唯物論者

唯物論の再構築

ヴィトゲンシュタイン(1)

2013-08-16 21:03:01 | 思想断片

 キェルケゴールがヘーゲルに対して得た感想は、「ふむふむなるほど。だからどうした!」である。ハイデガーがフッサールに対して得た感想も、「ふむふむなるほど。だからどうした!」である。そして筆者がヴィトゲンシュタインに対して得た感想も「ふむふむなるほど。だからどうした!」である。そもそもヴィトゲンシュタインが、自らを含めた哲学に対して得ている感想も「ふむふむなるほど。だからどうした!」である。したがって筆者の感想も、あながち間違いではない。とはいえ、それで彼の功績を全否定するわけではない。筆者が最も関心しているのは、ヴィトゲンシュタインが直観の形式において、カント式の時空二元論を、時空色の三次元に拡張している点である。ただしこれに対する世間的評価は必ずしも高くない。と言うよりも、ほとんどそれは無視されている。なぜなら色を存在の形式に加えるのは、ギリシャ哲学以来続く形相と質料の区分、およびカント以来続いてきた直観の形式設定の哲学的伝統に風穴を開けることだからである。だからこそ講壇哲学会に生き残ろうとする者は、敏感にそれを察知し、敢えてそのことに触れようとしない。ヴィトゲンシュタインは、講壇哲学の外側に生まれ、その天才を評価され、講壇哲学に迎え入れられた珍しい経歴の持ち主である。そのようなアウトロー的な位置は、講壇哲学の外側に生まれ、終生排斥されたキェルケゴールやマルクスなどを彷彿とさせる。そしてそのことが、哲学に関心を持つ若い世代を、ヴィトゲンシュタインに対する圧倒的な支持へと駆り立てる一つの理由となっている。上述の時空色の三次元論は、彼のアウトロー的経歴の哲学的象徴である。同時にそれは、ヴィトゲンシュタインが語らずに示した存在論を理解するための最大の鍵であり、ヴィトゲンシュタイン哲学の優位点と限界の全てを背負っている。

 語り得ぬものについて沈黙せよ、とヴィトゲンシュタインは言う。明らかにその言葉は、超越者を語るために、認識論の先行構築を要求したカントの哲学的方法論を踏襲している。両者ともに、認識限界の境界線を超えた超越者について沈黙を促すわけだが、肝心の境界線の策定に独断を持ち込まざるを得ない。カントにおいてその沈黙は、独我論を拒否した不可知論へと帰結した。カントにおいて独我論と真理の不在は、同義である。そして独我論の承認は、ヒューム経験論への屈服にほかならなかった。しかもカントは、有限者の認識と無限者の存在、すなわち物と物自体は異ならねばならないと考えた。このためにカントにおいても、ヒュームの不可知論を継承する形で、物自体の不可知は必然となった。一方でヴィトゲンシュタインにおける超越者についての沈黙は、カントとは逆向きに、不可知論を拒否した独我論へと突き進む。というのも彼において、むしろ独我論こそが真理の実在を可能にしているからである。すなわち独我論の前提が、不可知論の排除を可能にしている。そもそも他者の真理を語り得るなどというのは、彼から見れば不遜な態度である。当然ながら同じ事情は、無限者の存在を語る場合にも該当する。いずれも揃ってそれらの超越者は、語り得ぬという点で無意味な話題である。そしてそのような語り得ぬ事柄を排除して残るのは、有限者の真理を語ることだけであり、自らの認識を語ることだけとなる。このような独我論の承認は、カントとの比較で言えば、ヒューム経験論への回帰にほかならない。そしてヒュームと同様にヴィトゲンシュタインにおいても、現象の背後に物自体は存在しない。両者共に、現象の背後に現れる現象を見ようとしない。ヒュームと同様に彼は、現象間の因果を拒否するためである。彼におけるこの現象への回帰の仕方は、フッサール現象学に酷似している。もちろんフッサール現象学がヒュレー構造などの存在論を内包したのに対し、ヴィトゲンシュタインは存在論への没入を頑固に避けている。しかし両者は共に、ヒューム経験論との親近性に留まらず、先験理論を目指した現象論だという点で一致している。ただしカント以上にヴィトゲンシュタインは、超越が現象する構造へと近寄るのを良しとせず、そのために言語から共存在としての本質を剥奪した。しかし共存在を離れて言語を語ろうとする場合、そこで語られる言語は、二者の間に成立する言語ではない。そこで語られた言語は、一者において成立する言語でしかない。果たしてその理屈における言語は、言語と呼ばれるに値するのか怪しいものである。ヴィトゲンシュタインにおける前期と後期の興味方向の差異は、この点を軸に変化している。

 ヴィトゲンシュタインは、語り得ぬ事柄を語らないように、用心深く存在論への没入を避ける。しかし認識論を語る限り、その背景にある存在論は必然的に自らの姿を曝け出す。カントにおいても、超越と超越論を分断するその哲学的方法論は、既に存在論である。カント自らも、その分断こそが自由の形式であり、自由を可能にする意識の構造だと捉えている。カントと同形式の自由論は、ヴィトゲンシュタインの「論考」の中にもある。彼の場合、因果の不在が自由を可能にしている。すなわち過去と現在、および現在と未来の分断が自由の形式であり、自由を可能にする意識の構造となっている。これはフッサールの自由論と全く同じである。ただし彼らの自由論は、ともに観念論特有の自由論に留まっている。それらはともに、スピノザから自由の錯覚だと指摘されて終わるだけの理屈である。
 ヴィトゲンシュタインにおける存在論は、要素命題の扱い、およびそれが表す事態の成立/不成立の在り様にひとまず集約される。それ以外の事柄は、要素命題を含めた命題間の結合形式論理を説明しただけの記号論理学であり、存在論ではない。言い方を変えるなら、現代にあってそれは既に、数学に含まれるような形而下学にすぎない。ヴィトゲンシュタインの哲学は、論理的原子論として扱われており、その論理的原子に当たるものが要素命題となっている。要素命題は、命題として分解不可能な複合命題の最小単位を為している。要素命題は、相互に独立し、論理帰結し得ない関係にある。そうでなければその命題は、まだ分解可能な要素命題を含んでいる。複合命題とは、要素命題の真偽値とその結合演算子が表現する真偽の真理関数にすぎない。要素命題は事実を代表するが、複合命題は、事実を代表するわけではない。命題間の結合は、対象を持たないとみなされたからである。全ての複合命題の真偽を規定するのは、要素命題の真偽値、すなわち要素命題が表す事態の成立/不成立である。
 彼の述べる真偽世界では、要素命題を全て確定するなら、いかなる難解な言辞をも真偽判定できる。もし要素命題を具体的な物理命題として捉えるなら、その真偽世界は、あたかも唯物論的な世界となる。ヴィトゲンシュタインも、世界が意識から独立自存していると認めている。もし要素命題を抽象的な論理命題として捉えるなら、その真偽世界はあたかも観念論的な世界となる。ヴィトゲンシュタインも、世界が物の集まりではないと認めている。彼の真偽世界は、カントにおける物自体と同様に、物質と観念の両義性を得ている。ただしそこに拡がる世界は、因果関係を持たない平板な物理世界、または平板な観念世界であり、いずれにしても機械的である。そのような世界でなぜ運動が連なり得ているのかは謎である。しかも分解不可能で相互に独立した要素命題というものが、具体的にどのような命題を指すのかを考え始めると、一見簡明な彼の理屈も、次第に正体不明に見えてくる。
 例えば「我あり」と述べる場合、この命題は分解可能なのだろうか? フレーゲ流に、物理的実在の仮定を加えて自我の存在を理解するなら、自らの出生前にこの命題は、偽である。そう考えた場合、命題としての精度を上げて「一秒前に我あり」とするなら、この命題は真かもしれない。その限りで元の「我あり」の命題は、偽ないし無意味だったこととなる。また同じことで、「一秒前の東京に我あり」としなければ、この命題は偽ないし無意味かもしれない。つまり「我あり」は、時間や空間の条件付けにおいて真偽不確定な命題だったことになる。一方で頻繁に使われる表現として、「我を失う」という表現がある。つまり時空的に確定した物理的実在を得ていても、自我の成立状態において「我あり」という命題は、偽にも無意味にもなり得る。他方で、時空および成立状態において分解された特殊な自我を語ることは、「我あり」という命題における自我の一般性に反する。この観点では、自我の分解は逆に命題の意味を損壊してしまう。ヴィトゲンシュタインが言うように、合成された魂などというものは、もはや魂ではない。ところが「論考」における要素命題は、最小単位にまで分解し、限定された命題を目指している。一般命題は、要素命題により合成されたものにすぎないからである。
 このような文言の真偽不確定に対して一般に行なわれる対処に、「5W1H」がある。それは、「いつ何処で誰が何を何故どのようにした」の全てを明確にすることで、文意を明らかにする方法である。すなわち時期と場所、主語と目的語、原因と結果を明確にするなら、不明瞭な文言に留まる「我あり」についても、その文意を確定させ、そのことを通じて文言の真偽を確定させ得る。もちろんその場合でも、自我や存在が持つ名辞の意味の不明瞭は残るかもしれない。それでもこの世俗的な文意確定方法は、ヴィトゲンシュタインの言う要素命題を理解する上で非常に有効である。なぜなら5W1Hでは、時期と場所、主語と目的語、原因と結果の6要素が、文言一般の独立変数として現れるからである。すなわち文言一般として現れる複合命題の基本型は、それら6要素の論理積なのである。逆に言えば、それら6要素のそれぞれについて列挙可能な全ての値こそが、要素命題である。例えば時期要素について列挙可能な全ての値は、宇宙の始まりのその前から、宇宙の終りのその後までを含む全ての瞬間である。幅を持った期間や、定期ないし不定期に現れる時間実在命題は、瞬間実在命題の論理和を表現した複合命題である。また場所要素について列挙可能な全ての値は、宇宙の外側から意識の内奥までを含む全ての空間点である。広さを持った場や、散在や不定型を含む形で現れる空間実在命題は、空間点実在命題の論理和を表現した複合命題である。さらに主語や目的語、原因と結果を包括する属性要素について列挙可能な全ての値は、一般に質料とみなされてきた全ての物理的存在者、および観念的存在者として存在可能である。具体例としてそれら5W1Hの要素命題は、「2009年4月5日は、実在する」、「チェコ共和国のプラハは、実在する」、「オバマ大統領は、実在する」、「世界平和の理想は、実在する」、「人類絶滅の危機は、実在する」、「核廃絶の試みは、実在する」として、表現できる。いずれの要素命題も、「右方向がある」のように同語反復命題として無意味なまでの真を表現するか、「12月32日がある」のように矛盾命題として無意味なまでの偽を表現する。もちろん時期要素に対応する対象形式とは時間であり、場所要素に対応する対象形式とは空間である。そしてヴィトゲンシュタインは、属性要素に対応する対象形式を、色として表現した。カント以後、時空以外の形式が存在することを、誰も言い出せなかった。しかしヴィトゲンシュタインは、形式が存在可能性だと理解し、新たな対象形式として色を提示した。このように、時空の形式から漏れた存在に対応する対象形式を用意することは、哲学的常識破りとして勇気のある発言であり、哲学史に残る功績だと言って良い。ただし逆に、主語や目的語、原因と結果の4形式を、ひとまとめに色という形式の中に押し込めたところに、ヴィトゲンシュタインの妥協と限界を見出すことができる。ちなみにハイデガーの場合、目的語・原因・結果は、未来・過去・現在に対応している。それらは、サルトル流に価値・事実性・可能と言い表されても同じである。ハイデガーはそれらを、主語を中心に置いた時間性にまとめ、形式として言い表さずに、構造として従来の直観形式と別のものとして表現した。もちろんハイデガーはこの時間性を、存在という言葉の意味として理解している。
(2013/08/16)(続く)


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