来ているのだろうか。遊び心のある人だったのだろう。

 狩野探幽に肖像を描かせて堂内の二階の四方の小壁に9面ずつ掲げた。それで凹凸窠は詩仙堂の名で知られるようになった。

 煎茶に親しんだと伝えられる。作庭では、東本願寺枳殻邸(渉成園)の庭園は石川丈山の手になるものと伝えられている。

 清貧を旨としながらも、丈山は多くの文人と交流を続け、詩歌三昧の生活を送った。ここで30数年を過ごし寛文12年(1672年)に90歳で死去した。波乱にとんだ人生だったが、満足できる一生を送ることができた人だと思う。

映画『私たちが生まれた島 OKINAWA 2018』の感想

2020-09-29 17:30:40 | 感想
 9月27日。京都シネマで『私たちが生まれた島 OKINAWA 2018』(監督:都鳥伸也)を鑑賞できた。良い映画だと思った。

 舞台は2018年の沖縄。
 2月の名護市長選。「負けるはずがない」と言われた現職の稲嶺市長がまさかの敗北。新基地建設に反対してきた地元自治体の首長の敗北だ。辺野古の海を守りたい県民にとって、非常に厳しい局面を迎えることになった。それが2018年だった。
 その2018年に、辺野古や沖縄の基地、そして平和の問題に向き合った沖縄の若者たちの姿を描いたのがこの作品である。

 自分は2017年から辺野古に通うようになり、カヌーチームに参加して抗議活動を行うようになった。2018年は自分にとっても非常に印象深い1年だった。

 1月下旬。関西の仲間と一緒に名護市長選の応援を兼ねて辺野古を訪問した。

 4月。市長選の敗北後、辺野古の運動の苦境を打開するために企画された「ゲート前500人行動」に参加した。

 6月。初めて23日の「沖縄慰霊の日」に参加。翁長雄志知事の「平和宣言」に感動した。

 その翁長知事が8月8日に死去。映画では「埋め立て承認の撤回」を表明した生前最後の記者会見の場面が映される。死の直前まで沖縄の民意に忠実に、毅然として訴える翁長知事。涙なしでは見られなかった。

 政府は「8月17日土砂投入」を予告。県民は反対の意思を示すため8月11日に県民大会を企画した。自分も大会に参加できた。
 激しい雨の中、3日前に亡くなった翁長知事を追悼すべく、7万人以上の県民が那覇市の奥武山公園に結集した。
 翁長知事の遺志を継ぎ「撤回」に向けた決意を語る謝花副知事 
 その壇上で「(住民投票の)請願署名を直接、翁長知事に手渡したかった」と、涙ながらに語ったのが元山仁士郎さんだった。
 辺野古埋め立ての賛否を問う「県民投票」運動。辺野古の運動の現場にいるとその実効性に対する疑問の声が聞こえてきた。投票運動に時間と人手が割かれて現場の闘いが疎かになると強く批判する人も多かった。
 元山さんのツイッターより写真引用
 沖縄の分断。それは若者の間にもある。「県民投票」を辺野古を止めるためだけでなく分断を乗り越えるための対話の場としても成功させたい。そう考えていた元山さん。映画はその姿を丁寧に追った。
 なので県民大会で聞いた彼の訴えに込められていた思いや悔しさが映画を観てより痛切に胸に響いた。

 9月9日。沖縄読谷村の議員選挙で城間真弓さんがトップ当選。映画は、子育てに必死だった保育士の城間さんが、辺野古の運動に出会い村議会議員に立候補するようになるまでの過程を丁寧に追う。
 一緒に辺野古に通うようになった夫の盛松さんが言う。親しい人にも辺野古を知ってほしい。だからSNSで伝える。すると友達が去っていく。… 沖縄ではみんな身近に米軍基地の関係者がいる。だから基地や辺野古の問題はお互いに避けて通る。触れられない。

 歴史に強いられ、日々再生産される沖縄の分断。しかし悩みながらも何とかその状況を乗り越えたい。「賛成か反対か」ではない。「どんな沖縄に住みたいか」「沖縄の未来、平和な沖縄には何が必要か」と考えて対話する。そこから分断を乗り越えていく。それが映画に登場する若者たちの共通の思いだ。

 沖縄の若者。そして「9月30日の玉城デニー知事の誕生」「2019年2月24日の県民投票の成功」と、新たな局面を切り開いた2018年の沖縄を理解するための貴重な映像作品だと思った。

 京都シネマでの上映期間は10月1日まで。朝9時30分から。ぜひ一人でも多くの方に足を運んでほしいと思う。

「さっぽろオータムフェスト」中止

2020-09-27 05:36:46 | グルメ
 札幌にすむ娘の所を訪ねた。孫の保育園の運動会があり、ここ数年毎年9月、札幌を訪れている。

 9月の札幌で、もう一つの大きな楽しみが「さっぽろオータムフェスト」。道内各地からの旬の食材やご当地グルメが札幌の大通公園に大集結する。
 大変賑やかな取り組み。観光客も多いが、市民や昼休みのサラリーマンなどが大勢集まる。数100mに渡って幾つもの会場があり、自分好みの食べ物や飲み物を求めて訪ね歩く。みんなが楽しみにしている秋の恒例行事だ。

 地元のコンビニSeicomartのワインバーのお店。
 自分が特に楽しみにしているのがドイツビール。札幌の姉妹都市ドイツ・ミュンヘンのビール祭り「オクトーバーフェスト」。その限定樽生「オクトーバーフェスト公式ビール」を味わうことができる。場所は札幌テレビ塔の下の第1会場。写真は飲み比べセット。値段は割高になるが、めっぽううまい。
 毎年楽しみにしているこの企画。残念なことに、コロナ禍のため今年は中止になってしまった。会場になる大通公園に行ってみた。ご覧の通りの寂しさであった。
 しかたなく近くのお店でランチを頂いた。ASIA・TEI TrangTron大通店。

 こちらで小樽ビールも頂いた。ビアホール ベアレンヴァルト南1条店。
 訪れた期間中、大部分の日は雨模様。写真を撮ったこの日もこの後すぐ雨が降り始めた。
 夏と同様、毎日家事・育児の手伝いをする我々を気遣って、娘の夫が休みの日に外食に連れて行ってくれた。札幌名物のスープカレーのお店。かなり辛めのカレーを注文したが、ココナッツミルク仕立てでとても美味しかった。
 ネットの天気予報にやっと晴れマークがついた。みんなで砂川市の「北海道こどもの国」に向かった。広い林の中に大きな遊具やアスレチックがある。孫と遊ぶのを楽しみにしたのだが、着いた途端、雨が降り出した。

 昼は「こどもの国」でバーベキューの予定だった。雨に濡れながらバーべキュー広場に運び上げた用具を撤収した。
 スマホで雨雲レーダーを見ると、広い北海道でここだけ線状に雨雲の列が表示されている。不運を嘆きつつ、急遽、芦別市の「旭ヶ丘公園」に向かった。
 ここにバーベキューハウスがあることは来る前にチェックしていた。
 突然の訪問で、管理人の方にはとてもお世話になった。素晴らしい施設で、みんなでバーベキューを堪能することができた。
 小動物園や遊具もあり、食後も孫たちとゆっくり楽しく過ごすことができた。小さい子を連れた家族にお勧めの公園です。
 南米のラクダ科の動物・リャマが飼育されていた。
 その日は馴染みの宿、中富良野町の「FURANO HOSTEL 」に泊めて頂いた。自家栽培の野菜やフルーツを中心とした食事が抜群に美味しい。
 食後はテラスの下の広い芝生に石を組んで下さり、焚火を楽しむことができた。天頂に天の川の中の白鳥座。少し北にカシオペア座。西の空には木星と土星。東の空には赤い火星。今、火星は極大期を迎え一段と明るく輝いていた。
 朝日を受ける広いテラス。
 今朝もみんなでハンモックを楽しみながらくつろいだ。
 眼下には富良野盆地と十勝連峰が遠望できる。
 中富良野からは列車の旅。
 途中の駅でノロッコ号とすれ違った。
 まっすぐな道が多い北海道。線路も長い直線区間がある。
 旭川で降りて旭山動物園に向かった。コロナが少し落ち着いた4連休。すごい人出だった。シマフクロウ。
 カバがすごく活発に動いていた。
 水中を飛ぶようにして動き回るカバ。楽しそうで見飽きることがない。「生態展示」で有名な動物園だが、来るたびに進化している。
 4連休の3日目。旭川から帰った翌日、孫を連れて北大に向かった。工学部の南端にある大野池。NHKの「ダーウィンが来た」の中で、北大の中で子育てするオシドリの様子が紹介されていた。会えればいいなと思ったが…
 残念ながら、この日はオシドリは見当たらなかった。それにしても、北大構内はいつ来ても美しい。
 4連休の最後の日は千歳市の千歳水族館を訪れた。
 サケが遡上する千歳川のそばにある。サケ科を中心とする淡水魚の水族館だ。写真はベニザケ(オス)。

 カラフトマス(オス)。
 アメマス。
 水族館を出て千歳川に架かる橋の上に行った。川面を見る。何と!たくさんのサケが泳いでいる。
 横から見ると、やっぱりサケ(シロザケ)だ! 北の海からはるばる故郷の川に戻ってきたのだ。
 しばらく散歩してから再度橋の上に戻ると「インディアン水車」の施設がある場所で、サケの水揚げ作業が行われていた。

 水車で集められたサケを大きな網ですくい上げる。

 水族館入り口に展示されてるインディアン水車。

 網の中のサケをそのままトラックの運搬用水槽に入れる場合と、この写真のように板の上にサケを出して、上流に行かせるサケと下流側に戻すサケに分けて、もう一度川に戻す場合があった。どう振り分けているのかはよく分からなかった。
 橋の上では多くの観光客が作業を見守っていた。
 帰阪する前日。連れ合いのたっての希望で札幌芸術の森美術館の「ムーミン展」を見に行った。
 素敵な森の美術館だった。「ムーミン」の作者、フィンランドの作家トーベ・ヤンソン。凄腕の挿絵画家だ。水木しげるも脱帽の超細密な描画力。柔らかなペンさばき。 ムーミンの沢山の原画の他、雑誌に載せた挿絵の原画など、見飽きることがなかった。アニメの「ムーミン」を想像していて、自分は来館に気乗りしなかった。が、来て良かった。改めてムーミンの原作小説を読みたいと思った。
 午後からは念願のサッポロビール園に向かった。
 ビール博物館は休館日だった。すぐにレストランへ向かった。
 ホールは平日で空いていた。
 ジンギスカン鍋とその他一品料理。お酒は飲み放題を注文した。生ビール5種(サッポロ、サッポロクラシック、エビス、ブラックエビス、ハーフ&ハーフ)を制覇。

 また来たいがオータムフェストが開催されたらそちらを優先するだろう。
 帰りの新千歳空港。いつものようにキノトヤのソフトクリームを堪能。密度が濃くて食べ応えのあるソフト。おじさんに大人気のソフトクリームだ。

映画『オフィシャル・シークレット』の感想

2020-09-01 15:55:00 | 感想
 8月31日。京都シネマで『オフィシャル・シークレット』を鑑賞した。英国の「キャサリン・ガン事件」を映画化した作品。

 2003年の初め。「大量破壊兵器の存在」「アルカイダとの関係」等を理由に米国のブッシュ大統領がイラク侵略戦争を始めようとしていた頃。
 英国の情報機関GCHQに勤務するキャサリン・ガンが極秘メールを持ち出し報道機関にリークした事件だ。彼女は、米・英が国連安保理でイラク軍事制裁の決議を可決するために非常任理事国代表の通信を不正に傍受しようとした事を告発した。

 キャサリン・ガンは1974年イギリス生まれ。 台湾で育ち、日本への留学経験がある。広島で英語を教え原爆についても学んだ。GCHQ「英政府通信本部」の新聞広告を見て応募・採用され、翻訳分析官の勤務について2年目。

 母国が「大義なき戦争」に加担しようとすることに疑問を抱いたキャサリン。職場の上司から回されてきた米国NSA(国家安全保障局)からのメール。母国が国連で不当な工作に協力することを知り、戦争を止めたい一心でリークを決意。

 リークが明らかになれば「公務秘密法」違反で逮捕されること、クルド系トルコ人でムスリムの夫(難民申請が認められない)への影響が当然予想された。

 2週間後、ついに英国の日曜紙オブザーバーが報道。すぐにGCHQ内で犯人探しが始まる。職員一人一人が執拗に取り調べられる。キャサリンは自分の行為が同僚に与えた苦痛に耐えきれず、自ら名乗り出て逮捕される。

 「キャサリン・ガン事件」。この映画を見るまで全く知らなかった。感じたことをいくつか挙げてみる。
①「私は政府ではなく国民に仕えている」というキャサリンの言葉。「僕の雇い主は国民です」という故・赤木俊夫さん(「森友」公文書改ざんを命じられ、後に自死した近畿財務局職員)と同じだ。
 国民の利益のため公務員が職務上知りえた秘密を守ることは当然。しかし秘密裏に行われる自治体や政府の不正は、職務上知りえた者にしか不正を暴き告発することができない。だから告発は国民に対しての義務だとも思う。だが法律による処罰や個人的な不利益を覚悟して、自分の良心に忠実に行動できるかどうか。

②法律(「公務秘密法」)には「他人への公務秘密法に反する行為の要求、扇動、ほう助、教唆、またはあらゆる予備行為についても同刑」とあるそうだ。罪に問われるのはリークした本人だけではない。その情報をもとに記事を書こうとする記者、逮捕された告発者を弁護する弁護士がその情報を聞くこと自体が罪になるという仕組み。強行採決され2014年に施行された日本の「秘密保護法」も同じ仕組みを持つだろう。恐ろしいことである。

③もう一つ。英国では法務長官が「やってもよい戦争」か「やってはいけない戦争」かを判断する仕組みがあるようだ。映画でも被告人弁護のポイントになっていた。
 英国も米国も戦争をやり続けている国家(かつては日本もそうだったが)。この時は安保理決議を得られないまま(イラクの大量破壊兵器による攻撃の危険回避のための)「先制的自衛権の行使」という理屈で「やってもよい戦争」と判断された。恐ろしい国である。
 しかし今まさにわが母国でも「敵基地攻撃論」として「先制的自衛権の行使」が可能であるかのような世論誘導が始まろうとしている。「憲法9条」を持つわが母国で。恐ろしい政権である。

④米国の武力行使を積極支持して参戦した英国ブレア政権では閣僚が相次いで辞任を表明し政府の方針に反対した。
 また2016年、英国政府の独立調査委員会は7年間の調査に基づき報告を行った。「2003年3月の時点では、フセイン大統領からの『切迫した脅威』はなく、国連安保理の大多数が支持した封じ込め政策の継続は可能だった」「政府が得ていた機密情報は武力行使の正当な根拠となるには不十分で、外交手段を尽くしていなかった」。
 一方日本政府は開戦前、米英が通信傍受しようとした(態度不明確の)6つの非常任理事国に、理事国でもないのに決議賛成の根回しを行っていた。
 開戦後すぐに小泉純一郎首相が「アメリカの武力行使を理解し、支持いたします」と記者会見で表明。2003年12月~2009年2月まで陸・海・空自衛隊をイラクに派兵した。
 国際法上許されない侵略戦争だったイラク戦争に対して、日本政府は英国のような検討を行うこともなく、国会で問われても「当時の日本政府の判断は、今日振り返っても妥当性を失うものではなく、政府として改めて当該判断について検証を行う考えはない」としか答えていない。