9月27日。京都の詩仙堂を訪ねたので紹介したい。
(色々なHPやブログの記事、図書を参照・引用させて頂きました。ありがとうございます)
Google mapより
場所は京都盆地の北東。比叡山から続く南峰の山裾、左京区一乗寺。
京都市バスの5系統(京都駅~四条河原町~)の「一乗寺下り松町」で下車し、東へ約300mほど坂道を登る。
「小有洞」の門
詩仙堂(しせんどう)は、石川丈山(じょうざん)という江戸時代初期に活躍した文人の山荘跡だ。
「小有洞」という門をくぐり竹林の中の道を行く。石段の上に「老梅関」という門がありその先に詩仙堂の玄関がある。
「老梅関」の門
玄関の上には三階建の建物がある。「嘯月楼(しょうげつろう)」と言うそうだ。
受付を済ませて中に入る。庭園は撮影OKだが室内はNG。いくつもの部屋があるが、嘯月楼と詩仙の間の部分だけが丈山当時の建築で、他は後世の改築だという。
庭が見えてきた。
庭造りの名手・丈山が設計した庭はとても素晴らしかった。
もう45年も昔になるが、京都の大学に入って間もなく一人で京都の寺を見て歩いた。
その時に詩仙堂も訪ねた。この縁側から長い時間ぼんやりと庭を眺めていた記憶がある。
本来この部屋は広い畳の間。後で受付の方に確かめたが、市松文様のように置かれた青い毛氈は、やはり「ソーシャル・ディスタンスのため」だそうだ。
白い砂(白川の砂だろう)が美しい。しかしあの“海に浮かぶ島”の周りを取り囲む“潮の流れ”を表す丸い筋は、どうやって描くのだろう。考えたが分からなかった。
備え付けのスリッパに履き替えて庭に降りた。この庭は1641年、丈山59歳の時に造営されたと言われる。
室内に写真が展示されていたが、この庭は四季折々に楽しむことができ、春 (5月下旬) のサツキ、秋 (11月下旬) の紅葉が特に有名で、観光客でとても賑わうらしい。空いている時で良かった。
ししおどし。正式には添水(そうず)と呼ばれる。山から流れてくる沢水を貯えた竹が、時折り水を排出し元に戻る時に台石を打つ。「コンッ!」と鳴り響く音で鹿や猪の進入を防ぐのが本来の目的。だが、静寂な空間の中で時の流れを記すモメントとして、庭が表現する世界の奥深さを一層際立たせている。添水が初めて置かれた庭だとも言われる。この庭園の大きな魅力の一つだ。
Wikipedia「石川丈山」より(詩仙堂所蔵)
ここで、丈山について触れておく。
石川丈山(天正11年~寛文12年:1583年~1672年)。元々は徳川家の家臣の武士だった。大坂夏の陣(1615年)に参加したが、軍令に反し抜け駆けの先登(=一番乗り)をしてしまい家康に賞されることはなかった。家康の寵臣(ちょうしん:寵愛を受けている家臣)として厳しくけん責されたようだ。
ともかくそれを契機に丈山は徳川家を離れて浪人の身となり妙心寺に隠棲する。まだ30代前半だった。
1617年頃、知人で同年だった林羅山(はやしらざん)の勧めで藤原惺窩(ふじわらせいか)に師事し、儒学を学んだ。文武に優れると評判になった丈山には各所から仕官の誘いがあったが、丈山に仕官の意思はなかった。
だが病気がちな母を思って紀州・和歌山の浅野家に仕官。浅野家の転封に従って安芸・広島に赴きそこで13年ほど過ごす。
母が死去したので浅野家に引退を願い出たが許されなかった。丈山は強引に退去して京都に戻った。1636年、相国寺(上京区相国寺門前町)の近くに「睡竹堂(すいちくどう)」をつくり隠棲した。自由に詩歌や儒学を学び、文人の道を歩みたかったのだろう。
1641年、丈山59歳のとき洛北・一乗寺村に凹凸窠(おうとつか)を建て終の棲家と定めた。「六六山詩仙堂丈山寺凹凸窠」が詩仙堂の正式名称だ。
凹凸窠とはデコボコの土地に建てられた住居の意味。建物や庭園が山の斜面に沿って作られているからだ。 丈山は「詩仙の間」を含め建物や庭の10個の要素を凹凸窠十境と見立てた。
詩仙堂HPより引用
当時、三十六歌仙の肖像を掲げた歌仙堂があった。それは北政所の甥で歌人の木下長嘯子(ちょうしょうし)によって東山霊山に建てられた。丈山はそれに倣って、林羅山の意見を参考に漢晋唐宋の各時代から中国の詩人36人選び、三十六詩仙とした。山号が「六六山」なのは六×六=三十六から来ているのだろうか。遊び心のある人だったのだろう。
狩野探幽に肖像を描かせて堂内の二階の四方の小壁に9面ずつ掲げた。それで凹凸窠は詩仙堂の名で知られるようになった。
煎茶に親しんだと伝えられる。作庭では、東本願寺枳殻邸(渉成園)の庭園は石川丈山の手になるものと伝えられている。
清貧を旨としながらも、丈山は多くの文人と交流を続け、詩歌三昧の生活を送った。ここで30数年を過ごし寛文12年(1672年)に90歳で死去した。波乱にとんだ人生だったが、満足できる一生を送ることができた人だと思う。