けいはんのはざまにて

心にうつりゆくあれこれについて忘れぬうちに書きとめよう

2018年6月の辺野古訪問(5)

2018-06-29 13:07:27 | 沖縄
 6月23日は沖縄「慰霊の日」。1945年3月26日に始まった沖縄戦が、同年6月23日、司令官牛島中将など司令部が自決したことにより組織的戦闘が終わったとされるためだ。
 Wikipedia「牛島満」より「沖縄戦直前の牛島満中将」の写真を引用
 しかし沖縄ではその後も牛島中将が残した「祖国のため最後まで敢闘せよ。…生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」という指令により戦闘が続けられ被害が拡大した。
 復帰後、沖縄県は条例でこの日を「慰霊の日」と定め、20万人を超える沖縄戦の犠牲者を追悼する催しを毎年この日に開催している。 

 自分たちはこの日、同宿の皆さんと一緒に、糸満市の摩文仁の「平和祈念公園」、4kmほど離れた糸満市米須の「魂魄(こんぱく)の塔」、その横の公園で開催された「6・23 国際反戦沖縄集会」に参加した。
 平和祈念公園に到着した。まずその異常な警備体制に驚かされた。駐車場にずらりと並ぶ機動隊の警備車両。通常の制服を来た警察官の他、黒い礼服のような衣装をまとった目つきの鋭い人たち。どれだけいるのかと思うほどの警備の人並みだった。
 







 特に集中していたのが公園入口。すぐ前の交差点の両側に「沖縄に軍事基地を押し付ける安倍首相には『6・23慰霊の日』に参加する資格なし」と抗議する市民がいたためだ。
 自分たちもその輪に加わった。加わってから分かったが、市民のいる歩道と道路の境に、辺野古ゲート前の歩道で市民を拘束する「臨時留置場」を作るのと同じ鉄柵が置かれ、市民が道路に出られないようにしていた。沖縄の人権はここでも侵害されていた。 



 政府要人の車列が突入してきた。

 やがて周りの人が言っていたように目の前の交差点を猛スピードで白バイ・パトカー、黒塗の車、バスなどが駆け抜け、公園内に突入して行った。
 「危ない!信号無視、スピード違反を取り締まれ!」と叫ぶ声が聞こえる。今の車列のどれかに安倍首相や衆参両院議長、閣僚が乗車していたのだろう。
 なぜこんな無茶な速さで駆け抜けのか。沖縄の訴えと向き合うのがそんなに恐いのか。嫌なのか。そう思わざるを得なかった。情けない。 









 黙祷が始まる12時前に式典会場の前に集まることにして、それぞれで公園内を巡ることにした。
 平和祈念公園には何度か来ているが、やはり今日は特別の日だった。「平和の礎(いしじ)」の前には多くの方が佇んだり座り込んで思いに耽るようすが見られた。とても胸に迫って来るものがあった。
 沖縄戦では軍人だけでなく多くの民間人が激烈な戦闘に巻き込まれた。そのため亡くなった場所がわからなかったり、遺骨が見つかっていない遺族も多くおられる。そんな遺族にとって、この「礎」や後で訪ねた「魂魄の塔」は、亡くなった人を偲ぶための大切な場所になっているそうだ。 





 米兵の名が刻まれた「礎」にも行った。大きな花輪が手向けられていた。海兵隊の隊員が一人、礼服姿?でゆっくりと歩いていた。
 朝鮮人の「礎」は、南北の国別に分けられていた。お参りに来た家族の姿も見られた。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の「礎」に刻まれた名前は、とても少なかった。
 「礎」を抜けると断崖の上から青い海が広がり、白く砕ける波が見えた。73年前、そこは米軍の艦船に埋め尽くされた“絶望の海”だったはず。今は陽光に輝く美しい海だった。
 



 正午。時報の音に合わせて1分間の黙祷を行った。目の前には沢山の学童保育の小学生。後ろにはこの日に合わせて来たのか修学旅行の中学生の一団が黙祷していた。沖縄の戦争についてしっかり学び、平和を希求する若者に育ってほしいと思った。

 自分たちはこの後「国際反戦沖縄集会」に参加するため「魂魄の塔」に向かった。直接は聞けなかったが、翁長知事の「平和宣言」、中学3年生の相良倫子さんの詩「生きる」の朗読は素晴らしかった。知事の言う「沖縄のこころ」が伝わってきた。皆さんもぜひネット等で確かめて欲しい。 





 「魂魄(こんぱく)の塔」。少し長いが那覇市のHPから引用する。
 「…戦後(※)真和志村民は、食料確保の農作業のため米軍の命令で米須原に集められた。しかしこの一帯は多くの軍人、住民が米軍に追いつめられ死んでいった場所だった。遺骨がそのままの状態で放置されていた。
 住民は米軍に遺骨収集作業を要請したが、それが反米活動や皇軍主義に繋がることをおそれた米軍は許可しなかった。しかし開墾するにしても遺骨がどんどん出てくるため作業が進まず、1946年2月23日にようやく許可された。
 遺骨は一箇所に集められ、大きな穴が掘られ、その中に収められた。それでも収まりきれず、積み上げられ一つの大きな骨の山が築かれた。周囲から石をかき集め、納骨堂が完成し、魂魄の塔と名付けられた。魂はたましい、魄は浮遊霊の意味である。
 摩文仁や魂魄の塔がある米須を中心に、全国のすべての都道府県の慰霊碑がある。しかし唯一「沖縄県の碑」は存在しない。あえて挙げるならば、この『魂魄』が 沖縄県の碑といえるかもしれない。住民、軍人、米軍、韓国朝鮮人、沖縄戦で死んだ約3万5千人の人々が、軍民や人種を問わず葬られた沖縄最大の塔である。
 これが戦後もっとも早く住民の手で作られ(た慰霊塔で)平和への想いを込めた塔として他府県の慰霊碑とは多少異質である」
※真和志村…現・那覇市の一部 









 「6・23 国際反戦沖縄集会」は、この「魂魄の塔」のすぐ横の公園で開催されていた。色々な市民団体・平和団体が一緒に開催する平和集会のようだった。
 自分たちが到着した時、フラダンスが演じられていた。腕の柔らかな動きと表現に心を奪われた。その後、ベテランズ・フォー・ピース(退役軍人の平和団体)沖縄代表のダグラス・ラミスさん、韓国の基地撤去運動の李さんのスピーチ等があった。
 いくつかの歌や劇が演じられる中に、劇団「天然木」の姉妹による歌も紹介された。カヌーチーム「辺野古ぶるー」からのアピールもとてもよかった。
 集会の終わりの挨拶は高里鈴代さんだった。4月の「辺野古集中行動」で怪我をされたと聞いていたが、元気な姿を見ることができて嬉しかった。 







 帰りに連れ合いと「ひめゆり平和祈念資料館」に立ち寄った。10代半ばの夢と希望に満ち溢れていた女学生たち。戦場で無念の死を遂げざるを得なかった彼女たち一人ひとりの姿を見て、解説を読んでいると、いつもながら泣けて来てしかたなかった。

2018年6月の辺野古訪問(4)

2018-06-29 09:38:15 | 沖縄
 6月22日。今日の海上行動は午前中になった。石材輸送船が大浦湾に入るというので6時にテントに集合。7時過ぎに海に出た。輸送船が入る大浦湾のオイルフェンス入口で止める班と、輸送船がK9護岸に接近するのを止める班に分かれた。自分はK9護岸へ。
 オイルフェンス入口で止める班は、輸送船が入れないようにオイルフェンスの開口部付近にカヌ―を括りつけて抗議行動を展開。

 自分たちは瀬嵩まで車で行き、浜にカヌーを出した。その時、山から雲が流れて来て雨が降り出した。浜の木立の中でしばし雨宿りをした。
 自分にとって大浦湾での抗議行動は1年ぶりだ。昨年の4月25日、辺野古に初めて石が投下されたのが、大浦湾のK9護岸の付け根部分。カヌーでの海上行動に初参加して2日目だった。目の前で行われた暴挙は忘れられない。 

 2017年4月25日大浦湾
  しかしその後K9護岸の工事はなぜか途中でストップした。その後大浦湾では、ボーリングや磁気探査の調査を繰り返すばかりで工事は一向に進まなかった。計画では大浦湾の後に予定していた辺野古側の工事を始め、県に計画変更の届も出さないまま今日まで続けてきた。 

 2017年6月3日大浦湾 K9護岸工事
 その理由は北上田さんたちによって明らかにされてきた(「辺野古新基地建設はいずれ頓挫する」『世界』3月号、等参照)。 実は大浦湾は容易な事では護岸も埋め立ても行えない海だと分かってきたのだ。

 この日海保のGBに乗って上から見たが、長島沖の海は少しの位置の違いでその深さが複雑に変化する。干潮時には海上に出るような浅瀬(海面は薄緑色)から急激に切れ落ちる深場(海面は群青~藍色)へ。そしてまた浅瀬になる。といった変化をGBの上から体験できた。
 この急激な落ち込みの部分に2本の活断層(辺野古断層・楚久断層)があり、それらが新基地の滑走路予定地の真下と護岸部分を通っている。さらに活断層は弾薬庫のすぐそばも通っていること等が分かってきた。
  さらに、その護岸予定地の真下に厚さ40mもの超軟弱地盤(硬さを示す「N値」が0、まるで「マヨネーズのような」柔らかさの堆積物)があり、計画の「ケーソン護岸」方式では到底建設できないことが分かった。


 青い線が2本の活断層
 そもそも活断層の真上に新しく建築物を作ることは以ての外である。さらに超軟弱地盤の改良工事を行うとすると、大浦湾の環境に非常に深刻なダメージを与えること。また大幅な設計変更は知事の許可が必須であること。それらの困難を前にして、防衛局は大浦湾の工事は後回しにしよう(少なくとも11月の選挙でオール沖縄の知事を倒すまで)と考えているのだろう。 







 そうした訳でK9護岸は途中までで建設をストップ。昨年末からは大型船で運んで来た石材の積み下ろし場所として利用されている。陸路でのダンプカーによる石材搬入では間に合わないのだ。
 県南部を回ってきた石材輸送船のA丸は、大浦湾を大きく回りこむようにして、汀間漁港側から真っ直ぐK9護岸に向かって進んで来た。始め1艇だったGBも輸送船が来る頃には3艇に増えた。カヌー4艇で阻止行動を行ったが、海保に阻まれた。しかし4艇でもそこにいて抗議したことで輸送船は「通常よりかなりスピードダウンしていた」。経験者のSさん・Cさんが言っておられた。工事を若干でも遅らせることができたと思う。

 ゲート前の抗議でも自分たちが排除され100台以上の車列が入っていくのを見ていると、怒りとともに悲しみや虚しさがこみ上げてくる。
 しかしもし座り込みがなければ1日3回機動隊の力でまとめ入れしている車が常時入り続け、今以上に沢山の資材が搬入されるのは明らかだ。
 一人ひとりの小さな力が1分1秒の工事の遅れを生み出す。その膨大な積み重ねによって、工期の大幅な遅れをもたらせているのは確かだ。現場で抗議の声を届け、非暴力的抵抗を貫いて、諦めないでやって行くことが自分たち小さな人間の闘い方だ。 



 拘束されて海保のGBで瀬嵩の浜に戻る間、A丸の運んできた石材が横付けされた台船にクレーンで移される作業が見えた。石を落とすたびに物凄い土煙が上がる。その粉塵も海を濁らせ、6000種もの生物が生息する大浦湾の貴重な自然を少しずつ破壊していく。採石は洗浄することが工事の約束だが、約束を破ってもお咎めなしの違法工事が続けられている。

 GBはまっすぐ瀬嵩の浜に向かわない。ゆっくりと沖合に向かって進み、大回りしてから浜に向かう。途中で長島の近くを通った。島の標高は10m。大浦湾に造ろうとしている護岸の高さも10mだ。「あの島の高さの壁をこの海に立てる(護岸は海底さらに40~50m下まで伸びる)とは、正気の行いではない!」と強く感じた。 



 朝方雨模様だった大浦湾はすっかり天気が回復していた。その海の綺麗なことと言ったら… 
 ぜひ一人でも多くの人にこの美しい大浦湾の海と自然と「正気の沙汰ではない」工事の実態を、自身の目で確かめに来て欲しいと思った。


2018年6月の辺野古訪問(3)

2018-06-28 18:32:37 | 沖縄
 6月21日。海上行動が終わりカヌーの後片付けも終了。疲れた体で辺野古の坂道を登りやっと自分たちが泊まっている宿「クッション」に帰り着く。すると中からソプラノボイスが聞こえてきた。
 
 辺野古の闘いを支えているのは、地元のおじい・おばあはもちろん内地から来る者も含めてシニア世代が大部分を占めている。宿の入口にも「中高年パワーで頑張る」という幟が立っている。何年間も連日続く「座り込み」や「海上行動」を支えるには常勤の仕事をしていては、ほぼ不可能だ。退職したり
時間に余裕ができた者が子や孫のために子や孫に代わって頑張るしかない。 

  そんな中、数は多くはないが一定数の若い世代も辺野古の闘いに参加している。辺野古の海を守り、基地のない沖縄を願って、自分の青春時代を賭してこの闘いに参加していることは、本当に頭が下がる。非常勤や不定期の仕事をしながらゲート前や海上行動に通い、中心となって活躍している。本当に励まされる。
  内地からもシニア世代の他に若者も辺野古の現場を知るためにやってくる。今夜は熊本県の姉妹弟の三人組が自分たちだけでやって来て、この宿に泊まった。
 初め見た時、中学生の集団かと思ったくらい若くて可愛らしい3人組。誰かが「三人は明日、県南部の集まりで劇をやるらしい」と聞きつけ、三人に声をかけた。食事の後、三人は同宿の我々のためにここで演じてくれることになった。 

  「少し打ち合わせを…」と、三人は2階でしばし相談して降りてきた。1階のソファを片付けてつくったスペースで、母のピアノ伴奏の録音を弟がラジカセで操作し、姉妹二人による歌あり踊りありの素晴らしい劇(ミュージカル)を披露してくれた。 















  「大矢野原に立って」というミュージカル。熊本の自衛隊の演習場・オスプレイの飛行訓練・村の若者の婚活がテーマ。一人が何役もこなしてシリアスかつコミカルな実話に基づいた話。
 劇中飛び交う熊本方言が素晴らしい。劇で歌われる色々な歌、特に憲法前文と九条を歌詞にした歌。その感動的な美しさは宿泊客全員の感涙を誘った。
 感動したシニア世代のHさんは「自分も歌でお返しをしたい」と言い、八重山民謡の「東崎(あがりざち)」(与那国島の東崎をテーマにした唄)を披露した。これも素晴らしい唄だった。 



 三人は両親と一緒に家族劇団『天然木(てんねんぼく)』として活動している。翌日の夕方、県南部の町で公演するのを機会に、妹さん弟さんにとっては初めての辺野古ゲート前を訪ねるため、ここにやって来たと言う。
 一緒に劇を見たゲート前のスタッフの人が責任者に連絡。宿に来てもらい相談した。電話で各所と調整し、翌日の『ゲート前慰霊祭』でも演じることができた。感動の輪がさらに広がり本当に良かった!
 

 感動の輪はさらに広がった。23日の『6・23 国際反戦沖縄集会』では九条の歌を披露。自分も参加してもう一度、聞くことができた。
 機会があればぜひ『天然木』の公演へ。彼らの劇を見て歌を聞いて欲しい。「自分たちで彼らの公演を企画したい!」と思うくらい素敵な演技だった。思い出に残る一夜をプレゼントしてくれた3人とHさんに感謝!

2018年6月の辺野古訪問(2)

2018-06-28 12:19:59 | 沖縄
 6月21日。今日は一日海上行動に参加。天気は良かったが風は結構強く、波も高めだった。
 25日の「海上座り込み」に向けて、平日も毎日カヌー教室が開かれているそうだ。同宿したNさん・Kさんも、25日にカヌーで参加することを目標に何日も教室に通っている。
 この日は午前・午後とも辺野古崎の先端の、一番最初に埋め立てが狙われている工区の近くで抗議行動をした。 


 途中K4護岸の工事現場を通った。2ヶ月ぶりに見る護岸。ネットで見ていたが、前回より格段に進んだ護岸工事の現状はショックだった。
 K4護岸は残す所あと50mほど。護岸の内側にオキナワハマサンゴ(絶滅危惧種)があるので沖縄防衛局はその「移植」までは開口部を残す予定と言う。すでに捨石の設置作業はほぼ終り今日は被覆ブロックを設置していた。 

 しかしサンゴのため「50mだけ開口部を残す」というのは全く「言い訳」に過ぎない。囲い込まれた海は沿岸の潮流から切り離され水温も上昇する。自然環境の微妙なバランスの中で生存している生物がやがて死滅していくことは目に見えている。サンゴの移植もほとんど成功した試しはないそうだ。生かすように見せかけてゆっくりと殺す。防衛局はその結果を待って「すでに保護の必要性なし」と宣言するつもりなのだろう。

 フロートを越えて何度か海保に拘束され、GBで浜に戻る間に2回ウミガメを目撃した。聞いてはいたが今はウミガメの産卵シーズンなのだ。
 護岸に囲まれた砂浜は、昨夏まではウミガメたちの大切な故郷で貴重な産卵場所だった。慣れ親しんでいた“自分たちの浜”に帰りたくても帰れなくなったウミガメたち。途方にくれ、さ迷っているように思え、哀れに感じた。 

 午前中カヌー教室の先生をしていたCさんも昼から抗議行動に加わった。拘束されて一緒に海保のGBに乗船。 

  Cさんはフロート越しに向き合う時もGBに乗せられた時も、いつも積極的に海保の若者に話しかける。今日は午前中のカヌー教室の話をした。以下はその時のCさんの語った内容の再現だ。
〈…今日の参加者の中に小学5年生がいた。波や風もありどうかなと思ったが、すぐに上達して一番上手に漕げるようになった。その子は練習中に、拘束されたカヌーメンバーを乗せて浜に来たGBを見た。「あの人たちはだれ?」とその子はCさんに聞いた。Cさんは答えた。「あの人たちは海上保安官。海の警察官だ」
 ここまで話してからCさんは、GBの右舷に腰掛けていた海保の若者に向かって問いかけた。「その時その子は何て言ったと思う?」 海保の若者は返事ができないでいた。Cさんは言った。「『かっこいい!』って言ったんだぞ。その子は」「 … 」「自分も君たち海上保安官はかっこいいと思っている」とCさんは言い、海保の若者に話をつづけた…〉


  高速のGBに乗って抗議活動を抑えようとする海保の若者たち。Cさんがよく言うように、彼らもこの青く美しい海が好きだから、厳しい訓練も乗り越え、海上保安官になったに違いない。
 自分たちと同じく海を愛する者として、この工事が絶対に許されない暴挙であることをよく理解して欲しい。ここでは難しいかもしれないが、別の所でその気持ちを表したり行動に移して欲しい。「かっこいい!」と憧れる子どもの夢を奪うようなことをしないで欲しい、と思った。

2018年6月の辺野古訪問(1)

2018-06-28 09:29:29 | 沖縄
 今年の4月末に「辺野古ゲート前500人集中行動」「4・25海上座り込み」に参加した。以来2ヶ月ぶりの沖縄訪問。今回は連れ合いと一緒だ。 

  6月20日。大阪は梅雨本番の雨だったが沖縄はすでに梅雨が明けそうないい天気だった。
 機体は本島北側から那覇空港に近づくコースをとった。伊江島や対岸の本部半島がよく見えた。伊江島にある3本の滑走路がよく見える。上(西)から米軍の滑走路、同補助飛行場、そして伊江島空港。
 上の滑走路の斜め右上に白く見える部分。後で分かったことだが元ハリアパッド(垂直離着陸戦闘機の着陸帯)。現在それを改造して(※)強襲揚陸艦の甲板と同型の施設を作っているそうだ。
 米軍はここでオスプレイやF35-Bの離着艦訓練を行うつもりだ。伊江島は米軍基地が島の面積の35%を占めている。昼夜を問わない騒音被害、落下物・墜落に対する恐怖は今後一層酷くなるだろう。 

  強襲揚陸艦「ベロー・ウッド」(Wikipediaより)
※ 強襲揚陸艦:人員・物資の輸送を目的とした艦船のうち、岸壁などの港湾設備に頼ることなく、自力でそれらを揚陸する能力をもった軍艦のこと。そのため、輸送用ヘリコプター、オスプレイ、垂直離着陸戦闘機、上陸用舟艇などを搭載・運用する能力を持っている。 

  飛行機は広大な嘉手納基地や普天間飛行場を見下ろしながら予定通り那覇方向へ向かっていた。しかしどうしたわけか急に沖縄本島から遠ざかり始め、窓から本島の姿が消えた。「あぁ…空港に着陸できないのだ…」

 現在南西諸島の自衛隊が大増強中。本島の自衛隊も例外ではない。那覇空港に同居する航空自衛隊のF15戦闘機は、一昨年20機から40機に増やされた。先日も自衛隊機によるトラブルがあったばかりだが、訓練やスクランブルによる発着回数が増える。
 一方観光客の増加による民間機の発着も増えている。スクランブルの場合、当然自衛隊機が優先される。民間機が長時間、空中待機させられる話をよく聞いていた。

 結局、自分たちの着陸は40分以上遅れた。我がスカイマーク機は米軍の空域制限のため低空飛行を続けた。写真のような離島(久米島か?)のすぐ上も飛んだ。眺めは良かったが、到着前から沖縄に強いられている矛盾を実感させられた。
 



  沖縄到着は2時を回った。レンタカーを借りて3時過ぎ、空港から高速に向かう途中にあった「宮古そば」さんで煮付け定食をいただいた。美味しい煮付けだ。お勧め!



  高速を宜野座ICで降り、そこから国道で辺野古、さらに今回は瀬嵩まで足を伸ばした。
 「海と風の宿」に到着。昨年はこの宿に何度もお世話になった。飼い犬のグナはこの宿のアイドル1だった(アイドル2は猫のミャオ)。一緒に散歩に出かけ「下の世話」もした。自分は犬を飼ったことがない。貴重な経験をさせてくれた可愛い奴だった。 

 在りし日のグナ
  そのグナが先日亡くなったと聞いた。ぜひグナのお墓参りをして宿主のNさんと話がしたかった。最近迷い込んで来て新しく「海風」の仲間入りをした子ネコのキトにも会えた。
 なぜキトかと言うと、宿にやって来た日があの金委員長とトランプ大統領の歴史的会談があった日のすぐ後だった。キムとトランプからキト。Nさんや全国から来ていたお客様と一緒にお茶を頂きながら楽しい会話ができた。 

 4月の「辺野古ゲート前500人集中行動」の時のNさんとグナ