唯物論者

唯物論の再構築

俗物3

2013-05-07 08:18:31 | 思想断片

 先の記事(俗物2)において筆者は、俗物の素養を会話能力の欠陥として説明し、俗物における会話の無意味化を指摘した。そして筆者は俗物の最終形を、自由をもたない人間、すなわち物体化した人間に帰結させた。今回は、俗物が開陳する戯画的な人間観を通じて、俗物が持つ非人間性に迫りたい。

 既に述べたように、俗物には会話関係における了解事項についての状況認識力および判断力が欠如している。それは俗物が出会い会話するところの人間全般を、俗物が全く理解できないことを意味する。もちろん俗物であろうとなかろうと、人間は誰でも、出会い会話するところの相手の全てを理解できるわけではない。しかし俗物ではない人間は、出会い会話するところの相手が、なんらかの過去を受けて現在に至り、何らかの目的に向かって現在を生きているのを想定する。つまり相手の不可解な行動に対して、その行為に何らかの理由を見出そうとする。それに対して俗物は、出会い会話するところの相手が、いかなる過去をもって現在に至り、どのような目的をもって現在を生きているのかについて興味を持たない。つまり相手の不可解な行動を見ても、その行為に何らの意味を見出さない。結果的に俗物は、相手の行動を生来的な傾向として理解することしかできない。俗物にとって相手の行動は、なんらかの過去を受けた一つの必然なのではなく、生まれついて天が与えた役割が現れただけの単なる偶然なのである。俗物のもつ人間観は、戯画的な勧善懲悪の人間観だと言って良い。
 このような俗物的人間観は、例えば宗教関係者が示す唯物論者や共産主義者に対する侮蔑表現に端的に現れる。彼らは、痛みを感じない物体として人間を扱う思想が唯物論だと決め付け、その本質を無神論に見出す。そこで彼らは、唯物論者に与えられた生来の役割が悪だと考えて安心する。そしてその同じ宗教関係者は、悪人論においても、同様の俗物的人間観を提示する。この手の宗教関係者にとって悪人は、生まれついて悪の役割を与えられた人間である。せいぜい信仰の欠如が悪人を生むだけであり、貧困や差別の現実が悪人を生むわけでは決して無い。宗教関係者を含め、観念論者は、意識が現実を規定すると考える。だからこそ彼らは、信仰の欠如という因果でしか悪の必然性を語れないわけである。ただしそのことは、見方によれば宗教者の利点にもなる。宗教者は、悪人の過去に論及することなしに、悪人を許すことができるからである。これは触れられたくない過去を持つ全ての人間に対し、宗教が放つ最高の贈り物である。信仰への帰依一つだけで、悪人は救済されるからである。このような単純性は、偽善者に免罪符をもたらす問題点を度外視して言えば、悪人を含め、全ての救われない魂の救済に対して有意性を持つ。まさしくそれは、神の恩寵だと言って良い。ただしその単純性は、俗物的人間観が持つ非人間性を免罪するものではない。なぜならそれは、生来の身分差別を想定しており、善悪を単なる偶然に押し留め、実際には悪を理解しようとせずに、説教臭い言葉で悪人を憐れむからである。そもそもこのような俗物的人間観は、因果を拒否した非合理にほかならない。
 人間から過去を消失させた場合、人間の悪は個人の意識から発生するしかない。このために宗教における悪との対決は、意識改造を通じた個人の洗脳、すなわち信仰の強制として現れる。この観点では、教育の機会均等や富の分配のような現実的な社会システムの変更は、せいぜい信仰拡大の派生態としてのみ現れる。なるほど結果として社会変革が進むのであれば、宗教を起点にした悪との対決も悪くないように見える。ところがその成功は、宗教者および彼らの教義の倫理的正否の枠に支配されている。例えばイスラム原理国家は、過去の封建体制による国民の隷属支配や外国資本による帝国主義的支配を、神の名の元に国内から駆逐する役割を果した。しかしイスラム原理主義革命の正統性はそこで止まっており、女性の政治的権利の剥奪や国内の対立宗派の弾圧などに見られる人権問題、さらには近隣国との軍事的緊張と対立を、むしろ自らの宗教的教義から派生させている。このような不都合に対して宗教者は、各宗教における真偽比較を導入し、これは正教、あれは邪教と分けて説明したがる。つまり自らの教義を相対化し、事実関係を基準にして宗教の客観的把握を考えようとする。しかし単なる観念としての宗教教義を離れ、具体的事実の側から宗教を分析する時点で、既にその説明は宗教の枠から外れてしまう。言い換えればそれは、科学であり、唯物論である。だとすれば、宗教を起点にした悪との対決などという遠回りは、そもそも最初から行なう必要が無かったわけである。つまり悪との対決は、宗教という媒介を経ずに、直接に悪の原因、すなわち悪人を社会に生みだした現実社会の困難との対決となるべきである。当然そのことは、人間を論ずるにあたり、人から過去を消失させてはならないという人間把握の原則を提示する。つまり人間の悪は、人の過去を構成する現実世界から発生するのであり、個人の意識から発生するわけではないのである。ちなみにこの人間把握の原則は、「罪を憎んで人を憎まず」という古来から伝わる性善説を、形式を整えて言い直しただけのものである。

 他人に不快な思いをさせてはならない、迷惑をかけてはならない、または自他共に楽しく人生を過ごすべきである、困った人を助けるべきである、という人間社会の一般原則は、全人類が共有する社会的倫理である。当然ながら悪人と言えども、この倫理原則を共有している。性善説の理解では、悪人は基本的に、この原則を理解しているのだが、ただ実践できないだけの人間として現れる。もちろん場合により悪人は、狂熱のような興奮の中で能動的に悪行をするかもしれない。例えば集団暴行や窃盗行為、または自爆テロなどを、悪人は喜んで行なう場合がある。そうだとしてもそれは、悪人が自らの悪行の意味とそれがもたらす結果を理解していないことから起きた悲劇であり、社会がそのような理解を与える役目を果さなかったことの一つの結末だと、性善説は理解する。すなわち性善説は、教育の物理的破棄をもたらす社会構造に対して、悪の一つの原因を見出す。悪とは、社会システムの欠陥の現れにすぎない。そもそも悪行とは、ヘーゲルが述べたように、個人の自己破壊である。悪人は、他者を破壊すると同時に、実際には自らをも破壊している。人間は、そのような自己破壊を誘発したのは一体何だったのかを知る必要があるし、それに対応した社会変革をするべきである。なるほど社会変革は万能薬ではなく、不可能を可能にすることはできないかもしれない。また現代社会は、博愛を唱えて、罪に対する罰を無くすべきだと要求できる局面にも無い。しかし変革への諦めが可能だとすれば、せいぜいそれは、打つ手無しの状況が明白な場合に限られるべきである。
 俗物的人間観では、悪を行なう人間が単なる悪人としてのみ現れる。悪人は人間の倫理原則を承知していたとしても、それを無視して悪を行なうだけである。この人間観において俗物は、悪人が悪を行なうことに対して、なぜ悪人が道を外したのかという理由を考えようとしない。それどころか俗物は、悪行の動機を理解すること自体に不快を感じ、なぜか積極的にそれを拒否する。一方で、問題事象に対する科学的な対処は、問題事象の原因を考えて、その原因を解消することにある。そうでなければ、問題事象は、何度でも繰り返し発生し続けるし、せいぜい形を変えた問題事象として再発するだけだからである。このことは、原因の消失が結果の解消に繋がる、という科学の確信を表現している。もちろんその確信の根拠は、科学が持つ物理的因果の是認にある。そして俗物的人間観は、このような科学的な対処の対極に立っている。当然ながら俗物的人間観は、科学的な対処を阻害し、問題事象の解決を困難にする役目を果すことになる。ちなみに性善説は、社会の内に悪の発生を許容する現実が存在せず、悪の撲滅が現実的であるなら、社会から実際に悪が根絶されるであろうと楽観的に考えている。性善説はその楽観性の根拠を、科学と同じく、物理的因果に対する確信に措いている。
 「常識」とか「普通」という言葉がある。俗物は悪人を、ただ単に社会の「常識」とか「普通」を理解しない人間として捉える。しかし実際にはほとんどの悪人は、その「常識」とか「普通」を理解している。同じように俗物は悪人を、自らの悪行が悪であるのを知らない人間として捉える。しかしほとんどの悪人は、自らの悪行が悪であるのを知っている。したがって悪の問題は、悪人が社会の「常識」とか「普通」を理解せず、悪が何かを知らないことにあるわけではない。つまり悪人の側がもつ悪に対する問題意識は、そのような平板な次元を既に超えている。もっぱら悪人たちは、自らの行為が悪であるのを承知で、悪行に手を染めているからである。確信犯として悪を行なう者に対し、「常識」とか「普通」という表現は、何も役割を果さない。むしろ「常識」とか「普通」という言葉の響きは、悪人にとって不快なはずである。それらの言葉は、悪人が抱えた個別の事情に敵対しており、非常識で異常な人間として悪人を追い詰める。実際には悪人は、なぜ自分が非常識で異常な人間なのかを理解できない。またはそのように自分が言われるのがなぜかを、頭で理解しても心で納得できない。なぜなら悪人が抱えた個別の事情は、悪人自身が嫌悪する特殊な事情であるのに関わらず、悪人の人生にへばりついて来たからである。つまり気付いたとき既に悪人は、世間的に見て非常識で異常だったのである。本当に普通なのは世間なのか自分なのかを、悪人は謙虚に考える。ところが謙虚に考えるほど、自分ではなく世間の方が普通なのだという答えが返って来る。自分の方が普通なのだという傲慢な主張は、悪人といえどもできない。このような悪人たちが抱える生来の非常識と異常とは、端的に言えば無所有である。すなわち貧困という一般的な事情が、悪人たちにおいて、もっぱら自らに与えられた個別の事情として現れる。悪人を憤慨させるのはそれだけではない。相手の事情に配慮しない俗物の冷酷さが、渡る世間の冷たさとして幼い悪人たちに追い打ちをかけるからである。俗物の発言は、簡単である。「なぜあなたは普通ではないの?」「常識を持ちなさい」。ここから、怒りと憎しみを胸に、世間に顧みられない自らの現実を根城にして、敢えて悪に身を投じる悪鬼たちの闇の個人史が始まる。最初のうち悪人を世間への怒りと憎しみに駆り立てたのは、相手の事情に配慮しない俗物の冷酷さだったかもしれない。しかしすぐに悪行がもたらす一時的な快楽は、悪人たちを悪の中毒患者に変えてゆく。悪人の中に潜む良心が、時折かつての陽光の下にある表街道へと悪人をいざなうが、悪人はその想いを断ち切るように自ら闇の中へと落ち込んでゆく。闇の世界の住人になった悪人は、陽光の下に戻ることに絶望しており、そのためには悪事において成功するしか道は無いと思い込んでいる。もちろんそのことは、世界に恐怖と苦痛を振り撒き、悪の同胞を自ら産み増やす地獄の道にほかならない。
 無所有であることだけが、所有を告発する権利を持つ、という思想がかつて存在した。しかしその思想は既に、古びた過去の遺物とみなされている。福音は、どこにも見えないかのようである。
(2013/05/07)


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