川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

東京教育大学新聞会

2008-07-14 12:28:49 | 友人たち
 12日(土)11時、六本木の国立新美術館の毎日書道展。小学校の同級生の功子さん夫妻が入選し、その作品が展示されている。展覧会の規模が大きく、お二人の所にたどり着くのが一苦労。功子さんは「桜貝のうた」。ご夫婦でもう20年以上も書をやっているという。お連れ合いの義治さんの趣味はただごとではない。ぼくが知っているだけで、アマチュア無線、花火師。仕掛け花火の職人としてプロと同じ。土日に全国を駆け回ったはずだ。書もやっていたとは。あらゆる創造活動に臆病で無趣味な人間には想像を絶する生き方である。
 先日送っていただいた野菜たちのお礼を言うと勤務先の学校でも300坪の農園を管理しているという。子どもたちに農業を体験させるためのものだが最近は畑や田圃の手入れを出来る教員が少なくなり、義治さんたち現業職に仕事が一任されるのであるらしい。定年後の嘱託勤務だが、どんな仕事でもきちんとこなす貴重な人材で今も週5日勤務だという。
 この夏は功子さんのお母さんの法事でご夫妻で室戸に帰る。同じ頃帰られればいいが…。

 一時過ぎ、新橋の汐留駅あとのビヤホールに到着。教育大学新聞会の同窓会。教育大が廃校になって30年、学生新聞が廃刊になって35周年の記念の会である。集うもの、1951年入学者から68年入学者まで39名。
 日本の国立大学で「廃校」という処分を受けた学校は珍しい。筑波大学開校の陰で東京教育大は消滅させられた。したがってもっとも若い人でも60近い、ほとんどが老人の同窓会なのである。
 ぼくだけでなくここに集まった人の多くは「新聞会」の卒業生である。授業というものには縁がなく、部室に通い、大学は卒業しなかった人もいる。安きに流れたともいえるが、こちらの方が面白かったのである。
 佐賀県に住む岩本君。80年夏、「在日朝鮮人生徒の教育を考える会」の仲間達と対馬を訪れたときに世話になった。長崎県の教育界でどんな風に歩んでこられたのか、どっしりと風格が感じられる。ぼくの不注意で久闊を叙しただけでゆっくり交流できなかった。残念。
 Aさん・Bさんとは卒業以来である。BさんはCくんと一緒になったが、先年先立たれてしまった。電話でお見舞いを言ってて以来か。40年以上の月日は流れたが直ぐに昔に戻れるのは嬉しい。
 Aさんはぼくが人生の中で直接本人に「愛を告白」した最初の人である。妻を除いて後にもいない。残念ながら相手にされなかった。
 「倫理」を担当し、「青春期」について問われたとき、その時の様子をぼくは時に生徒に話すことがあった。「大学の屋上にひとり佇んで、秋の空にすいこまれるような気持ちであった」。こんな話をするところまでは行かなかったが久しぶりに会えて楽しい時をすごすことができた。
 妻はこの人ひとたちの後輩である。ぼくが曲がりなりにもこの年まで社会人生活を送ることが出来たのは妻がいてくれたお陰だが、このひとをぼくのために「ガード」してくれたO君も逝ってしまった。
 思えば文京区大塚窪町24の教育大新聞会はぼくにとって大切な青春の学校であった。
後輩たちが「縮刷版」を作ってくれたので僕らの活動の痕跡はきちんと保存されている。ぼくが書いた記事も幾つかはある。
 彼らは教育大学新聞OB会のHPも運営している。
  教育大学新聞OB会のHP
 


 歴史の彼方に消えた教育大研究の資料としても貴重である。今回の同窓会も彼らのお陰で楽しむことが出来た。ありがたく、感謝。

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