6月23日は沖縄「慰霊の日」。1945年3月26日に始まった沖縄戦が、同年6月23日、司令官牛島中将など司令部が自決したことにより組織的戦闘が終わったとされるためだ。
Wikipedia「牛島満」より「沖縄戦直前の牛島満中将」の写真を引用
しかし沖縄ではその後も牛島中将が残した「祖国のため最後まで敢闘せよ。…生きて虜囚の辱めを受くることなく、悠久の大義に生くべし」という指令により戦闘が続けられ被害が拡大した。
復帰後、沖縄県は条例でこの日を「慰霊の日」と定め、20万人を超える沖縄戦の犠牲者を追悼する催しを毎年この日に開催している。
自分たちはこの日、同宿の皆さんと一緒に、糸満市の摩文仁の「平和祈念公園」、4kmほど離れた糸満市米須の「魂魄(こんぱく)の塔」、その横の公園で開催された「6・23 国際反戦沖縄集会」に参加した。
平和祈念公園に到着した。まずその異常な警備体制に驚かされた。駐車場にずらりと並ぶ機動隊の警備車両。通常の制服を来た警察官の他、黒い礼服のような衣装をまとった目つきの鋭い人たち。どれだけいるのかと思うほどの警備の人並みだった。
特に集中していたのが公園入口。すぐ前の交差点の両側に「沖縄に軍事基地を押し付ける安倍首相には『6・23慰霊の日』に参加する資格なし」と抗議する市民がいたためだ。
自分たちもその輪に加わった。加わってから分かったが、市民のいる歩道と道路の境に、辺野古ゲート前の歩道で市民を拘束する「臨時留置場」を作るのと同じ鉄柵が置かれ、市民が道路に出られないようにしていた。沖縄の人権はここでも侵害されていた。
政府要人の車列が突入してきた。
やがて周りの人が言っていたように目の前の交差点を猛スピードで白バイ・パトカー、黒塗の車、バスなどが駆け抜け、公園内に突入して行った。
政府要人の車列が突入してきた。
やがて周りの人が言っていたように目の前の交差点を猛スピードで白バイ・パトカー、黒塗の車、バスなどが駆け抜け、公園内に突入して行った。
「危ない!信号無視、スピード違反を取り締まれ!」と叫ぶ声が聞こえる。今の車列のどれかに安倍首相や衆参両院議長、閣僚が乗車していたのだろう。
なぜこんな無茶な速さで駆け抜けのか。沖縄の訴えと向き合うのがそんなに恐いのか。嫌なのか。そう思わざるを得なかった。情けない。
黙祷が始まる12時前に式典会場の前に集まることにして、それぞれで公園内を巡ることにした。
黙祷が始まる12時前に式典会場の前に集まることにして、それぞれで公園内を巡ることにした。
平和祈念公園には何度か来ているが、やはり今日は特別の日だった。「平和の礎(いしじ)」の前には多くの方が佇んだり座り込んで思いに耽るようすが見られた。とても胸に迫って来るものがあった。
沖縄戦では軍人だけでなく多くの民間人が激烈な戦闘に巻き込まれた。そのため亡くなった場所がわからなかったり、遺骨が見つかっていない遺族も多くおられる。そんな遺族にとって、この「礎」や後で訪ねた「魂魄の塔」は、亡くなった人を偲ぶための大切な場所になっているそうだ。
米兵の名が刻まれた「礎」にも行った。大きな花輪が手向けられていた。海兵隊の隊員が一人、礼服姿?でゆっくりと歩いていた。
朝鮮人の「礎」は、南北の国別に分けられていた。お参りに来た家族の姿も見られた。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の「礎」に刻まれた名前は、とても少なかった。
「礎」を抜けると断崖の上から青い海が広がり、白く砕ける波が見えた。73年前、そこは米軍の艦船に埋め尽くされた“絶望の海”だったはず。今は陽光に輝く美しい海だった。
正午。時報の音に合わせて1分間の黙祷を行った。目の前には沢山の学童保育の小学生。後ろにはこの日に合わせて来たのか修学旅行の中学生の一団が黙祷していた。沖縄の戦争についてしっかり学び、平和を希求する若者に育ってほしいと思った。
自分たちはこの後「国際反戦沖縄集会」に参加するため「魂魄の塔」に向かった。直接は聞けなかったが、翁長知事の「平和宣言」、中学3年生の相良倫子さんの詩「生きる」の朗読は素晴らしかった。知事の言う「沖縄のこころ」が伝わってきた。皆さんもぜひネット等で確かめて欲しい。
「魂魄(こんぱく)の塔」。少し長いが那覇市のHPから引用する。
「…戦後(※)真和志村民は、食料確保の農作業のため米軍の命令で米須原に集められた。しかしこの一帯は多くの軍人、住民が米軍に追いつめられ死んでいった場所だった。遺骨がそのままの状態で放置されていた。
米兵の名が刻まれた「礎」にも行った。大きな花輪が手向けられていた。海兵隊の隊員が一人、礼服姿?でゆっくりと歩いていた。
朝鮮人の「礎」は、南北の国別に分けられていた。お参りに来た家族の姿も見られた。朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の「礎」に刻まれた名前は、とても少なかった。
「礎」を抜けると断崖の上から青い海が広がり、白く砕ける波が見えた。73年前、そこは米軍の艦船に埋め尽くされた“絶望の海”だったはず。今は陽光に輝く美しい海だった。
正午。時報の音に合わせて1分間の黙祷を行った。目の前には沢山の学童保育の小学生。後ろにはこの日に合わせて来たのか修学旅行の中学生の一団が黙祷していた。沖縄の戦争についてしっかり学び、平和を希求する若者に育ってほしいと思った。
自分たちはこの後「国際反戦沖縄集会」に参加するため「魂魄の塔」に向かった。直接は聞けなかったが、翁長知事の「平和宣言」、中学3年生の相良倫子さんの詩「生きる」の朗読は素晴らしかった。知事の言う「沖縄のこころ」が伝わってきた。皆さんもぜひネット等で確かめて欲しい。
「魂魄(こんぱく)の塔」。少し長いが那覇市のHPから引用する。
「…戦後(※)真和志村民は、食料確保の農作業のため米軍の命令で米須原に集められた。しかしこの一帯は多くの軍人、住民が米軍に追いつめられ死んでいった場所だった。遺骨がそのままの状態で放置されていた。
住民は米軍に遺骨収集作業を要請したが、それが反米活動や皇軍主義に繋がることをおそれた米軍は許可しなかった。しかし開墾するにしても遺骨がどんどん出てくるため作業が進まず、1946年2月23日にようやく許可された。
遺骨は一箇所に集められ、大きな穴が掘られ、その中に収められた。それでも収まりきれず、積み上げられ一つの大きな骨の山が築かれた。周囲から石をかき集め、納骨堂が完成し、魂魄の塔と名付けられた。魂はたましい、魄は浮遊霊の意味である。
摩文仁や魂魄の塔がある米須を中心に、全国のすべての都道府県の慰霊碑がある。しかし唯一「沖縄県の碑」は存在しない。あえて挙げるならば、この『魂魄』が 沖縄県の碑といえるかもしれない。住民、軍人、米軍、韓国朝鮮人、沖縄戦で死んだ約3万5千人の人々が、軍民や人種を問わず葬られた沖縄最大の塔である。
これが戦後もっとも早く住民の手で作られ(た慰霊塔で)平和への想いを込めた塔として他府県の慰霊碑とは多少異質である」
※真和志村…現・那覇市の一部
「6・23 国際反戦沖縄集会」は、この「魂魄の塔」のすぐ横の公園で開催されていた。色々な市民団体・平和団体が一緒に開催する平和集会のようだった。
「6・23 国際反戦沖縄集会」は、この「魂魄の塔」のすぐ横の公園で開催されていた。色々な市民団体・平和団体が一緒に開催する平和集会のようだった。
自分たちが到着した時、フラダンスが演じられていた。腕の柔らかな動きと表現に心を奪われた。その後、ベテランズ・フォー・ピース(退役軍人の平和団体)沖縄代表のダグラス・ラミスさん、韓国の基地撤去運動の李さんのスピーチ等があった。
いくつかの歌や劇が演じられる中に、劇団「天然木」の姉妹による歌も紹介された。カヌーチーム「辺野古ぶるー」からのアピールもとてもよかった。
集会の終わりの挨拶は高里鈴代さんだった。4月の「辺野古集中行動」で怪我をされたと聞いていたが、元気な姿を見ることができて嬉しかった。
帰りに連れ合いと「ひめゆり平和祈念資料館」に立ち寄った。10代半ばの夢と希望に満ち溢れていた女学生たち。戦場で無念の死を遂げざるを得なかった彼女たち一人ひとりの姿を見て、解説を読んでいると、いつもながら泣けて来てしかたなかった。
帰りに連れ合いと「ひめゆり平和祈念資料館」に立ち寄った。10代半ばの夢と希望に満ち溢れていた女学生たち。戦場で無念の死を遂げざるを得なかった彼女たち一人ひとりの姿を見て、解説を読んでいると、いつもながら泣けて来てしかたなかった。