泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

オルセー美術館展2010 「ポスト印象派」

2010-06-09 17:35:11 | 
 興奮しました。疲れが吹っ飛ぶほどのおもしろさを満喫できました。こんなに満足度の高い展覧会も珍しいかもしれません。高揚した気持ちの中、出口と直結して様々なグッツが置いてあり、絵葉書15枚にクリアファイル3枚、マグネット2枚、オレンジのトートバックまで買ってしまいました。それでもお得感があるのは、集まった絵がすばらしかったことの証なのでしょう。
 一番印象的なのはゴッホの『星降る夜』でした。濃い青に浮かぶ星々。ほんとはこんなに輝いていないはずですが、本当ってなんだろう? 金星ほどの明るい星が20個ある。下はローヌ川河畔のガス灯が川面に長く伸びている。そして右下に一組の男女。顔ははっきりしない。中央の下部には小型の帆船が二つ。とてもロマンチックで人と自然の調和が鮮明に描かれている。写真ではわからない生だからこその絵の具のうねりやてかりがまた作品と合っている。鳥肌が立ちました。『星降る夜』の右隣には『自画像』があります。これも時間をかけてじっくりと観た。顔に緑と赤の線が入っている。この人は繊細な線の束でできていたのかと思った。よく観るほどに怖い絵。切れすぎる。改めてゴッホは与えられた力を出し尽くして、僕らに尊い絵という財産を残して亡くなったのだと思った。
 次にドニの『木々の中の行列(緑の木立)』です。これは初めはすーっと通り過ぎてしまったのですが、一通り観て、戻ってもう一度立ち寄ったとき、離れられなくなってしまった絵です。緑の草原から緑の木々が伸び、画面上を突き抜ける。上部の背後は白い雲。そして地上を人々のようなものが通り、その一つが大きな羽を持った者と話している。それらは薄いピンクの色をしている。なんなのでしょうこの構図。緑の木だけでも異様なはずなのに、とても落ち着く。そうか木の幹もまた緑だったんだと思わせる。薄いピンクの者たちは、誰かの不幸を心配し、なにか手を打てないかと相談しているような優しさを感じる。いつまでも飽きない絵です。
 もう一つ挙げるなら、ヴァロットンの『ボール(ボールで遊ぶ子供のいる公園)』でしょうか。これも長く観ていた作品です。右下に赤いボールを追っている白い服を着て麦藁帽を被った少女がいる。その真後ろにもバスケットボールのようなものが転がっている。その上に、夫婦なのか女同士なのか、一組が会話している。右下が茶色で左上が深い緑。この対極が静と動、成人と子ども、意識と無意識を表しているようで興味が刺激される。女の子を追っているように伸びる森の影もまた魔の手を思わせて物語を喚起します。
 セザンヌの玉ねぎも情緒深く、ゴーギャンのタヒチの女もどっしりとしていて頼もしい。モネの日傘の女に吹く風は僕にも届き、ルソーの戦争ではからすが人をついばみ、僕の中にもある愚かさを鎮める。ロートレックの黒いボアの女には清々しい自尊心を感じた。ボナールの白い猫はなぜか足が長く、笑った。ピサロ、シスレーの川の光にはまったく感動した。レイセルベルへの舵を取る男にもいたく共感し、僕もがんばろうと思った。ヴュイヤールの眠りは安らかで豊かだった。
 ほんとにどの絵からも心地よい刺激を受けた。体が活性化した。観る人によって、また立ち止まる絵、思い入れる作品は異なるでしょう。個々から出た言葉を交わらせることもまた楽しい。
 銘々に自分の構図、色、対象、課題がある。それを徹底して、丁寧に描けばいいのだと思った。いい作品はあらゆる人生を濃くする。僕は僕の方法で、いいものを作りたい。
 また「印象派」とは、それまでの因習やしきたりやこだわりから自由になって、人間の想像力に目覚め、想像することを奨励した人々のことなのだと思った。想像にこそ個性が伴い、違うことを認め合う土壌が生まれる。想像には責任が伴い、人格が帯びる。想像を出し合うことによって、人と人は切磋琢磨し、よりよい共存の形を見出し、成長が可能になるのかもしれない。互いの役割が、改めてくっきりと決まってくるのかもしれない。
 もう一度行きたいです。現物に触れることを強くお勧めします。

国立新美術館にて/8月16日まで

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