北の隠れ家

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夢のまた夢 ・ 六部

2016年04月22日 13時05分58秒 | 夢のまた夢
☆高校時代2☆




そんな青春時代を謳歌していた高校二年の頃でしたかな。フトしたことで戸籍謄本が入用になることがあり、そこで初めてアッシに妹が居るという事を知ったのでございます。


当時、大阪に居た文雄兄の所へ夏休みに入ったときに行ってみたんでございます。文雄兄は、当時奈良だったでしょうか、或る病院に何かの病気で入院生活をしておりやした実父の「栄司」の病室に連れて行ってくれたんで。


まず、最初に感じたのが、父が、写真で見ていた顔と同じだったことでございます。実父のアッシに云ってくれた最初の最後の言葉が「あ~、吾朗か~」の一言でございました。自分はってぇと、何も云えず、じっと黙ったままでいたのを覚えておりやす。文雄兄とは、結構話をしておりやしたですなぁ。


まもなく、病院を後にしたのでございますが、実父とは、この時が、最初で最後の対面でございました。やはり、いくくら実父と言っても、心にやぁ「オヤジ」てぇ想いがジ~ンと感じてこなかったのを覚えておりやす。生まれの父より、矢張り育ての父でしたなぁ。


病院を出たのは、もう陽が暮れていましたなぁ。それから、文雄兄は、実母のところへ連れて行ってくれましたなぁ。

生まれて初めて逢う「母」、気持ちは複雑でしたなぁ。恨みたい気持ちと、甘えたい気持ちが入り混じっておりましたなぁ。そして、とうとう初対面、写真の顔と同じでしたですなぁ。その夜は、緊張していたのでしょうか、とうとう一言も会話をしなかった、いや、出来なかったというのが本当だったでしょうかねぇ。

「吾朗かい、大きくなったねぇ~」といわれても、アッシにしちゃ始めての人でございます、言葉が出なかったですなぁ。





ところが、不思議なもんでございますなぁ。一夜明けると、なんと自然と言葉がスムーズに出ていたんでございます。16年間、甘えたくとも甘えられなかった想いが、出たのでございましょうか。


わがままをいってみたくなりやしたなぁ。これが、俗に言う「血の繋がり」てぇもんだったんでしょうかねぇ。結構、甘えたことをかすかに覚えておりやす。

そんなこんなで、一晩の初対面でしたが、四国徳島に居るという実妹に逢いに翌日、大阪をあとにしたんでございまず。



いってぇどんな妹だろうと想像しながら、和歌山県のどこかから船に乗って、ひとり徳島に向かったんでさぁ。。若かったんですなぁ。
千葉から四国徳島まで逢いたさ一念で行ったんですから。勿論、北海道の義父には内緒でしたなぁ。

徳島の鴨島てぇ所にお袋の姉の鶴子叔母さんが住んでおられましてな、先ずそこをおとづれたんで。鶴子叔母さんはアッシが二歳の頃、お袋に連れられて行ったアッシを良く覚えていてくだすって、涙をこぼして歓迎してくださいましてね。アッシは全然覚えちゃいませんでしたがねぇ~。


ちょうどアッシがその家にお邪魔していたのがお昼頃でしたかね。そんなときに「こんにちは~」てぇと云いながら家の中に飛び込んできた子が居たんでさぁ。


その子がなんとアッシの妹「康子」だったんでございます。劇的な兄妹の初対面のシーンで懐かしい光景でしたなぁ。

鶴子叔母さんが「康子、お前のお兄さんだよ」って云ってくだすったが、お互いにこの人がお兄さん、この子がオイラの妹、そんな想いでお互いにただ、じっと見詰め合うだけでございましたなぁ。

二つ違いの妹でしたから十四歳、中学三年生だったでしょうかねぇ。このころ、妹はすでに自分の兄弟がほかに居るてぇ事を薄々知っていたらしいんで。その日は兄妹が枕を並べて寝たのを想いだしまさぁ。

ほとんど話しらしい話はしなかったのを覚えておりやす。お互いに照れくさかったのでござんしょう。



翌日、康子の家である芳男叔父さんの家に挨拶方々お邪魔したのを覚えていますぜよ。

とても良い叔父さんでこんな突然やってきたアッシを歓迎してくだすって、「康子に何かがあった時には力になってやってくれ」といわれた時は本当に頭が下がりました。


普通なら突然やってきたアッシをけむたがって当然であったのに親身に接してくだすったのにはアッシも感激しちまいましたなぁ。偉いお方でしたな。お袋のお兄さんにあたる方だということでしたな。

アッシといい、康子といい、とても恵まれた育てのオヤジさんでしたなぁ。




 
腹違いの弟たち、賢司くん、優司くんの存在を知ったのは記憶が定かじゃありませんが、恐らく文雄兄から教えてもらったんでござんしょう。

このまだ見ぬ弟たちに逢いたくてこれまた、住所のみを頼りに単身尋ねていったのが大学時代でしたなぁ。

実は先日まで高校時代の頃と記憶していたんでございますが、ついこないだの東京の敏信兄の葬儀の後日、優司くんからその折の写真を送っていただき、それを見ると大学時代でございましたなぁ。

当時、弟達が暮らしていた奈良県橿原市の「妙法寺」を探し当てたのも弟逢いたさの一心からだったのでしょうなぁ。真っ暗闇のあぜ道を、怖さをしりぞけるために大声で唄を歌ってポツンとかなたに灯る明かりをめざして歩いていったのを良く覚えているのでございます。


これまた何の前触れも無く突然押しかけたアッシを静子おばさんは温かく迎えてくだすったのを良く覚えております。初めて逢った賢司くん、優司くんにアッシを兄として紹介していただいた事を昨日のように覚えてございます。


賢司くん、優司くんともたった一夜の逢瀬ではありましたが血のつながりは恐ろしいもので、兄弟感覚を覚えたのをはっきりと覚えているアッシでございます。

賢司くんはその後、25歳頃に一度旭川へきたことがあり再会しておりやしたが、優司くんとは先日の敏信兄への見舞いの時に逢ったのがその時以来であったんでございます。

昔、たった一度逢っていたことが、再会してもすぐ打ち解け兄弟感覚がよみがえってきたのでございます。その折りにいみじくも賢司くんがもらした一言がアッシの胸を打ちましたんで。

「オヤジは仕様もあらへんかったが、子供を仰山作ってくれた事だけは感謝しなきゃならんかもなぁ」と・・・・。





そんなこんなで高校三年を迎えたアッシだったんでさぁ。

アッシは大学進学だけは辞退しようと想っておりやして、義父にやぁ、もう高校に行かせていただいただけで充分でございますと、言ったんですが、育ての親父さんのあまりにも熱心な進学の勧めの心意気に負け、いつしか応えてしまい進学してしまったのでございます。

この進学がその後のアッシの一生に大きく関わってくるとはその時のアッシには想いもしなかったのでございます。それにしても進学させていただいたことは感謝しているアッシでございます。

大学は「上智大学」と「明治大学」二校を受験いたしましたが、第一志望の上智大学は見事落ちてしまいましたなぁ。かろうじて第二志望の明治大学にゃ引っかかって助かりましたんで。


でも今でも忘れられないのが、第一志望校の合格発表の日のことでございます。

帰宅すると愛子姉が「お赤飯」を炊いて用意していたんでさぁ。あの時の「お赤飯」の味は辛いものがありましたなぁ。今じゃ、笑い話になっちまったが。

へぇ、アッシは受験寸前の頃、東京の敏信兄、愛子姉のアパートに転がり込んでおりまして、 あん時は「尾久」のアパートに住んでいましたなぁ。受験ということで、兄姉には、こちらが気を使ってしまうほど、気遣いしてもらって、まいりましたですなぁ~。

つづく



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