けいはんのはざまにて

心にうつりゆくあれこれについて忘れぬうちに書きとめよう

北海道の山(1)「大倉山・奥三角山」2020.6.30

2020-06-30 16:26:10 | 登山
 札幌の娘から「しばらく仕事が遅くなるので助けて」とSOSが届いた。2月は手が空いた自分が手伝いに来た。今回は連れ合いも一緒に来ることができた。二人の孫の世話は何かと世話が焼けるが会えるのは大きな楽しみだ。
 (Wikipediaその他のHPやブログの記事、図書を参照したり引用させて頂きました。ありがとうございます)
 
 福井県の小浜辺り。手前の大島の先端に大飯原発が見えている。
 「他府県にまたがる移動」も制限はなくなったが、神戸空港、新千歳空港ともガラガラの状態だった。航空会社や観光業の方はさぞかし大変だろう。
 千歳の街が近づいてきた。
 6月下旬の札幌。「北海道は梅雨がない」などと言うが、とんでもない。毎日の様に雨が降る。良くても曇り空。風が強くて膚寒い。「(大阪の)3月位と思った方がいい」と娘は言っていたが、まさにそんな感じだ。
 今朝になってやっと天気が回復した。この機会を逃したくない。ネットで見かけた札幌の日帰り登山コース「裏三角山」に行ってみることにした。
 孫が保育園に行き、連れ合いは洗濯と夕食の準備、自分はすべての部屋の掃除と風呂掃除。早立ちが原則の山歩きだが、今回の「本務」は家事・育児。仕方がない。
 札幌の地下鉄・東西線「円山公園」駅で下車。すぐ上のスーパーで水とお握りを購入。なぜかレジには朝から長い行列ができていた。10時50分、円山公園に到着。
 円山(左の山)の麓にある「円山動物園」前を通過。

 道路沿いのヤマグワの果実が熟し始めていた。

 大倉山に向かう途中に「荒井山シャンツェ」というジャンプ台があった。1929年創建。札幌で一番古いジャンプ台。現在は小中学生が使っているそうだ。

 車道沿いに1時間歩き、やっと「大倉山シャンツェ」に到着。ラージヒルの会場だけあってとても立派な施設だ。入り口の警備員の方に道を尋ねて先に進んだ。
 オリンピックミュージアムの建物内から見た会場。おしゃれである。
 ジャンプ台の正面。着地したジャンパーがカメラに向かってポーズをとる辺り?
 ランディングバーン辺りの観客席。割りと殺風景なつくり。
 スタート地点に登るまでの道に、この花が沢山落ちていた。ガク片・花弁・雄しべがセットになっている。
 スタート地点にある展望台の上から見た大倉山シャンツェ。
 札幌市民の憩いの場「大通り公園」。その延長線上に、あえてこのジャンプ台が造られたことがよく分かる。
 ジャンプ台スタート地点から山道が始まる。案内の立て札。道はよく整備されていた。

 この所の雨で滑りやすい所もあったが、ミズナラを主体とした林の中の、気持ちの良い尾根道が続いた。
 カタツムリだ。お久しぶり。
 雨上がりでカタツムリをよく見かけた。
 踏み潰されたカタツムリのそばにシデムシが来ていた。
 獣の糞。中に糞虫がいるかも。
 この山道で一番大きな樹木。葉は楓の形。ハウチワカエデか。
 整備された道から「奥三角山」のピークに向かう急な登り道に入る。

 12時40分、奥三角山の山頂に到着。先客が二人休んでいた。
 円山動物園辺りから見ると確かに大倉山の左右に三角の山が二つ見える。右(北)が三角山。左(南)が奥三角山。
 眺めは素晴らしい。来た甲斐があった。
 北東方向の三角山方面。
 南東方向の円山方面。
 「宮の森シャンツェ」。その向こうは藻岩山。南方向になる。
 ここで昼食休憩をとった。風が強いのでコーヒーを入れるのは諦めた。
 奥三角山から南方に向かって下山。始めしっかりあった踏み跡が、次第に夏草に隠され始めた。途端に不安になる。大都市・札幌の山と言えど、北海道の山はどこもヒグマのイメージを払拭できない。
 宮の森のそばに出ればと期待したが大沢に到着。宮の森方向には「警察犬訓練センター」があって行き止まりだった。
 結局、小別沢に出て…
 峠のトンネルを越えて宮の森に向かった。
 このアザミは…。チシマアザミか。
 マタタビだ。なぜ白い葉があるのかネットで調べた。
 葉緑体がなくなる訳ではない。しばらくしてまた緑に戻るのだという。表皮と葉肉組織の間に空気の層ができて光の乱反射のため白く見えるそうだ。6~7月に咲く花が目立たないので、昆虫を花に誘導するためではないか、という考えが載っていた。果たしてどうだろうか。
 円山球場。外野席の芝刈り作業中で中を覗くことができた。
 13時50分、円山公園に到着。テーブルでコーヒータイム。色々な方が思い思いにベンチで寛いでおられた。気温は21℃(動物園前の表示)。適度な風が吹いて快適な一時を味わうことができた。

久しぶりの帰省(2) 2020.6.18 ~ 21

2020-06-23 10:02:09 | 日記
 20日は土曜日。「(カラオケは)脳の活性化に良い」とその効用を説く母がカラオケ喫茶に通う曜日。新型コロナのため、そこも再開したばかりと言う。午後からなので、お昼は途中のカフェレストランで一緒にランチして母を送っていくことにした。
 (Wikipediaその他のHPやブログの記事、図書を参照したり引用させて頂きました。ありがとうございます)
 『風のえんがわ』。島根県西部公式観光サイト「なつかしの国 石見」から紹介文を引用する。
 「石畳の小道を抜けると現れる、伝統的な赤瓦と広い<縁側>が目印。もともとは養蚕小屋だった古民家を改装したカフェ『風のえんがわ』」

 「色とりどりの地元産の野菜が並んだ前菜や、石見産の魚や肉を使ったパスタやプレートランチを楽しむことができます」




 「手作りのデザートもあり、時間を忘れてずっといてしまいたくなる空間と雰囲気に包まれています」
 自分たちは縁側にあるテーブル席を利用した。
 土間だった所にもテーブル席。広い畳の間に色々な座卓が用意されている。
 外には広い庭。
 子どもたちが遊んでいた。

 「外には自然の木々を使ったツリーハウス。店内には絵本やおもちゃもあるので、小さい子どもさんがいても楽しむことができます」
 本当にこの紹介の通り。料理を待つ間・食べ終わった後に、子どもたちは外に出て遊ぶことができる。ゆったりとした多様なスペースが有難い。
 自分たちが来た11時半は空いていた席も、すぐに小さな子を連れた家族で埋まってしまった。

 手作りのメニュに書いてあった言葉。すてきなお店。
 「種子法」廃止の問題を扱うパンフも。沖縄の三上智恵監督の『戦場ぬ止み(いくさばぬとぅどぅみ)』の上映会が行われたこともある。

 国道9号線から少し入った場所にある“隠れ家”のようなスペース。ぜひ訪れてみて欲しい。

 母を馴染みのカラオケ喫茶に送った後、帰省時によく入湯する有福温泉に立ち寄った。
 温泉旅館の他、3軒の公共の外湯がある。駐車場のすぐ近くに『さつき湯』。少し奥に『やよい湯』がある。

 階段を上った所に『御前湯』。ここに向かった。
 レンガ造りの外観はとてもレトロ。2階の休憩室に『御前湯』の古い写真があった。デザインはその時のまま。料金は(3軒とも)大人400円・子ども200円。優しい温泉地だ。
 浴室に誰もいない。せっかくなので撮影させて頂いた。
 かけ流しの素晴らしい湯。1350年以上前、天竺(インド)から来た法道仙人が見つけたとか。
 アーチ形の窓。噴水のような浴槽。中央の御影石の三方から極上の温泉水が湧き出ている。 
 浴槽から溢れ続けるお湯。無色透明のアルカリ性単純温泉(低張性アルカリ性高温泉)。泉温は47℃。「美人の湯」としても有名。
 ゆっくり入浴して2階の休憩室へ。
 壁に賑やかだった頃の有福温泉の写真。
 『桜湯』という外湯もあったのだ。
 雪のお正月。温泉の検番前。芸者さんたちの記念撮影か。
 温泉の後、ホームセンターで家の補修や母の生活に必要な物を購入。スーパーで夕食の食材の買い物。そして市役所前のリサイクルセンターへ。たまったリサイクルごみをまとめてセンターに分別して出すのも帰省時の定番の仕事。
 食べかけの写真で申し訳ないが、夕食後のこのメロン。
 益田市のアムスメロン。紹介したい絶品。もちろん喩だが「日本一美味しい」。市場にはあまり広く出回らないが、機会があればぜひご賞味を。
 21日の朝。風も収まり海もようやく凪いだ。
 青い空と白い雲。ライトブルーの日本海。赤い石州瓦の街並み。自分の原風景のひとつ。

 母に別れを告げた。
 昨夜の地方ニュース。「『道の駅キララ多伎』で昨日と今日、コロナで捌けなかった土産物を30~50%引きで販売!」。まだ9時前。開いているかしらと思いつつ立ち寄ると…。
 みなさんもバーゲンセールは見逃さない。
 東方に島根半島の西端、日御碕が遠望できる。海水浴の施設や豪華なコテージもあり、隠れた観光スポットだ。
 しかし山陰自動車道(無料区間)が出雲まで繋がると取り残されそうなこの「道の駅」。山の中腹を通る山陰道から多伎の街を眺めた。朝日に輝いてとても美しかった。スイス・レマン湖沿いの街を思い出した。この街並みが生かせればいいと思った。
 出雲・松江を通過し、今日の主な目的地『月山富田城(がっさんとだじょう)』跡に到着。
 まず歴史資料館に入る。
 Googleマップより
 月山富田城は、島根県安来市の広瀬町にある。戦国時代、山陰の覇者・尼子氏が本拠を構え170年間の尼子氏六代の盛衰の舞台となった。

 月山富田城は全国屈指の規模を持つ山城だった。広さは70万㎡で東京ドーム15個分。

 資料館の精密なジオラマでよく分かるが、切り立った尾根の上に本丸・二の丸・三の丸。下の丘陵地帯と山裾に数々の曲輪(くるわ:兵隊を収容した平坦地)があった。曲輪の総数は500以上。山の麓には城下町が造られた。

 城の登り口に巨大なタブノキがあった。
 最初の坂を上がると…
 北方に突き出した尾根の上に『馬乗馬場』と呼ばれる長大な曲輪があった。
 その西方には『千畳平』と呼ばれる大きな曲輪。周辺から鯱瓦や鬼瓦を含む大量の瓦が出土。ここに櫓が建てられていたようだ。

 個人的には、ここが「思い出の地」だと分かった。
 田舎にあるアルバムに自分の保育園時代の写真がある。その一枚が「広瀬の月山の遠足」の写真。間隔の開いた桜の木の前の集合写真。付き添いはなぜか父だ。母は「弟が生まれてすぐの時期」のためではないかと。
 ここに来て、すぐに「あの写真の場所だ」と了解した。60年近く前の思い出だ。
 『千畳平』から見た広瀬の街並み。かつての城下町『富田』はこの山裾にあった。飯梨川の大氾濫でそれらはすべて流された。その後、川向うに復興されたのがいまの広瀬の街だ。

 『千畳平』の少し上に『太鼓壇』という曲輪がある。時を知らせる太鼓櫓があったそうだ。今は毛利氏に滅ぼされた尼子の再興のために尽力した山中鹿介(しかのすけ)幸盛の銅像がある。
 『太鼓壇』の上の曲輪に広瀬町の戦没者慰霊塔があった。二人でお祈りした。ここからの登りが大変そうなので連れ合いは下で待つことになった。

 『花の壇』の曲輪。発掘調査で見つかった二棟の建物跡が復元されている。背後の山上に『三の丸』が見えた。だがこの先は石垣が切れ落ち直進できない。本丸に向かうには一度戻ることが必要。これも防御戦術の一つだ。
 Uターンして進む。長大な石垣と広大なスペースが見えてきた。
 『山中御殿』だ。

 月山の山腹にある広大な曲輪で、城主の居館があった場所。
 井戸があった。
 井の中の蛙。
 菅谷口への道。富田城に入る道は3つ。菅谷口。御子守口。塩谷口。そのすべてがこの『山中御殿』の曲輪に通じる。どこから来てもここで向かい撃てる。
 ここを進むと…。
 階段が見えてきた。『七曲り』と言われる本丸に向かう道。
 空に向かってつづら折りの階段を延々と登る。

 ついに山頂部に到着。
 『三の丸』だ。
 石垣を右に回り込み進んでいくと…。

 『二の丸』への入り口。
 『二の丸』から『三の丸』方向を見る。
 飯梨川の下流の安来の平野から中海・弓ヶ浜半島・島根半島の東端まで見渡せる。
 いよいよ『本丸』の曲輪が目の前に。だがここでもまっすぐには進めない。

 いったんバックして…。
 ようやく『本丸』跡に到着。今は小さな神社がある。



 本丸の背後の三方はこのように、

 このように、
 このように切れ落ちていて、攻め上るのはほぼ不可能だろう。
 先ほどの安来平野・中海・弓ヶ浜半島・島根半島・日本海の遠望。
 先日NHKで再放送した『英雄たちの選択~悲劇の山城スペシャル』(2019年10月16日初回放送)で月山富田城を取り上げていた。
 「龍源寺間歩」(石見銀山)2013年8月
 その時、尼子氏の強さの源として、出雲のたたら製鉄、石見の銀山、そして全国・海外と通じていた安来港の海運が指摘されていた。なるほどと思った。
 安来の港とは飯梨川の水運で直結していたはず。
 富田城は1543年、中国西部七ヶ国の守護大名・大内義隆によって1万5千の手勢で攻められた。しかし大内氏による力攻めでは全く歯が立たない。ついに撤退するが、尼子勢による追撃を受け大内軍は大敗北を喫した。
 富田城の二度目の戦いは1565年。家臣(陶隆房)の謀反で滅んだ大内氏の後、諸国の支配権を継いだ毛利元就が大軍で尼子を攻めた。それまでの経過は…。
 1561年、尼子晴久が急死。21歳の嫡男義久が跡を継ぐ。中国地方平定のチャンスと見た元就は1562年、尼子の家臣を調略して石見銀山を奪取。そして月山富田城を支えていた『尼子十旗(じっき)』と言われる砦(支城)群を次々と落としていった。
 『七曲り』の途中に『山吹井戸』があった。
 小さな井戸だが今も清水が湧き出し流れ出ていた。こんな山の中腹に貴重な水源があった。籠城時には頼みの綱だったことだろう。
 1563年、元就の嫡男・隆元が急死。その息子・輝元はまだ11歳。隆元の二人の弟はそれぞれ吉川家、小早川家に養子に出ていた。

 すでに60歳代後半(現在なら80~90歳相当の高齢?)の元就は焦ったことだろう。「隆元の弔い合戦」(尼子氏にとってはとんでもない言いがかりだ!)として、元就は尼子攻めに全力を注いだ。1563年のうちに『尼子十旗』の中心・白鹿城が落とされた。

 全長130m、最大幅20m、高さ5m以上もある土塁。『山中御殿』への侵入を食い止めるための防御施設。
 今回、内側しか見なかったが、土塁の外側には、幅10m、深さ6mもある深い堀が掘られていたようだ。
 Wikipedia「毛利元就」より
 ついに1565年、元就は3万を超える大軍勢で月山富田城を包囲して攻めた。始めは「力攻め」を行ったが敗北が続いた。そこで「兵糧攻め」に切り替えた。

 元就は飯梨川の向こうに見える山の上に『勝山城』を築き、陣取った。本陣の周囲には「畝状空堀群」を造って反撃に備えた。籠城中の尼子勢がここまで反撃することはありえない。実際は富田城内の尼子勢に、元就の攻めの本気度を見せつけるためだったと番組で言っていた。

 元就は謀略や調略を駆使。ついに1年7か月後、尼子氏の降伏を勝ち取った。
 しかし月山富田城の戦いは第3ラウンドがあった。

 1569年。隠岐の島から尼子の家臣、山中鹿介らが『尼子再興軍』を組織して兵6千を集め富田城に攻め込んだ。だが富田城を知り尽くしているはずの『尼子再興軍』もこの城を攻め落とすことはできなかった。

 その後も鹿介らは死闘を繰り返したが1578年、鹿介は非業の死を遂げた。『尼子再興軍』の反撃は潰えてしまった。月山富田城はついに一度も攻め落とされることはなかった。文字通り「難攻不落」の山城であった。

 月山の麓にある『広瀬絣センター』。広瀬絣の着物。
 
 同じく広瀬絣の工房。

 広瀬を後に馴染みの寿司屋さんへ向かった。境港にあがる鮮魚のネタが素晴らしい。

 今日はアジが素晴らしく美味かった。

 今は住む者のない我が家。鮮やかな色でアジサイが咲いていた。時期遅れになり草茫々。時間を決めて草刈りを行った。
 「ゆうあいパル」HPより
 伯耆町の温泉『岸本温泉ゆうあいパル』に入湯。ここもアルカリ性単純泉だ。汗を流し、内風呂の強力な泡ジェットと露天風呂の強力な打たせ湯で足・腰・肩をマッサージ。お気に入りの温泉だ。機会があればお立ち寄りを。
 米子道・中国道・新名神で午後8時頃に高槻に帰着した。


久しぶりの帰省(1) 2020.6.18 ~ 21

2020-06-22 22:38:49 | 日記
 新型コロナのため4か月ぶりの帰省。島根で一人暮らしの母。4年前の大怪我でICUの世話になり、その後記憶力の減退が進んだ。ヘルパーさんの助けを借りて何とか自立生活を続けている。自分は2か月に一度程度、様子を見に帰省する。
 (Wikipediaその他のHPやブログの記事、図書を参照したり引用させて頂きました。ありがとうございます)
 大阪から名神か新名神で中国道に入る。平日は高速料金を浮かすため作用JCTから鳥取道(無料)・山陰道(無料区間)、国道・県道で、石見地方(島根県西部)に住む母の元に帰る(8時間)。休日は中国道の落合JCTから米子道・山陰道を利用(6時間)。18日は平日なので鳥取周りで帰った。
 琴浦町観光協会HPより「道の駅 琴の浦」
 鳥取県西部の「道の駅 琴の浦」。自分の好きな「(倉吉の)打吹公園団子」「(八橋の)風呂敷饅頭」をここでよく買い求める。さらに特筆すべきは、近くの赤崎漁港で水揚げされた魚を中心に良質の鮮魚を安い値段で売っていること。
 今回は白イカ・アジ・アゴ(トビウオ)を丸ごと購入。魚をさばくのが得意な母に腕を振るってもらい、刺身をたっぷりと堪能することができた。感謝。
 19日は母がデイサービスに通う日だったので、自分と連れ合いで邑南町を訪ねることにした。
 Googleマップより
 邑智郡(おおちぐん)邑南町(おおなんちょう)は地図のように島根県の中部、広島県境に接する山間の町。2004年10月1日に羽須美村・瑞穂町・石見町が合併して発足した。 
 日本海に面した江津市から広島市に向かう国道261号線が町を縦断する。一昨年(2018年3月31日)まではJR三江線も通っていた。

 川本町まで大河・江の川に沿って西方に進む国道261号線。国道は川本町で江の川にきっぱりと別れを告げて90度右へ、つまり南方に向かう。トンネルを越えるとすぐに邑南町。その入り際に「断魚渓」という景勝地がある。
 延長3.6Kmの渓谷。江の川支流の濁川が石英斑岩を削って造りだした。初めて間近に見た断魚渓。案内写真では「千畳敷」という名の広い岩盤が露出しているが、今日は一昨日からの雨で増水し、かくのごとくの迫力だった。
 道中咲いていた白い花。キリのような葉。中々分からなかったが判明した。
 アブラギリ(油桐)。トウダイグサ科の落葉高木。種子から桐油(きりゆ)と呼ばれる油を採取して塗料などに用いる。西日本と中国に自生し、栽培もされる。 
 この樹木も多くの白い花を咲かせていた。ミズキ(水木)。ミズキ科ミズキ属の落葉高木。
 白いと言えば花ではないが、杉など色々な樹木に取り付いたマタタビの白い葉が次々と現れて目を奪った。
 今回、邑南町を訪ねた第一の目的はこの酒蔵。『玉櫻酒造』だ。
 昨年米子の寿司屋で頂いた2種類の熱燗酒。『辨天娘』(太田酒造場)と『玉櫻』(玉櫻酒造)。どちらも「熱燗で味わうための酒造りをしている」と言うだけのことはあった。太田酒造場は、ブログにも書いたが昨年11月に訪ねた。今回は玉櫻酒造だ。
 
 酒蔵は元瑞穂町の緑豊かな自然に囲まれ、冬は豪雪地帯となるが(瑞穂ハイランドスキー場もある)美しい水田が広がる細長い盆地の一角にある。

 ご主人の方からお話を伺った。
 特徴をHPから引用する。
「 〈契約栽培米を100%使用しています〉
 1995年に、地元農家さんと酒米委員会を結成しました。当初は一部のお酒に契約栽培米を使っていましたが、現在(2020年)は契約農家さんも増え、全てのお酒に地元産契約栽培米を使用しています。
 〈単一品種で仕込んでいます〉
 原料米由来の味の違いを楽しむため、できるだけ単一品種のお米で仕込んでいます。使用品種は、ラベルや裏貼りに記載されています。
 〈完全発酵させています〉
 醪をしっかり発酵させ、お米がお酒に成りきった段階でしぼっています。
 〈ブレンドは行っていません〉
 調和をとる事よりも、素直で特徴的な味わいが楽しめる事を優先しています。
 〈無濾過です〉
 お酒が持って生まれた風味を大切にしています。炭素濾過や中空糸での限外濾過等は一切行っていません。
 〈熟成させています〉
 蔵内タンクで熟成させています。時を経て、色濃く滋味豊かな味わいに育ったお酒は、お燗する事で真価を発揮します。(生酒など、一部のお酒は熟成期間無しで当年度産を出荷しています。)
 〈醸造年度毎に出荷しています〉
 裏貼りに醸造年度を記載しております。BYとはBrewery Yearの略です。たとえ同じ規格のお酒でも年度毎にお米の出来が違い、味わいも変わってきます。その年々の味わいをお楽しみください。」

 購入した酒のラインナップ。これから味わうのが楽しみだ。
ご主人に頂いた雑誌『DANCYU』(2019年3月号)に『「玉櫻」183cmの兄弟が醸す幸せの燗酒/感動の蔵物語①』というこの蔵の記事が載っている。
 ご主人の二人の息子さん(学生時代はバスケット部員)が蔵元杜氏と蔵人で、地元の蔵人さんやドイツ人の蔵人さんと一緒に酒造りに励んでいる。
 仕込みはタンク16本分。兄弟ともに「速醸には速醸の酒の軽やかな魅力もある」と認めつつも、全醸造量の4割は生酛造りの純米酒を造る。 生酛の酒は酒母造りも熟成にも時間がかかる。出荷までの時間は通常の2~3倍かかる。 「…造ったからにはちゃんと熟成させて、味のピークの時に出せる蔵になりたいと思ってやってきた」そうだ。
 二つ目の目的は『瑞穂ハンザケ自然館』見学。ここらではオオサンショウウオのことを「ハンザケ」と呼ぶ。

 オオサンショウウオは国の特別天然記念物で「生きた化石」と言われるが、旧瑞穂町はハンザケの生息密度が日本一。この自然館もハンザケの棲む出羽川の袂に建てられている。

 瑞穂ハンザケ自然館HPより
 地元のハンザケと対面したかったが、 自然館は新型コロナのため休館中のままだった。残念。
 三つ目の目的は『里山イタリアンAJIKURA』でランチ。
邑南町のHPより引用する。
 「邑南町(おおなんちょう)は、島根県の中部に位置し、農業を基幹産業とする人口11,101人の街です(H27国勢調査による)。 本町には、料理愛好家の平野レミさんが大絶賛する年間限定200頭の未経産黒毛和牛『石見和牛』を生産する業者、牛舎を持たない『完全自然放牧』に取り組む酪農家、チョウザメ養殖業者、ピオーネ、さくらんぼ、ブルーべりー農家など小規模ながらも特色のある生産者が点在しています」

 「豊富な水に恵まれ、標高の高い高原地に位置する邑南町は、農畜産業が盛んです。食材が豊かで、またたくさんの食文化が残っています。そうして紡いできた町の財産、ここでしか味わえない食や体験を『A級グルメ』と称して地域のブランドづくりを行っています。

 旬な食材を楽しめる店、伝統の味を楽しめる店、地域住民に愛される店、多様なA級グルメをお楽しみください」
 その店の一つがここのようだ。





 満足した。
 AJIKURAからの眺め。まさに里山レストランだ。
 四つ目の目的は『いわみ温泉 霧の湯』入湯。場所はAJIKURAのすぐ近く。コロナのため受付では非接触体温測定と記帳が必要だった。
 アルカリ性単純温泉で膚が滑々するお湯。ハーブ湯や薬湯もあり良いお湯だった。休憩室も広くて清潔感があり良かった。お客はまだ少なかった。
 温泉からの眺めも中々のもの。

 青空が見えてきた。周囲を山に囲まれた邑南町はスイスを思わせるような爽やかさを感じた。「霧の湯」という名から秋は霧に包まれることも多いのだろうと思った。

平湯・上高地・大野の旅(3) 2020.6.7

2020-06-12 19:09:55 | 旅行
 6月7日(日)。キャンプ3日目。今日は、平湯から銚子の滝、九頭竜湖、大野城、本願清水イトヨの里、一乗谷朝倉氏遺跡を回って帰阪する予定を考えた。
 (Wikipediaその他のHPやブログの記事、図書を参照したり引用させて頂きました。ありがとうございます)
 樹冠の隙間から青空が見える。良し。撤収の朝としては最高の天気。
 自分のサイトの上方(南方)。
 自分のサイトの下方(北方)。
 自分のサイトの東方(出口方向)。西方はミズナラの林。その向こうは川。
 今朝のメニュー。すき焼きの残りに炊いたご飯を入れた雑炊。卵2個でマイルドな味に。その他、赤かぶの甘漬、みそ汁、トマト、キウイなど。
 コーヒーで一服してから撤収開始。まずテント内を片付け、テントを裏返して底を乾かす。タープ下、タープ、テント本体の順に片付ける。予定通り10時に出発。
 国道158号線を高山方向に走る。林道を右に入り滝の少し手前に車を停め渓流沿いに歩く。

 「銚子(ちょうし)に似ている」という命名。わからない。どこをどう見たら銚子なのか。
滝壺の傍に行き涼風を浴びられる大好きな滝。
 よく見ると2段になっている。お銚子ってこれか?
 広い滝壺がある。

 滝壺の前。水しぶきを含んだ涼風が吹き寄せる。気持ち良い。

 しぶきで濡れる所に咲くこの花。名前がわからない。
 滝の左岸にはこの花。5月に北摂の山で何度か出会った。

 ヤブデマリ(藪手毬)。スイカズラ科ガマズミ属の落葉低木。やや黄色味を帯びた小さな両性花が集まる花序の周囲に、白い大きな5枚の花弁の装飾花が縁どる。

 装飾花は5枚の花弁の内1枚だけ極端に小さく蝶のように見える。蝶が内側の花を向き取り囲んでいるようだ。他の似た花と区別しやすい特徴。
 滝から車の方に戻っていくと…
 こんな花弁と雄しべのセットがいくつも落ちていた。

 昨日平湯のバス停近くで見たこれ(↑)。トチノキの花だ。見上げたが、どこに花があるのか分からなかった。
 国道158号線を西進。丹生川(にゅうかわ)のA‐COOP隣にある地場野菜の販売所に立ち寄り新鮮な野菜を購入。
 丹生川の交差点から左折・南下する国道と別れ、まっすぐ飛騨・そま街道に進み宮川まで。川を渡り高山本線上枝(ほずえ)駅前を通って高山ICへ。
 飛騨清見ICから東海北陸道を南下。白鳥(しろとり)ICから西進する国道158号線バイパスに。福井県に入りしばらく進むと青いダム湖、九頭竜湖が見え始めた。
 『九頭竜ダム』到着。この字はリクルート事件で在宅起訴された藤波孝生議員の揮毫。
 九頭竜湖はここまで。ダムは岐阜・長野でよく見かけるロックフィルダム。高さ128m。総貯水容量3億5300万立法メートルはこの形式のダムで国内第3位。 
 「資源エネルギー庁」HPより
 「ロックフィルダムは、土や岩石を材料として盛り立てて造られるダムで、中央遮水壁型は、水漏れを防ぐためにダム中央部にコアと呼ばれる水を通さない粘土質の材料を盛り立てます。
 ロックフィルダムの底面積は広く重さが分散されて地盤に伝わるため、底面積の狭いコンクリートダムよりも地盤が悪い所でも造ることが出来ます」 

 ダム本体の体積の日本Top3はすべてロックフィルダム。 九頭竜ダムは入っていないがすごいボリューム感。
 ロックフィルダムはダムの体積が大きく安定性があり丈夫。しかし洪水による堤体越水に弱い。コンクリートダムのように中央部に「洪水吐き」は造れない。このダムでは、右岸の山を削り「洪水吐き」が造られていた。
 Wikipedia「九頭竜ダム」によると、『入札』の項に以下の内容が記載されていた。参考までに引用する。
 「長野ダム(※九頭竜ダムの元の名前)の入札をめぐっては、第1工区で最高額で応札した鹿島建設が落札、他の4社は最低落札価格を超えていないとして失格になった。
 池田勇人首相への政治献金を約束した鹿島建設と電源開発、政府が一体となって仕組んだ汚職だとの疑惑が広がり、衆議院決算委員会で田中彰治代議士らが追及した。
 だが、池田首相の秘書官だった中林恭夫と、決算委員会で証言した元朝日新聞記者、言論時代社主幹の倉地武雄が不自然な死を遂げ、事件はうやむやになった。
 この経緯は石川達三が『金環蝕』として小説化しており、大映によって映画にもなった。」 映画『金環蝕』はテレビで見たが、このダム開発の話だとは気が付かなかった。
 ダムの上の公園にエゴノキがあり、花盛りだった。

 ダムの上に気象観測所があった。名前が「長野」 ? と思った。この辺りの地名が長野だった。ダムも計画当初から『長野ダム』とされた。完成直前の1968年、地元から「長野県のダム」と混同されかねないと要望が出され『九頭竜ダム』に改称されたそうだ。

 九頭竜ダムの下に鷲ダムが続き、その堤体の下に『道の駅 九頭竜』がある。

 「道の駅」だが、本当の鉄道駅もある。JR『九頭竜湖駅』だ。

 『飲み鉄本線・日本旅』の六角精児さんの大好きな線路終点の車止め。
 JR九頭竜湖駅は、福井駅から岐阜県の美濃太田駅を結ぶ鉄道『越美線』の一部として1972年に開業。しかし越美線の工事は中断されたまま『越美北線』の終着駅として現在に至る。 ちなみに美濃太田駅から北濃駅までの『越美南線』は工事中断後の1986年、第三セクター長良川鉄道に移管された。 

 道の駅で昼食に。食堂も営業していた。
 外の天幕の下で食べた。日陰が気持ち良かった。
 名物「舞茸蕎麦」、「舞茸の炊き込みご飯」、「粒あん入り栃餅」、「奥越前の麦茶」を頂いた。美味しかった。

 昼食後、九頭竜川に沿って国道158号線を進み大野に到着。何度かこのコースを通ったが、いつも大野の手前で157号線に入り北上、勝山の『恐竜博物館』に向かうのが定番だった。今回初めての大野市訪問になる。大野城下の『結ステーション』に車を停めた。
 亀山の上に聳える大野城を目指して進む。広いグランドのある施設を通りかかる。「何の施設?」と、散歩されていた男性に質問した。
 この場所には元々大野藩の藩庁があった。明治になり、その跡地に藩校『明倫館』を受け継ぐべく、大野町立『明倫中学校』が開校した。 1県1校制のため明倫中学校は一旦廃止。その後福井中学校大野分校として復活し、後に県立大野中学校になった。 
 敗戦後の1948年4月、学制改革で大野中学校・大野高等女学校・大野農林学校の県立3校が合併。福井県立大野高等学校が設立。当初は普・商・家・農の4課程、全日制で男女共学の総合制高校だった。 
 福井県立大野高等学校HPより
 1993年4月、高校は大野市新庄に移転。 現在ここは『学びの里めいりん』という生涯学習センター(生涯学習課)、大野公民館、有終西小学校の3つの機関からなる複合施設になっている、と言うことだった。 
 神社に入った。

 林の中の池(お馬屋池)。青年や家族連れが楽しそうにザリガニ釣りをしていた。

 大野市民俗資料館。元の簡易裁判所の建物。入館はせず。
 資料館の外にあったポスター。そうか。「天空の城」の一つなのか。
 兵庫県朝来市和田山町の『竹田城跡』。岡山県高梁市の『備中松山城』。そして『越前大野城』。ただし大野城で雲海を眺められるのは年に10日ほど。ポスターの景色はめったに見られないそうだ。 
 柳廼社(やなぎのやしろ)という神社。幕末の藩主・土井利忠をまつり、名前は利忠の雅号「柳涯りゅうがい」に由来。明治15年(1882年)創建。元は柳町通りにあった。拝殿には北海道・サハリンの開拓に活躍した(※)『大野丸』の絵が飾られている。 
 (※)『大野丸(おおのまる)』…江戸時代末期の1858年、大野藩が樺太開拓用に建造した西洋式帆船。交易に使用され活躍したが、1864年根室沖で座礁・沈没。 

 南登り口からずっと緩い坂道が続く。所々階段がありショートカットできる。階段の度、丁寧に「最短距離の道です」と書いてある。

 最後の長く急な階段。
 天守が見えた。
 あと少し。越前大野城は、1576年(天正4年)、信長から大野郡の領地を受けた家臣の金森長近が築城。2層3階の大天守、2層2階の小天守、二の丸、三の丸があり、外堀・内堀をめぐらした。
 最後にこの急な石段。この城の石垣は、石を横に寝かせ大きい石を押し込んで積む「野面積み」という工法で造られている。

 初めからある階段だろうか。年老いた者にはきつい。
 福井県民でなかったが、ご厚意で入場できた。
 現在の城は、昭和43年に再建されたもの。城内には歴代城主の遺品などが展示されている。 大野城は築城した金森長近の後、青木一矩時代を経て越前松平家が3代続いた。その後天領となり、譜代の土井氏4万石で定着するまで目まぐるしく城主が替わった。
 天守からの眺めが素晴らしかった。城は1775年(安永4年)に焼失。1795年(寛政7年)に天守を除いて再建。明治維新後に取り壊された。 

  「日本百名山」の一つ、荒島岳(1524m)山頂は雲の中だった。
 西方の水田が美しかった。

 結ステーションの駐車場の愛車が見えた。
 城を後にして、『本願清水(ほんがんじょうず)イトヨの里』に向かった。途中、武家屋敷の前を通過し、整然と「碁盤の目」のようになっている大野の街を走った。
 HP「えちぜんおおの観光ガイド」より「七間朝市」
 金森長近は、京の都を模して「碁盤の目」の町づくりをはじめた。町の東端に南北に寺を並べ「寺町」をつくった。そこから西に向かって五番・四番・三番・二番・本町という南北の通りを配置。それぞれ商人や職人を集めて住まわせた。

 寄り道しながら糸魚(いとよ)町にある『本願清水イトヨの里』に到着。早速『本願清水』に向かう。
 ここが『本願清水(ほんがんしょうず)』。
 本願清水は、金森長近が伏流水の豊富なこの地を掘り下げ、町用水の水源として整備したのが始まり。名前の由来は、この近くに本願寺派の寺があったからとか、本願寺派の門徒を使って掘り広げたからと伝えられている。 

 早速、清水をペットボトルに詰めた。「コロナ」の影響で清水をすくう杓子が撤去されていた。かえって不衛生かな、と思った。
 水底に大量の藻が生えて緑色をした湧水の池。事前に思い描いていたイメージとは異なる環境だった。池の中には沢山のイトヨの泳ぐ姿が見られた。

 「本願清水」は、日本でも数ヶ所しかない陸封型のイトヨ生息地で、1934年(昭和9年)に国の天然記念物に指定された。2001年にはイトヨの保護研究施設として『イトヨの里』が整備された。

 湧水の街、大野の清水でコーヒーを沸かして頂くことも今日の目的の一つだった。大変美味しかった。
 大野市を後にして、JR越美北線に沿うように走る国道158号線を福井方向に進む。今回の旅の最終目的地『一乗谷朝倉氏遺跡』に到着。
 福井市の南東約10キロに位置する一乗谷。そこで発掘された朝倉氏遺跡は、戦国時代に越前の国を支配した朝倉氏五代(103年間)の城下町跡。
 武家屋敷・寺院・町屋・職人屋敷や道路に至るまで、町並がほぼ完全な姿で発掘された。

 国の重要文化財・特別史跡・特別名勝に指定されている。 

 朝倉館跡の入り口にある唐門。
 朝倉氏の遺構ではない。松雲院の寺門として朝倉義景の菩提を弔うために作られたと伝わる。現存するものは江戸時代中期頃に再建された。 
 お堀がとても美しい。
 ニシキゴイも美しい。
 館の場内説明図。
 背後の観音山には空堀が掘られていた。
 場内の一角にこの石組みがあった。「垜」とは? 後で調べると、弓の的を立てる土(安土)を盛り上げるための心材のようだ。
 井戸。枠は笏谷石(しゃくだにいし)「緑色凝灰岩」



 朝倉氏5代103年間。
 但馬朝倉氏の本貫は但馬国養父郡朝倉(兵庫県養父市八鹿町朝倉)。越前に移った系統が越前朝倉氏。越前国守護・斯波氏に仕え、甲斐氏、織田氏に次ぐ斯波三守護代の第三席となる。後に守護に任命されて自立し、越前国を支配する戦国大名になった。 

 邸宅そばの池庭。
 朝倉氏は戦国時代の早期から越前一国を安定的に支配し、その余勢で隣国の若狭、加賀、近江、美濃にも出兵した。
 湯殿跡庭園(ゆどのあとていえん)。海抜63メートルの高台。朝倉館を見下ろす位置。観音山を背景に庭石が林立している。
 謀反で殺された室町幕府第13代将軍・足利義輝の弟、足利義昭が落ち延びて来ると朝倉義景はこれを庇護。だが義昭を擁して上洛することはなかった。

 戦国時代の気風を思わせる荒々しく勇壮な石組。4つの庭園で一番古いものだと考えられる。複雑に入り組んだ形の庭池がある。当時は導水路が備えられ水がたたえられていたようだ。
 上洛したのは尾張国の織田信長。朝倉義景は、信長が京都の政権を掌握した後も従おうとはしなかった。
 湯殿跡庭園の近くから見た朝倉館の遺跡。建物の礎石がきれいに残っている。 
 説明板がひどく汚れていたが、こんな館が建っていたようだ。
 これも汚いが、館の平面図。
 義景は浅井長政らと同盟して信長と度々戦った。しかし1573年に敗れて一乗谷を焼かれ、義景は自刃し、戦国大名の朝倉氏は滅んだ。 
 湯殿の遺跡。広い石の上に湯舟があったのだろうか。
 蔵の遺跡。石組みの上に蔵が建っていたのだろう。
 館の柱を支える礎石の並び。右にある二つ並んだ大きな丸い石は何だろう。もっと丁寧に見ればよかった。

 気持ちの良い風景である。

 小さな川を挟んだ反対側に、『一乗谷復原町並』という施設があった。
 17時を過ぎてしまい入場はできなかった。
 「攻城団」HPの「一乗谷城・復元町並」より
 京の町のように計画的に整備された道路をはさんで、武家屋敷や庶民の町屋が並ぶ。発掘された塀の石垣や建物の礎石をそのまま使っているので、リアルな町並みが再現されているそうだ。
 信長に滅ぼされた後も商人たちは福井市に移り住み、現在まで商売を続けている。
 一乗谷を後にした。細い道だろうが、峠越えで鯖江に出ようと思い、カーナビの地図を見ながら車を走らせた。すると…

 その道は『朝倉街道(大手道)』と呼ばれる旧道だった。
 さらにその道を進むと『明智神社』がある東大味の集落に出た。

 アオギリ(青桐)の花が咲いていた。
 この小さな社が『明智神社』だった。この場所が、明智光秀が朝倉氏に身を寄せていた時の屋敷跡だったと言われる。光秀と妻の煕子(ひろこ)の三女、玉(後の細川ガラシャ)の生誕の地とも言われる。
 HP「ことばと広告」より
 一向一揆の討伐の時、光秀が柴田勝家らに出させた安堵状でこの村が守られたので、東大味の人々はずっと光秀を慕い、この神社を守り続けてきたという。
 今年のNHK大河ドラマの舞台として注目を浴びたこの地。街道沿いの空き地を『明智神社』の臨時駐車場として整備されていた。感謝。
 ここから県道25号・18号で北陸道「鯖江IC」へ。日曜日の夜だったが、名神も混雑することなく帰路に付くことができた。

平湯・上高地・大野の旅(2) 2020.6.6

2020-06-09 17:03:34 | 旅行
 6月6日(土)。今朝もまずまずの天気。到着したキャンパーたちが空いた場所を探して次々と車を走らせている。週末の平湯キャンプ場は一段と賑やかになりそうだ。
 (Wikipediaその他のHPやブログの記事、図書を参照したり引用させて頂きました。ありがとうございます)
 朝食は、飯盒で炊いたご飯、ソーセージ・目玉焼きを添えたサラダ、スープ、フルーツ、コーヒー。

 カラスよけに食品やごみはテントの前室へ。リュックを背負い平湯温泉バス停へ。
 バス乗り場は改築され美しくなっていた。30分に1本ある上高地行のバスは、コロナのため1時間に1本に減便中。9時発のバスに間に合う。『あかんだな駐車場』発のバスは一杯で、ここから2台目のバスが出された。

 荒涼とした焼岳の横を通過し、静かな大正池と屹立する穂高の山並みが目に飛び込む。何度見てもこの瞬間、穂高は予想を超える高さを感じさせる。25分程でバスは『大正池ホテル』に到着。一緒に7,8人が降りた。ホテルは閉館中。後でわかったが上高地のほとんどのホテルはまだ休業していた。

 大正池の畔に出る。向こうにどっしりと焼岳が構える。山頂の噴煙は今日は見えなかった。ここから岳沢湿原まで、色々な花を眺めながらゆっくりと散策した。以下、道中で見た花を中心に紹介したい。
 穂高はいつもより雪が少ない印象。

 スミレが現れた。白い小さなスミレと紫の大きなスミレ。白いスミレはツボスミレ(坪菫)。ニョイスミレ(如意菫)とも言うそうだ。 

 こちらの紫のスミレは、(※)踞が白いのでオオタチツボスミレか。北方系の種でブナ林の谷筋などやや湿った落葉広葉樹林下や山道の傍に生育する。 

 HP「三河の植物観察」より「スミレの花の構造」
 (※)唇弁の踞(きょ)…唇弁(しんべん)は左右相称の花の一番下にある花弁のこと。花を下から受ける形の花弁。 昆虫が着地しやすい形に進化し、受粉する昆虫を誘うのに役立つ。その唇弁の付け根の膨らんだ部分を踞と言う。
 この地味な花をよく見た。ズダヤクシュ(喘息薬種)。ユキノシタ科ズダヤクシュ属の多年草。 亜高山帯、深山の森林内、林縁に自生。喘息のことを信州の方言でズダと言う。喘息の咳止薬として用いられてきたのでこの名が付いた。花弁は針状で、花のように見えるのはガク片。
 
 ヤグルマソウ(矢車草)の新葉。ユキノシタ科ヤグルマソウ属の多年草。 大きく独特の形は上高地の林床で目立つ存在だ。
 オオバミゾホオズキ(大葉溝酸漿)。「ハエドクソウ科」という珍しい科に属する多年草。高山の沢沿いや湿地などに群生。日本、南千島、樺太に分布。 ビジターセンターの方が「もう咲いていましたか」と少し驚いていた。
 ズダヤクシュ。花が終わると「緑のお餅を乗せたスプーン」のような面白い構造物が伸びてくる。
 「果実は蒴果で、長短2個の舟形の心皮に包まれる」(HP『草花と樹木のデジタル植物園 "Botanic Garden" 』) ということでこれは2個の心皮だ。  
 HP『BOTANY  WEB』(Takeshi Nakayama)より「心皮」

 カラフトダイコンソウ(樺太大根草)。バラ科ダイコンソウ属の多年草。別名、チシマダイコンソウ(千島大根草) 。北海道、本州中部地方以北に分布。

 河原には、沢山のヤナギの綿毛が舞っていた。
 カンスゲ(寒菅)か。
 大正池に流れが出てきた。やがて梓川に移行する。透き通った水も川底の石もとても美しい。
 河原にキイチゴ? 花びらのよれよれ加減からミヤマニガイチゴ(深山苦苺)か。バラ科キイチゴ属。 
 林の中に入ると、この空色の可憐な花を見るようになった。エゾムラサキ(蝦夷紫)。ムラサキ科ワスレナグサ属で唯一の日本在来種。
 ユキザサ(雪笹)。キジカクシ科マイヅルソウ属の多年草。 
 アマドコロ(甘野老)。キジカクシ科アマドコロ属の多年草。花の先端だけ開き(6分裂して)受粉が行われる。
 田代湿原に到着。
 ツマトリソウ(褄取草)。ヤブコウジ科ツマトリソウ属の多年草。花冠は7弁、雄しべ7、雌しべ1とあるが、これは6弁。

 木道の傍のツマトリソウ。花冠は7弁と6弁。
 
 レンゲツツジ(蓮華躑躅)の開花はもう少し先。ちょっと残念。
 湿原の奥に白い花の群落が。ビジターセンターで聞くと「ミツガシワ(三槲)」と。上高地ではここだけに分布するそうだ。
 Wikipedia「ミツガシワ」より。
 田代池。
 カラマツの柔らかな新芽。
 ふわふわのスギゴケ。先端に新葉が。
 ミヤマザクラ(深山桜)。バラ科サクラ属。別名シロザクラ。

 花が終わったシロバナエンレイソウ(白花延齢草)。ユリ科エンレイソウ属の多年草。
 田代湿原を過ぎ、ラショウモンカズラ(羅生門葛)が多くなった。シソ科ラショウモンカズラ属。今が花の盛り。
 
 可愛いミヤマハコベ(深山繁縷)。ナデシコ科ハコベ属の多年草。 
 フキ(蕗)。キク科フキ属の多年草。雌雄異株。 
 ニリンソウ(二輪草)も沢山咲いていた。キンポウゲ科イチリンソウ属の多年草。 
 ミヤマニワトコ(深山接骨木、深山庭常)。レンプクソウ科ニワトコ属の落葉低木。 ニワトコの高山種。本州の日本海側に分布。 「接骨木」の名は、枝や幹を煎じて水あめ状になったものを骨折の治療の際の湿布剤に用いたためといわれる。 

 不明。
 マツタケのようなキノコ。

 ラショウモンカズラ。「ラショウモン」の名は、花を(※)渡辺綱が羅生門で切り落とした鬼の腕に見立てた所から。横から見ると、確かに肘から切られた青鬼の腕に見えなくもない。花弁の筋が筋肉っぽい。
 (※)渡辺 綱(わたなべ の つな)…平安中期の武将。時の権力者・藤原道長を武門の面で支えた源頼光(みなもとのよりみつ)、通称「らいこう」に仕えた。「頼光四天王」の筆頭。先祖の源融(みなもとのとおる)は『源氏物語』の主人公の光源氏の実在モデル。綱もイケメンとして有名。

 温泉津で行われた石見神楽。鬼と四天王の対決の場面
 渡辺 綱は「頼光四天王」として大江山の酒呑童子(しゅてんどうじ)退治や、京都の一条戻橋の上で鬼の腕を切り落とした逸話で有名。謡曲『羅生門』は一条戻橋の説話の舞台を羅城門に移しかえたもの。ラショウモンカズラの名はここから。
 
 ミヤマカラマツ(深山落葉松)。葉の形からカラマツソウ(落葉松草)とは区別。キンポウゲ科カラマツソウ属の多年草。

 「カラマツソウ」の名は、花がカラマツ(落葉松)の葉の形に似ているから。

 花の咲き始め。
 
 これはカラマツソウの若芽。食べられそう。
 フッキソウ(富貴草)も花は終わりかけ。ツゲ科フッキソウ属。
 花は単性(=同じ株に雄花と雌花が咲く植物)。茎頂に穂状花序をつけ、雄花は茶褐色の葯をもつ白く太い雄しべが4本長く突き出す。根元に小さな萼片があり花弁はない。雌花は雄花の基部につき、雌しべは先が二つに分かれる。

 タガソデソウ(誰袖草)。ナデシコ科ミミナグサ属。長野県、山梨県の一部に分布。
落葉樹林内や林縁にやや稀に生える多年草。確かにミミナグサに似ているが清楚で可憐な花だ。
 田代湿原を過ぎるとこの黄色が目立ってきた。キジムシロ(雉莚)。バラ科キジムシロ属の多年草。和名は、花の後、葉が放射状に展開する姿がキジが休む莚(ムシロ)に例えられたため。種小名 (fragarioides) は「オランダイチゴに似た」という意味という。なるほど、葉の形が似ている。
 花びらのよれよれ加減からミヤマニガイチゴ(深山苦苺)。

 これもキイチゴっぽいが…。
 針葉樹の香りの中を歩く。
 見るとつい撮ってしまうラショウモンカズラ。シソ科の中でも大きく鮮やかな花、しかも沢山付けるので目を引く。群生するので余計に目立つ。 突き出した花弁の先の模様も面白い。ハチが引き付けられる気持ちがわかる。
 群生するマイヅルソウ(舞鶴草)。葉の模様が家紋の(※)舞鶴紋に似ることから、舞鶴草という名が。

 HP「家紋市場」より「日蓮宗鶴」
 これが舞鶴紋だが…。

 首がない舞鶴紋…かな。
 ゴゼンタチバナ(御前橘)。ミズキ科ミズキ属ゴゼンタチバナ亜属。花はこれから。4枚の白い総苞に囲まれたヤマボウシのような形の花が咲く(下の写真)。まだ緑のかわいい総苞が付いている。

 2008年8月 鹿島槍ヶ岳で
 梓川の河畔に出た。

 これこれ、この清流が上高地。
 この蕾、なつかしい紅色の花。どこかで咲いていないかな。
 これは… キヌガサソウのような葉の形…。

 しかし、この花、見たことがない。
 調べると、クルマバツクバネソウ(車葉衝羽根草)。シュロソウ科ツクバネソウ属の多年草。 変わっている!
 HP『素人植物図鑑』によると「茎頂から花柄を出し、直径4-7cmで黄緑色の花を上向きに1個つける。花弁に見える(※)外花被片は4-5個あり、緑色で長さ3-4cmの披針形~狭卵形。内花被片は4個あり、黄色で線形、外花被片より短く、外花被片の間から下に垂れる。雄しべは8-10個あり、葯は5-8mmの線形で黄色、葯の先に葯隔が細長く突き出る。雌しべは黒く花柱は4裂する」
 細い黄色の花弁のように見えるのが雄しべなのだ。
 (※)花被片(かひへん)…植物の花被を構成する要素の一つ。外花被(ガク片)と内花被(花弁)を含む。通常、花弁とガク片が形態的に類似する、あるいはほとんど区別できない場合に、それらをまとめて花被片という。 
 ニリンソウの群生が見られるようになった。
 ニッコウキスゲ(ゼンテイカ)がここだけ花を開いていた。

 ゼンテイカ(禅庭花)。キスゲ亜科の多年草。 一日花で朝に開きその日の夕方にしぼむ。二日花も見られ、朝咲いて翌日夕方にしぼむものもある。次々に別の花が咲くので花期は長い。
 田代橋までやって来た。

 マイヅルソウの花が咲いていた。可愛い花だ。
 上高地温泉ホテルが見えた。
 ミヤマハタザオ(深山旗竿) 。アブラナ科ハタザオ属。
 この黄色も目立っていた。エゾタンポポ(蝦夷蒲公英)。北海道だけではなく東北地方~関東地方北部~中部地方に分布。花茎の上部に白毛が密生する。 
 クルマバソウ(車葉草)。アカネ科アカネ亜科ヤエムグラ属の多年草。 

 樹皮の瓜膚模様がよくわかるウリハダカエデ(瓜膚楓)。

 HP「NAVERまとめ」より本物の瓜膚模様
 ウワミズザクラ(上溝桜)。バラ科ウワミズザクラ属の落葉高木。よく似たイヌザクラとは、花の枝に葉がつく事で区別できる。 
 名前の由来は、古代シカの肩甲骨の裏に溝を彫ってこの樹皮で焼き、溝の周辺に生じる割れ目を見て吉凶を占った。この裏溝が転じて「上溝桜(ウワミゾザクラ)」と書き、それが転訛してウワミズザクラと呼ぶようになったと。 ふ~ん。
 ズミ(酸実、桷)。バラ科リンゴ属。リンゴに近縁な野生種。語源は、「染み」(樹皮を煮出して黄色の染料が取れる)、 または実が酸っぱいことから「酸実」。

 材は家具や細工に利用。果実は果実酒にされる。リンゴの台木として、種から育てたズミが使われる。
 レンゲツツジの蕾と霞沢岳方向の山並み。
 美しいカメムシがいた。
 シロバナノヘビイチゴ(白花の蛇苺)。バラ科オランダイチゴ属の多年草。 
 ミズナラの新葉。
 あの河原、気持ちいいだろうなぁ。
 ウェストン碑。ウォルター・ウェストンは明治時代、日本アルプスに魅了され、上高地の存在を世界に広めた。 
 カツラの新葉。
 このV字紋のある葉は? 「V字紋の葉」で出てきた! ミズヒキ(水引)。タデ科イヌタデ属の草本。 
 エゾタンポポ。
 ウワミズザクラ。花は食器洗い用の細長い白ブラシのように見える。果実は赤い実で食用になり、鳥や哺乳類も大好物。 
 ニリンソウ。初夏には地上部が枯れる、春植物(spring ephemeral)のひとつ。 
 花弁のように見えるのは萼片で、5~7枚ある。 花の真ん中に多くの雄しべと雌しべがある。多数ある雌しべのうち結実するのは数個。 写真の花の雌しべは5、6個の子房が膨らんでいる。
 エゾムラサキの学名は Myosotis sylvatica 。

 属名の Myosotis はギリシャ語の「myos(ハツカネズミ)+otis(耳)」。葉の形を表している。種小名の sylvatica は「森林に生える」という意味。 


 タガソデソウ。長野・岐阜・山梨県だけに生える希少種。環境省の絶滅危惧II類、長野県の準絶滅危惧種。 
 シロバナノヘビイチゴ。下の写真のように果実は赤く熟し食べられる。名前は「ヘビイチゴ」だがオランダイチゴ属だけあって美味しいらしい。食べてみたい。 

 HP「四季の山野草」より「シロバナノヘビイチゴ」
 ベニバナイチヤクソウ(紅花一薬草)が開花していた。ツツジ科イチヤクソウ亜科イチヤクソウ属。
 日本では北海道、本州中部地方以北に分布し、山地帯から高山帯下部の草地、低木林、林縁などに生育する。イチヤクソウ属の他の種と異なり、群生することが多い。 
 バスターミナルから河童橋にかけてのカラマツ林の爽やかな黄緑色。

 クサソテツ(草蘇鉄)。新芽はコゴミ。河童橋周辺のホテルも休業中。
 オオカメノキ(大亀の木)の葉。レンプクソウ科ガマズミ属の落葉低木。ムシカリ。 

 ツルアジサイ(蔓紫陽花)。花はこれから。
 複雑な絡み合い。
 こちらも。

 群発地震で梓川左岸の登山道が被害を受け、通行できなかった。
 シロバナエンレイソウ。外花被片3枚、内花被片3枚。白い内花被片は次第にピンク色を帯びることも多い。 

 花が終わり、目立ってきた長短2個の舟形の心皮に包まれて種子が育っている状態。
 
 岳沢湿原。大きなヤマドリゼンマイが新葉と胞子葉を伸ばしていた。

 広がり始めの新葉。
 胞子葉。沢山の胞子嚢(ほうしのう)が覆っている。この色がヤマドリ(下の写真)に似ているのでこの名が付いた。 

 HP「日本の野鳥識別図鑑」より「ヤマドリ」
 岳沢湿原の絶景。
 湿原にオシドリやカモ、イワナの姿を探す。後ろは六百山(ろっぴゃくざん)。標高2470m。

 湿原に流れ込む岳沢の清流。
 マイヅルソウの花。

 HP「素人植物図鑑」より引用。節ごとに2個ずつ咲く、とってもキュートな花。



 装飾花だけ残ったオオカメノキの花。
 ミズゴケ。世界で約150種、日本で47種が分類されている。
 河童橋に戻ってきた。
 人通りが少なく、こんな写真を撮ることができた。
 五千尺ホテルも休業中。テイクアウトのソフトクリームは販売。
 清水川の流れ。
 バイカモ(梅花藻)。花はもう少し後。
 ビジターセンター前のキジムシロ。センターは開館していたが展示は一部のみ。『上高地 今日の花 20種』というプリント(1枚100円)が参考になった。16種はここで取り上げた。

 余裕の河童橋周辺。
 カラフトダイコンソウ。
 キジムシロ。均整のとれた花だ。
 ヤグルマソウから花軸が伸びていた。
 バスターミナルの店も閉店。ホテルも店も開いてないので、バスツアーの団体客はいない。静かな上高地。
 平湯バス停到着。道路横に咲いているトチノキの花を見に行った。

 トチノキ(栃の木)。ムクロジ科トチノキ属の落葉広葉樹。 かつて子どもや祖母とよく栃の実を拾いに行った。拾った実は、祖母の生まれた山里の親戚に送り、栃餅の材料に使ってもらった。

 ナナカマド(七竈)の花。バラ科ナナカマド属の落葉高木。オレンジの紅葉や赤い果実が美しい。北海道や東北地方で街路樹によく植えられる。 
 上下のサイトは新しいキャンパーが来ていた。
 奥飛騨温泉のA‐COOPで買い物。奮発して飛騨牛のすき焼き!

 今日は日本酒を飲みながら焚火を楽しんだ。