今日から3月ですが、先月の教育テレビの「100分で名著」は、北條民雄の「いのちの初夜」でした。
自室のテレビは調子が悪いままで、第一回の放送しか見れませんでしたが、テキストを買って読みました。講師は中江有里さん。
角川文庫の「いのちの初夜」を読んだのは、2021年の12月でした。翌年の2月に、この「北條民雄集」が発売され、買っていました。
テキストと合わせて読みました。こちらには角川版にはない日記や童話や書簡が収められており、小説だけではなく、人間としての北條の理解を深められた。
国立ハンセン病資料館の裏にあるソメイヨシノたちが咲く頃、また全生園に行こうと思います。今度は、桜見物だけでなく、資料館にも納骨堂にも行く。
そこまで北條に傾倒してしまう自分とはなんなのか?
東村山という、彼が「隔離」された施設がある土地に住んでるから。もちろんそれもありますがそれだけじゃない。
当時の不治の病、ハンセン病(らい病)にかかり、社会的に死ななければならなかった患者たち。
文筆を生業とする北條にとって、病の進行とともに避けられない失明は、彼を絶えず苦しめ、不安に陥れるには十分だった。
全生園に入る前、知人と華厳の滝に死にに行った。知人だけ死んで、彼は死ねなかった。
川端康成への手紙で告白していますが、北條にとって生き死にの問題が第一で、文学は第二だった。
絶え間ない苦しみの中で、書き続け、敬愛する川端に作品の指導をしてもらうことで、文学が第一になった。
だけどその時、もう「いのち」は燃え尽きようとしていた。
彼の親友、東條耿一(こういち)による臨終記に、印象深い描写があります(331ページ5行〜15行)。
その夜の二時頃(十二月五日の暁前)看護疲れに不覚にも眠ってしまった私は、不図私を呼ぶ彼の声にびっくりして飛起きた。彼は痩せた両手に枕を高く差上げ、頻りに打返しては眺めていた。何だかひどく昂奮しているようであった。どうしたと覗き込むと体が痛いから、少し揉んでくれないか。と云う。早速背中から腰の辺を揉んでやると、いつもはちょっと触っても痛いと云うのに、その晩に限って、もっと強く、もっと強くと云う。どうしたのかと不思議に思っていると、彼は血色のいい顔をして、眼はきらきらと輝いていた。こんな晩は素晴らしく力が湧いて来る、何処からこんな力が出るのか分からない。手足がぴんぴん跳ね上る。君、原稿を書いてくれ。と云うのである。いつもの彼とは容子が違う。それが死の前の最後に燃え上がった生命の力であるとは私は気がつかなかった。おれは恢復する、おれは恢復する、断じて恢復する。それが彼の最後の言葉であった。
「おれは恢復する、断じて恢復する」
恢復の「恢」は、今は「回」が使われます。意味は同じで、元の通り良くなるということ。
ただ「回」には、「めぐる・まわす・もどす」などの意味もある。
角川文庫の「いのちの初夜」が改訂版として再発行されたのが2020年の11月。私もそこで北條の存在を知った。
彼の言葉の通り、彼と彼の作品は、めぐって、まわって、ふたたび、もどってきた。
彼が亡くなったのは1937年(昭和12年)の12月5日。死因は腸結核。
彼の「恢復」への思いは、結核という病だけでなくハンセン病も、もちろん入っていたのでしょう。
生きた作品を残すことで、後世の読む人々の中に、彼の作品は回復する。
しかし、彼はもっと書きたかった。書いて生きたかった。まだ、23歳でしたから。
この文庫本には「断想」という項目もあり、便箋や原稿用紙の余白などに書き付けた言葉も収録されています。
その最後にあった思い。これが私と共鳴する核なのかもしれないと思った(257ページ4行〜5行)。
俺は俺の苦痛を信じる。如何なる論理も思想も信ずるに足らぬ。ただこの苦痛のみが人間を再建するのだ。
いかなる軽蔑にも耐えられなかった北條。皮膚感覚での苦痛をのみ信じるに足るものとし、それが彼の独特の文体にもつながっていたと気づきました。
皮膚感覚で人を描写するので、その人がくっきりと浮かび上がる。
それだけでなく、癩(らい)病の苦痛に、人類の歴史2000年を重ねて見ている。2000年(それ以上でしょう)にもわたる「らい」の受難、偏見、差別。「業病」とまで言われてしまう。
歴史性があるからこそ、普遍的な文学になっている。
彼を受け継ぐ、なんてことは可能なのか?
わかりません。ただ、全生園に通い続けるものとして、彼のことは、もう一生忘れない。
彼の地に再び立ち、手を合わせ、頭を垂れ、思いを馳せ。
大事な花々を、写真に、心に納めて。
また走り出し、また書き始め。
もどって、まわって、めぐって。
次の作品へ。次の人へ。つないでいく。
「病」を与えられ、「いのち」に目覚めた者同志として。
北条民雄 著/田中裕 編/岩波文庫/2022
自室のテレビは調子が悪いままで、第一回の放送しか見れませんでしたが、テキストを買って読みました。講師は中江有里さん。
角川文庫の「いのちの初夜」を読んだのは、2021年の12月でした。翌年の2月に、この「北條民雄集」が発売され、買っていました。
テキストと合わせて読みました。こちらには角川版にはない日記や童話や書簡が収められており、小説だけではなく、人間としての北條の理解を深められた。
国立ハンセン病資料館の裏にあるソメイヨシノたちが咲く頃、また全生園に行こうと思います。今度は、桜見物だけでなく、資料館にも納骨堂にも行く。
そこまで北條に傾倒してしまう自分とはなんなのか?
東村山という、彼が「隔離」された施設がある土地に住んでるから。もちろんそれもありますがそれだけじゃない。
当時の不治の病、ハンセン病(らい病)にかかり、社会的に死ななければならなかった患者たち。
文筆を生業とする北條にとって、病の進行とともに避けられない失明は、彼を絶えず苦しめ、不安に陥れるには十分だった。
全生園に入る前、知人と華厳の滝に死にに行った。知人だけ死んで、彼は死ねなかった。
川端康成への手紙で告白していますが、北條にとって生き死にの問題が第一で、文学は第二だった。
絶え間ない苦しみの中で、書き続け、敬愛する川端に作品の指導をしてもらうことで、文学が第一になった。
だけどその時、もう「いのち」は燃え尽きようとしていた。
彼の親友、東條耿一(こういち)による臨終記に、印象深い描写があります(331ページ5行〜15行)。
その夜の二時頃(十二月五日の暁前)看護疲れに不覚にも眠ってしまった私は、不図私を呼ぶ彼の声にびっくりして飛起きた。彼は痩せた両手に枕を高く差上げ、頻りに打返しては眺めていた。何だかひどく昂奮しているようであった。どうしたと覗き込むと体が痛いから、少し揉んでくれないか。と云う。早速背中から腰の辺を揉んでやると、いつもはちょっと触っても痛いと云うのに、その晩に限って、もっと強く、もっと強くと云う。どうしたのかと不思議に思っていると、彼は血色のいい顔をして、眼はきらきらと輝いていた。こんな晩は素晴らしく力が湧いて来る、何処からこんな力が出るのか分からない。手足がぴんぴん跳ね上る。君、原稿を書いてくれ。と云うのである。いつもの彼とは容子が違う。それが死の前の最後に燃え上がった生命の力であるとは私は気がつかなかった。おれは恢復する、おれは恢復する、断じて恢復する。それが彼の最後の言葉であった。
「おれは恢復する、断じて恢復する」
恢復の「恢」は、今は「回」が使われます。意味は同じで、元の通り良くなるということ。
ただ「回」には、「めぐる・まわす・もどす」などの意味もある。
角川文庫の「いのちの初夜」が改訂版として再発行されたのが2020年の11月。私もそこで北條の存在を知った。
彼の言葉の通り、彼と彼の作品は、めぐって、まわって、ふたたび、もどってきた。
彼が亡くなったのは1937年(昭和12年)の12月5日。死因は腸結核。
彼の「恢復」への思いは、結核という病だけでなくハンセン病も、もちろん入っていたのでしょう。
生きた作品を残すことで、後世の読む人々の中に、彼の作品は回復する。
しかし、彼はもっと書きたかった。書いて生きたかった。まだ、23歳でしたから。
この文庫本には「断想」という項目もあり、便箋や原稿用紙の余白などに書き付けた言葉も収録されています。
その最後にあった思い。これが私と共鳴する核なのかもしれないと思った(257ページ4行〜5行)。
俺は俺の苦痛を信じる。如何なる論理も思想も信ずるに足らぬ。ただこの苦痛のみが人間を再建するのだ。
いかなる軽蔑にも耐えられなかった北條。皮膚感覚での苦痛をのみ信じるに足るものとし、それが彼の独特の文体にもつながっていたと気づきました。
皮膚感覚で人を描写するので、その人がくっきりと浮かび上がる。
それだけでなく、癩(らい)病の苦痛に、人類の歴史2000年を重ねて見ている。2000年(それ以上でしょう)にもわたる「らい」の受難、偏見、差別。「業病」とまで言われてしまう。
歴史性があるからこそ、普遍的な文学になっている。
彼を受け継ぐ、なんてことは可能なのか?
わかりません。ただ、全生園に通い続けるものとして、彼のことは、もう一生忘れない。
彼の地に再び立ち、手を合わせ、頭を垂れ、思いを馳せ。
大事な花々を、写真に、心に納めて。
また走り出し、また書き始め。
もどって、まわって、めぐって。
次の作品へ。次の人へ。つないでいく。
「病」を与えられ、「いのち」に目覚めた者同志として。
北条民雄 著/田中裕 編/岩波文庫/2022
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