(2)供給と消費の一般式(2a)単純再生産式
環境世界は、生体の自己と自己自身の外部にある自然世界である。ここでの生体の自己自身と環境世界はともに生体に対して供給者となる。一方で生体の自己自身は消費者でもある。自己自身は供給と消費の両側に現れるので、消費において消滅し、供給において復活する。したがってそれは流動的な可変部分である。環境世界の供給分をKt、自己自身の供給分をLt、自己自身の消費分をNtにすると、供給と消費の全体は次の式で現れる。なおここでは供給は消費に必要な分だけが実現していると想定する。要するにそれは供給と消費が一致する総計一致である。この式が表すのは、左辺の環境世界と自己自身を、右辺の自己自身として消費する生体の新陳代謝である。
Kt+Lt=Nt …需給全体式1
(2b)価値単位
上記式は単一生体についても該当し、その空間的または時間的な複合体についても該当する。すなわちこの式は個体の集合体にも該当し、生誕から死滅に至る単体の生涯にも該当する。もしこの式を生体の時空間の複合体の式と捉えるなら、自己自身の必要な消費資材量Ntを生活個体の数Mtで均等に割ると、個体あたりに必要な消費資材の総量Nmを得られる。さらにこのNmを生体の平均的な生存日数Dtで均等に割ると、個体の一日あたりに必要な消費資材量Ndを得られる。このNdは余剰消費を含まない限り、生体の必要消費の下限を成す。それは生体にとって自らの死活を懸けた一日の生存に等しい。それゆえに個体にとってNdは、経済行為の価値単位として現れる。
Nm=Nt/Mt
=(Kt+Lt)/Mt …一個体あたりに必要な消費資材量式
Nd=Nm/Dt
=(Kt+Lt)/(MtDt) …個体の一日あたりに必要な消費資材量式
(2c)価値の二元論
(2c1)価値の二元論の収束
経済行為の価値単位Ndを限定するのは、環境世界Ktと自己自身Ltの各供給である。それは抽出された供給者の二部門であり、肉体の外と内の区別に即応する。しかし両者は区別されることにより価値の二元論を成す。ところが両者は別物ではなく、少なくとも供給者として同一である。また両者が別物ではないからこそ、供給は消費Ntに一本化する。そして商品価値の貨幣表現は、この一元化を前提にしている。当然ながらこの一元化の前提は、労働価値論と限界効用理論の両方に共通する。
(2c2)価値の観念論的一元化
さしあたり価値の二元論は、自己自身供給に一元化される。それは自己自身の一元消費に対応する。そもそも生体は、環境世界の供給を直接に内化できない。生体は常に、肉体の媒介を通じて環境世界の供給を内化する。このことは環境世界の供給を、常に自己自身の供給の姿にする。自己自身は、全ての供給と消費が現れる場である。またそうであるからこそ、供給と消費の両方において自己自身が現れる。さしあたりこの一元化は、独我論が行う観念の一元化に準じる。その純正観念論は、意識の一元化の根拠を、全ての物理表象が意識に現れることに見出す。ところが独我意識における印象は、その恣意的構成を除けば、構成要素の全てが所与である。そして所与とは、意識の外的実体に根拠を持つ現象である。それと同様に自己自身も、その自由な構成を除けば、構成要素の全てを環境供給に依存する。この自己自身の環境依存は、先の想定と逆に、価値の二元論を環境供給に一元化する。ところが環境世界は、それ自身が一元化し得ない多元世界である。生体における肉体の消費は、そのまとまりの無い全体を一元化する紐にすぎない。しかしこの紐は、自己自身が環境多元を正す媒介となる。それと同様に独我論も、意識が物理汎神論を正すための媒介になっている。とは言えこの価値の観念的一元化は、その物理的一元化のための媒介を超えない。
(2c3)価値の物理的一元化
多元的な環境世界を一元化の根拠に据える場合、それ自身の多元性が一元化に困難をもたらす。その生活に必要な消費資材は、多種多様に及ぶだけでなく、その内訳も個体が生活する地域の気候、また時代と地域に応じて変化する。それは環境世界への一元と逆に、価値を多元にする。この場合に価値単位の内容も、環境世界と自己自身の二元理解に留まらず、もっと動的な多層構造になる。これに対して肉体は、生体の個体差を度外視するなら、その生理的構造がほぼ均一で普遍的である。それゆえに価値は、もっぱら自己自身供給の姿に一元化される。その究極に一元化した価値は、存在者に対して生体が持つ快不快として現れる。ところがこの観念論の理屈に関わらず、自己自身供給は常に環境供給の変様である。またそもそも肉体自身が、内化されただけの環境世界である。すなわち自己自身供給に一元化した価値は、環境世界供給を実体にする現象であり、その逆ではない。このことはやはり根拠づけの最奥部に環境世界を現す。当然ながらこのことは、先に回避した動的な多層構造を得た環境世界の一元的全体に据える。それは環境供給の全体Ktである。そしてその環境供給は、自己自身供給Ltを包括した全体である。したがって基本的な価値の単位は、環境供給の全体である。要するにそれは、自己自身を含めた環境世界の全体である。環境世界を構成する個々の存在者の経済的価値は、その全体に対する部分を成す内包量として現れる。
(2c4)等価交換
個々の存在者の価値は、環境供給全体に対する部分の大きさとして現れる。このことは自己自身の供給部分の価値に対しても該当する。それはそのままその生体の価値となる。もちろんこの同じことは、個々の生体全体においても該当する。それゆえに生体全体の価値は、生体全体の自己自身供給部分の価値である。そして生体全体は、自らの内に相互依存する個体を含む。それゆえに生体全体の自己自身供給分の価値は、個体数による個体あたりの生涯価値を限定し、さらに生涯日数による個体の一日あたりの生活価値を限定する。その生活価値は、要するに個体が一日あたりに必要とする消費資材の全体である。それは一日あたりの個体の経済的価値である。個体は一日に為す経済的行為を、この一日あたりの個体の経済的価値と交換して生き長らえる。すなわち個体は環境世界に自己自身を提供し、その代償として環境世界から供給を受ける。さしあたりその経済行為は、余剰供給または余剰消費を含まない限りで、供給と消費が一致する総計一致にある。その経済行為は、生体と環境世界の間に展開される等価の物品交換になっている。すなわち個体の一日あたりの行為の全体は、環境供給の一日あたりの物品の全体と等価で交換される。またそれ以外に無い。ただしその等価は交換の前に決まっているのでなく、交換において決定される。またそれだからこそその一日の交換に現れる物品の全体は、そのまま個体の一日あたりの生活価値に等しい。そしてここでの個体の一日あたりの生活価値は、個体の一日あたりの労働価値に等しい。それが労働価値に等しいのは、供給と消費の総計一致に従う。単純に言うとこの総計一致と等価交換は、同義である。ここでの単位時間当たりの労働力は、物品の価値を限定する価値単位となる。労働力が価値単位であるのは、肉体を媒介にして生体に現れた環境世界の単なる物理である。
(2c5)個別の物品価値の擁立
環境供給と自己自身供給の等価は、そのまま自己自身供給同士の等価に波及する。もともと個体にとって他の個体は環境世界の一部である。その面で既に両者の交換は、個体にとって等価交換とみなされる。加えて個体間において個体あたりの生活に必要な消費資材の大きさに差異は無い。それゆえに各個体で一日当たりに取得した環境世界供給は、その内訳となる物品に差異があっても、その全体はそのまま等価となる。それゆえに分業が進展して物品生産の分化が進んだ社会であるなら、個別の物品の価値も簡単に限定される。例えば大根農家が一日に生産する大根総数は、他のニンジン農家が一日に生産するニンジン総数と等価で交換される。この交換における個々の物品の等価数量比は、そのまま個々の物品の単位価値の貨幣表現を基礎づける。これらの全ては、各個体が生き長らえるために、肉体を媒介にして生体に現れた環境世界の単なる物理である。そのようにして個体が一日あたりに生産する物品と行為の全体は、市場において他の個体が一日あたりに生産する物品と行為の全体と等価で交換される。またそうでなければ不等価交換の一方で常に無駄に物品が余剰し、他方が不当な労働収奪の餌食となって壊滅する。したがって市場経済において餓死が蔓延していないのであれば、その社会ではおおよそ等価交換が実現していると見込める。なお環境供給と自己自身供給の間の交換と違い、市場における個体間の自己自身供給の交換は、交換の双方にとって物品の等価数量比が不明瞭である。その等価交換を実現する単位あたりの物品価値の調整は、市場における物品の需給運動に委ねられる。なおこの需給間の物品価値の調整を行う市場の抽象的役割は、分業を通じて業務的に分離され、商人へと人格的に外化する。
(2d)投下労働価値と支配労働価値
労働価値論は、現在では投下労働価値論として収束しているが、その始まりでは支配労働価値説との二本立てで現れた。両者の差異については別記事でも述べているので、ここでは少し角度を変えて論じ直す。まず投下労働価値説は、商品における価値を商品再生産に必要な労働力の投下量で説明する。ここでの商品価値は、実際には商品に内蔵されていない。さらに言うなら物品自体に価値は無い。商品価値は商品に外側から謬着しているだけである。これに対して支配労働価値説は、商品における価値を商品が実現する労働力量で説明する。それは商品が支配する内蔵の労働力量であり、商品が購入者の手元で発現する労働力を表す。したがって支配労働価値説における商品は、労働力版蓄電池に例えられる。その労働力量の大きさは、商品生産にあたり投下される労働力量を期待される。しかし必ずしもその労働力量より小さいとも大きいとも言えない。それどころかおそらく支配労働価値説が期待するのは、投下労働力量を超える労働力の商品による実現である。このような永久機関式商品は、さしあたり資本が該当する。ただし厳密に言えば、永久機関式商品に該当するのは、労働力商品としての労働者だけである。それ以外の商品は永久機関式機能を持たない。当然ながら資本の永久機関式特性も、労働力特性に根拠を持つ。そしてその特性は、労働力自身が価値単位であることに従う。そのような自己増殖商品には野菜や家畜もいる。しかしそれらの商品価値は、その再生産にあたり必要な投下労働力量を超えない。逆にその自己増殖能力が高まると、むしろその商品価値は下がる。それと同様に商品の生産効率の向上は、該当商品の価値をひたすら極小化させる。しかもそれらの価値下落は、価値単位としての労働力を、足並みを揃えて極小化させる。このときに商品価値の下落幅が大きければ、その比較デフレは労働者を一瞬だけ豊かにする。逆に労働力価値の下落幅が大きければ、その比較インフレが労働者を長らく貧困にする。しかし資本主義社会においてその差異は、労働者を繋ぐ鎖が金に向上するか、銅に格落ちするかの違いに留まる。結局それらの価値下落は、常に相対的なものである。それゆえに労働力の価値下落が価値ゼロに到達するのはもちろん、マイナス価値の世界に入り込むことは無い。それが起こり得るとすれば、それは働かないほど豊かになる奇怪な世界である。言い換えると労働力を除いた永久機関式商品は、労働力が価値単位として存続する限り、実現不可能である。そして労働力が価値単位として破棄された社会とは、少なくとも資本主義社会ではない。さしあたりこの永久機関式商品の不可能は、支配労働価値説の誤謬を示す。限界効用理論は、この支配労働価値説の亜種である。限界効用は効用を商品価値として捉える。しかしそれは価値実体から遊離した快楽であり、阿片に等しい。
(2023/03/31)
続く⇒序論(4)分業と階級分離 前の記事⇒序論(2)過去に対する現在の初期劣位の逆転
数理労働価値
序論:労働価値論の原理
(1)生体における供給と消費
(2)過去に対する現在の初期劣位の逆転
(3)供給と消費の一般式
(4)分業と階級分離
1章 基本モデル
(1)消費財生産モデル
(2)生産と消費の不均衡
(3)消費財増大の価値に対する一時的影響
(4)価値単位としての労働力
(5)商業
(6)統括労働
(7)剰余価値
(8)消費財生産数変化の実数値モデル
(9)上記表の式変形の注記
2章 資本蓄積
(1)生産財転換モデル
(2)拡大再生産
(3)不変資本を媒介にした可変資本減資
(4)不変資本を媒介にした可変資本増強
(5)不変資本による剰余価値生産の質的増大
(6)独占財の価値法則
(7)生産財転換の実数値モデル
(8)生産財転換の実数値モデル2
3章 金融資本
(1)金融資本と利子
(2)差額略取の実体化
(3)労働力商品の資源化
(4)価格構成における剰余価値の変動
(5)(C+V)と(C+V+M)
(6)金融資本における生産財転換の実数値モデル
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