唯物論者

唯物論の再構築

自我の先験性

2016-03-13 07:35:05 | 思想断片

 フッサールは、デカルトにおける哲学の第一原理、すなわち「我想う(我)有り」に現れる「我」を、全ての経験に先んじて現れる先験的自我だと捉えた。このフッサールの見解に従えば、デカルトが疑い得ない真理とみなしたのは、先験的自我の実在であり、経験的自我ではない。しかしデカルト以後における哲学は、必ずしも自我を先験的自我としてのみ捉えたわけではない。例えば経験論にとって自我は、反省的自覚において自己意識として存在するだけの経験的自我である。経験論は自我や世界を含め、意識に現れる全ての存在者を経験的印象に還元するからである。もちろんそれは、経験論がデカルト的懐疑を先鋭化し、全ての因果的必然を徹底的に疑ったことの一つの帰結である。当然ながらこの場合の自我実在の確実性は、哲学の第一原理に相応しない蓋然的真理に留まることになる。この経験論を反駁し、先験性に対する信奉を哲学の基礎に置いたのがカント超越論である。それゆえフッサールが考えるように自我を意識の先験的形式として扱うなら、カントによる経験論批判において自我実在の確実性も復権されたかのように見える。先験的なものを確実なものとするカント式思考で言えば、自我の先験性はそのまま自我実在の確実性と等しいからである。しかし実際にはカントにおいて自我実在の確実性は必ずしも復権されていない。そもそもカントは、フッサールと違い、自我実在の先験性を確実性の根拠に置こうともしていない。実際のところカントにおいて哲学の第一原理として現れるのは、自我実在の確実性ではなく、むしろ先験性それ自体の確実性である。なぜならカントにおけるこの第一原理の置換の必要性は、論理質料に対する不可知論を許容し、かつ不可知論から論理形式を守ることにあったからである。自我実在の確実性と先験の不可疑性の両者の同一視は、フッサール自身の言外の前提でしかない。すなわちデカルト的自我を先験的自我に扱うこと自体が、両者を同一視するフッサールの立ち位置を言明している。当然ながら、自我に先験性を見い出さないのであれば次のような三段論法も頓挫する。それは、「『自我実在は先験的である』かつ『先験的なものは確実である』、すなわち『自我実在は確実である』」と言う三段論法である。この三段論法は、『先験的なものは確実である』とするカントの独断に、『自我実在は先験的である』と言うフッサールの独断を接ぎ木しただけのものである。

 加えて自我実在の先験性は、現存在の先験性とも異なる。ここで言う現存在とは、経験的印象が現れる場のことを指す。なるほどカントは空間を物在の先験的形式とみなし、時間を意識の先験的形式に扱った。当然ながらカント式に現象全般を囲う箱として現存在を扱うなら、時空間がそうであるように現存在もまた先験的形式である。そして現存在を自我と扱うなら、自我は先験的形式となるであろう。ところがこの経験的印象が現れる場は、まだ自らを自覚する自己意識に達していない原初的存在であり、対象と自我が一体となっている主客未分離の世界である。ヘーゲルが述べるように、対象と自我の区別は既に相互媒介を含むものだからである。したがって現存在に現れる存在者は、現存在の多様を彩るだけの種々の模様に留まる。経験論的見方で言えば、それらの模様は何らかの明るさや熱や甘みや痛みとして現れる観念連合にすぎない。また唯物論的見方で言えば、それらの模様はそもそも意識ならぬ物理的存在でしかない。つまり原初的存在とは、自然世界の現れでしかない。唯物論では、例え快感や不快と言った価値的感覚であろうとも、それは自然物が特定の相手にもたらす特殊な物理的効果に過ぎないからである。またキェルケゴールは精神を自己とみなし、自己を自己関係とみなした。そのようなキェルケゴール的実存主義から見ても、この現存在は自我ではないし、精神の名にも値しない。つまり現存在は、先験的自我と呼ばれるのに値するような自我ではなく、むしろ自我ではない存在者全般、あるいは対象的意識や単なる自然世界として現れる。しかしそれでも現存在は、相変わらず自我の原初形態だとみなされるかもしれない。すなわち現存在は、狭義の自我ではないとしても、広義の自我だと言うようにである。しかしヘーゲルが示す形で現存在と自我を区別してみると、今度は広義の自我として現存在を扱うことに対して疑問が涌いてくる。自我と区別された現存在は、自我を含むにせよ、やはり自我と異なるのではないか?と言う疑問である。現存在と自我の両者を同一視する努力は、逆に両者を同一視できない現実を露呈するわけである。それゆえに先験的形式と自我を切り分ける見解では、今度は現存在と自我の二つの先験的形式の間に区別が持ち込まれるようになる。もちろんその考え方では、さらに現存在から自我へと先験的形式を分化させ、再び自我から世界へと意識が回帰するようなヘーゲルにおける自己意識の捉え方が生まれる。この捉え方からすれば、現存在と自我を同一視するような現象学の見解は、直観からピストルの玉のように自我を発射するシェリング流の形式的思考のごとく見えている。

 カント式の先験性に対する信奉を嫌うヘーゲルは、知覚の弁証法記述において、知覚の先験的形式の経験的発生を「これ」「ここ」「今」「我」の列挙において示した。もちろんその列挙は、カント流の一覧表式なものではなく、各形式の弁証法的生成を示した列挙である。すなわちヘーゲルにおいて現存在の形式的分離は、「これ」と言う言葉に始まり、「ここ」および「今」と言う言葉を生み出し、ようやく「我」と言う言葉に至る。この先験的形式の分離生成を行うのは、区別の成立、および区別の廃棄における無の働きである。ヘーゲルは二重否定の弁証法における無の役割を次のように述べている。「存在者は自らを対象化して定在に扱い、その定在を自分に取り戻す。ここでの無の働きは、自己対象化では自らを自らと区別して多数化し、自己復帰では逆にその区別を廃棄して自らを単純化している。」(p44) この二重否定の弁証法を「これ」「ここ」「今」「我」の知覚の弁証法に当てはめて言えば、次のようになる。存在者間に現れる各種の無が対象的多様を形成し、逆にその対象的多様を廃棄するとそこに「これ」と言う形式が現れる。そしてその「これ」の間に現れる各種の無が空間的時間的多様を形成し、逆にその空間的時間的多様を廃棄するとそこに「ここ」「今」と言う形式が現れる。さらにその「ここ」「今」間に現れる各種の無が気分思考的多様を形成し、逆にその気分思考的多様を廃棄するとそこに「我」と言う形式が現れる。自我についてのこのようなヘーゲルの捉え方では、自我は、意識による自らの対象化、または意識による他の対象との分離の自覚を契機にして初めて現存在に出現する。したがって先験性が持つ確実性も、実際にはひとまず現存在に適用されるだけであり、そのまま自我に適用されるわけではない。すなわち実在が確実なのは現存在だけであり、自我の実在はまだそうではない。自我実在の確実性は、現存在の確実性に根拠づけられただけの一種の影である。したがってもし自我が対象の実在を確信している場合、自我は逆に対象から切り離された自らの実在に対して確信を持ち得ない。すなわち対象の側が存在なら、自我の側は無として現れる。その状態でもし自我が自らの実在に確信を持つとしても、その確信は充実した対象の実在に比べるとせいぜい虚無的な実在の確信に留まる。そもそも何らかの行動を取る場合などにおいて、必要に応じて自我が再び対象と一体化するなら、肝心の自我自体はまた消滅してしまう。自我の先験性は、現存在の先験性と比べれば、まだ経験的なものであり、かつ貧弱なものである。それだからこそ自我の充実を願う実存主義的要求も、この段階で自我のうちに先験的な形で用意される。

 一方でこのように自我実在の先験性を現存在の先験性から派生したものとして扱う自我の捉え方に対して独我論は、自我も無しに対象が現象可能なのかと疑念を抱く。もちろんそれは、対象も無しに自我が現象可能なのかと唯物論が抱くような疑念と丁度正反対のものである。唯物論では現存在に現れる自我も、自然物と同様の一つの対象的存在者にすぎないからである。自我実在を先験的と考えるフッサールが抱く疑念は、この独我論の抱く疑念と同じものである。ただしこの疑念は、そもそも哲学の第一原理を打ち出したデカルトも持ったはずの疑念である。自我実在の確実性を疑い得ないとみなし、逆に他在の確実性を疑い得ると言うことは、この世界に確実なものは自我だけだと言う結論へと容易に至る。明らかにこの類推は、必然的に独我論へと帰結するものである。しかし経験的に自我は、他在が自らの想定通りに実在したり、逆に想定に反して実在しなかったりするのを知っている。当然ながらこの経験が可能になる条件は、この経験以前に自我が他在の実在または非実在を想定することである。ただしそのような他在の実在想定を有意にするためには、十分条件ではないにせよ、次のような必要条件を必要とする。その必要不十分条件とは、想定していた他在であるかどうかを別にして、なんらかの他在が実在することである。この必要条件の意味は、次のように換言できるものである。それは、もし他在が全て実在しないのなら、他在の実在想定の全てが有意性を失う、と言うことである。すなわち他在の不確実性とは、自我と異なるなんらかの他在が間違いなく実在するのを前提にした表現なのである。したがって他在の不確実性とは、せいぜいどの他在がどの形態で実在し、または実在しないのかについて不確定なだけに留まる。もともと独我論では全てが個人の意識にすぎないため、他在による物理の説明に困難を抱えている。その困難は、唯物論では全てが他在の物理であるため、自我における自由の説明に困難を抱えたのと丁度正反対のものである。結局デカルトも独我論に安住するのを良しとせず、自らの哲学を折衷的二元論として樹立している。なおフッサールにおける独我論の忌避は、デカルトの場合と違い、間主観論や他我論として現れている。しかしデカルトの場合と違い、意識的他在の実在だけを語り、物理的他在の実在を語らない点、さらに自我から見える他我だけを語り、他我の自律的実在を語らない点で、フッサールの理屈は独我論にずっと近い。このようなフッサールとの比較で見るとヘーゲルを含めたドイツ観念論の系譜は、現象学と唯物論の中間にあり、だからこそ独我論を克服し得ている。と言うのもドイツ観念論における意識は、個人の意識ではないからである。ドイツ観念論では、先験的形式としての現象の場は、自我を包括する集団的意識として存在し、自我は常に全体の内の局所でしかない。同様に唯物論では、先験的形式としての現象の場は、自我を包括する自然世界として存在し、自我は常に全体の内の一実在でしかない。またそうであるからこそ、自我から離れた他在の超越性も成立可能である。逆に独我論では、自我の預かり知らない真理の登場は、常に不可解な謎の事態として現れる。この不可解さは、先験的形式としての現象の場を自我として扱う限り回避できない。少なくとも自我にとっての他在が実在しなければ、自我の預かり知らない他在は自我の内に登場し得ないからである。そのことは、自我の先験性を現存在の先験性に劣後させ、ひいては経験的なものとして扱う必要を示している。
(2016/03/13)




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