明治大学ではアッシ、部活動は「落研」に入部しちまいました。
人を笑わすのに喜びを感じるようになっていたアッシだったんでござんすねぇ。高校時代のあの「勧進帳」の爆笑の渦がアッシの何かを目覚めさせてしまったようで。部活動といってもほとんど神田界隈の雀荘で麻雀の毎日でしたなぁ。
「噺」はてぇと各自、それぞれ独学でものにしていきましたなぁ。電車の中でぶつぶつと口づさんで噺を覚えていましたでやんすよ(笑)。毎年恒例の高座はてぇと、秋の大学祭と分校舎の和泉祭の二回でしたな。
アッシはてぇと、「柳家小さん」が好きで「与太郎物」を好んで演じておりました。人情噺も好きで「心眼」てぇ盲目の噺も演じたこともごぜぇますだ。
毎年、春休みに何班かに分かれて全国の老人ホーム、療養所に慰問旅行に行くんでさぁ。
アッシは家庭が家庭でござんしたので一年の時は参加を断念したんでございますが、同僚がこの慰問旅行に参加してきてから芸に一段と磨きがかかったのを目の当たりにして、二年の時からアルバイトで得た収入でこの慰問旅行に参加するようになったんで、へぇ。
楽しかったですなぁ、この慰問旅行は。
そうそう、三年生の春休みに和歌山に慰問旅行に行った時のことでございます。
「心眼」てぇ人情噺を演じたんでございますが、なんとここはみなさん盲目の方ばかりの老人ホームでございまして、噺を選ぶとき、ちと迷ったのでございますが、アッシの好きな人情噺でしたのでやっちまいました。
身振り手振りは全然効果がないので受けるかどうか心配でしたが、演じ終えると温かい拍手の波をいただいた時にゃこっちが驚き、感動いたしやした。良い思い出でごぜぇますだ。
アッシの芸名はスクールカラーから採った「紫紺亭与ん生」てぇのがアッシの芸名でさぁ。
ちなみにペンネームは「風の又三郎」てぇ申し上げますんで(笑)。略して「風又」と申し上げますんでございます(笑)。もっともこのペンネームはアッシが四十代の頃に使い始めたもんですがね。
アッシの持ち噺は「地球の裏表」(桂枝太郎)「首屋」(三遊亭圓喬)「我が生い立ちの記」(三遊亭歌笑) 「唐茄子屋」(柳家小さん)「時そば」(桂三木助)「道具屋」(柳屋小さん)「大工調べ」(柳屋小さん)「心眼」(桂文楽)「王子の狐」(?)これくらいでごぜぇました。
卒業する四年生の時、日本橋三越前の第一證券ホールでおこなわれた「歓送落語会」、この高座が最後のものになるのでございますが、この時は「大工調べ」の噺を前編、後編と演じましたなぁ。時間にして四十分も務めましたんで、へぇ。
普通は、皆、十五分ものの噺をするんですがね、アッシは最後の高座でしたので、へぇ。
じゃ、ちょっと高座の気分でも味わっていただきましょうかね。ひとつ、昔のきねづかで小噺の一つを。
「お風呂屋さんに飛行機が落ちたんだってね」
「やっぱり何かい、自衛隊の飛行機かい?それとも旅客機かい?」
「なぁに、風呂屋だけに戦闘機(銭湯)だい」
「なんだってねぇ、この前、山へ行って道に迷ったんだってねぇ」
「ああ、そうなん(遭難)でぇ」
「うまかったなぁ、今夜の酒は」
「旦那、銭はあんでしょうね?」
「ああ、それは直し立ての屋根だ」
「なんです、その直し立ての屋根てぇのは?」
「漏ってこねぇ(持ってこねぇ)」
「うちの近所の奥さん、お産の時にいい女の写真を見てりゃいい女の子が産まれるてんで、週刊誌のグラビアの山本富士子さんの写真をビリビリっと破いて
「どうぞ神様、こういういい女の子が産まれますように」とお祈りしたら、産まれたのは山本富士子そっくり、だけど、この子が大きくなるにつれて髪の毛が一本もはえてこねぇんで。
「どうしてかしら、おかしいわねぇ」てぇんで、ビリっとはがしてパッと裏を見たら、裏は柳家金語楼の写真だったりして」
とんだお粗末な小噺で失礼いたしました。
お後がよろしいようで。
アッシの大学時代には丁度「大学紛争」がたけなわの頃でございまして、アッシも過激派じゃありませんでしたが、神田お茶の水界隈をスクラム組んで機動隊ともめたこともありましたねぇ。
そこで初めて体験したのが「群集心理」の恐ろしさでございましたなぁ。よくわかんねぇ状態で、「安保反対!」「安保反対!」と機動隊と衝突しておりましたアッシでござんしたぁ。
「東京オリンピック」「祖父の死」「ケネディ大統領暗殺」そして我が郷土の女性作家誕生、三浦綾子氏の処女作「氷点」などの出来事があったアッシの青春時代のヒトコマでの大学時代でございました。
【 伊豆下田・桃木家との出会い 】
アッシが大学二年のゴールデンウィークの時のことでさぁ。その頃、アッシは練馬区の大泉学園町、北海道学生会館てぇいわゆる学生寮に居たんでさぁ。
その寮にゃ北海道出身の学生、いろんな大学の学生が二人一部屋の部屋で寝起きを共にしていたんで。相部屋となった同僚は、同じ大学に入った方でやんしたなぁ。へぇ、今でもお付き合いをさせていただいておりやす。
その時の日大生の後輩とゴールデンウィークに伊豆下田に行ったんでございます。この旅がその後のアッシに不思議な縁をもたらすことになろうとは夢にも想わずに、へぇ。
伊豆急下田へ小田急「踊り子号」で向かったのは五月三日でございましたなぁ。一泊の予定でありました。
果たして、いざ下田へ着いて一夜の宿をと探したんですが、ちょうどゴールデンウィークということでどのホテル、旅館も満杯でごぜぇましただ。
途方にくれてアッシ達は、「寝姿山」のふもとをとぼとぼと宿を探していたんでさぁ。
とその時、道ですれ違った一組の親子連れに「この下田で一泊できる所はありませんか」とアッシが尋ねたんで。「そうですね、シーズンもシーズンですから無いかも知れませんねぇ」との返事に、やっぱり駄目かと一瞬肩の力が抜けたとき、中学生の娘さんが母親にコソコソと耳打ちしていたんで。そして、母親の次に出た言葉でアッシたちは救われたんでございます。
「もし良かったら、自宅の二階にお泊りになりませんか」って。アッシ達は地獄で仏に出会った気持ちでしたねぇ。
遠慮なくその温かい言葉に甘えさせていただく事にしたんでございます。なんと中学生の娘さんが見るにみかねて母親に助け舟を出してくださったのでございます。このお方がなんと「小百合さん」だったのでごぜぇますだ。
これが「小林家」との縁が出来たきっかけでございました。案内された家は近所で「お大師様」と呼ばれているお宅でございました。
八十歳はすでに越しておられたのじゃないでしょうか、お大師様こと、おばぁちゃんを筆頭に大工さんの和一朗小父さん、明るい小太りにふっくらととした定子小母さん、頭脳明晰の感じがする中学三年生の小百合ちゃん、小学校六年生の元冶くんの五人家族でございましたなぁ。
その夜は小父さんの案内で近くの公衆温泉場へ。なんと素朴な掘建て小屋のような、つつましい自然味あふるる温泉でありましたでしょうか。すっかり温まった身体での帰り道、夜空を見上げると素晴らしいお月さまで有ったのを覚えているアッシでごぜぇますだ。
そんな伊豆下田での一夜の旅をあとに翌日、東京へと戻ってきたアッシ達でございましたが別れ際、小母さんが「もしよかったら、夏休みにまたおいでください」と云われた一言がアッシの心に何故か強く残っておりましたんで。
そんなこともあって、夏休みに池袋の西武デパートでしばらくアルバイトをし、費用を捻出し八月へ入ってから三週間、再び下田へおとづれお世話になったアッシでごぜぇましたんで。へ~。
毎日のように「白浜海岸」へバスに揺られて小学六年生の元治君と泳ぎにまいりましたなぁ。
桃木さんの小母さんの妹さんの、浅沼さん宅で水着に着替えて、元冶君と毎日のように泳ぎに参りましたなぁ。
そのうち、真っ黒に日焼けしまして、あんなに焼けたのは最初で最後でしたでやんすよ。そうそう小百合ちゃんの学校の先生たちと小林家家族一同と「須崎」へも行きましたなぁ。楽しい毎日でございました。
アッシがあんな素晴らしい夏休みを過ごしたのは初めてでございましたなぁ。そんな訳で、五十半ばを越えた現在でもはっきりと当時のことを覚えているんですなぁ。きっと家庭の味てぇものを知らずに育ったアッシが、「小林家」にその夢を肌で感じたからなのかもしれませんなぁ。
この「下田」での思い出がまさかその後、現在にいたるまでのご縁が続くことになるとは、当時は夢にも想いませんでしたなぁ。嬉しいことでごぜぇますだ。アッシの人生のうちで、天がアッシにプレゼントしてくれた最高の贈りものですなぁ。
その後、再び下田を訪づれたのはいつだったのかてぇと申しますと、確かアッシが二十七歳くれぇの時だったと記憶しているんですが定かじゃありません。
突然、訪づれたんでございます。「こんにちは~」て玄関先で云うアッシに「はぁ~い」ってぇ返事が。玄関へ出てきた人を見てアッシは驚きましたねぇ。明美さん、その人だったんですから。
まさか、下田の家に来ているとは夢にも想っていなかったですからなぁ。しかも、なんと可愛い赤ん坊を抱いていらしゃるじゃありませんか。二度驚ろかされたアッシでござんした。明美ちゃんが結婚していたなんてぇ事はちっとも知らなかったアッシでございましたから。
話しを聞けば、明美ちゃんは高校卒業後、「全日空」の「スチュワーデス」になっていたとのことでごぜぇましたでやんすよ。中学生の頃の夢を実現していたんでさぁ。
その時は「お大師さま」のおばぁちゃんはこの世を去っておられましたが、きっと、おばぁちゃんがアッシに明美ちゃんと巡り逢わせてくれたんだなぁと想いましたでやんすよ。
その赤ん坊が、なんと高校生の時と、大学生の時に北の大地の我が家に遊びに来てくれるとはそれこそ夢にも想いませんでしたな。「縁」とは不思議なものですなぁ。
その赤ん坊であった「章人君」が、これまた小百合ちゃんの弟の、あの元冶君と同じ教職の道へ進んで行かれたんですからなぁ。しかも最初の赴任地が、北の大地の稚内に近い「斜内小学校」だったんですから、どこまで縁が有るものやら。
今はもう一児の父親になっておられますんで。そうなんでございます、冒頭の「おハル坊」が章人君の可愛い娘さんなんでごぜぇますだ。
大学1・2年は大泉学園「北海道学生会館」、3年は「阿佐ガ谷」、4年が「吉祥寺」と転々とした学生時代でごぜぇましたなぁ。中でも、「吉祥寺」の下宿時代は、北海道学生会館当時の仲間7人での合同生活をしておりやしたんで。
先輩が2名で、後は同期生でござんした。炊事生活も、二人一組での一週間交代でこしらえておりやしたんで。まぁ、いろいろと楽しい時代でございましたでやんすよ。
大学四年になって、周囲がいよいよ就職活動へと入っていきましたのでごぜぇますだ。
アッシも地元、北海道の「雪印乳業」に就職したく、その書類を旭川の義父でないとわからない箇所等があり、記載して頂くべく書類を郵送したのでごぜぇますだ。
待てど暮らせどその書類が送られてきません。書類郵送期限が目前に迫ってまいりましたので、アッシはとうとう「書類シキュウオクレ」と電報を打ったのでございました。
即、書類が郵送されてまいりました。喜んだのもつかの間、書類を見てびっくり、唖然といたしましたアッシでございました。何も記入されておらず、こちらから送った状態のままで送り返されてきていたのでございます。
敏信兄に、就職の件で相談に乗ってもらったものの、兄は旭川へ戻り、育ての親の家業を手伝え、それが今まで育てて頂いた恩返しであり、人の道と説得され、とうとう就職することを諦めざるを得ませんでしたのでやんすよ。
そんなこんなんで、アッシも無事大学を卒業し、いよいよ社会の荒波へと巣立っていったのでございます。
つづく
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