ハイデガーは自らの哲学を解釈学と命名したことに、すでにハイデガーがとろうとした問題接近方法および解決方法を示している。それは対象をあるがままに捉え、それを解読すれば、おのずと対象の意味を得られる、というものである。これは師匠のフッサール譲りの現象学の方法でもある。
師匠のフッサールは、認識において認識主体と認識対象の不可分性を示し、志向という表現で認識論を根底から見直した。ここには語の解読だけがあり、語の含む要素だけで志向の解明を行っている。
この方法はある意味で当たり前の話でもある。資本論でのマルクスの商品分析も、同じ方法をとったとみなして良い。従来だと当たり前だったことを、ことさら強調しただけでもある。しかしこの当たり前のことが、意外と重要なのである。
例えば、言葉は伝達手段である。言葉は紙などの記録素子に蓄積可能であるが、いずれにせよそれは蓄積後に誰かに読まれるのを前提する。つまり言葉は、伝達されるのを前提にする。
伝達相手が他人でも、後日の自分でも同じである。日記に記録された言葉も、後日の自分が読むのを前提にしている。独り言も大差は無い。独り言はもっぱら、一瞬後の自分に言い聞かせるために、一瞬前の自分が発するものだからである。
このことは、伝達不能な言葉とは、言葉ではないのを示す。伝達相手に読まれた言葉が、相手にとって意味の判読をできないのだとすれば、つまり語意が伝わらないのであれば、それは言葉として失格なのである。
ここで主体的条件と客観的情勢の理屈を出すのは、無意味である。つまり受信者の受信能力を問題にするのは、無意味である。一般に言葉を発する時点で、発信者は言葉に含ませる情報を、発信者が想定する受信者にとっての文意判読可能な形で、決定しているためである。その限りで、受信者が意味を判読できないのであれば、発した言葉には受信者の判読に必要な情報が欠けていたことになる。つまり受信者が発信者の言葉を判読できないのは、発信者の言葉に欠陥があるだけとなる。
もともと受信者にとっての困難は、発信者の言葉を判読するための情報が、送られた言葉の中でしか得られないことである。その情報が言葉の中に無ければ、受信者が発信者の言葉を判読できないのは当然の結果である。一方の発信者にとっての困難は、受信者の無理解がいかなる情報の欠如に起因するのか不明なことである。
とはいえ意味伝達が不成功に終わった結果は、発信者が全て責任を負う必要がある。いわば発信者は教師であり、受信者は生徒であり、教師が生徒の無理解を責め立てるのは許されないためである。そもそも他者への文意伝達は、発信者が自らに課した義務である。したがって文意伝達に必要な文章の簡明化も、発信者が自らに課すべき義務となる。
ちなみに送信者の言葉に文法的誤りがあれば、受信者の無理解は当然である。また送信者の言葉の文章構成に間違いがあれば、受信者の無理解は当然である。さらに送信者の言葉の文章構成が複雑怪奇であっても、受信者の無理解は当然である。受信者が悪意をもって理解を拒む場合、受信者の無理解はひとまず当然である。しかし発信者の目的は、意味の伝達である。基本的に発信者は、伝達方法を改良してでも悪意の受信者に対し、意味の伝達をするべきである。なぜなら、おそらく悪意の受信者こそが、発信者が意味を伝達したい当の相手だからである。そもそも受信者の無理解は、伝達行為の前提である。理解している受信者に対して言葉を伝達する必要性は、もともと無い。また悪意の受信者への意味伝達の挑戦が、芸術の起源にも関わっているはずである。
言葉の発信者は、これら全てを含めて言葉に責任をもつ。それをせずに言葉の受信者の無理解を責め立てるのは、笑いをとれない芸人が客にその責任を転嫁するのと同じである。そのような芸人は、芸人失格である。むしろ笑わない客を笑わせてこそ、一流の芸人のはずである。
なお言葉は伝達手段である以上、そこでは意味の伝達が可能なことを前提にしている。それが示すのは、言葉の意味の共有可能性であり、異なる意識の間で同一認識が可能だという大前提である。つまり認識対象に対する不可知論は、言葉に発した段階でその主張を自ら放棄しているわけである。
上記は、言葉という語の解読結果である。
ハイデガーはこのような形の問題への接近および解決を、開示と呼ぶ。しかしハイデガーのこの問題接近方法および解決方法は、解読開始以前の了解事項を展開するだけの中身でしかない。マルクスの言い方にならえば、下向分析をまとめた後の上向展開にすぎない。ハイデガーはこの点に無理解であり、ひたすら語の解読に励んでいる。ついには語源追跡を経て、単なる国語学者になったのが、ハイデガーの末路である。
(2011/01/07)
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