先日、天気に恵まれたことを書きましたが、他にもいろいろ嬉しいこと、心に残ったことがあります。
①栗田さん・上村さん・田村さんと「中国残留孤児とその家族」3組(9人)の初参加。
「残留孤児」の方々に<日本>を知って貰い、帰って良かったなあと一時でも思って貰うのがこの旅の主要な目的です。少しずつ、仲間が増えていくのは本当に嬉しいことです。
栗田さんは僕たちの生徒だった文恵さんのお母さんです。朝、日暮里駅で文恵さんに会ったのにはびっくり。彼女はお連れ合いと共に中国で働いていて旧正月にならなければ帰らないはずです。
僕は妹の恵さんがお母さんを送って来たのかと思い「姉さんとそっくりになったねえ」といい、暫くそのつもりで会話していました。お土産を貰ったり、「先生にも会いたかったから」「上のほうです」などというセリフを聞いてようやく文恵さんであるという事実に気づく有様です。ちょうど国慶節の休みで妹さんからの報せを聞いて帰国していたのです。
この家族にはここ数年父を喪う悲しみがあり、姉妹の結婚や出産という相次ぐ喜びもありました。今家族の中心になっているお母さんは病気の子供や孫の世話で休まる時がありません。支援相談員になった文恵さんの先輩に当たる熊谷さんと運良く出会うことが出来、私たちのバスの仲間になることが出来たのです。子どもたちの高校生時代からの家庭訪問などを通じて知らない関係ではないのですが、こうして新たな出会いが出来ることは本当に嬉しいことです。
帰りの日暮里駅には文恵さんの妹の恵さんがお母さんを迎えに来ていました。僕とも久しぶりです。姉妹とはいえ、当然のことながら、容貌も性格も違った二人であることを改めて確認しました。
②菅沼さん・熊谷さん・上村さんら2世の活躍。
3人は今年度から区や市で残留孤児の支援相談員として活躍しています。最初の二人は私たちの元生徒、上村さんは私たちの生徒だった人の従姉です。このバスの旅では通訳を始め夜の交流会の司会など残留孤児2世ならではの役割をみごとに果たしてくれました。高校を出て20年近く経っています。
菅沼さんとはまさに20年ぶりの再会、上村さんとは初対面です。日暮里駅に迎えに来たお二人のそれぞれのお連れ合いに挨拶することが出来ました。熊谷さんのお連れ合いにはかつて川越に来て貰ったこともあります。三人がそれぞれに良い伴侶を得て、今、人の役に立てる歩みを印しているのです。心強く感じました。
③ 中国語を習っている日本人の参加。
カツヨシさんの紹介で残留孤児世代の女性たち3人が中国人の中国語の先生と一緒に参加してくれました。残留孤児の方々と出会うのは初めてだといいます。夜の交流会では日本舞踊や落語を披露して場を和やかにしてくれました。今までに若い日本人の参加はあったのですが高齢の方の参加は初めてです。これをきっかけにして同世代の交流が深まるとしたら画期的なことです。帰国して二十年にもなるのに日本人との出会いが無い人も少なくありません。期待がふくらむ思いです。
④モンゴル族・朝鮮族の若者の活躍。
モンゴル族のブリンさんがソドさんを誘ってくれました。法政大学の高柳さんが朝鮮族の朴さんに参加を勧めてくれました。こうして中国の少数民族の3人の娘さんが出会い深い交流の一時をもったばかりか、モンゴルの歌や踊りを積極的に披露して参加者を魅了し励ましてくれました。また、彼女らの抱える悩みやモンゴル社会の様子も少しはうかがえて親しみが沸いてきました。
⑤植林活動がもたらした喜び。
今回の移動教室のテーマは「足尾の山で感じる森と水のめぐみ……足尾に緑は蘇ったか」です。豊かな森があればこそ水の恵みにありつけます。
国威と利潤の追求に目がくらんでいるうちに森と川を殺してしまった古河と大日本帝国。彼らの残した廃虚にたって森と水の恵みに気づいてほしいと思ったのです。
失われた森を蘇らすことはほとんど不可能です。それでも「足尾に緑を育てる会」の植林活動はやむことなく続いています。この日も私たちの他にもう一つの団体が植林にやってきました。苗床の整理や苗の準備、植裁の補助など何人ものボランティアの方々が応援してくれます。この会の副会長の秋野さんは遠く今市から駆けつけてきたのです。
私たち19家族・個人はガマズミ・コナラ・エゴ・ケヤキなどの苗を19本、足尾ダムの少し上流の斜面に植えました。僕は斜面に登って穴を掘り始めたものの体力が続かず、へたり込んでしまいました。結局の所、妻は自分が植えるつもりだったケヤキの植林をあきらめ、夫婦で一本のガマズミを植えました。僕のていたらくに気づいた菅沼さんも手伝ってくれました。
帰りのバスの中の反省会(?)で数人から植林活動に関する発言がありました。青年期から社会活動に取り組み、挫折感のある熊谷さんは大勢の人々の営々たる植林活動を見て励まされ、希望を感じたといいます。モンゴルから来たブリンさんはいいます。砂漠化が進行する故国の人々に日本人のあきらめないで植林に励む姿を伝えたいと。
参加者の一人一人がこの活動に参加できたことに喜びを感じたようです。また植林に来たいとか、十年後や二十年後に植えた木の成長具合を見に来たいとかの声もありました。
私たちは水道の蛇口をひねるときに、人知れず木を植え続ける人々や自分が植えた木のことを思うことができる人になったのです。そのことを僕は心から喜んでいます。
自然の恵みに生かされているという自覚なしに、人類の希望も未来もありません。
⑥中国人犠牲者への思い
二日目の朝、宿近くの「中国人殉難烈士慰霊塔」を訪ねました。第二次大戦末期、政府と古河は日本軍の捕虜となった国民党軍や八路軍の兵士をこの地に連行し、強制労働の末、多くの犠牲を余儀なくしたのです。
帰りのバスの中で1939年生まれの「中国残留日本人孤児」田村さんが精一杯の日本語でその思いを語りました。艱難辛苦の果てであったにしても自分はともかく父祖の地・日本にたどり着くことが出来たのです。この慰霊塔にその名を刻まれた人々は帰郷の願いを果たすどころか苦役と飢餓のただ中に追い込まれ、絶命していったのです。その人々の思いとはどんなものだったのでしょう。田村さんの自分の運命に引きつけた中国人死者への思いが私たちの胸をうちます。
残留孤児の人々の体験や思いは日本のかけがえの無い宝です。田村さんの短いお話はそのことを改めて深く思い知らせてくれました。歴史を学ぶとはどういうことか、私たちの移動教室はまたとない最高の学校なのです。
①栗田さん・上村さん・田村さんと「中国残留孤児とその家族」3組(9人)の初参加。
「残留孤児」の方々に<日本>を知って貰い、帰って良かったなあと一時でも思って貰うのがこの旅の主要な目的です。少しずつ、仲間が増えていくのは本当に嬉しいことです。
栗田さんは僕たちの生徒だった文恵さんのお母さんです。朝、日暮里駅で文恵さんに会ったのにはびっくり。彼女はお連れ合いと共に中国で働いていて旧正月にならなければ帰らないはずです。
僕は妹の恵さんがお母さんを送って来たのかと思い「姉さんとそっくりになったねえ」といい、暫くそのつもりで会話していました。お土産を貰ったり、「先生にも会いたかったから」「上のほうです」などというセリフを聞いてようやく文恵さんであるという事実に気づく有様です。ちょうど国慶節の休みで妹さんからの報せを聞いて帰国していたのです。
この家族にはここ数年父を喪う悲しみがあり、姉妹の結婚や出産という相次ぐ喜びもありました。今家族の中心になっているお母さんは病気の子供や孫の世話で休まる時がありません。支援相談員になった文恵さんの先輩に当たる熊谷さんと運良く出会うことが出来、私たちのバスの仲間になることが出来たのです。子どもたちの高校生時代からの家庭訪問などを通じて知らない関係ではないのですが、こうして新たな出会いが出来ることは本当に嬉しいことです。
帰りの日暮里駅には文恵さんの妹の恵さんがお母さんを迎えに来ていました。僕とも久しぶりです。姉妹とはいえ、当然のことながら、容貌も性格も違った二人であることを改めて確認しました。
②菅沼さん・熊谷さん・上村さんら2世の活躍。
3人は今年度から区や市で残留孤児の支援相談員として活躍しています。最初の二人は私たちの元生徒、上村さんは私たちの生徒だった人の従姉です。このバスの旅では通訳を始め夜の交流会の司会など残留孤児2世ならではの役割をみごとに果たしてくれました。高校を出て20年近く経っています。
菅沼さんとはまさに20年ぶりの再会、上村さんとは初対面です。日暮里駅に迎えに来たお二人のそれぞれのお連れ合いに挨拶することが出来ました。熊谷さんのお連れ合いにはかつて川越に来て貰ったこともあります。三人がそれぞれに良い伴侶を得て、今、人の役に立てる歩みを印しているのです。心強く感じました。
③ 中国語を習っている日本人の参加。
カツヨシさんの紹介で残留孤児世代の女性たち3人が中国人の中国語の先生と一緒に参加してくれました。残留孤児の方々と出会うのは初めてだといいます。夜の交流会では日本舞踊や落語を披露して場を和やかにしてくれました。今までに若い日本人の参加はあったのですが高齢の方の参加は初めてです。これをきっかけにして同世代の交流が深まるとしたら画期的なことです。帰国して二十年にもなるのに日本人との出会いが無い人も少なくありません。期待がふくらむ思いです。
④モンゴル族・朝鮮族の若者の活躍。
モンゴル族のブリンさんがソドさんを誘ってくれました。法政大学の高柳さんが朝鮮族の朴さんに参加を勧めてくれました。こうして中国の少数民族の3人の娘さんが出会い深い交流の一時をもったばかりか、モンゴルの歌や踊りを積極的に披露して参加者を魅了し励ましてくれました。また、彼女らの抱える悩みやモンゴル社会の様子も少しはうかがえて親しみが沸いてきました。
⑤植林活動がもたらした喜び。
今回の移動教室のテーマは「足尾の山で感じる森と水のめぐみ……足尾に緑は蘇ったか」です。豊かな森があればこそ水の恵みにありつけます。
国威と利潤の追求に目がくらんでいるうちに森と川を殺してしまった古河と大日本帝国。彼らの残した廃虚にたって森と水の恵みに気づいてほしいと思ったのです。
失われた森を蘇らすことはほとんど不可能です。それでも「足尾に緑を育てる会」の植林活動はやむことなく続いています。この日も私たちの他にもう一つの団体が植林にやってきました。苗床の整理や苗の準備、植裁の補助など何人ものボランティアの方々が応援してくれます。この会の副会長の秋野さんは遠く今市から駆けつけてきたのです。
私たち19家族・個人はガマズミ・コナラ・エゴ・ケヤキなどの苗を19本、足尾ダムの少し上流の斜面に植えました。僕は斜面に登って穴を掘り始めたものの体力が続かず、へたり込んでしまいました。結局の所、妻は自分が植えるつもりだったケヤキの植林をあきらめ、夫婦で一本のガマズミを植えました。僕のていたらくに気づいた菅沼さんも手伝ってくれました。
帰りのバスの中の反省会(?)で数人から植林活動に関する発言がありました。青年期から社会活動に取り組み、挫折感のある熊谷さんは大勢の人々の営々たる植林活動を見て励まされ、希望を感じたといいます。モンゴルから来たブリンさんはいいます。砂漠化が進行する故国の人々に日本人のあきらめないで植林に励む姿を伝えたいと。
参加者の一人一人がこの活動に参加できたことに喜びを感じたようです。また植林に来たいとか、十年後や二十年後に植えた木の成長具合を見に来たいとかの声もありました。
私たちは水道の蛇口をひねるときに、人知れず木を植え続ける人々や自分が植えた木のことを思うことができる人になったのです。そのことを僕は心から喜んでいます。
自然の恵みに生かされているという自覚なしに、人類の希望も未来もありません。
⑥中国人犠牲者への思い
二日目の朝、宿近くの「中国人殉難烈士慰霊塔」を訪ねました。第二次大戦末期、政府と古河は日本軍の捕虜となった国民党軍や八路軍の兵士をこの地に連行し、強制労働の末、多くの犠牲を余儀なくしたのです。
帰りのバスの中で1939年生まれの「中国残留日本人孤児」田村さんが精一杯の日本語でその思いを語りました。艱難辛苦の果てであったにしても自分はともかく父祖の地・日本にたどり着くことが出来たのです。この慰霊塔にその名を刻まれた人々は帰郷の願いを果たすどころか苦役と飢餓のただ中に追い込まれ、絶命していったのです。その人々の思いとはどんなものだったのでしょう。田村さんの自分の運命に引きつけた中国人死者への思いが私たちの胸をうちます。
残留孤児の人々の体験や思いは日本のかけがえの無い宝です。田村さんの短いお話はそのことを改めて深く思い知らせてくれました。歴史を学ぶとはどういうことか、私たちの移動教室はまたとない最高の学校なのです。