先生が『土佐史談』(05年12月発行・230号)に書かれた「戦没者名簿を通してみた太平洋戦争ー遠洋漁民の戦いを中心に」を興味深く読ませていただきました。06年の春に先生のお手紙と共に兄から届けられていたのに、私が入院などのため精読せず、お礼の手紙も差し上げなかったことをどうぞ許してください。
先生のお手紙の中に「私の教師生活の大きな指標となった為利先生の生き方を拙文のテーマとさせていただいています」とあり、論文の冒頭に父の「手記の一部」が紹介されています。
「私は昭和2年3月高知師範学校卒業以来小学校教員をつとめました。昭和12年日中戦争が始まり、教え子たちは朝倉44連隊の勇士として羅店鎮の戦いで3名が戦死しました。以来、昭和20年敗戦まで小学校高等科ばかり担任してきましたので、教え子で戦死した者、百余名にのぼります。
侵略戦争であることを知らずに、八紘一宇、聖戦、東洋平和、等の美名のもとに教え子を戦場に送りました。罪の深さに今もおののいています。この罪を如何にして償うべきか、生還した教え子たちの意見も聞きました。その結果、戦死した教え子たちの霊を慰める道は、この地球から戦争を無くすることだという結論に達しました。
私は戦死した教え子たちの鎮魂のためにも、今の子どもたちに戦争の罪悪と絶対平和の道を力説したいものとの念願を抱きつづけてまいりました」
ここに書かれていることは大体は私が父から聞いていることですが、「手記」があるとははじめて知りました。私が身近にいなかったせいかもしれませんが父が自分の思いを記録したものを読んだ記憶がほとんどありません。書くということをしなかった人なのかと思っています。ですから話を聞いて記録して置かねばと、録音まではしてあるのですが、私のものぐさで起こさないままになっています。
葬式の日、弔辞を述べてくださった米倉先生から『むろとの教育の歩み』(98年・市教委発行)に父の話が載っていることを知らされました。先生方が昭和初期の新米教師の時代の父の話を聞き書きして記録として残してくれたのです。おかげで父の教員としての喜びや誇りを理解することができます。
もしよかったらこの手記の全文を読ませてくれませんか。また、他に手記などあれば教えていただけないでしょうか。
さて、先生の論文で室戸岬町の戦没者(いわゆる「大東亜戦争」期)329人のうち軍属船員が133人、全体の40%にのぼることをはじめて知りました。
私は父の話にあるように皆、44連隊に「兵」として招集されたと思っていたのです。事実は、4割の方々が「徴用漁船員」または「特殊漁船員」として戦死したのですね。
徴用漁船 物資輸送・敵艦船航空機の哨戒の任務。乗組員は操船する船員と戦闘任務の軍人。無線機を備え、通信士もいるので好都合だったが重機関銃一挺で闘えるはずもなく船も漁民も海の藻屑に。
特殊漁船 敵潜水艦・航空機の哨戒をしながら操業する漁船。海軍が燃料を供給して操業させ、漁獲は軍に納入させた。機関銃一挺がブリッジに据え付けられ、対潜水艦用の爆雷を装着。非戦闘員である漁民が潜水艦や航空機と戦うことは不可能で「敵潜水艦発見、交戦中」という無電を残して南方海上で沈没、戦死。
母方の祖父が「徴用」で硫黄島や台湾・沖縄に行ったという話は子どもの頃聞いたことがありますが、それと「戦死」という言葉が私の中で結びついたことはありません。先生の研究ではじめて鰹鮪漁業に生きた故郷の船員たちが絶望的な戦争に動員された実態を知った思いです。
室戸岬の忠霊塔には8月15日に父と共に何回も訪れたことがあります。羅店鎮で戦死した3人の一人は親戚の将史兄さんの父・融さんです。かつて父は将史さんに「融を殺したのは自分だ。苦労をかけてすまない」と謝ったことがあります。
今年の彼岸にここで鮪船に乗っていた同級生の昭正くんに会い、彼の肉親や同級生の父親の名が碑文に刻まれていることを教えてもらいました。この論文を彼らにも読んでもらうようにします。自分の同級生たちの父親の「戦死」の実相さえ知らないままで私は生き、「社会科」の教員をやってきたのです。遅きに失したのですが、学びの視点を教えてくださった先生に感謝します。
先生のお手紙の中に「私の教師生活の大きな指標となった為利先生の生き方を拙文のテーマとさせていただいています」とあり、論文の冒頭に父の「手記の一部」が紹介されています。
「私は昭和2年3月高知師範学校卒業以来小学校教員をつとめました。昭和12年日中戦争が始まり、教え子たちは朝倉44連隊の勇士として羅店鎮の戦いで3名が戦死しました。以来、昭和20年敗戦まで小学校高等科ばかり担任してきましたので、教え子で戦死した者、百余名にのぼります。
侵略戦争であることを知らずに、八紘一宇、聖戦、東洋平和、等の美名のもとに教え子を戦場に送りました。罪の深さに今もおののいています。この罪を如何にして償うべきか、生還した教え子たちの意見も聞きました。その結果、戦死した教え子たちの霊を慰める道は、この地球から戦争を無くすることだという結論に達しました。
私は戦死した教え子たちの鎮魂のためにも、今の子どもたちに戦争の罪悪と絶対平和の道を力説したいものとの念願を抱きつづけてまいりました」
ここに書かれていることは大体は私が父から聞いていることですが、「手記」があるとははじめて知りました。私が身近にいなかったせいかもしれませんが父が自分の思いを記録したものを読んだ記憶がほとんどありません。書くということをしなかった人なのかと思っています。ですから話を聞いて記録して置かねばと、録音まではしてあるのですが、私のものぐさで起こさないままになっています。
葬式の日、弔辞を述べてくださった米倉先生から『むろとの教育の歩み』(98年・市教委発行)に父の話が載っていることを知らされました。先生方が昭和初期の新米教師の時代の父の話を聞き書きして記録として残してくれたのです。おかげで父の教員としての喜びや誇りを理解することができます。
もしよかったらこの手記の全文を読ませてくれませんか。また、他に手記などあれば教えていただけないでしょうか。
さて、先生の論文で室戸岬町の戦没者(いわゆる「大東亜戦争」期)329人のうち軍属船員が133人、全体の40%にのぼることをはじめて知りました。
私は父の話にあるように皆、44連隊に「兵」として招集されたと思っていたのです。事実は、4割の方々が「徴用漁船員」または「特殊漁船員」として戦死したのですね。
徴用漁船 物資輸送・敵艦船航空機の哨戒の任務。乗組員は操船する船員と戦闘任務の軍人。無線機を備え、通信士もいるので好都合だったが重機関銃一挺で闘えるはずもなく船も漁民も海の藻屑に。
特殊漁船 敵潜水艦・航空機の哨戒をしながら操業する漁船。海軍が燃料を供給して操業させ、漁獲は軍に納入させた。機関銃一挺がブリッジに据え付けられ、対潜水艦用の爆雷を装着。非戦闘員である漁民が潜水艦や航空機と戦うことは不可能で「敵潜水艦発見、交戦中」という無電を残して南方海上で沈没、戦死。
母方の祖父が「徴用」で硫黄島や台湾・沖縄に行ったという話は子どもの頃聞いたことがありますが、それと「戦死」という言葉が私の中で結びついたことはありません。先生の研究ではじめて鰹鮪漁業に生きた故郷の船員たちが絶望的な戦争に動員された実態を知った思いです。
室戸岬の忠霊塔には8月15日に父と共に何回も訪れたことがあります。羅店鎮で戦死した3人の一人は親戚の将史兄さんの父・融さんです。かつて父は将史さんに「融を殺したのは自分だ。苦労をかけてすまない」と謝ったことがあります。
今年の彼岸にここで鮪船に乗っていた同級生の昭正くんに会い、彼の肉親や同級生の父親の名が碑文に刻まれていることを教えてもらいました。この論文を彼らにも読んでもらうようにします。自分の同級生たちの父親の「戦死」の実相さえ知らないままで私は生き、「社会科」の教員をやってきたのです。遅きに失したのですが、学びの視点を教えてくださった先生に感謝します。
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