泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

緑の家

2023-07-14 17:55:09 | 読書
 作家が愛されるのは、作家が愛しているからだ、と、この長い小説を読み進むうちに思いました。
 愛された経験というのは忘れません。その人が亡くなっていたって関係ない。私の中では、ずっと、ありありと生きています。
 おばあちゃんとテレビで野球を観たことや、おじいちゃんが海で遊んでいる孫たちを見守っていたことや、おじさんがぶっ飛ばす小型の船に乗せてくれたことや、先生が私を受け止めてくれたこと、その他数え上げれば切りがありません。
 それらの決して消えない愛の一つ一つが、今の私を作っていると言って過言ではありません。
 作家は、作品を通じて、人々を愛している。登場人物に読者が感情移入するとき、その愛は読者に受け渡されている。そして読者の中に、大切な作品、大切な人物として残り、語り継がれ、生きていく。
「緑の家」を読み始めたとき、戸惑いました。いきなり改行が一切ない文章の塊が出てくる。
 そして場面や人物が続かない。5つのストーリーが描かれていきますが、過去から未来へという順番でもありません。
 一つの章の次の段落に、それまでとは違う人物の会話が出てきたりもします。
 まったく初めての文体でした。
 違和感や、小出しにしかされない情報に不快感を覚えもしました。が、次第にそれらが読み進めるための工夫であることがわかってきます。
 作者は決して意地悪ではないし、読者をあえて混乱させようとしているわけでもないのは、誠実な描写がたくさんあるから。
 読み進めるうちに、全体像が読み進めただけ見えてくる楽しさもあります。まるでジグゾーパズルのように。
 語りが多いのもこの小説の特徴かもしれません。
 会話文は、意外と難しいものです。ついボロが出やすいというか。人物を深く理解できていないと、その人の言葉や間はつかめないもの。
 ですが、多くの人物が登場するのに描き分けられているのは、実際の人物をモデルとしていたからかもしれません。
 舞台はペルー。川をさかのぼると密林があり、そこには古代からの営みを続けている部族たちも住んでいる。
 ボニファシアは、密林でシスターたちに捕獲され、中世を思わせる修道院で「教育」を受けさせられた。掃除やゴミ捨てなどを手伝っていたが、同じように密林から連れられてきた少女たちを不憫に思い、修道院から逃してしまう。そのことをシスターたちに責められ、修道院から追い出されてしまう。
 フシーアは、謎の多い日本人。密林の部族の長と親しくなり、ゴムの密売や他の部族を襲って略奪することで生活している。部族の女たちを囲ってハーレムまで作っていたが、蚊を通じた感染症にかかって下半身が不自由に。ラリータという妻がいたが、船頭のニエベスとともに逃げられてしまう。不幸を嘆き、すぐに怒るような晩年だったが、アキリーノという年長者が支えてくれる。
 追われたボニファシアは、ラリータとニエベスが暮らす小屋に落ち着いた。そこに仕事で来ていた警官のリトゥーマが見初めてボニファシアと結ばれる。その結婚式は、彼女の第二の故郷とも言える修道院で。その場面は感動的でしたが、後にリトゥーマはある事件を起こし、逮捕されてしまう。
 アンセルモもまた謎の多いハープ弾き。彼は街にふらっと来て、飲み屋などで気さくに人々に話しかけている。特に女性たちには特別な視線を送っていた。やがて彼は、町外れに「緑の家」を作る。それは飲み屋でお食事処であって、アンセルモたちが生演奏を披露する場であり、女性つきの休憩所、いわゆる娼家でもあった。「緑の家」は、瞬く間に人気スポットとなる。だけどその人気も続かない。アンセルモが愛したトニータという少女が妊娠し、出産のとき、出血多量で死んでしまう。その際の混乱に乗じて、かねてから「緑の家」を敵視していたガルシーア神父が「緑の家」を焼き討ちにしてしまう。が、アンセルモとトニータの子は、医師のセバーリョスや料理人のメルセーデスの助力によって助かり、アンセルモの娘、チュンギータが後に二代目の「緑の家」を再建し、アンセルモを楽師として雇うだけでなく、再び行き場をなくしたボニファシアもまた雇う。ボニファシアは、セルバティカと名前を変え、娼婦となっていた。
 このような形で、登場人物たちはどこかで交わって、関わり合っている。その40年に渡る物語の最後は、アンセルモの死によって、一堂に会する。その最後の章がやはり一番感動しました。すべてがつながり、一人一人が報われるというか。読者の苦労もまた報われます。その場面で「愛」を感じたのでした。
「密林出身」だからという偏見や差別、また売春宿や売春婦に対する偏見や差別、また犯罪者に対する偏見や差別、また未成年者に対する愛への偏見や差別、また外国人に対する偏見や差別。と書いてくると、この小説は、現状認識の大多数に対する異議申し立てを企てていた、と気付かされます。
 訳者の解説の最後に、作者、バルガス=リョサの言葉が引用されているので、ここにも引かせていただきます。 (下巻491ページ 5〜11行)

「小説を書くということは現実に対する、神に対する、神が創造された現実に対する反逆行為に他ならない。それは真の現実を修正、変更、あるいは破棄することであり、それに代えて小説家が創造した虚構の現実をそこに置こうとする試みに他ならない。小説家とは異議申立て者であり、あるがままの(もしくは、彼がそうだと信じる)生と現実を受け入れ難いと考えるが故に、架空の生と言葉による世界を創造するのである。人がなぜ小説を書くかといえば、それは自分の生に満足できないからである。小説とは一作、一作が秘めやかな神殺し、現実を象徴的な形で暗殺する行為に他ならない」

「神殺し」や「暗殺」と言われると「えー、そんな」と思いますが、実際小説やテレビドラマの中では、数えきれないほどの「殺し」が日々起きています。そのことを受け入れることで、やっと人は生きにくい人生を生きやすいものに変えていく。受け入れ難い現実を受け入れ可能なものに変える力、それこそが物語が持つ本質的なものです。
 注意しなければならないのは、「神殺し」や「暗殺」は、「象徴的な形で」行われる、ということです。「象徴として働く力」を文化と言えば、「実際の」神殺しや暗殺が起きてしまうのは、文化がないがしろにされてきたから、とも言えるのではないでしょうか。
 私もまた受け入れ難い現実に直面していました。東日本大震災はその際たるもの。それに日々起こって止まらない「人身事故」。温暖化だって到底受け入れられない。政治だってそう。原子力発電所のことや、ロシアの侵攻や。数え出したら止まらない。
 そこここに、なんとかかんとか道を通そうとする試み。
 その道があったお陰で、より多くの人たちが少しでも生きやすくなる。それが文化であり、文化の一つである小説にできること。
「緑の家」は、十分にその役割を果たしています。
 この小説の最後の章、エピローグの第4章まで来てみてください。
 アンセルモの懇願によってトニータを助けに行った医師のセバーリョスと、長年アンセルモを敵視していたガルシーア神父との対話には、つい微笑んでしまうのではないでしょうか。長い物語をともに歩んできたからこそ、分かち合えるものもあると納得させられます。
「受け入れ難い危険な猛暑」を置き換えるにも役立つ夏におすすめの一作です。

 バルガス=リョサ 作/木村榮一 訳/岩波文庫/2010

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