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川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

旧松木村の運命 張さんとブリンさんへ

2008-10-08 06:59:37 | 出会いの旅
 きいちごの旅の痛恨事は旧松木村跡に行けなかったことです。植林が終わったあと「足尾に緑を育てる会」の方の案内で現地に向かったのですが大型バスが通れないことがわかり断念することにしたのです。ですから煙害で今日なお草一本生えない荒涼たる風景を目撃する事はかなわなかったのです。

 優れた写真のレポートがあるので紹介します。   http://elcoyote.jp/column.2007.12.06.matuki.htm

 


 恨みを残して「かじか荘」へ行くバスを待つ間に中国人の張さんに松木村の人々の運命について聞かれました。
 僕は昔勉強したとき古河側が「山火事説」や「山林乱伐説」などを持ち出し、煙害による山村の荒廃をなかなか認めなかったことを思い出し、結局の所、村人はきちんとした補償を受けることなく四散していったのではないかと話しました。
 帰宅して調べてみると僕の説明は大まかにいえば当たっているようですが正確とはいえません。

 ウィキペディアの「松木村」にはこう書いてあります。

 伝承によれば、700年、日光を開いた勝道上人がこの地に入り、寺を建てた(方等寺)。1853年調査によれば、37戸178人が住んでいた。主な産業は農業で、養蚕のほか、大豆や野菜がつくられていた。ただし、田はなく、稲作は行われていなかった。

明治に入り、足尾銅山で銅が増産されるようになると、精錬に必要な木材が大量に伐採された。1884年以降、さらに、精錬所から出る鉱毒ガスおよび酸性雨により、山の木が枯れ始めた。

1887年4月、村で毎年この日に行われていた畦焼きという畑の枯れ草を燃やす作業を行っていたところ、この火が山林に燃え移り、下流の赤倉、間藤付近までを焼く大規模な山林火災に至った。この後、足尾の山はさらに荒廃が進んだ。ただしこれは、鉱毒ガスにより立ち枯れていた木に火が移ったために大火事になったのであり、山がはげたのは足尾銅山が原因であるという主張もされている。

火災ではげた山は、2005年現在もそのままである。これに関しては、単なる山林火災で山が100年以上も再生しないとは考えられず、足尾銅山の鉱毒ガスがはげ続けている主原因だという主張もかなりなされている。

この大規模山林火災のあと、村では産業がたちゆかなくなり、多くの村民は村を出た。この時代、足尾銅山側は、精錬に使用する材木を伐採するために松木に林道をつくることを計画。予定地を購入しようとしたところ、残留村民らは全村譲渡でなければ応じないと主張、裁判にもなった。

残留村民らは、田中正造が会長を務める足尾鉱毒被害救済会に救済を求めて、田中正造本人も村民代表らと面会をした。救済会の仲介もあり、1901年12月、足尾銅山側と交渉が行われ、残留村民24名(24家族)全員が、全村を銅山側に4万円で売却し一年以内に移転することで合意が成立した。救済会が仲介を行ったのは、松木の荒廃が鉱毒被害であるというように銅山側が事実上認めたためであるとされている。
   出典http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%A8%E6%9D%91


 カネの性格は曖昧ですが最後まで村に残った24家族に4万円が支払われたことは他の資料にも書いてあります。一軒あたり、1666円ということになります。この金額が今の貨幣価値でいえばいくらくらいになるのか僕には皆目見当がつきません。ですから中国人の張さんに説明が出来ません。当時の米価や公務員の給料などが参考になるかと思いますが資料をお持ちの方が居られたら教えてください。
 松木村は渡良瀬川最奥の村ですが僕が思っていたよりは遙かに大きく豊かな村だったようで「足尾郷最大の村」だったと書いてある本もあります。その村が壊滅に追いやられ、最後は涙金で始末されてしまったのです。

 張さんのそばに内モンゴルから来たブリンさんたちがいて、それでも住み慣れた村から離れることができなかった人がいたのではないかと聞かれました。とても住み続けられるような環境ではなかったと僕は答えたのではないかとおもいます。事実は一家族がかなり後まで住み続けていたといいます。「愛着」からなどとはとてもいえないようですが、住み続けたことは間違いないようです。ブリンさん、ごめんなさい。訂正してお詫びします。
 

 先ほどのウィキペディアにはこう書いてあります。この文章には出典が明記されていませんが参考までに紹介します。

 松木の不動産の所有権移転登記が行われたが、村民の星野金治郎は別の用があり、当日、登記に参加できなかった。これに対し、銅山側は登記日が同一ではないと困ると苦情を申し立てた。これに対し星野は激怒。移転登記は行わず、死ぬまで絶対に松木から出ないと宣言した。星野とその息子の2名を除く残留村民23名は、足尾鉱毒被害救済会に感謝状を贈り、村を出た。なお、星野以外の不動産所有権移転登記は主に1901年12月27日に行われ、1902年1月までに完了した。

星野は宣言どおり村に住み続け、立ち退こうとしなかった。移転登記が行われなかったため、銅山側も合法的に星野を旧村外に移転させることができなかった。銅山側は、たまたま星野宅付近に銅山施設で使用する水の取水口があったことから、星野は取水口の水番として雇っているということにして、それ以上星野に立ち退きを求めなかった。

銅山側は買収した松木の土地を堆積場とし、鉱石くずなどを次々に捨てはじめた。しかし、堆積場に行くためには、星野の土地を通らなければならなかった。星野は銅山側が土地を通ることを認めなかったため、ここでも紛争がおきてしまった。この紛争は後に星野が移転するまで続いたという。

最終的に、旧松木村の下流部に足尾ダムができると、1951年ごろ(1949年説あり)、星野親子は村を出て完全に無人化、約1200年にも及ぶ歴史にひっそりと幕を下ろした。


よかったなあ きいちごの旅

2008-10-08 04:14:24 | 出会いの旅
 5日、バスの旅の帰り参加者ひとりひとりの感想に耳を傾けながら「よかったなあ」と思っている自分がいました。昨日は一日寝たり起きたりでしたが疲れはもう取れたようです。
 第8回きいちご移動教室はぼくにとっては社会復帰最初の事業でした。みなさんに喜んでもらえて、かつ、無事終了できたのですからいうことはありません。

 何よりも天候に恵まれました。一日目の足尾は予報どおり快晴。問題は二日目です。予報では「曇りのち雨」なのです。起きて窓の外を見たとき朝日に輝く山の風景が飛び込んできました。どんなにうれしかったことでしょう。露天風呂に行くと松山さんが湯に浸っていました。僕よりは5歳上の「中国残留日本人孤児」です。遠い昔からの友人のようにあれこれと話しました。幸先のよい朝の風景です。

 この日の奥日光の写真をご覧ください。竜頭の滝もお昼を食べた戦場ヶ原も美しい秋の風情です。バスで通り抜けた金精峠は鮮やかな紅葉。
 

 http://www.nikko-nsm.co.jp/
  


 吹割れの滝の散策を終え、バスが関東平野に近づくころになって雨滴がフロントガラスにあたるようになります。多くの乗客は夢の中でしたがこのたびのガイド役を買って出た恵ちゃんが気づいて声をあげました。予報はやはり当たったのですが旅の疲れを癒す恵みの雨になったのです。